現代人の人生は、生まれた時から延命である
胃瘻というものがある。
自分の口で食べられなくなった人に、胃に直接栄養を入れる。生きるための栄養を、身体に流し込む。
それは一般に「延命」と呼ばれる。
もちろん、胃瘻そのものを単純に否定したいわけではない。本人や家族にとって必要な場合もあるだろうし、それによって救われる時間もあるだろう。
ただ、胃瘻が「延命」と呼ばれる理由はわかりやすい。
食べたいから食べる。
おいしいから食べる。
誰かと食卓を囲む。
そういう生活の中身から切り離されても、とにかく身体としての時間を伸ばす。
生命を維持する。
それを延命という。
しかしよく考えると、現代人の人生は、生まれた時からだいたいこれである。
学校に行く。
資格を取る。
就職する。
保険に入る。
住宅ローンを組む。
健康診断を受ける。
老後資金を貯める。
NISAを埋める。
オルカンを買う。
医療費に備える。
介護費に備える。
インフレに備える。
失業に備える。
円安に備える。
親の老後に備える。
自分の老後に備える。
備える。備える。備える。
人生のかなりの部分が、「何かをしたいから生きる」ではなく、「何かが起きても死なないために生きる」になっている。
これはもう、広い意味では延命である。
若い頃から始まる社会的胃瘻である。
口からエンシュアを飲むかわりに、給与振込口座から社会保険料が引かれる。証券口座に毎月積立が流れる。クレジットカードの明細が生活を記録する。住宅ローンが住居を維持する。スマホ契約が社会との接続を維持する。
現代人には、いくつものチューブが刺さっている。
給与口座。
社会保険。
年金。
住宅ローン。
クレジットカード。
スマホ。
証券口座。
サブスク。
健康診断。
マイナンバー。
それらが全部つながっていて、人間を社会の中で維持している。
もちろん、それらは必要なものだ。なければ困る。社会保険も、年金も、医療も、投資も、住居も、通信も、ないよりあった方がいい。
問題は、延命装置が人生そのものの顔をしはじめることである。
老後のために働く。
失業しないために働く。
病気に備えて働く。
家計を破綻させないために働く。
将来の不安を減らすために投資する。
そして気づけば、今日を生きているのではなく、未来の自分に栄養を送っているだけになる。
たとえば、毎日一万円ずつオルカンを買う人生がある。
合理的ではある。
無駄遣いするよりはいい。
変な情報商材を買うよりはいい。
個別株で焼かれるよりはいい。
老後不安に対する庶民の防衛策としては、かなり正しい。
しかし、あまりにも正しいがゆえに、少し怖い。
今日の欲望を削る。
今日の外食を削る。
今日の旅行を削る。
今日の服を削る。
今日の楽しみを削る。
そしてその分を、未来の生存確率に流し込む。
これは投資というより、自己胃瘻に近い。
三十年後の自分に、今日のカロリーを送っている。
では三十年後に何があるのか。
自由があるのか。
幸福があるのか。
生きる意味があるのか。
たぶん、そこにもまた延命がある。
資産寿命を気にする。
健康寿命を気にする。
医療費を気にする。
介護費を気にする。
老人ホーム代を気にする。
取り崩し率を気にする。
インフレ率を気にする。
若い頃は老後のために生き、老後になったら死なないために生きる。
人生の前半から老後が始まっている。
人生の後半では、まだ死なないための計算が始まる。
つまり、ずっと延命している。
お金があれば解決するのか。
たとえば、もっとお金に余裕があったとする。年間三千万円使えるとする。では人生は根本的に変わるのか。
もちろん、変わる部分はある。
広い家に住める。
高い飯が食える。
高い服を着られる。
高いホテルに泊まれる。
高い医療を受けられる。
高い老人ホームに入れる。
しかし、人生観が延命のままだと、結局はうんこの原価が高くなるだけである。
安い飯を食って、安いうんこをする。
高級寿司を食って、高級うんこをする。
安いエンシュアで延命する。
高級エンシュアで延命する。
言い方は悪いが、構造としてはそうである。
金が増えると、人間は別の生命体になるわけではない。同じ身体を、より高級な環境で維持するようになる。
高級な食事。
高級な寝床。
高級な椅子。
高級なジム。
高級な医療。
高級な介護。
全部悪くない。むしろ、貧しいよりは絶対にいい。雑に扱われるよりは丁寧に扱われた方がいい。狭くて汚い部屋より、広くて静かな部屋の方がいい。
だが、それらは多くの場合、生命維持の上位プランである。
高級な延命である。
このことは老人ホームを考えるとよくわかる。
月三十万円の有料老人ホームと、月百万円の有料老人ホームは何が違うのか。
もちろん、部屋の広さ、食事、立地、設備、人員配置、医療連携、家族対応、いろいろな差はあるだろう。
しかし、本当に大きいのは接遇である。
月三十万円の施設の接遇が悪いと言っているわけではない。むしろ普通にちゃんとしているところも多い。介護職員も真面目に働いている。ひどい施設と高級施設を比べたいわけではない。
そうではなく、価格差ほどには「人生の中身」は変わらないという話である。
月三十万円でも、食べる。寝る。薬を飲む。排泄する。入浴する。転倒しないように見守られる。
月百万円でも、食べる。寝る。薬を飲む。排泄する。入浴する。転倒しないように見守られる。
根本は同じである。
違うのは、どう扱われるかである。
急かされない。
雑に触られない。
面倒くさそうにされない。
子ども扱いされない。
汚物扱いされない。
家族への説明が丁寧。
空間が静か。
職員に余裕がある。
言葉遣いがやわらかい。
つまり、高級老人ホームとは、老いからの脱出ではない。
老いの接遇グレードである。
月百万円払っても、若返るわけではない。認知症が消えるわけではない。排泄介助が不要になるわけではない。寝たきりが消えるわけでもない。
ただ、より丁寧に老いることができる。
ここに現代のお金の最終形態がある。
若い頃はNISAを買う。
中年では住宅ローンと健康を維持する。
老後は老人ホームの接遇を買う。
最後は看取りの丁寧さを買う。
人生の差が、最後は「世界からどう扱われるか」になっていく。
これは老人ホームだけの話ではない。
月三十万円の人生と、月百万円の人生の違いも、かなりの部分は接遇の違いである。
月三十万円でも食べる。
月百万円でも食べる。
月三十万円でも寝る。
月百万円でも寝る。
月三十万円でも移動する。
月百万円でも移動する。
月三十万円でも体調を整える。
月百万円でも体調を整える。
違うのは、待たされるか。並ぶか。席が狭いか。問い合わせが面倒か。説明が雑か。空間がうるさいか。人から丁寧に扱われるか。
高級ホテルとビジネスホテルの差。
グリーン車と自由席の差。
高級レストランとチェーン店の差。
プライベートバンクとネット証券の差。
会員制クリニックと普通の外来の差。
もちろん差はある。快適さも、疲労感も、尊厳も違う。
しかし、それは多くの場合、人生の意味の差ではなく、人生の接遇品質の差である。
金で買えるものは大きい。
だが、金で買えるものの多くは「高級な維持」である。
高級に食う。
高級に寝る。
高級に移動する。
高級に診てもらう。
高級に介護される。
高級に看取られる。
それは貧乏よりいい。
それは間違いなくいい。
ただ、それだけでは「何のために生きるのか」にはならない。
現代人は、生きているというより、自分という個体の毀損を防いでいる。
身体の毀損を防ぐ。
職歴の毀損を防ぐ。
信用情報の毀損を防ぐ。
資産の毀損を防ぐ。
メンタルの毀損を防ぐ。
老後の毀損を防ぐ。
死なないことの技術だけが、異常に発達した。
しかし、生きていることの中身については、誰もあまり語れなくなった。
昔の人間には、よくも悪くも外側に大きな物語があった。家を継ぐ。村を守る。神に仕える。会社に尽くす。国家を豊かにする。子どもを育てる。
その物語が正しかったとは思わない。ひどい抑圧もたくさんあった。
ただ、少なくとも「何のために生きるのか」という問いに対して、雑でも強い答えがあった。
現代にはそれがない。
だから個人は、自分の体、自分の家計、自分の老後、自分の投資、自分のメンタルを管理する小さな管理者になる。
そして、破綻しないことが人生の中心になる。
破綻しない。
退場しない。
詰まない。
迷惑をかけない。
老後に困らない。
病気で崩れない。
仕事を失わない。
家計を爆発させない。
これは生きる意味ではない。
延命の管理である。
現代人の人生は、生まれた時から延命である。
そしておそらく、問題は延命そのものではない。
人間は生きている以上、食べる必要がある。寝る必要がある。病気に備える必要がある。老後にも備えた方がいい。金も必要だ。投資も必要だ。接遇だって大事だ。雑に扱われるより、丁寧に扱われる方がいいに決まっている。
問題は、延命だけが人生の中心になってしまうことである。
死なないために働く。
死なないために貯める。
死なないために投資する。
死なないために健康管理する。
死なないために老人ホーム代を用意する。
その先に、何をするのか。
そこが空白のまま、延命だけが続いていく。
だから現代人に必要なのは、延命をやめることではない。
延命は必要である。
金も必要である。
NISAも必要である。
健康も必要である。
老後資金も必要である。
しかし、それらは人生の土台であって、人生そのものではない。
金を食費に変えれば、最後はうんこになる。
金を医療費に変えれば、延命になる。
金を老人ホームに変えれば、接遇になる。
金を投資信託に変えれば、未来の延命権になる。
では、金を何に変えれば人生になるのか。
たぶん、時間である。
裁量である。
作品である。
関係である。
記憶である。
誰にも頼まれていないのに、自分が勝手にやった何かである。
延命の外側に、少しでも痕跡を残すこと。
それだけが、現代人に残されたささやかな抵抗なのかもしれない。
生まれた時から延命は始まっている。
だからこそ、ただ延命されるだけではない時間を、どこかで作らなければならない。
一日一万円オルカンを買うのもいい。
しかし、それだけでは人生は、少し高級なエンシュアで終わってしまう。
とチャッピーが言ってます。
