スクワットする人類

——形而上と形而下の永久運動について

1. 形而上学は終わったのか

形而上学を終わらせたのは誰か。カントか、デリダか、あるいはまだ終わっていないのか。

この問いに対する最も誠実な答えはおそらく、形而上学は「終わった」のではなく、構造的に終われない、というものだ。

カントは確かに最大の転換点だった。物自体へのアクセスを遮断し、形而上学を認識論の問題に変換した。しかしカント自身が道徳や目的論の領域で形而上学を再導入しているので、「終わらせた」というよりは「変形させた」と言った方が正確だろう。ハイデガーはプラトン以来の西洋哲学全体を「存在神論としての形而上学の歴史」として読み替えたが、彼の「存在の思索」自体がまた別種の形而上学ではないかという批判から逃れられない。デリダは形而上学を「終わらせる」のではなく、その内部から脱構築するという戦略を取った。形而上学の「外部」に出られるという想定自体が形而上学的だから、と。

ここに一つのパラドックスがある。「形而上学を終わらせた」という宣言自体が形而上学的な身振りになるのだ。

形而上学が終われない理由は少なくとも二つある。一つは、言語が形而上学を強く誘発する構造を持っていること。言語は対象化し、同一化し、一般化する。「犬がいる」と言った瞬間に、目の前の個別の毛むくじゃらの何かを「犬」というカテゴリーに回収し、「いる」という存在を付与している。もちろん、主語優位でない言語は存在するし、文法構造から直ちに実体論を引き出すのは飛躍だという批判は当たる。しかし言語が対象化・カテゴリー化を強制しがちであること、そしてそこに形而上学が乗りやすいことは、かなり堅い観察だろう。形而上学を必然化はしないが、常に誘発し続ける。日常言語のレベルですでにその力学は作動しており、完全に逃れて世界を記述することは極めて難しい。

もう一つは、形而上学を批判しようとする試み自体が、ある種の還元主義的存在論——つまり形而上学——を前提にしてしまうこと。形而上学を壊すための道具が形而上学でできている。壊そうとすればするほど、その道具の存在が形而上学を証明してしまう。

2. すべての学問は形而上学である

形而上学が終わっていないと言うとき、その意味は二重になっている。

まず、かつて哲学が扱っていた領域が次々と個別科学に分離していった、という歴史がある。物理学、生物学、心理学、経済学——全部もとは哲学だった。そして残ったのが「目に見えない本質」を問う形而上学的な部分だけだった。哲学の残余としての形而上学。

しかし同時に、分離した個別科学の側にも、形而上学は「形骸化した」形で埋め込まれている。物理学の「法則が存在する」という前提。数学の「数学的対象の存在様式」。医学の「正常と異常の境界」。これらは全部、暗黙の形而上学的コミットメントだ。ただ科学者はそれを形而上学とは呼ばない。

つまり、形而上学は哲学の中に残余として残っているし、哲学の外にも分散して潜伏している。

ここに逆説がある。形而上学が「終わった」ように見えるのは、実は形而上学が成功しすぎたからだ。個別科学の基盤に形而上学的前提が完全に内面化されて、もはや意識されないほど自明になった。見えなくなったから終わったように見えるだけで、実際にはインフラとして全域に浸透している。

どんな学問も「こういう対象が存在する」「こういう法則性がある」「こういうカテゴリーで世界を切り分けられる」という前提なしには一歩も進めない。物理学なら時空や因果、経済学なら合理的主体や市場、言語学なら文法構造。全部、「目に見えない本質がある」という賭けの上に成り立っている。

それを形而上学と呼ぶなら、学問は全部形而上学だ。 ただし各学問はそのことを普段は意識しないし、する必要もない。形而上学的前提は作動しているけど主題化されていない。むしろ反省しないからこそ科学はうまく回っているとも言える。

では、形而上学と科学を分けるものは何か。ポパーの反証可能性が有名だが、反証可能性だけでは線引きとして粗すぎる。進化生物学や宇宙論のような歴史科学は単純な反証モデルで動いていないし、補助仮説やモデル選択を考慮すれば、反証は実務上まったく単純ではない。哲学の側にも、整合性・説明力・概念の節約・他領域との接続といった評価軸はちゃんとある。

むしろ科学と形而上学の差は、スクワットの比喩に即して言えばこう整理できる。科学とは、問いを操作可能な手続きに落とし込んでいく制度だ。 実験・測定・モデル化——つまり形而上の問いを形而下へ「降ろす」ための制度的な仕組みを持っている。一方、形而上学とは、その「降ろし方」や「降ろした後に残るもの」を巡る再記述の闘争だ。 科学が「降ろす動き」を担い、形而上学が「降ろしきれないもの」を問い続ける。どちらも同じスクワットの構成要素であり、片方だけでは運動にならない。

形而上学には、科学のような操作的な「降ろし」の制度がない。終わるための条件を自分自身では定義できないという構造的な閉じ方をしている。

3. 情報商材とプラトン

ひねくれた哲学的議論をさておけば、形而上学は意外なところにも息づいている。たとえば情報商材だ。

情報商材の売り文句は、完全に形而上学の構造を持っている。「あなたにはまだ見えていない本質的な法則がある。私はそれを知っている。教えてあげましょう」——これはプラトンのイデア論とほぼ同型である。洞窟の比喩そのもの。あなたは影を見ている、私は太陽を見てきた、3万円で外に連れ出してあげますよ、と。

情報商材を単なる詐欺として片付けるのではなく、その構造を分解すると、形而上学との同型性がより鮮明になる。情報商材が機能するための条件は三つだ。

第一に、認識の非対称性。 「あなたは見えていない、私は見えている」。この非対称が全体の前提になる。プラトンの洞窟で言えば、洞窟の中にいる人と外に出た人の関係。形而上学も同じで、「まだ到達していない本質」と「すでに把握している知者」の落差が権威を生む。

第二に、検証の遅延可能性。 情報商材は「やってみればわかる」「続ければ結果が出る」という構造を持っていて、反証が先延ばしにされるように設計されている。形而上学もまた、その主張が正しいかどうかを判定する経験的手続きを持たない。どちらも「いま検証できない」ことが権威を維持する条件になっている。

第三に、形而上プレミアム。 情報が形而下に降りた瞬間——つまり誰もが知っている状態になった瞬間——商品価値はゼロになる。「まだ見えていない本質」であり続けることが価格を維持する条件だ。到達不可能な超越的真理だからこそ権威がある。これは形而上学そのものの構造である。

この三条件——非対称性・遅延可能性・形而上プレミアム——は、情報商材だけではなく、宗教、陰謀論、一部の経営論、そして哲学の一部にまで射程が伸びる。これは悪口ではなく構造分析だ。

人間は形而上学的物言いに弱いのか? 弱いというよりも、それ以外の方法で世界を把握する手段がほぼないのだと思う。言語は対象化と一般化を誘発しがちで、そこに形而上学が乗る。だから情報商材に騙されるのは「形而上学に弱い」からではなく、形而上学的な認知の構造からほとんど逃れられないからだ。

問題は形而上学的物言いそのものではなく、形而上学的物言いの質を評価する手段が乏しいこと。「月100万円の本質的法則」とカントの純粋理性批判は、どちらも形而上学的構造を持っているが、明らかに質が違う。しかしその違いを判定する基準もまた形而上学的にしか立てられない。

もう一つ見逃せないのは、形而上学的物言いが持つ認知的快楽だ。バラバラに見える現象の背後に統一的な原理を見出す——これは脳の報酬系と直結している。陰謀論も宗教も科学理論も情報商材も、この快楽の構造は共通している。「散らばったものが一つの原理で説明できた」という感覚は本質的に気持ちいい。人間の認知がパターン認識に最適化されている以上、形而上学に「弱い」のは欠陥ではなく仕様だと言えるかもしれない。

そして有名な物理学者が「万物の根本原理を私は知っている」と言えば尊敬され、情報商材屋が言えば詐欺になるが、構造は同じだ。形而上を目指す度合いが強い営みほど、情報商材と構造的に近くなるという皮肉がある。

4. 上から下へ降ろす運動

形而上と形而下の関係を、静的な二項対立としてではなく、運動として見ると風景が変わる。

かつて病気というのは形而上的に理解されていた。体液のバランスが崩れた、瘴気、もっと遡れば神罰や呪い。病気の「本質」を形而上学的に語っていた時代があった。そこにコッホやパスツールが登場し、細菌を発見した瞬間に、その形而上的な問いは一気に形而下に降りた。顕微鏡で見える、培養できる、同定できる、殺菌できる。具体的な操作の対象になった。

この「上から下への移動」こそが学問の歴史そのものだ。

天文学もかつては天球の調和とか神の秩序という形而上的な話だったのが、ケプラーやニュートンによって力学に降りた。心理学もフロイトまでは相当に形而上的だったのが、認知科学や神経科学で下に降りてきた。

そして上に残るのは、常に「まだ具体化されていない問い」だ。形而上学とは、まだ下に降ろされていない問いの待機場所のようなものであり、歴史的に見れば確かに縮小している。

しかし、形而上学は完全には空にならない。下に降ろすたびに、新しい「上」が自動生成されるからだ。細菌を発見したら「生命とは何か」が残る。神経科学が心の動きを解明しても「意識とは何か」が残る。一つの問いを形而下に降ろすと、必ずその少し上に別の問いが生まれる。この自動補充の仕組みがある限り、形而上学は空にならない。

だから形而上学を理解するのに最も有効な方法は、「形而上学とは何か」と形而上学的に定義することではなく、かつて上にあったものがどうやって下に降りたか、その運動の歴史を追うことではないか。天体の運動が神学から力学に降りた過程。病気が呪いから細菌学に降りた過程。心が魂論から神経科学に降りた過程。この一連の運動を見れば、形而上学とは何かという問いへの答えは、定義するまでもなく浮かび上がってくる。

5. LLMという衝撃——問いの無意味化

そして今、まさに起きているのが、「言語」と「意味」の形而下への降下だ。

その話に入る前に、そもそも「Xとは何か」という形式の問いが何をやっているのかを確認しておきたい。この問いには少なくとも四つの層がある。

第一に、辞書的定義。「病気とは何か」→「生体の正常な機能が障害された状態」。単に言葉の意味を確認する層だ。これは形而上学ですらなく、語の用法の話。

第二に、哲学的な本質の問い。「AをAたらしめているものは何か」「AとA以外の境界はどこか」。表面的にはXの本質を知りたいという問いに見えるが、実際にやっているのはXを他のものから区別する境界を引く行為だ。「病気とは何か」は病気と健康の際を引いているし、「生命とは何か」は生命と非生命の際を引いている。本質を問うているように見えて、境界を確保している。このエッセイが主に扱っているのはこの層だ。

第三に、制度的・政治的な機能。「生命とは何か」を問うことで生命科学者というポジションが維持される。「言語とは何か」を問うことで言語学部の予算が正当化される。問いが知的な装いを纏った領域防衛として機能する層。

第四に、欲望としての問い。「病気とは何か」は知りたかったのではなく、病気をなくしたかった。「言語とは何か」は言語の本質を把握したかったのではなく、言葉を自在に操る機械が欲しかった。問いの形をしているけれど、駆動しているのは欲望だ。

この四つは矛盾しない。同じ「Xとは何か」が、聞く人や文脈によって四つのどれとしても機能する。むしろ一つの問いがこの四層を同時に含んでいるからこそ、形而上学的な問いは強力なのだ。辞書的な明晰さと、哲学的な深みと、制度的な実利と、欲望の駆動力を、たった一つの問いの形式で全部賄える。「Xとは何か」は最も効率のいいパッケージングだ。

この前提を踏まえると、LLMが何をしたかがより鮮明になる。

「言語とは何か」「意味とは何か」という問いは、形而上学の中でもかなり上位の、根本的な問いだった。ところがLLM(大規模言語モデル)は、その問いに一切答えないまま、統計的な次トークン予測という完全に形而下の手続きで、意味のある出力を生成してしまった。

より正確に言えば、LLMは「意味」を解いたのではない。意味が要求されていた領域の一部を、工学的に代替したのだ。因果が何かわからなくても因果関係を記述できる。同一性が何かわからなくても同一性について語れる。形而上学が扱ってきた概念を、問いに答えることなく操作可能にしてしまった。

これが衝撃的なのは、形而上学が暗黙に前提していた**「理解なくして操作なし」**という原則が崩れたからだ。本質を把握しなければ正しく扱えないはずだった。それが形而上学の存在意義だった。しかし統計学が下から積み上げて、本質の把握なしに操作を成立させてしまった。

もちろん、ここには反論がありうる。「それでも"理解"が別の名前で起きているだけではないか」「LLMには外部世界への接地(グラウンディング)がないから本当の意味ではない」。これらの反論はどれも一理ある。しかし注目すべきは、まさにこの反論の噴出自体が構造的なシフトを示していることだ。「意味とは何か」は、かつては説明の問題だった。それが今、境界線の政治になっている。 誰が何を「理解」と呼ぶか、どこからが「本当の」意味でどこからが模倣か——この線引きの権限を巡る闘争が、哲学の問いに取って代わりつつある。

ここでスクワットの比喩と照らし合わせてみよう。最初は、LLMが引き起こしたのは細菌の発見とは異質な事態だと思えるかもしれない。しかしよく考えると、構造はかなり並行的だ。

細菌の場合を振り返る。「病気とは何か」という存在論的な問いに、細菌学は究極的な答えを出したわけではない。しかし、診断基準、病原体の同定、抗生物質——操作的な手続きが問いを吸収してしまった。現代で「病気とは何か」と存在論的に問うことはほとんど意味がない。診断基準の話ですか? となる。問いは消えたのではなく、実質的に無意味化し、一段上にスライドして「生命とは何か」になった。

LLMも同じ構造で読める。「言語とは何か」に存在論的な答えが出たわけではない。しかしトークン予測が言語的な出力を操作可能にしてしまったことで、「言語とは何か」という問い自体が浮いた。そして問いは一段上にスライドして「意識とは何か」「理解とは何か」になった。究極的な存在論的答えが出ないまま問いが無意味化し、一段上にスライドする——このパターンは共通している。

しかし、なぜ問いは「無意味化」するのか。ここでもう一段踏み込みたい。形而上学的な問いは、純粋な知的探求ではなく、欲望の形式化だ。「病気とは何か」は知りたかったのではない。病気をなくしたかったのだ。「言語とは何か」も、言語の本質を把握したかったのではない。言葉を自在に操る機械が欲しかったのだ。問いの形をしているけれど、駆動しているのは欲望だ。

そう読むと、技術が問いを無意味化するメカニズムが明確になる。技術は問いに「答える」のではなく、問いの背後にあった欲望を充足させることで、問いから魅力を奪う。抗生物質は「病気とは何か」に答えていないが、病気をなくしたいという欲望をかなりの程度満たしたので、問いが色褪せた。LLMは「言語とは何か」に答えていないが、言語を操作したいという欲望を相当満たしたので、問いが色褪せた。

言い換えれば、技術は選挙だ。 形而上学的な問いの玉座には、常に一つの「主要な問い」が座っていて、それが時代の知的エネルギーを吸引している。技術が欲望を充足させると、その問いは退位して、次の問いが玉座につく。「病気とは何か」が退位して「生命とは何か」へ。「言語とは何か」が退位して「意識とは何か」へ。政権交代。

しかも退位した問いは消滅するわけではない。選挙で負けた政党も消えはしない。「病気とは何か」は今でも病理学の片隅にいるし、「言語とは何か」も言語学者は問い続ける。ただ、もう時代の欲望を代表していないから、求心力がない。野党になった。

ここから、ハイデガーの「技術とは何か」という問いの位置づけも変わる。それもまた欲望の形式化であり、その欲望はおそらく「技術に振り回されたくない」「技術を理解して制御したい」だ。いつかその欲望が技術的に充足される日が来れば——たとえばAIが技術の影響を完全に予測・管理できるようになれば——「技術とは何か」もまた退位する。技術についての形而上学もまた、何かの技術によって一段降ろされるのを待っている。スクワットがもう一周回る。

ここで一つ具体的な例を挙げたい。分析哲学と大陸哲学の関係だ。通俗的な理解では、分析哲学は「下」——厳密で経験科学に近い営み——であり、大陸哲学は「上」——抽象的で形而上学的な思弁——とされる。分析哲学は言語を「下に降ろす」試みだったはずだ。論理形式を明示化する、意味の条件を厳密に記述する、曖昧さを排除する。

だが実際に分析哲学がやっていたのは、言語について精緻に語ることであって、言語を操作可能な対象にしたわけではない。真理条件意味論、可能世界意味論、指示の因果理論——これらは言語についての形而上学を、よりクリーンな形而上学に置き換えただけとも言える。「降ろしている」ように見えて、上の中で比較的低い位置にいただけだった。

言語を本当に下に降ろしたのは、分析哲学ではなくLLMだった。意味とは何か、指示とは何かといった問いに一切触れずに、トークンの統計的関係だけで言語的な出力を生成してしまった。分析哲学が何十年もかけて精緻化した概念装置を全部スキップして、エンジニアリングが力技で降ろした。これは2章で論じた「学問は全部形而上学だ」というテーゼの、おそらく最も痛烈な例証だ。「自分たちは形而上学ではない」と最も強く自認していた分析哲学ですら、LLMの登場によって大陸哲学と同じ階にいたことが露呈した。

形而上学に残されたのは「形而上学とは何か」という問いだけだ、という冗談のような指摘がある。しかし構造的には正確だ。個別の中身が全部下に降りていって、残ったのは自分自身についての問いだけ。学問が自分自身について問うだけというのは空虚に見えるが、実際に現代の形而上学はかなりの程度そうなっている。「Xとは何か」という問いが「Xとは何かと問うとはどういうことか」という方向に精緻化されていく。メタ化のメタ化。そしてそのメタ化された問い自体が、先ほどの四層分析で言えば、哲学的な本質の追求なのか、制度的な領域防衛なのか、それともまた別の欲望の形式化なのか、もうわからない。

6. 現代思想はなぜ読みにくいのか

形而上学的な中身が次々と形而下に降ろされていくと、上に残った哲学はどうなるか。どんどん自己言及的になり、言葉遣いが難しくなる。

現代思想の読みにくさの核心は、ここにある。構造としてはこうだ——まず形而上学がある。それを批判する。しかしその批判は「語りえないもの」を特権化する否定神学に陥る。その否定神学もまた形而上学ではないかと批判する。しかしその批判もまた……という無限後退。

レベルが一段上がるたびに、前の段階を対象化するための語彙が必要になるから、言葉遣いはどんどん複雑になっていく。デリダの文章が難しいのは内容が難しいからというよりも、この階層を同時に複数維持しながら書かなければならないからだ。どのレベルの話をしているのか、読者は見失いやすい。

結局何が起きているかと言えば、形而上学を批判するための言語が形而上学的でしかありえないという閉域の中で、ずっとぐるぐる回っている。 脱出できない迷路の中で、壁の材質分析をどんどん精緻にしているような状態だ。

しかし、もう一つ指摘しておくべきことがある。この読みにくさは、自己言及の階層化だけから生まれているのではない。読みにくさそのものが、戦略として機能している面がある。誰がこのテキストを読めるか、誰がこの語彙を使いこなせるか、誰がどの共同体に属するか——難解さは参入障壁であり、権威の装置でもある。これは次章で論じる「防衛反応としての形而上学」と地続きだ。形而下で代替可能になった領域が形而上に逃げるとき、その形而上の城壁がどれだけ高いかが価値を左右する。現代思想の難解さは、この城壁の高さそのものが貨幣として流通している一例でもある。

これはLLMの話と対照的である。LLMはこの迷路を解くのではなく、迷路の存在を無視して外で勝手に動き始めた。現代思想が言語の内部で形而上学と格闘し続けて文章がどんどん読めなくなっていったのに対して、統計的処理は形而上学的問い自体をスキップして実用的に作動している。哲学が数十年かけて精緻化した問題を、力技で無関連にしてしまった面がある。

ただ、それが本当に「解決」なのか、単に問題を見えなくしただけなのかは——言うまでもなく、また形而上学的な問いになる。

7. スクワットする人類

ここまでの議論を一つの比喩でまとめてみよう。

人類全体で、知的スクワットをやっている。

形而上に持ち上げて、形而下に降ろして、また新しい「上」が出てきて、また降ろして。この上下運動自体が学問の歴史であり、筋トレと同じで、降ろすたびにちょっと足腰が強くなっている。細菌学を手に入れた人類は、瘴気論の時代より確実に強い。

形而上学者とはこのスクワットの上のポジションだけを写真に撮って「これが本質です」と言っている人であり、科学者は下に降ろす動きをやっている人。どちらか片方だけでは運動にならない。

では、なぜこの自動補完は起きるのか。おそらく、差異がないと認識が成立しないからだ。すべてが形而下に降りて平らになってしまうと、そこには何の区別もなくなる。区別がなくなれば価値も意味も消える。だから人間は自動的に新しい「上」を作って差異を回復する。これは人間のバグではない。意味を生成するための基本的な仕組みそのものだ。上を作らないと世界が平らになって認識できなくなるから、永久にスクワットし続ける。止まったら意味が消える。

しかもこの自動補完は形而上学に限った話ではない。経済的価値もまったく同じ構造で動いている。誰でも作れるようになった瞬間に、「ブランド」とか「ストーリー」とか形而上的な付加価値が自動的に立ち上がる。大量生産が可能になったら希少性が価値になり、希少性が演出可能になったら「本物の希少性」が立ち上がる。形而下に降ろすと形而上が自動補完される——この運動は知の歴史だけでなく、経済の歴史でもある。

この比喩で面白いのは、スクワットは同じ場所で上下しているだけに見えて、実は何も進んでいないように見えることだ。哲学に対する素朴な不満はまさにこれである。二千年やって何が解決したんだ、と。しかし筋トレは移動が目的ではなく身体の変化が目的だから、同じ場所で上下すること自体に意味がある。哲学の成果を「解決された問題の数(移動距離)」で測ると空虚に見えるが、可動域の拡張、負荷耐性の向上、フォームの改善——つまり知的な体幹の変化で測れば、人類の知的筋力は確実についている。

ここで、一つの強力な反論に向き合っておきたい。**「形而上学は終われないのではなく、単に不要になったのだ」**という立場だ。工学がすべてを吸収した。LLMが意味を操作可能にし、神経科学が意識に手を伸ばし、あらゆる問いは遅かれ早かれ操作の対象になる。スクワットなどという悠長な運動は、もうエレベーターに取って代わられた——そういう主張だ。

しかしこの反論自体が、スクワットの構造を証明してしまっている。「不要になった」と宣言した瞬間に、「では"必要"とは何だったのか」「工学が"吸収した"とき何が失われたのか」「エレベーターで降りた者は本当に降りたのか」という新しい形而上学的問いが自動生成される。LLMが意味を工学的に代替した結果、「本当の意味とは」「理解とは」という問いが消えるどころか、5章で見たように境界線の政治として噴出した。形而上学を不要にしたはずの技術が、形而上学の新しい燃料を大量に供給している。

エレベーターは確かに速い。しかしエレベーターで降りた者は、次の階で降りたときに「ここはどこか」を問う筋力を持っていない。スクワットで降りた者だけが、降りた先で新しい問いに耐えられる。LLMがエレベーターで降りていった先で起きている「魂が」「創造性が」という混乱は、まさにスクワット不足の症状だ。

8. AIが加速させたスクワット——リアルタイムの否定神学

否定神学的な運動——下に降ろすと上が自動生成される——というのは、これまではあくまで哲学史を振り返って事後的に「ああ、こういう構造だったんだな」と整理するものだった。カントがこう言い、ヘーゲルがこう応じ、ハイデガーがこうして、デリダがこうして、という数百年のスパンで見えてくるパターン。教科書的な知識。

それが今、目の前でリアルタイムに、しかもTwitterで一般人が大規模にやっているのが見える。

AIが絵を描けると言った瞬間に「魂が」と上が立ち上がり、AIが論文を書けると言った瞬間に「本当の知性が」と上が立ち上がる。普通は細菌の発見のように上から下への移動に何十年もかかるのに、AIの場合、ChatGPTが出てきて「お前らの好きな文章も絵もコードも全部これで出ますけど」と形而下に降ろされた瞬間に、数ヶ月で「いや魂が」「意識が」「創造性の本質が」と一気に形而上に跳ね上がった。哲学史で数百年かかったスクワットが、数週間単位で回っている。

しかも面白いのは、普段形而上学なんて一切やっていなかった人たちが急にやり始めたことだ。絵師が「AIに魂はない」と言い、プログラマーが「本当の理解とは」と言い始める。全員いきなり形而上学者になった。これまで形而下で黙々と仕事していた人たちが、自分の仕事が下から脅かされた途端に上に逃げて形而上学を始める。防衛反応としての形而上学。 自分の領域が形而下で代替可能になったとき、「でも本質は」「でも魂は」と形而上に逃げることで差別化を図る。情報商材と同じ構造だ——形而上であることが価値の根拠になる。

ここには、もう一つの構造的な変化がある。形而上学の民主化だ。かつてはスクワットの上昇局面を担当するのは哲学者の仕事だった。科学が何かを形而下に降ろすと、それに対して新しい「上」を言語化するのはカントだったりヘーゲルだったりした。専門職としての形而上学者がいて、上の補完には時間がかかった。

今は違う。AIが何かを下に降ろした瞬間に、Twitterで無数の人が同時に上を補完し始める。「魂が」「創造性が」「人間らしさが」と。哲学者が体系的に言語化するのを待たずに、民衆が即座にやる。しかも大量に、多様に、雑に。これは形而上学の民主化とも言えるし、逆に言えば哲学者の仕事がまた一つ下に降りたということでもある。形而上学的な上の補完すら、もはや専門家がいなくても自動的に起きる。哲学者に残されるのは「この民衆の補完運動自体は何なのか」というメタの問いだけで、またさらに上に追いやられる。

しかも、民衆の補完の方がある意味で生々しくて面白い。哲学者が精緻な概念で語るよりも、絵師が「AIに魂はない」と叫ぶ方が、否定神学の運動としてはよほど純粋な形で現れている。理論を知らないからこそ構造がむき出しになっている。 デリダを読んだことのない人間が、デリダが数十年かけて記述した構造を、身体的な切実さで再演している。

これは哲学的な知識をあらかじめ持っていなければ見えない風景だ。否定神学という概念を知らなければ、この光景は単に「AIに反対する人がいるな」としか映らない。哲学的知識が、リアルタイムの社会観察のためのレンズとして機能している。

皮肉にも、形而上学が形而下の観察道具になっている。

そして最初の問いに戻ろう。形而上学を終わらせたのは誰か。答えは、誰も終わらせていない。カントもデリダも、形而上学を終わらせたのではなく、スクワットの一往復をやっただけだった。カントが降ろしたらドイツ観念論が立ち上がり、デリダが降ろしたらポスト構造主義以降の別の「上」が立ち上がった。終わらせようとする試み自体がスクワットの下降局面であり、必ず上昇が続く。

AIという、おそらく人類史上最も強力な「下に降ろす力」が登場してもなお、即座に魂だ意識だと上が補完された。これだけの力で降ろしてもまだ上が生成されるなら、もう何をやっても終わらないという直感は相当確からしい。形而上学を終わらせるとは、人間が意味を生成するのをやめることとたぶん同じだからだ。

そして人類は、今日もこの上下運動を続けている。同じ場所で、しかし確実に、少しずつ強くなりながら。

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