待機権としての現金

# 待機権としての現金

現金を持つということが何なのか、ずっとうまく言葉にできずにいた。

国債なら簡単だ。クーポンという確定した利率があり、満期という確定した償還日がある。株も簡単だ。増える期待というワクワクがある。だが現金だけは、増えもしないし、確定した何かをくれるわけでもない。それなのに人はなぜか現金を置いておきたがる。しかもインフレという形で、確実に目減りしていくと知りながら。

## 破局のための現金ではない

最初に疑ったのは、これは「破局に備えるための現金」なのではないかということだった。病気で働けなくなる、事故に遭う、そういう最悪の事態への備えとして。

しかし考えてみると、本当に働けなくなるほどの破局が訪れたとき、現金をいくら積んでいたところで大して意味はない。障害年金が動き出し、団体信用生命保険で住宅ローンはチャラになる。そういう制度のレイヤーがすでに用意されている。破局は、実は現金の出番ではない。

現金が必要になるのは、もっと中途半端な場所だ。車が壊れた。屋根が雨漏りした。急な葬式で飛行機を取らなければならない。人生が終わるわけではないが、タイミングを選べない出費。これが厄介なのは、国債や株ではこの中途半端な谷を埋められないからだ。国債は満期までの途中の価格を保証しない。株はもっと露骨で、暴落している時期と生活が苦しくなる時期には相関がある。つまり、資産を叩き売らざるを得ないタイミングが、よりによって一番損な瞬間に重なる。

現金の役割は、このタイミングを自分で選べるようにすることにある。破局用の保険ではなく、タイミングの自由を買うための代なのだ。

## 待機権という正体

もう一歩踏み込むと、現金の本当の役割はさらに先にある。

現金があって良かったと思える瞬間を探してみると、現金それ自体が増えて嬉しかったという体験は、構造上存在しないことに気づく。現金が報われるのは常に、暴落した瞬間に安く買えた、あるいは急な好条件の取引に即応できた、という形でしかない。つまり現金の勝利は、必ず「別の何かを安く買えた」という形を借りてしか実現しない。

これはつまり、現金とは待機権だということだ。いつか安く買うための権利。増える権利ではなく、待つための権利。

## この待機権は高い

そう捉え直すと、この待機権がとんでもなく高いことに気づく。

権利の値段は、インフレ率という形で毎年天引きされている。しかも行使できるタイミングは自分で選べるように見えて、実際には暴落という他人任せの出来事が起きるかどうかに依存している。行使できる場面が来るかどうかも分からない権利に、確定した年率のプレミアムを払い続けているということだ。

さらに、行使できたとしても、その儲けは含み益でしかなく、実現するまでには時間差がある。機会が来るかも分からず、来ても即座に実現するわけでもない。二重に不確実な権利に、毎年三パーセントとも七パーセントとも言える目減りを払い続ける。金融商品として見れば、相当分の悪いオプション料だ。

## それでも持ち続ける理由

それでもなお人が現金を手放さないのは、この待機権を「暴落で買うため」ではなく「暴落で買わなくて済むようにするため」の保険として、無意識に評価しているからではないか。

行使しないことこそが本来の目的で、行使する瞬間、つまり誰かが本当に困窮して資産を投げ売りしている時期が来てほしいわけではない。行使できれば得はするが、行使が必要になるような世界にはなってほしくない。

高い待機権料を払い続ける現金の正体は、たぶんこのねじれた保険にある。増えないことも、目減りすることも承知の上で、「その場面が来ないでほしい」という願いに対して、毎年律儀に保険料を払い続けているのだ。   


うーん。よくわからん。

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