人類に投資は早すぎる
一 二枚の伝票
毎日どこかで見る文言が二つある。
一つ目。「S&P500は年利7%。だから3000万円あれば年210万円、月17万円。もう働かなくていい」。
二つ目。それへの返信としての「7%なんてタラレバじゃん」。
一つ目がおかしいという記事は無数にある。二つ目がおかしいという記事もたまにある。だが「両方おかしい」という記事は見たことがない。論争というものは、どちらかが正しい前提で行われるからだ。7%を信じる側と笑う側が殴り合っていて、観客はどちらかの席に座ることになっている。
私はどちらの席にも座れなかった。両方の伝票に、同じ記載ミスがあるように見えたからだ。
二 丸める方向が違うだけ
「年利7%」の正体は、法則でも約束でもない。過去のある期間の年次リターンという、ばらばらの数字の山を一つに潰した要約統計量である。山の中身は+30%もあれば−38%もある。7%という数字自体は、一度も観測されたことがない年がほとんどだ。
つまり7%の正体は「分布」である。そして冒頭の二つの言説は、この分布の扱い方がそれぞれ壊れている。
法則派は、分布を確定値に丸める。ばらつきの山を平らに均して、毎年きっかり振り込まれる利息に変換する。3000万円×7%=210万円という掛け算は、分布を定期預金の金利表に書き換える操作だ。分布→1。
虚構派は、分布をゼロに丸める。「タラレバじゃん」の一言で、統計の山全体をもしも話のフォルダに移動する。分布→0。
正反対の結論に見えるが、やっている操作は同じである。どちらも「分布を分布のまま持つ」ことを拒否して、1か0のどちらかに崩している。分布のまま持っている人——「中央傾向は7%程度、ただし年次のばらつきは平均の三倍近くあり、私の投資期間内の実現値がどこに落ちるかは分からない」と言い、かつその通りに行動する人——を、私は見たことがない。あなたも見たことがないはずだ。
三 タラレバの品詞分解
虚構派の「タラレバじゃん」は、掘ると面白い壊れ方をしている。
タラレバとは何か。「あの時買ってタラ」「売らなけレバ」。つまり反実仮想である。現実には起きなかったことを仮定する話法だ。
ところが「過去100年のS&P500の年率平均はおよそ7%だった」は、反実仮想ではない。過去形の事実である。現に起きたことの集計だ。起きなかったことを仮定してなどいない。むしろ、起きたことしか含まれていない。
現に起きたことの要約を「もしも話」と呼ぶのは、文法カテゴリの誤爆である。「昨日の東京の平均気温は31度だった」に「そんなんタラレバじゃん」と返す人はいない。同じ過去形の集計なのに、なぜか投資の話になると事実がフィクションの棚に移される。
もちろん、7%を将来に投影した瞬間に不確実性は生じる。だがそれはタラレバ(反実仮想)ではなく推定(外挿)であって、壊れ方の種類が違う。推定には「外れうる」という但し書きがつくだけで、「なかったこと」にはならない。虚構派は、外れうる話と、なかった話の区別がついていない。
四 統計のための品詞がない
なぜ両陣営とも壊れるのか。私の仮説はこうだ。日常言語には、統計を統計のまま運ぶ品詞が存在しない。
以前「信じるほど嘘になる」で書いたことの続きになるが、「S&P500は7%である」というコピュラ文は、文法上「水は100度で沸騰する」と同じ形をしている。法則文の文法である。統計要約がこの文型に流し込まれた瞬間、法則に格上げされる。これが法則派の製造工程だ。
一方、法則でないと気づいた人には、行き先が一つしかない。法則でないなら、嘘、誇張、セールストーク、タラレバ。つまりフィクションの棚である。これが虚構派の製造工程だ。
法則の棚とフィクションの棚の間に、「統計の棚」があるべきなのだが、日常言語の本棚にその段は作られていない。だから統計は、入荷するたびに上の段か下の段のどちらかに誤配される。7%論争とは、誤配された荷物同士の喧嘩である。
五 一六五四年
言語のせいにしたが、もう少し遡ると脳のせいである。
確率論の誕生は、ふつうパスカルとフェルマーの往復書簡に置かれる。1654年。賭け金の分配問題を二人の天才が手紙でやりとりして、ようやく「まだ起きていないことを数で扱う」方法が生まれた。四百年経っていない。統計学の整備は十九世紀、期待値やら分散やらを庶民が義務教育でかじるようになったのは、たかだかここ百年である。
一方、人間の脳の設計は数十万年前から大きくは変わっていない。その設計仕様に「分布」の実装はない。実装されているのは、物語(原因があって結果がある)と、二値判断(食えるか食えないか、敵か味方か)である。サバンナで「このしげみにライオンがいる確率は年率換算で7%、ただし分散が大きい」と考えていた個体は、考え終わる前に食われている。丸めるのが正解だったのだ。分布→1(いる、逃げろ)か、分布→0(いない、進め)か。
つまり法則派も虚構派も、壊れているのではない。仕様通りに動いている。壊れているように見えるのは、仕様の想定外の入力——分布そのもの——を突っ込まれているからである。
六 分布は誰も体験しない
さらに悪いことに、分布は原理的に体験できない。
人が体験できるのは、毎回一個の実現値だけである。今年のリターンは−18%だった。これは体験できる。だが「−18%を含む幅広い山」は紙の上にしかない。分布とは、無数の並行世界を一枚に重ね焼きした写真のようなもので、われわれは常にそのうちの一枚の世界しか生きられない。
だから実現値が来るたびに、両陣営で同じ儀式が始まる。暴落の年、法則派は「話が違う」と怒る。7%の約束が破られたと感じるからだ。虚構派は「ほら見ろタラレバだった」と勝利宣言する。フィクションの化けの皮が剥がれたと感じるからだ。
どちらも、分布から引かれた一標本を、分布への反証として扱っている。壺から黒い玉が一個出たことを「この壺に白い玉が入っているというのは嘘だった」と読む操作である。統計の教科書なら一行で減点される読み方だが、教科書の外では、これが多数派どころか全員の読み方だ。なにしろ壺の中身は誰にも見えず、手元には出てきた玉しかないのだから。
七 早すぎる道具
ギュンター・アンダースは、人間が自分の作った機械の性能に追いつけず恥じ入ることを「プロメテウス的羞恥」と呼んだ。以前「命令に従った者だけが時代遅れと呼ばれる」で書いた話だ。
インデックスファンドは、その変奏である。あれは「分布を丸ごと買う」という商品だ。個別の物語(この会社が伸びる)を捨てて、山をそのまま袋詰めにして売っている。人類は、自分の脳に実装のない数学的対象を、スマホから百円で買えるようにしてしまった。道具だけが先に届いて、それを持つための認知の側が、まだ製造されていない。
法則派は、届いた袋に「利息」というラベルを貼って定期預金として保有する。虚構派は、袋ごと「嘘」の棚に置いて買わない。分布を分布のまま保有する第三の持ち方は、どちらの棚にもない。
だから、人類に投資は早すぎる。これは投資への悪口ではない。順序の問題である。確率論より先に株式会社ができてしまい、脳の更新より先にインデックスファンドが発売されてしまった。納品の順番が逆なのだ。
最後に帳簿を開いておく。では私は分布を分布のまま持てているのか。持てていない。私は毎月S&P500を積み立てているが、暴落の月には「まあ長期では7%だから」と法則派の文言で自分を麻酔し、高値の月には「どうせタラレバだが」と虚構派の文言で期待を割り引いている。1と0を交互に唱えて、足して2で割った気になっているだけで、分布はどこにも保有していない。
人類に投資は早すぎる。私も人類である。それでも積立設定を解除しないのは、分布を理解したからではなく、解除という操作にも判断が要るからだ。判断を放棄した者の口座にだけ、分布は住み着いてくれる。私にできるのは、理解ではなく気絶である。そしてこの結論は、以前書いた「気絶の代行業」と一字も矛盾しないのだった。
