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手放すとき、物語は動き出す — 大阪から森へ移住した、はじまりの話(前編)

64歳のある日、私は「これからの老い方」について考えていた。

夫が急性骨髄性白血病で倒れ、わずか一週間で旅立ってから、どうにか日常を立て直し、かつて夢だったレストランを開いて15年。ひとつの区切りのような時期だった。

この15年のことは、また改めて書くとして——
今回は、大阪から長野、そして森へと移住することになった、その不思議な流れを辿ってみたい。

■ 守られてきた家を、手放すということ

38年間暮らした家は、夫が私の好みに建ててくれたものだった。

丘の上の、二階リビングの明るい家。
見晴らしがよく、光がよく入り、厨房には業務用設備を整え、いつでも店として使えるように設計されていた。アトリエや音楽室まである、遊び心に満ちた家だった。

阪神淡路大震災、そして北大阪地震。
二度の大きな揺れにも耐え、私たちを守ってくれた、大切な場所。

けれど年月は正直で、外壁や屋根は再び手入れが必要な時期を迎えていた。
自分自身も、右手のばね指の手術を経験し、体力の衰えを感じ始めていた。

——そろそろ、やめ時なのかもしれない。

きっかけは、久しぶりに届いた一通のメールだった。

細やかに経営の相談に乗ってくれている方に、思い切って、店を閉じることについて打ち明けたとき——
返ってきた言葉は明快で、揺るぎないものだった。

「始めるより、やめるほうが難しいし、大切なんだよ」

「店も家も手放して、身軽になりなさい」

「持ち家は、荷物も含めて、子どもには重荷になってしまうよ」

「これからは、駅の近くで、車がなくても暮らせる場所で、元気に過ごすのがいい」

夫が建ててくれた家。
38年暮らした場所。
レストランとして過ごした10年。

さまざまな思いが胸の中で交錯した。

年齢は64歳。
65歳を過ぎれば、賃貸契約は難しくなるとも聞く。

手放すなら、早い方がいい。
片づけにも、体力が要る。
動けるうちに、決めなければ…

その頃、オーストラリアの友人夫妻は、住み慣れた素敵な家を売り、リタイアメントヴィレッジに引越して身軽になってセカンドライフを楽しんでいた。
家が売れた時は、友人たちから拍手喝采。
なんとも爽やかなセカンドライフの始まりだった。

日本では、家は守り、残すもの。
けれど彼らにとっては、その時々の自分に合わせて、軽やかに移り変わっていくものだった。

そうだ。
家は、人生そのものではないのかもしれない。
自分で、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。

そのとき——
ごく自然に、家を手放してもいいのではないかと、思った。

■ 一年前に届いた、ひとつの問い

そんな中で、一年前の出来事を思い出す。

久しく連絡を取っていなかった友人から、突然LINEが届いたのだ。

「きのりんは、海派?山派?湖派?」

唐突な質問に戸惑いながらも、私は立ち止まって考えた。

そして、思い出した。

——私、こういう暮らしがしたかったんだ。

ハーブを育て、畑の野菜で料理をし、
庭をつくり、絵を描き、物語を書く暮らし。

まるで、憧れていたターシャ・テューダーのような暮らしの日々。

そう返信すると、すぐに言葉が返ってきた。

「それ、きのりんらしいね。関西のターシャ・テューダーになってよ」

忘れていた夢が、くっきりと輪郭を取り戻した瞬間だった。

■ 再会が呼び覚ましたもの

その頃、もうひとつの流れも動いていた。

幼い頃から隣に住んでいた、7歳年上のクミさん。
中学生の私に英語を教えてくれていた、ドイツ帰りの憧れのお姉さん。

四十三年ぶりにお店のお客様として再会し、交流が再び始まっていた。

ターシャの話をすると、クミさんも笑って言った。

「そう!思い出したわ!私も同じ。何度も本を読んだわ。夢は、軽井沢のような暮らし」

そして、まるで思いついたように——

「私、軽井沢に住もうかなぁ」

あまりにも唐突で、現実味のない言葉に、私は思わず聞き返した。

「どうやって?」

クミさんは、少しも迷わず言った。

「わからない。でもね、“そうなったらいいな”ってワクワクしてると、不思議と、そうなる流れがやってくるのよ」

■ 物語が動き出すとき

その言葉から、わずか五日後。

思いがけない連絡が届いた。

アメリカに住む娘からだった。

「クリスマスに日本に行くね。二泊くらいで、どこか一緒に行かない?」

私は、ほとんど反射的に答えていた。

「軽井沢に行ってみたい」

クミさんに伝えると、彼女は嬉しそうに笑った。

「ほらね。私が動けなくても、ちゃんと流れは動くでしょう?」

そのとき私は、感じた。

自分がこの物語の“主人公”であると同時に、
どこかで“導かれている役者”でもあるような、不思議な感覚を。

このあと、軽井沢での二日間が、思いもよらない方向へと私を導いていくことになる。

続きは、次回に。

かつての家の窓から望む六甲山
隠れ家タイ料理レストラン
エントランス

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