AI時代の「クラシック」を考える #1 音楽がだんだん単純化してるって本当なの?
クラシック畑で育ち、ゲーム業界、映像業界、ネット文化界隈、ピアノマニア系、オーケストラ、アカデミーの場などで何でも屋的に活動しているピアニスト・作編曲家である筆者が、クラシック音楽という概念についての再考を試みるシリーズ(→マガジン)です。
複雑な方が知的な気がする!!
クラシックは複雑である
音楽は次第に単純化している、という研究結果が話題になることがあります。2010年代からこちら、いくつか同様のテーマを扱った例があるようです。中でも昨年、今年と相次いで発表された論文がウェブ記事で紹介されていました。
上はヒット曲のメロディーに特化した分析。
もうひとつ、下はホヤホヤ2025年の研究。
こちらはヒットチャートのナンバーのみならず、4世紀におよぶ2万曲のデータを用いて、さまざまなジャンルごとの比較や、またそのジャンル内部の変遷まで追っているというのが興味深い。
"研究チームが最初に発見したのは、クラシック音楽は常に現代のポップスよりも複雑であるということでした。"
"クラシックやジャズのような長続きしているジャンルでさえ、その起源と比較して明らかに単純化が起こっていることを示しています。"
クラシックの起源と置いているのがどのあたりの曲で、近年のクラシック曲として例に取られたのが何なのか……とかは、元の論文を見てもほぼ言及がないのでよくわかりません。残念。
ともあれ、はっきりわかることがありますね。やっぱり昔のクラシックは複雑だし芸術! さいきんの音楽は知性がなくてダメ!!
……と結論づける前に、まず「音楽の複雑さ」とはなんぞやというのが気になりませんか? ふたつめに紹介した研究を例にとって見てみます。
単純化しているのは何なのか?
複雑性の指標として用いられているのは、音符同士のつながり方。大まかに言って、MIDIファイルのデータから個々のノートの音高情報をノード(節点)、連続して現れる音と音の遷移をエッジ(辺)として有向グラフを構築し、このグラフの形や大きさを評価しているということのようです。ざっくりまとめれば、ある特定の音符から別の音符に進むときの道筋がどのくらい豊富にあるか、みたいな話だと理解すれば良いでしょう。ちなみに音程情報のないドラムトラックは除外した、とのこと。
これはジャンルによってだいぶ妥当性に差が出てきそうです。MIDIファイルのノート情報というのは、要するに「楽譜に書いたとき、その音符が五線のどの高さにあるか」を数値化したものですから、奏でられる音に対して削ぎ落とされる要素が大きい。音楽の種類によっては、コアの部分が失われかねません。
かつて音楽の完成形はアコースティックな生演奏で、音楽的な発明のほとんどは楽譜に書ける内容でした。その頃の音楽の複雑性はなるほど音符の並びに表れるものが主だったでしょう。しかし今や、音楽づくりは音色の時代に入ったとも言われています。
音楽の完成形が音声ファイルとされる現在、ビートや、シンセサイザーの音作りや、トラックの重ね方や、各種エフェクトの用い方や、場合によってはミキシングのテクニックなどが楽曲の肝となっていることもあるわけです。
そうすると、実は単純化しているのは「ノート情報」に限った話で、作品の持つ複雑性はほかの要素に拡張していっただけなのだ、と考えることも可能なのではないでしょうか?
現代のビートメイカーたちはトラックの音色をつくるとき、自らの耳を頼りに、適用するエフェクトのひとつひとつを吟味し、ミリ秒単位でリリースのタイミングを調整し、あるいは長いオーディオ素材からもっとも面白くきこえる部分を試行錯誤で選択したりしながら、満足のいく瞬間を追い求めています。
ジュルンジュルンのベースサウンドは(どれだけの電子的計算が裏にあるかという話を別問題にしてみても)、その音色だけですでにめちゃくちゃ複雑だということだってできるかもしれませんよね。
「文脈」に関する話
そうはいっても、音色なんてしょせん快・不快に関する身体的な反応であって、音楽の内容にかかわる複雑性、つまり「深み」とは関係ないではないか――そのような立場での反論もありそうです。正直その意見には割と賛成なんですけれども、しかし、私はどうしても考えてしまいます。そもそも音楽の複雑性は、原理的に文脈や表象などの音楽外の要素を多かれ少なかれ含んだ状態でしかはかれないのであって、けっきょくのところ問題になってくるのはそのバランスの取り方に過ぎないのではないか、と。つまり、単なる音色に複雑な精神性を見て取るような読解も、文脈によっては存在しうるのではないか、と。
少し具体的に説明しましょう。
いまや各ジャンルに、もっと言えば各ビートメイカーにアイコニックなサウンドがあるし、大きく見れば時代ごとにその時代を特徴づける傾向が存在します。つまり、サウンド自体がすでに文脈をまとった状態で認識されうる、ということです。
たとえば Vaporwave というジャンルないしムーブメントについて考えてみます。
リンクした作品は、そもそも録音物の切り貼りがメインであるということを抜きにして考えても、きこえる音符を拾ってMIDIノートにしてみれば極めて単純な音楽です。しかし、語るべきことは決して少なくはない。
Vaporwave がどういうものか、少し解説しましょう。このジャンルは1980-90年代のさまざまな音声・楽曲素材をサンプリングなどを用いて現代的に再構築する手法を特徴としています。とある複数の名義を持つ個人アーティストのアルバム(まさに上のリンクの作品を含むものです)をきっかけに、視覚芸術と一体化する形でウェブ上でひとつの典型的なミームとして発展していきました。サンプリング元となる時代特有の残響の多いサウンドをさらにスローダウンさせるという夢幻的な音作りによって非日常感とノスタルジーを表現しつつ、特定の時代をフィーチャーすることで一種の批評性をも獲得しています。このジャンルの特徴は音符ではなく音響にこそ表れているのであって、かつその音響の特性には複雑な意図が内包されていると評することができるのではないでしょうか。
さらに、2025年時点において Vaporwave のサウンドが作品に盛り込まれたとして、それが文脈的にどのように受容され、いかなる気分を伝えうるかを考えてみると、語るべき内容はより多くなります。Future Funk などのジャンルとの関係について考慮し、日本のシティポップが世界的に再評価されるに至った流れについても併記すべきかもしれません。 Liminal Space といった視覚的なネット文化との関係についても把握しておいたほうが良いでしょう。
現代においては、かようにサウンドの選択ひとつで、あまたの音符を配置するよりもはるかに多くの意味を聴き手に伝達し、感情を喚起することが可能なのです。
文脈やらは捨て置くとしても……
そうはいっても――と続けたくなる反論の例をまだまだ次から次へと思いつきます。文脈を度外視してものこる普遍的な複雑性は確実にある――1時間30分あるような交響曲と、リサンプリングされた5分のトラックのどちらが複雑かは明白ではないか? とか。作品解釈にそこまで文脈を重視すると、個々の作品の評価の基準をどこに置けばいいかわからなくなるのではないか? とか。そもそも音符に基づいて演奏したり編曲したりしているピアニストである自身のアイデンティティはどうなってるの? とか。(※わたしは個人的にはクラシック畑で育ったピアニストなので、ピアノ音楽が好きですし、ピアノを弾いて生きていたいと思ってはいます。)
しかし、複雑かそうでないかを論じる前に、すっとばしてきたそもそもの疑問があります。果たして音楽はどのくらい複雑なのが望ましいのでしょうか?
冒頭に挙げた研究の手法そのものに、その答えが隠されていました。
ほんとうに複雑なら偉いのか?
恣意的な評価基準
有向グラフを作って、その予測不能性=複雑さ(エントロピー)を評価するだけだと、音符が完全にランダムに並べられたデータこそが最も複雑だ、という判定になってしまいます。そんな音列は人間にとってはいわば雑音みたいなものなのであって、一般的には音楽として意味があるものとは受け取られないでしょう。音楽のデータの複雑さをはかるためにエントロピーを指標としてそのまま使うだけだと、いささか問題がありそうです。
なので、研究者たちはほかにも評価軸を導入しました。音列の構造を見つけるために、繰り返し出てくる特定の音同士のつながりを重みづけしたのです。たとえばそれを加味した上で有向グラフのネットワークのグローバル効率を計算します。すると、同じ進行の繰り返しが多ければ多いほど別の音符に到達するための効率が落ちるため、エントロピーとは別の観点から「展開に多様性がなく単純」だと評価されることになります。
また、つながり方の相互性にも着目して評価し、互いに行き来を繰り返すような短いパターンを見つけやすいように工夫しています。相互性が高ければ断片的な素材の反復が多く単純な構造であることが推察できますし、逆に低ければ一方通行的な長い旋律線が存在することが示唆され、より複雑だと判断できるわけです。
これらが合理的な手法であることは確かですが、結局のところ、人間が聴感上知覚する複雑さを追認するために数学的な分析を当てはめた、という印象もないではありません。音楽とは一般的にどのくらい構造化され、どのくらい繰り返しが含まれているものなのか、という標準的な範囲を過去のデータから抽出し、あくまでその中で構造の大きさや展開の多彩さを評価することによって複雑さを比較してみせている、という話なのですから。
ちょうどよい複雑さ
秩序と混沌の狭間にちょうどよい塩梅の複雑さの帯がある程度の幅を持って存在しており、音響が音楽となるためにはその帯に入る程度に構造化されている必要がある。そして、ちょうどよい塩梅というのがいかほどかは、現在まで作られた実際の音楽を参照するほかありません。人間が音楽だと知覚してきたものが音楽なのだ、というトートロジー!
研究結果が示しているのは、音楽として成立する複雑さの塩梅にいくらか幅がある中で、たまたま音程のある音符同士の関係性に着目して調べると、ジャンルや時代によって構造の特性に差があることが確認できるね、ということに過ぎないのです。
実際、歴史を紐解いてみれば、音楽の構造が複雑さと単純さのあいだを蛇行しつつ、ちょうどよい塩梅を保ってきたということがわかります。これは上の研究結果とも、芸術の進歩史観とも違う意見なので、すんなり賛成できない人もいるかもしれません。
しかし、通説として語られるクラシックの歴史の中にさえ、既にそのことを裏付ける不思議な記述が見つかります。
歴史は繰り返す
バッハなどが活躍したバロック時代から、モーツァルトたちの古典派の時代に突入するとき、音楽は自然な表現と万人に理解できる明解さを目指して変化したとされています。これは音楽史を学ばずともなんとなく知っている方が多いかもしれません。バッハによるフーガなど複雑で難しい楽曲に対して、モーツァルトの音楽の多くはメロディーと伴奏がはっきりしており、明るく楽しくわかりやすい、といったイメージがありますね。
バロックの後期、その時代の音楽に対して投げかけられた批判は次のようなものでした。
「過度に技巧に走り、人を感嘆はさせるが少しも心を動かさない」
「自然の優美さに欠け、混乱を来した様式」
「装飾に凝りすぎて言葉が聴き取りづらく、聴衆には理解しがたい」……
そして、作曲家グルックは「音楽はテキストに仕えるものである」として不要な装飾で感情表現を妨げないよう戒め、バッハの息子のひとり、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは「音楽はまず人の心を揺さぶるもの」と主張し、より自由で直接的な感情表現を是とする古典派への流れを導いたのです。
……しかし、バロック時代の音楽スタイルがもともとどのような主張のもとに誕生したかについてはご存知でしょうか?
その背景には、ルネッサンス後期の高度に発展した多声音楽に対する批判がありました。曰く―ー
「込み入りすぎて歌詞が聴き取れず、音楽本来の目的が見失われている」
「華美で複雑な装飾が情感を損なっている」
「音楽はほんらい聴き手の感情を動かすべきであり、単旋律と伴奏による古代ギリシャの単純な様式に回帰せねばならない」……
そしてモンテヴェルディという作曲家兄弟が「言葉こそがハーモニーの主人であり、下僕であってはならない」と主張し、複雑な多声音楽ではなくメロディーと伴奏によるわかりやすい構造と歌詞内容の表現を指向したことにより、オペラという形式が生まれます。より劇的な感情表現をモットーとし、広い聴衆に向けた音楽スタイルを持つバロック時代の幕が開いたのです。
おやまあ!
こうして見比べてみると、なんとバロック音楽と古典派音楽のはじまりは、まるで瓜二つです!
複雑さと単純さの併存
複雑になりすぎた様式へのカウンターとしてより単純な様式が現れるという現象は、後の時代においても複数観察されます。20世紀前半に、爛熟した感情表現と無調の混沌への批判から生まれた新古典主義は、主張の方向性は異なるものの、単純さと明解さを目指したという点で本質的には似通っていると言えるでしょう。「現代音楽」の文脈の中で生まれた1960年代のミニマルミュージックや、70年代のティンティナブリ様式なども明らかに複雑さや難解さに対する反動です。
人が退屈せずに聴けて、何らかの情動なりが伝わる音組織の複雑さには明らかに「ほどよいライン」が存在しています。そこを行き過ぎたり戻り過ぎたりしながら、ちょうどの勘所に引き寄せられ続けているのが音楽の歴史なのでしょう。
個人的には、紹介した研究で近年の音楽が次第に単純化しているという結果が出たのは、時代を下るにしたがって、音符のつながりが作る構造のみに頼らずとも聴く人を退屈させないノウハウが蓄積し、惹きつける音づくりをさまざまな形で拡張するテクノロジーが発展した結果でもあると考えています。
クラシックやジャズというジャンルは、退屈させないための複雑さを「音符の構造」に頼らざるを得ないため、音符同士のつながりを解析すれば自ずと他ジャンルより複雑さが保たれているということではないでしょうか。
それにしても、です。
改めて、クラシックというジャンルは何なのでしょうか。
こうして歴史をたどってみると、構造や複雑さの面で大きな違いがある作品、また時代が大きく隔たって様式自体が似ても似つかない作品、あるいは作られた当時は互いに理念が対立し、相容れないと考えられていたような作品などが、今となってはごたまぜになって「クラシック」という箱にぶちこまれていることがわかります。
これは冷静に考えると極めて奇妙で望ましくない状況であり、事実、弊害を招いてもいます。しかし、良い面もないわけではありません。
「クラシック」というジャンルの本質はいったいどこにあるのでしょうか。実情をきちんと踏まえつつ突き詰めて考えていくと、世の中で漠然と信じられてきたイメージとは全く違った「クラシック」の正体が明らかになってきます。(次回に続く)
