AI時代の「クラシック」を考える #2 クラシックってなんで芸術づらしてるの?
クラシック畑で育ち、ゲーム業界、映像業界、ネット文化界隈、ピアノマニア系、オーケストラ、アカデミーの場などで何でも屋的に活動しているピアニスト・作編曲家である筆者が、クラシック音楽という概念についての再考を試みるシリーズ(→マガジン)です。
クラシックの悪い(あるいは良い)ところ
芸術である根拠
あらゆる音楽ジャンルの中で、クラシックだけが――と言って言い過ぎであれば、クラシックは特に「芸術」であることを誇ってみせる傾向にあります。なぜなのでしょうか? 近代的な美学・芸術学と結びつきながら西洋で生まれ、発展してきた歴史があるのだから、ある意味では当然、という見方もできるでしょう。そもそも芸術たらんとして書かれているのがクラシック音楽なのだ、といった考え方ですね。しかし、クラシックの中でも古典派以前の音楽は、基本的にそもそも芸術たらんとして書かれてなどいません。当時の音楽とは、礼拝で/舞踏会で/貴族のパーティーで必要になるから書かれる類のものであり、作曲家は職人として扱われていました。ここには早くも齟齬が生じています。もう少し別の理屈が必要かもしれません。
何かよりよい説明があるでしょうか?
もっと単純で、おそらく多くの人(クラシック関係者)が内心信じているであろう理屈は、実際にそれだけの技術と知性が注がれた、内容のあるジャンルだから、といった答え方です。この意見に果たして正当性はあるのでしょうか? これはこれで、どうもしっくりきません。ほかのジャンルにも、当然ながらそれぞれ別のやり方で技術と知性が注がれています。また、前回みてきたように、クラシック音楽という概念自体、思想も複雑性もまったく異なるタイプの音楽が一緒くたに詰め込まれた箱なのだから、統一的に何かを語ることは本来むずかしいはずです。
ではなぜ、これほどまでに「クラシック」の世界に優越的な直感が蔓延してしまうのか。実は、非常に単純明快な説明が可能です。
クラシックの作曲家って何人くらい?
突然ですが、クラシックの作曲家の名前って何人くらい思い浮かべられますか? バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン……あたりなら聞いたことのない人のほうが珍しいかもしれませんね。もちろんショパンもはずせませんし、あとチャイコフスキーなんて名前もありましたっけ。もうちょっと頑張れば10人くらいは思い出せそうな気がします。
詳しい方なら、いやいや、ぜんぜんそんなもんじゃないぞ、とおっしゃるでしょう。しっかり書き出せば、50人くらいにはなるでしょうか。本当に詳しい方は、100人だっていけるかもしれません(わたしはというと、恥ずかしながら何も見ずに100人書き出すのはなかなか厳しそうな気がしています)。
さて、 IMSLP というサイトはご存知でしょうか。別名ペトルッチ楽譜ライブラリー。世界中の人が利用できるデジタル図書館として、パブリックドメインとなった楽譜のスキャンデータなどをWIKI方式で網羅的に収集・公開するプロジェクトです。
当初は個人によって立ち上げられたものですが、紆余曲折ありつつ拡大を続け、開設から20年近くの年月を経た2025年現在、なんと収蔵80万冊を超える巨大書庫へと成長しました。楽譜データの質はさまざまなので、「生徒がレッスンにIMSLPのPDF楽譜を持ってきた! 嘆かわしい! ちゃんとした最新の校訂譜を買ってくれ!」……といった調子で揶揄されることもありますが、とはいえ、クラシックの譜面を参照したい人にとって、今やなくてはならない宝物であることは間違いありません。
IMSLP に登録された作曲家の人数は……
このサイトでは、作曲家別に作品を検索することが可能です。ためしに「作曲家」カテゴリを覗いてみましょう。作曲家として登録された人が何人いるか見ることができます。大まかにで良いので、当ててみてほしいのです。ここに登録されている人名は、いったい何件でしょうか?
せっかくなので少し空けますね。
いいですか? 答えは……
2025年4月現在28710件だそうです。驚くべき数字だと思いませんか?
いやいや、時代を区切らないで調べてるから、自作をクリエイティブ・コモンズ・ライセンスにして無料で公開したがる最近のアマチュア作曲家なんかがたくさんいたりして、数が爆発してしまっただけでは……?
ということで、ためしに「ロマン派時代」(IMSLPの定義としては1815-1910年だそうです)の作曲家に限定して、手作業で件数を数えてみました。結果、12523人の名前が登録されていました。時代を区切ってこれですから、少なくとも5桁オーダーの作曲家がいたという規模感についてはそれなりに正しいと判断できそうです。

クラシック音楽は上澄みの1%だから質が高い
この数字をもとに想像してみると、クラシックの作曲家や作品に対する印象がだいぶ変わるのではないでしょうか? 名前を聞いたことのある著名な作曲家たちが、狭い交友範囲の中で濃密に影響を与え合いながら紡いできたのがクラシック音楽の歴史……そんな想像をしてきた方は多いと思います。しかし、実際は違います。現代社会とは比較にならないとしても、作曲を志す人は当時も山のようにいて、玉石混淆の大量の作品が書かれ、そのほとんどが今や顧みられることもなく埋もれているのです。
西洋文明の席巻とともに、音楽を考えるに際しても西洋の理論がグローバルスタンダード化しました。そのため、うっかり「裏にある理論や思想が優越性を持っているからこそ、クラシック音楽は芸術的価値が高いのだ」といった思考に陥ってしまいがちです。確かに、強力で取り回しの良い12平均律というシステムの発明や、物語性をそなえつつ、知性と情緒のバランスを取ることに長けたソナタ形式という構造の定着などが、西洋における音楽作品の高度化と大規模化を後押ししたことは事実です。しかし、そのこととジャンル全体の質には実のところほとんど関係がない。単に、既に玉石の玉だけが選り分けられた状況だから、目利きでなくとも簡単に質の良いものを取り揃えることが可能である、という言ってみれば身も蓋もない話が、クラシック業界の自負を支える屋台骨となっているのです。
作品と演奏の分離
良い曲だけを弾きたいし、弾ける
かくして、いつの間にか「再現芸術」と規定されてしまったクラシック音楽は、伝統の継承と再解釈を至上命題とするジャンルとなりました。これは、演奏家にとって幸福なことではあります。何しろ、取り組むべき名作たちが目前に列をなして待っている環境で、愚作に無駄な時間を費やす心配など一切なしに、喜びと使命感に身を捧げることができるのですから。
作品の質にこだわる土壌は、確かに中身を伴った豊かな実りを生んでいます。しかし、時代による淘汰を経た作品の方が平均して質が高くなるという至極当然の原理が働くことで、古い作品に優先的に取り組む流れが強化されていき、同時代の作品に目を向けたり、演奏家自身が自作を発表したり、といった機会が失われていくこともまた確かなのです。
クラシック音楽の世界は名作による暴力沙汰みたいなところがあります。「これら数多の奇跡的な作品の解釈と表現に一生を捧げても構わない」と心底思える環境がすっかりできあがっているのです。しかしその環境が、健全ではない歪みも生んでしまった。作曲家と演奏家の極端な分離です。これこそが、いまジャンルに生じているすべての問題の根底にあって、新たな芽吹きを阻害しているのだと言っても過言ではありません。
神格化
原典への崇敬の念が構造として前提にされるようになると何が起こるでしょうか。実際に素晴らしい作品がいくらでもあるので、自然な敬意は湧いて当然でもあり、いかんともしがたいところはあります。しかし、「天才的個人である作曲家」の残した「圧倒的な芸術」としての作品がそびえ立っており、演奏家は生涯をかけてその高みへ登ろうとすべきものである、という筋書きが当然のごとくまかり通るとなれば、これはどうも様子がおかしくなってきます。
所詮はいち個人の思考の産物にすぎないはずの作品が、万人にとっての聖典として扱われることにより、作品としての純粋性は毀損されます。
たとえば、シューベルトの最後の3つのソナタについて、あれらが奇跡のようなものであり、何らかの人類的な真実に到達してしまった特別な音楽である、と思っている人はたくさんいるはずです。(特にクラシックを弾くピアニストであれば、そのように感じたことのない人の方が稀なのではないでしょうか?)
そうした特別な作品に触れたときの感動は、本来ひじょうに個人的な感覚であるはずです。しかし、作品を通した、時代をも超越する奇跡的なコミュニケーションの発露であったはずの驚きと喜びは、いつしか聖典とその教義解釈という型にはまった営みの中へ回収されていくことになります。あの演奏は聖典を正しく解釈していた、あの演奏は教義を理解していなかった、といった正誤の文脈で捉えられる類のものへと変質してしまうのです。聖典と化した楽曲は単純に「擦られすぎ」なのであり、そこにもともとあった驚きの感覚はすり減っています。
ファッション化
同時に、まったく逆ベクトルと言っても良い現象も進行します。それは楽曲が、あらゆる演奏家にとってのいち表現手段へと堕していく現象です。演奏家は既製の譜面からシーズンごとにプログラムの演目を選びます。その選択は本人にとっては重要であり、人生の時間を費やして作品に取り組む覚悟を決めなければできない決断です。
しかし、演奏家のファンの立場から考えてみると、最も重要なのは、その演奏家が演奏するという事実なのであって、選択される曲目はなんでも嬉しいわけです。とっかえひっかえ色々と聴かせてもらえる方が楽しみが増えて良い。
他人の手になる既製品を次々選んで組み合わせることで自己表現する、というのは要するにファッションです。聖典であったはずの楽曲がここでは取り替え可能な装いとなり、「生涯をかけて取り組む」という姿勢さえも、ひとつのありがちなデザイン要素であるかのように消費されていきます。
高齢化と縮小再生産
また、天才の作品に生涯をかけて挑戦する、という形があるべき姿とされてしまうことで、より人生経験の豊富な「巨匠」たちこそ聖典の解釈者として価値が高い存在だとみなされがちです。わたし自身の聴取の好みはまさにこの傾向にあり、一概に悪いこととは決して言いたくない、むしろクラシックの美点のひとつであるとも思っているくらいなのですが、しかし、それにも限度があります。
たとえば先ほど例に挙げたシューベルトの最後の3つのソナタなど、弱冠30歳そこそこの作曲家が書いた音楽です。いかに深遠な作品だとしても、それらがまるで老巨匠のための作品であるかのようにして若者の手から奪われていくのは、異常な状況と言わざるを得ません。奪われる、というのは語弊があるでしょうか。もちろん若手が演奏するのは自由ですし、実際私も30代のうちに好きすぎて3曲ともプログラムに載せたことがあります。しかし、聴き手の立場ではどうなのか客観的に考えてみると、それは心から嬉しい選曲というよりは、ファッションの一種として受け取る方が自然だったのではないかとも思うのです。あるいは、老巨匠たちの未熟なフォロワーの一例として。
既に伝説的名演やらが溢れている世の中で、若手が同じ曲を取り上げることには非常な難しさがあります。より原典の作曲年代に近い巨匠の演奏は――特に「作曲者本人の直系の弟子筋」などといったいわれまで持っている人の演奏だったりすれば――教義解釈の正統を望む聴衆にとってのありがたみが違います。追随者たる若手は、「正統からは離れるけれども」というエクスキューズ付きで「あの部分は良かった」「この部分は新しかった」といった評価をされるのが関の山ということになりかねません。
分離状態の解消のために
では具体的にどうすれば改善が望めるのか? この状況を変えるために、わたしは3つの変革が必要であると考えます。ひとつには、演奏曲目中の聖典化した楽曲の比率の縮小。これは、当然ながら世代ごとに同時代性を持った作品の演奏機会を増やす、ということと表裏一体です。ふたつめに、前段を実現するための具体策として必要になってくるのが、時代を象徴していたり、後世に残るようなエンターテインメント作品音楽の高品質な譜面化です。なぜ、いわゆる現代音楽たる純音楽ではなくこの方法を推しているのか、については説明が必要でしょう。そして最後に、ある意味で最重要なのが、批評文化の再構築だと考えています。
さて、そろそろ飯尾さんからの質問に対する答えに近づいてきました。クラシック音楽、という概念をアップデートするためにもう少しお付き合いいただけると嬉しいです。(次回に続く)
