作家の命と残された世界:東野圭吾の訃報に接して思ったこと
On Keigo Higashino’s Passing: A Reflection on Writers, Their Works, and What Remains
東野圭吾と私
朝、NHKのニュースサイトで東野圭吾の訃報を知った。
ファンである姉と姪たちの影響で、東野圭吾の作品を3、4冊は読んでいた。
面白いものもあった。ミステリーが多く、筋を追ううちに登場人物に共感できたり、不信感を持ったり、ほっこりしたり、泣けたりする。手練れの小説家にはそういう力があるのだろうが、思うままに感情をコントロールされている自分を感じて居心地が悪く、それ以上読もうとは思わなかった。
だけど、亡くなったとなると話は別だ。彼の作品への自分の感想なんて小さなこと。現代の日本で68歳で亡くなった、心から惜しいと思う。
東野圭吾を思う
東野圭吾はどんな人だったのだろうと想像してみるが、インタビューを読んだことも、故人の言葉を聞いたこともない。
とにかくたくさん書いた人だった。そして、何十年も一定の人気を保っていたということは、人々の「物語を聞きたい」という欲求に応えていたわけだ。
そして、努力しないと、小説を書くことはできないはずだ。筋を考え、粘土のように人物像を捏ねて作る。知らないけど、たぶん。各人物に生い立ちや性格や好悪や職業や人間関係を作ってやり、背景や舞台装置を作って、自由に動けるようにしてやる。これを百冊分以上もやってきた。
私は働き者を尊敬する。
中村紘子の時
同様に働き盛りで命を失った人のことを思い出した。
何年か前、中村紘子がやはり癌で、72歳で亡くなった。誤解を恐れずにいえば、ピアニストは、長生きすると思われている。いわんや生命力に満ち溢れた彼女をや。
まだ死を身近に感じる年齢ではなかったが、ピアノを習っていた私には大きなニュースだった。
当時私は、長寿だけは天は彼女に与えなかったんだな、なんて冷たく考えた。
美人で、ピアニストで、裕福な育ちで、有名人の友達がたくさんいて、素敵な夫もいて、文才もあって、料理もできて、しかも気が強いことを恬として恥じない。華やかに見える生き方に、嫉妬があったのだろう。
でも今は、もっと広い気持ちで人の「命」「生きている間」のことを考えるようになっている。
中村紘子だって、人一倍頑張り屋だったからこそ、立派な演奏も何もできるようになったわけだし、それを長年維持することもできたのだ。
誰だって、自分の与えられた場所で頑張るとして、彼女はそれをやり切っただけだ。
作家の言葉
さて、東野圭吾はまだ68歳だった。その創造力は、まだまだ30年ももったかもしれない。年がいっても、書くこと、話すことで、人々と関わり続ける作家は、たくさんいる。
五木寛之だの瀬戸内寂聴だの、生涯にわたって考えては書いてきた人の言葉には、考えさせられるものがある。深くうなずくこともあれば、あまりこだわらなくてもいいんじゃないかと思う話題もある。だけど、かれらが発する言葉には重みがある。
東野圭吾にもそんなふうに歳をとって、言葉を聞かせてほしかった。
残された側が失うもの
ところで、亡くなった人はもう感覚のない世界にいるから、お気の毒にという気持ちはない。キリスト教徒なら、「彼はもう光に満ちあふれたえ世界へ渡ったのだから、私たちは彼のために喜ぶべき」ということになる。
そして、残された私たちが、その不在の重みを全身で引き受ける。もし知っている人なら、その人の言葉、笑顔、眼差し、その人が占める体積。たとえ物理的にそばにいなくても、生きていると知っているだけで感じられる体温の感覚、それらを一度に失う。心の空を覆うのは、痛いような肌寂しさだ。
東野圭吾のように、個人的にではないけれど、公に発表された作品や活動を通じて知っている人については、残された世界にとっての「potential loss」を嘆きたい。
Potential loss(あったかもしれないことの喪失)って、いま私が作った言葉だが、こんなつもりだ。東野圭吾が生きていれば、新たな作品をいくつも世に送って、私たちの世界をさらに豊かにしてくれたかもしれない、してくれたであろう、その機会が永遠に失われたこと。それを惜しむ。
ベートーヴェンが、第九交響曲を書き上げた後、あと1曲ぐらい交響曲を書いて、小品を書いて、それでのんびり引退したいな、と手紙に書いていた、と伝記で読んだことがある。その第十交響曲を私たちは永遠に失った。それが私のpotential lossの良い例だろう。
同時に、もういいんですよ。たくさん頑張ってくださいました。この世をより美しい、よりよいものにしてくれました。どうぞ安らかにお休みください、とも言いたい。
残していく世界に
東野圭吾についても、これまでたくさんの作品を世に送り出して、人の心を満たしてくれたことをねぎらい、感謝したい。
でも、考えてみれば、これは東野圭吾のような大きな仕事をした人だけの話ではない。誰の死も、それぞれのpotential lossを生む。
そして、例えば自分が去る時には、残して「いく」世界ということになるが、「野鳥(私です)が生きてたら、こんなことを思ったかもしれない」などと、小さいことであっても、誰かがpotential lossを感じるような生き方をしたい、かな。それが、誰かが何かを始めるときのきっかけにならないとも限らない。
最後に。
生命の有限を考えると、ついある意味で終わりなく存在できるAIを対比してみてしまう。
AIに比べたら、人間ができることはほんの一握り。だけど、AIにできないこともある。自分の生き方を踏まえて、世界をどう受け止めるかを考える、とか。重いけれど、生きている今だけできることだ。
100年にもならない一瞬の光芒。それこそが、生命の祝祭なんだろうね。
