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note時間論 | noteには「時間」がある




note時間論 | noteには「時間」がある。


私はnoteには、あまり時事問題については書かない。だから、基本的には今日書いた記事であっても、今日読んでもらう必要はない。

けれども不思議なもので、noteでは、その日その時に、一気呵成に書いた記事のほうが、下書きに入れて何度も推敲した記事よりも読まれやすい。おそらく、誰でもそういう経験があるのではないだろうか?

長い時間をかけて、何度も推敲するのは骨の折れることだから、投稿したあとにあまり読まれないと、なんとなく報われない気持ちにもなる。

内容的には古くなっていないはずなのに、時間をかけて書いたものほど読まれないというのは何故だろう?

私が思うに、推敲を重ねた文章のほうが洗練されているはずだが、たぶん鮮度が落ちるのだと思っている。

記事の鮮度とは、換言すれば、熱量と言ってもいい。一気呵成に書いた記事は洗練されていないぶん、熱量がある。尖った表現があるかもしれない。論理的におかしなところがあるかもしれない。けれども、熱い気持ちがそこにはある。だから、読む人はその熱量に引き寄せられるのだろう。


もちろん、熱量があっても、すぐには読まれない記事もある。たとえば、私の記事で言えば数学の記事。

数式が間違っていないか、説明がおかしくないか、分かりにくくないか、といろいろ考えるから、一気呵成に書いても時間がかかる。それに読む人は普通の記事に比べて限られている。しかしながら、やはり熱量を持って書いた記事は、次第に読まれる。

5年前にnoteを書き始めてから今までに書きた記事は、8500以上あるが、アクセス状況を見ると、私の読まれた記事トップ20の中で、数学の記事は過半数を越える。スキの数は100前後かそれ以下だが、おそらく「note外」の人たちが多く読んでくれたのだと思う。


ところで、あなたは自分の過去記事を再読することはあるだろうか?

1年目には去年の記事というものはないが、5年noteを毎日書いていると、たとえば「8月4日」に書いた記事は必ず4個以上ある。私は多投稿だから、場合によっては同じ「日にち」の記事が20くらいあるものもある。

ネタが思い付かないな、と思う時には、今日と同じ日付の過去記事をいくつか読んでみることがある。「あぁ、こんなこと書いていたんだ!」「あまり変わっていないな」と思うこともあるが、今だったらそういう風には書けないな、と思うこともある。だが、noteには「過去の自分」が残っている。

もしかしたら、もう他の誰にも読まれないかもしれない。けれども、「今の自分」が「過去の自分」を読むことはある。noteに書かれた記事は、他人も読むけれども、たとえ他人に読まれなくても、私自身の「文章の歴史」として私自身が読むことがある。


自分自身の過去記事を読むとき、コメント欄の言葉を読むこともある。その記事を読むと、コメント欄の、そのときにもらった言葉とそれに対する自分の返事も読んだりする。

卒業されて、アカウントがなくなって、私の返事しか残っていないことも多いが、不思議と消えてしまったコメントになんと書いてあったのか思い出せるものだ。「ここにコメントを書いてくれたあの人は今どうしているのだろう?」なんて思うこともある。


5年前、最初の記事を書いたとき、その記事が5年後にも残っているなんて考えていなかった。 そして今日書いたこの記事も、5年後には「5年前の記事」になっている。そのとき、私はこの記事を読み返すだろうか?
そのとき、この記事を読んでくれる人はいるだろうか?

それは、今の私にはわからない。ただ、今日という日に書いた文章は、今日という日の私にしか書けない。

noteには、記事を書く「今」があり、記事が残る「過去」がある。 そして、いつか誰かが読むかもしれない「未来」もある。そう考えると、noteには「時間」があるのかもしれない。

5年後の8月4日、私はどんな記事を書いているのだろう?
5年後の私は、この記事を読んで、何を思うのだろうか?

         (*2026/08/04 記す)



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山根あきら | 哲学者 記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします