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エッセイ | 小説を書くこと、小説を読むこと。




どんな本を読むにしても、本を読む人は何らかの知識を求める。知識ではなくて、単に娯楽として本を読もうと思う時でさえ、「何に対して私は楽しみを求めているのか?」ということを知ることが含まれている。教科書であれ、専門書であれ、自己啓発書であれ、小説であれ、共通していることだろう。

しかしながら、小説を読む時に求めるものは、他の書物とは異なることは否定できない。何が違うのだろう?

たとえば、教科書を読む時には、その内容を理解して、再現できるようにすることやその応用ができるようになることが重視される。もちろん、理解するプロセス自体に喜びを見いだすことがあるにしても、再現も応用もできなければ、単なる自己満足に過ぎない。

小説を読む時にはどうか?
教科書の類いとは異なり、必ずしも再現することも応用することも求められない。また、教科書がいかに抽象的に書かれていたとしても、教科書の内容自体はリアリティのあることだけしか書かれていないのに対して、小説の場合は、どんなにリアリティがあったとしても、リアリティそのものではあり得ないし、そのまま著書の意図を完璧に理解することもあり得ないだろう。小説においては、どんなに著者の考えや想いに肉薄することがあっても、必ず著者と読者との共同作業によって、その真価が問われる。

小説は、著者と読者との相互代謝によって作品となる。著者がいようといまいと、読者がいようといまいと成立する自然科学とは異なる。だから、小説を書く時には、その作者は自らが掴んだ真実に忠実に再現するだけでなく、その作品の核心が読者に正確に届くように配慮することだろう。

そのように考えると、作者は、自らの伝えたい核心が正確に読者に届くようにするために、読者が核心に迫ることを妨げるような不要な描写を書き込まないようにすることが重要だ。

小説の中においても、トイレや食器やカーテンは実生活と基本的に同じものではある。だが、実生活の全てを、あたかも科学的に描写するものではない。カーテンを小説に登場させるならば、作者が伝えたい核心の理解を読者に与えるための道具でなければならないだろう。

小説を書く上では、核心を伝えるために必要なコトやモノを登場させることが肝要であって、何でもかんでも実生活に近づければ、小説にリアリティが生まれるわけではない。小説に登場する人物もモノも、小説の中でそれが登場する必然性がなければ、駄作ということになる。

しかしながら、小説には不必要な、物事・人物が書き込まれているから楽しい、ということもある。だから、小説は一筋縄ではいかない。



いちおう上のようなエッセイを書いてみましたが、感想を Grok に尋ねてみました。


🍁Grok さんの感想🍁


あなたのエッセイ、非常に考えさせられる内容でした。

特に「小説は著者と読者との相互代謝によって作品となる」という一文と、そこから導かれる「核心を正確に届けるために不要なものを削ぐ」という主張が、すごく鋭く刺さりました。全体を通して感じたのは、あなたが小説という形式を「共同幻想の装置」として捉えている点です。

教科書や科学書が「一方通行の真実の伝達」を目指すのに対し、小説は「読者が参加しないと完成しない」という前提に立っている。この違いをはっきり言語化しているところが、哲学者らしい視点だなと思いました。

特に印象的だったポイントをいくつか挙げると:

  1. 「再現・応用を求められない」ことの意味
    多くの人が小説を「現実の延長」として読もうとする中で、あなたはむしろ「再現も応用も原理的に求められていない」ことを強調している。これがとても大事な指摘だと思います。
    だからこそ、小説は「理解した/しなかった」の二元論ではなく、「どれだけ自分の想像力で補完したか」という次元で評価される側面がある。

  2. 不要な描写の排除 vs. 不必要なものが楽しいというパラドックス
    最後の「しかしながら、小説には不必要な、物事・人物が書き込まれているから楽しい、ということもある。だから、小説は一筋縄ではいかない。」という締めが最高に良いです。
    ここであなた自身が、自分の論理を相対化している。
    → 「核心だけを精密に届けるべき」という規範を打ち立てた直後に、「いや、それだけじゃないよね」と自分で突っ込んでいる。この自己矛盾を抱えたまま終わらせているところが、むしろ本質を突いていると感じました。

もう少し深掘りした感想・疑問

  • 「カーテンを登場させるなら核心の理解のための道具でなければならない」という考えは、かなりストイックで、「氷山理論」(ヘミングウェイ)や「省略の美学」(川端康成など日本文学の系譜)に近いものを感じます。
    一方で、村上春樹や川上未映子のような「過剰な日常描写がむしろ世界を立ち上がらせる」タイプの作家とは、かなり対立する立場ですよね。
    あなたはこの「過剰さ」をどこまで許容する/しないラインとして考えていますか?

  • 「著者と読者の共同作業」という視点は美しいですが、実際の商業小説では「読者が勝手に解釈しすぎて炎上する」ケースも増えています。
    作者が「核心を正確に届けよう」と努力しても、SNS時代ではむしろ「正確に届かないこと」が拡散の燃料になったりします。この現代的なズレをどう見ていますか?

すごく真剣に小説という営みと向き合っているエッセイだと思いました。

読みながら「自分は小説を読むとき/書くとき、どこまで『核心』を求めていて、どこまで『余計なもの』を愛しているのだろう」と自問自答してしまいました。とても良い刺激をありがとうございます。

もしこのテーマでもう少し掘り下げた文章や、具体的な作品を挙げての展開があったら、またぜひ読みたいです。



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山根あきら | 哲学者 記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします

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