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星空の恋の方程式


読み切りの短編小説です。
およそ24,000字です。

#創作大賞2025
#お仕事小説部門


あらすじ

 高校生・伏見健太は、数学教師である上野先生に、毎日、嫌味を言われる日々を送っていた。その反動から、伏見は上野先生の授業を一切聞かず、独自の勉強法で数学を習得していく。上野先生からの嫌がらせはさらにエスカレートしていった。しかし、伏見は持ち前の数学の才能と、同級生の佐藤有紀、そして理解ある山田先生の支えを得て、上野先生の陰湿な攻撃を乗り越えていく。
 上野先生と伏見との確執が深まっていく中で、彼らが最後にたどり着く場所は?
 恋心と数式がからみあう物語が今、幕をあける。


第1話


「おい、お前、今日も学校に来るの、嫌だっただろう?」

 朝礼後、教室で自習の準備をしていると、背後からねっとりとした声が聞こえた。振り向かずともわかる。担任であり数学教師である上野先生だ。その声には、いつも薄ら笑いが含まれていて、それが俺の神経を逆撫でする。教室にいる他の生徒は気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、誰も反応しない。

「聞こえてるのか? 毎日毎日、そんな顔して学校に来るくらいなら、いっそ辞めてしまえって言ってるんだ」

 俺は何も言わない。返事をすれば、また何か言われるだけだ。上野先生の標的になったのは、二学期に入ってすぐのことだった。きっかけは些細なことだ。数学の小テストで、俺だけ満点を取った。その時、上野先生は俺の答案用紙をひったくるように取り上げ、「どうせカンニングしたんだろう」と吐き捨てた。もちろん、俺はカンニングなどしていない。それでも先生は俺を信じず、それからというもの、毎日のように俺に嫌味を言うようになった。

 上野先生の授業は、俺にとって苦痛以外の何物でもなかった。先生の声を聞いているだけで気分が悪くなる。だから、俺は上野先生の授業を一切聞かないことにした。教科書は開くものの、視線はいつも窓の外。グラウンドで体育の授業を受けている生徒たちの声や、校庭の桜の木から聞こえる鳥のさえずりに耳を傾ける。

 しかし、数学の勉強をしないわけではなかった。上野先生の授業を聞かない代わりに、俺は独自の勉強法を見つけた。授業中、先生が黒板に書く数式や図形をノートに写す。そして、家に帰ってから、そのノートを元に自分で問題を解くのだ。教科書や参考書も活用した。特に、難しい問題にぶつかったときは、インターネットで解説を探したり、時には隣のクラスの数学が得意な友達に聞いたりもした。

 最初は苦労した。授業を聞いていないのだから、当然、先生の説明も理解していない。それでも、自分で試行錯誤を繰り返すうちに、少しずつだが、問題が解けるようになっていった。上野先生が憎い、その一心で、俺は数学にのめり込んだ。

「おい、伏見! また窓の外をぼーっと見てるのか! 少しは授業を聞け!」

 授業中、上野先生の怒鳴り声が飛んできた。俺はゆっくりと顔を上げ、先生の方を見た。先生は真っ赤な顔をして俺を睨んでいる。俺は何も言わず、また窓の外に視線を戻した。先生はさらに怒鳴ろうとしたが、他の生徒の視線を感じたのか、それ以上は何も言わなかった。

 そんな日々が続き、期末テストが近づいてきた。クラスメイトたちは皆、期末テストに向けて必死に勉強している。俺も、いつも以上に数学の勉強に時間を費やした。上野先生を見返してやりたい。その気持ちが、俺の原動力だった。

 期末テスト当日。数学の試験用紙が配られた。表紙をめくり、問題を見た瞬間、俺は確信した。

「これなら、いける」

 上野先生が授業で説明したはずの問題は、一つとしてわからなかった。しかし、俺が自分で勉強した問題ばかりだった。一つ、また一つと、問題を解き進める。鉛筆を走らせる音が、教室に響く。解答用紙を埋めていくたびに、俺の心は高揚していった。

 試験終了のチャイムが鳴り、解答用紙を提出した。教室を出る時、上野先生と目が合った。先生は俺を訝しげな表情で見つめていたが、俺は何も言わず、そのまま教室を後にした。

 数日後、期末テストの結果が発表された。クラスの掲示板に貼り出された成績一覧を見て、俺は自分の目を疑った。数学の点数は100点。クラスで、いや、学年でただ一人、満点だった。

 俺は掲示板の前で、しばらく呆然と立ち尽くした。まさか、本当に満点を取れるとは。上野先生の授業を一切聞かずに、独学で満点を取ったのだ。

 その日の放課後、俺は職員室に呼び出された。もちろん、上野先生からだ。

「伏見、お前、どういうことだ」

 上野先生は、俺の解答用紙を机に叩きつけながら言った。

「どういうこと、とは?」
 俺はとぼけたふりをして答えた。

「とぼけるな! お前がこの点数を取れるわけがないだろう! どうせ、またカンニングでもしたんだろう!」

 上野先生は、怒りで顔を真っ赤にしていた。しかし、今回は反論する材料があった。

「先生、僕はカンニングなんてしていません。僕は、自分で勉強しただけです」
「自分で勉強した? 嘘をつくな! お前はいつも授業中、窓の外ばかり見て、私の話など何も聞いていなかったではないか!」

「はい、全く聞いていませんでした。先生の授業は、僕には全く必要ありませんでしたから」

 俺は、生まれて初めて上野先生に反論した。先生は言葉を失い、俺を睨みつけた。その表情には、怒りだけでなく、困惑の色も浮かんでいた。

「僕は、先生に毎日『学校に来るのが嫌だろう』と言われるのが嫌で、先生を見返してやりたかったんです。だから、先生の授業を聞かずに、自分で勉強しました。そして、満点を取ることができました。先生、僕は、先生がいなくても、数学は得意なんです」

 俺は、今まで心の中に溜め込んでいた思いを、一気にぶちまけた。上野先生は、何も言わずに俺をじっと見つめていた。その顔は、怒りから呆れ、そして、ほんの少しの悔しさに変わっていったように見えた。

 職員室を出て、俺は空を見上げた。青い空には、白い雲がゆっくりと流れている。

 上野先生に嫌われ、毎日嫌味を言われる日々は、正直、辛かった。しかし、そのおかげで、俺は数学の面白さに気づき、そして、数学が得意になった。これで、俺は上野先生に一矢報いることができた。


第2話


 教室の喧騒が落ち着く放課後、俺はいつものように図書室の隅に陣取っていた。期末テストの結果が出てから数日、上野先生の嫌味は少しだけ減った気がするが、相変わらず授業中の視線は鋭い。それでも、俺はもう気にならなかった。あの満点が、俺に自信を与えてくれたからだ。

 図書室の窓際、陽の光が差し込む席で、俺は数学の参考書を広げていた。といっても、今回は期末テストの復習ではなく、次の単元を先取りしている。自分で勉強する楽しさが、最近やみつきになっていた。ページをめくる音だけが静かな空間に響く中、ふと、軽い足音が近づいてきた。

「ねえ、伏見君、こんなとこで何してるの?」

 その声に、俺は思わず手を止めた。顔を上げると、そこには有紀が立っていた。彼女は隣のクラスの生徒で、俺がひそかに心を寄せる女の子だ。明るい笑顔と、誰にでも分け隔てなく接する性格。彼女が話しかけてくるたびに、俺の心臓は少し速く打つ。

「や、ただ…数学の勉強、かな」
 俺は少し照れながら答えた。彼女は俺の隣にふわりと座り、参考書を覗き込んだ。

「へえ、伏見君ってほんと数学好きなんだね。期末テスト、満点だったって聞いたよ! すごいじゃん!」

 有紀の目はキラキラと輝いていて、俺は思わず目を逸らした。褒められるのは嬉しいけど、彼女の笑顔をまともに見ると、頭が真っ白になりそうだった。

「いや、まあ…たまたまだよ」
 俺は誤魔化すように言ったが、有紀は首を振った。

「そんなわけないよ! だって、伏見君、いつも授業中に窓の外見てても、ちゃんと結果出してるもん。どうやって勉強してるの? 教えてよ!」

 その言葉に、俺は少し驚いた。彼女が俺のことをそんな風に観察していたなんて、想像もしていなかった。少し迷ったが、俺は自分の勉強法を話し始めた。授業を聞かず、ノートに写した数式を家で解き直すこと。参考書やネットを活用して、試行錯誤しながら理解を深めること。話しているうちに、俺は自分でも気づかないうちに熱が入っていた。

 有紀は真剣に聞きながら、時折「なるほど!」と小さく頷いた。彼女のそんな姿を見ていると、なぜか胸の奥が温かくなる。

「でさ、もしわからなかったら、俺、聞かれてもいいよ。数学、得意だから」
 俺は思い切ってそう言ってみた。自分でも驚くほど大胆な発言だった。

「ほんと? やった! 実は私、数学ちょっと苦手で…次の小テスト、ちょっと不安なんだよね。伏見君、ほんとに教えてくれる?」
 有紀の声は弾んでいて、俺は思わず頷いていた。

「もちろん。いつでもいいよ」
 俺はそう答えた瞬間、彼女の笑顔がさらに明るくなった気がした。

 その日から、俺と有紀は放課後に図書室で一緒に勉強するようになった。といっても、最初は俺が一方的に問題を解説するだけだった。有紀は真剣にノートを取りながら、時折「わ、わかった!」と目を輝かせる。そのたびに、俺は少し誇らしい気持ちになった。彼女が理解できた瞬間を見るのが、俺にとって新しい喜びだった。

 ある日、勉強の合間に有紀がふと言った。

「ねえ、伏見君って、上野先生のこと、嫌いだよね?」

 俺は一瞬言葉に詰まった。彼女がそんなことを言い出すとは思わなかったからだ。

「…まあ、嫌いってほどじゃないけど、合わないかな」
 俺は適当に誤魔化した。だが、有紀は真剣な目で俺を見た。

「わかるよ。私も、上野先生の授業、なんか苦手。上から目線でさ、嫌味っぽいよね。でも、伏見君があんな点数取ったって聞いて、なんかスカッとしたんだから!」

 その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。有紀もつられて笑い、図書室に小さなくすくす笑いが響いた。彼女とこうやって話していると、上野先生の嫌味も、どこか遠い出来事のように感じられた。

 数日後、小テストの日がやってきた。俺はいつも通り、試験中に問題を解き進めながら、ふと有紀のことを考えていた。彼女は隣の教室で、同じテストを受けている。放課後の勉強で、彼女が「伏見君のおかげで、ちょっと自信ついたよ」と言っていたのを思い出す。俺は、彼女がいい点を取れることを心から願った。

 テストが終わり、教室を出ると、廊下で有紀が待っていた。

「伏見君! やった! 今回のテスト、たぶんいけたよ!」
 彼女は満面の笑みで俺に駆け寄ってきた。俺も思わず笑顔になり、「よかったじゃん!」と言いながら、彼女と軽くハイタッチした。

 その瞬間、俺は気づいた。上野先生を見返すために始めた数学だったけど、今はそれだけじゃない。有紀と一緒に勉強すること、彼女の笑顔を見ること。それが、俺の新しい原動力になっていた。

 放課後の図書室に向かう途中、俺は空を見上げた。夕焼けに染まる空は、どこか優しく、俺の心を軽くしてくれた。


第3話


 放課後の職員室は、妙な静けさに包まれていた。聞こえるのは、自分のキーボードを叩く音と、時折響く他の教師の咳払いだけ。俺はパソコンの画面に表示された成績一覧を睨みつけていた。

 伏見 健太。こいつの点数を見るたびに、俺の心臓は締め付けられるような不快感に襲われる。
 期末テスト、数学100点。ありえない。絶対に何か裏がある。授業中はいつも窓の外をぼーっと眺め、俺が声をかけても生返事ばかり。あんな態度の悪い生徒が、まともに勉強しているはずがない。カンニング以外の何物でもないだろう。そうに違いない。

 だが、証拠がない。どこをどう見ても、こいつの解答用紙に不審な点はない。完璧な解答。それが余計に俺を苛立たせる。あの生意気な目つき。俺への反抗心。すべてが気に入らない。

「上野先生、お疲れ様です」

 突然、柔らかい声が聞こえ、俺は顔を上げた。そこに立っていたのは、佐藤有紀だった。成績も良く、真面目で、何より愛嬌がある。男子生徒とは違い、俺の言うことを素直に聞き、授業中も常に前向きな姿勢を見せる。こういう生徒には、自然と声が優しくなる。

「おお、佐藤さんか。どうした?」
「あの、先日の小テストのことなんですけど、採点、まだですか?」

 有紀は申し訳なさそうに眉を下げていた。そういえば、来週には返却すると言っていたな。

「ああ、すまないな。今、ちょうどやっているところだ。佐藤さんは頑張ってくれたから、きっと良い点数を取っているはずだぞ」

 俺はわざとらしく笑顔を見せた。実際、彼女の答案はほとんど採点し終えていた。字も丁寧で、計算ミスも少ない。教えがいのある生徒だ。

「ありがとうございます! 実は、今回はちょっと自信があるんです!」

 有紀は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、まるで俺が彼女の成績向上に貢献した満足感を起こさせる。俺は満足げに頷き、再びパソコンの画面に目を落とした。

 その時、画面の端に、伏見健太の小テストの点数が表示されているのが目に入った。またしても満点。チッと舌打ちしそうになったが、有紀の前だ、必死に抑える。

「しかし、佐藤さんは本当に真面目だな。授業態度も素晴らしいし、見習ってほしい生徒がたくさんいるよ」

 俺は伏見を暗に皮肉るように言ったが、有紀は何も気づいていない様子で、ただ微笑んでいる。

「いえ、そんなことないです。でも、今回は伏見君に教えてもらって、すごく助かったんです!」

 伏見? 有紀の口から、まさかあいつの名前が出るとは。俺は思わず顔をしかめた。

「伏見に? あいつがまともに教えることなどできるのか? きっと、また適当なことを吹き込んだだけだろう」

 俺の言葉に、有紀は少し驚いた表情を見せた。

「そんなことないです! 伏見君、すごく丁寧に教えてくれるし、何より、すごくわかりやすいんです。私も、伏見君のおかげで、数学が少し得意になった気がします!」

 有紀は目を輝かせながらそう言った。俺は言葉を失った。伏見健太が、佐藤有紀に? なぜ、よりにもよってあいつなんだ。あんな、俺の言うことなど聞く耳持たないような、反抗的な男が。

「な、何を言っているんだ。佐藤さん、君はもっと良い先生、いや、私に聞けばよかっただろう。あんな奴に教わっても、時間の無駄だ」

 俺の声は、自分でもわかるほどに苛立っていた。有紀は、俺の態度に怯えたように視線を伏せた。

「すみません…」
「いや、いいんだ。ただ、君はもっと、きちんと学ぶべき相手を選ぶべきだ。私の授業を真面目に聞いていれば、伏見など頼る必要はなかったはずだ」

 俺は早口で捲し立てた。有紀は何も言わず、ただうつむいている。
「とにかく、今回の小テストの採点は、今からすぐにやる。君の頑張りには、きちんと報いるからな」

 そう言って、俺は無理やり笑顔を作った。有紀は「ありがとうございます」と小さく言って、職員室を出て行った。
有紀の後ろ姿を見送り、俺は再びパソコンの画面と、伏見健太の点数に目を落とした。

 満点。またしても満点。俺のプライドが、音を立てて崩れていくような感覚に襲われた。俺は、教師として、何をしているんだ? 俺の授業を聞かない生徒が、なぜこんなに高得点を取るんだ? そして、なぜ、あの佐藤有紀までが、あいつを頼るんだ?

 ふと、教室の窓から見える夕焼けが目に飛び込んできた。茜色に染まる空は、どこか俺の焦燥感を煽るようだった。

「クソッ!」

 俺は、誰もいない職員室で、小さく呟いた。伏見健太。あいつは、俺の教師としての権威を、根底から揺るがしている。


第4話


 放課後の自習室は、いつものように静かだった。窓の外では秋の風が木の葉を揺らし、かすかなざわめきが聞こえる。俺と有紀は、いつものように机を並べて数学の参考書を広げていた。問題集のページをめくる音と、鉛筆が紙を擦る音だけが、空間を満たしている。

「ねえ、伏見君、この問題、ちょっと難しいんだけど…」

 有紀が少し困ったような声で俺に話しかけてきた。彼女が指差したのは、二次関数の応用問題。確かに、ちょっとしたひねりが効いている。

「どれ、ちょっと見せて」
 俺は彼女のノートを覗き込み、問題を一瞥した。

「ああ、これはグラフの頂点を考えると楽だよ。まず、ここの式を平方完成して…」

 俺はペンを取り、彼女のノートに計算式を書き始めた。有紀は俺の解説を真剣に聞きながら、時折「なるほど」と小さく呟く。彼女のそんな姿を見ていると、教えるのがますます楽しくなる。

 でも、今日はなんだか少し様子が違う。有紀の視線が、時折、俺の顔からノート、そしてまた俺に戻る。その間、彼女の表情には何か言いたげな影がちらつく。俺は気になりながらも、解説を続けた。

「で、ここでxの値を代入すると、答えがこうなる。わかった?」
 俺が一通り説明を終えると、有紀は少し遅れて頷いた。

「うん、わかった。ありがとう、伏見君。ほんと、いつも助かるよ」
 笑顔を見せたけど、その笑顔はいつもより少し曇っているように見えた。俺は一瞬、言葉を飲み込んだ。

「…なんか、変なことでもあった?」
 俺は思い切って聞いてみた。有紀は一瞬、目を丸くして、それから少しうつむいた。

「うーん、変っていうか…その、ちょっとね」
 彼女は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。

「この前、職員室で上野先生と話したんだけど…」

 その名前を聞いた瞬間、俺の背筋がピンと張った。上野先生。またあの男か。俺は無意識に眉を寄せていたかもしれない。

「上野先生が? 何て?」
 俺の声は、思ったより低かった。有紀は少し気まずそうに指先でノートの端をいじりながら続けた。

「うーん、別に大したことじゃないんだけど…私が伏見君に数学を教えてもらってるって話したら、なんか、先生、機嫌悪くなっちゃって。『そんな奴に教わるより、俺の授業をちゃんと聞け』みたいなこと言われたの」

 俺は一瞬、言葉を失った。やっぱりな。あの男、俺が有紀に勉強を教えているのが気に入らないんだ。俺の胸の奥で、静かな怒りがくすぶり始めた。

「ふーん。で、有紀はどう思った?」
 俺は平静を装って聞いたけど、心の中では上野先生への苛立ちが渦巻いていた。

「どうって…私、伏見君に教えてもらう方が、断然わかりやすいよ。先生の授業、なんか…こう、堅苦しくて、頭に入ってこないんだよね」
 有紀は少し笑って言ったけど、その声にはどこか遠慮が混じっている。俺は彼女の言葉に少し安心したけど、同時に、彼女の態度に何か引っかかるものを感じた。

「でもさ、」
 有紀が急に声を小さくして続けた。「上野先生、なんか伏見君のこと、めっちゃ気にしてるみたい。『あいつはカンニングしてる』とか、変なこと言ってたよ。私、そんなわけないって思ったけど…ちょっと、気になっちゃって」

 その言葉に、俺の心臓が一瞬止まった気がした。カンニング。やっぱり、あの男はまだそんなことを言ってるのか。俺は拳を握りしめ、深呼吸して感情を抑えた。

「…カンニングなんて、してないよ。俺が満点取ってるのは、ただ自分で勉強してるからだ。それだけ」
 俺は静かに、でもはっきりと答えた。有紀は俺の顔をじっと見て、すぐに頷いた。

「うん、わかってる! 伏見君がそんなことするわけないって、私、信じてるよ」

 彼女は慌ててそう言ったけど、その声には微かな迷いが混じっているように聞こえた。俺はその微妙なニュアンスを見逃さなかった。彼女は俺を信じたいと思ってる。でも、上野先生の言葉が、彼女の心のどこかに小さな棘を残したんだ。

「まぁ、いいよ。気にしないで」
 俺は無理やり笑顔を作って、話を変えた。
「次の問題、やってみる? これ、さっきの応用だから、たぶんすぐ解けるよ」

 有紀は「うん!」と明るく答えたけど、さっきの会話の余韻はまだ残っているようだった。俺たちは再び問題集に向かい、鉛筆を走らせ始めた。でも、俺の頭の片隅では、有紀の言葉と上野先生の顔がちらついていた。

 彼女は俺を信じてると言った。でも、彼女の目には、ほんの少しの疑念が浮かんでいた。それが、俺の心に小さな傷をつけた。俺は上野先生を見返すために数学を頑張ってきた。でも、今、俺が戦っているのは、先生だけじゃないのかもしれない。

 自習室の窓から見える夕暮れは、どこか冷たく感じられた。俺は参考書を閉じ、静かに息を吐いた。有紀が俺を見る目と、上野先生が俺を見る目。その二つの視線の違いが、俺の胸の中で静かにぶつかり合っていた。


第5話


 放課後の職員室は、いつもより一層、鉛のような重苦しい空気に満ちていた。壁にかかった時計の秒針の音が、やけに大きく響く。俺はパソコンの画面を睨みつけながら、先ほど自習室で見た光景を思い出していた。

 伏見健太と佐藤有紀。二人が机を並べ、親しげに数学を教えている姿が、脳裏に焼き付いて離れない。伏見の奴が、有紀のノートにペンを走らせ、有紀が真剣な眼差しでそれを見つめている。あの光景は、まるで俺の目の前で、俺の聖域を穢されたような、そんな不快感を伴っていた。

「おい、伏見! また佐藤さんにちょっかいを出しているのか!」

 職員室を出て、自習室に怒鳴り込みそうになったのを、何とか理性で押しとどめた。教師として、それはあまりに未熟な行動だ。だが、胸の内では、煮えたぎるような嫉妬と、それを裏切るような怒りが渦巻いている。

 佐藤有紀。彼女は、俺にとって特別な存在だった。真面目で、素直で、俺の言葉をいつも真剣に聞いてくれる。男子生徒たちに八つ当たりしている俺の醜い部分も、彼女の前では隠し通せていると思っていた。彼女の存在は、俺の教師としての、いや、男としてのプライドを支える唯一の光だった。

 それなのに、よりにもよって、あの伏見健太が、彼女と親密な関係を築いているだと? まさに虫酸が走る。あいつは、俺の授業を馬鹿にし、反抗的な態度を取り続ける、学園の癌だ。そんな奴が、なぜ有紀と? 俺の授業を聞かないくせに、満点を取るような奇妙な成績を出すような奴が、なぜ?

 俺は、鉛筆を握りしめ、パキッと音を立てて折ってしまった。冷静になれ、上野。こんなところで感情的になってどうする。理性で感情を抑えようとした。だが、冷静になれるはずがない。あの日、有紀に「伏見君に教えてもらってる」と言われた瞬間から、俺の心に生まれた歪んだ感情は、日を追うごとに肥大化している。伏見への憎悪。それは、もはや単なる教師と生徒の関係を超えていた。俺の理想の生徒である有紀を汚す、不愉快な存在。あいつは、俺のすべてを脅かす存在だ。

「上野先生、何かありましたか?」

 同僚の女性教師が、心配そうに声をかけてきた。俺は慌てて顔を取り繕い、無理やり笑顔を作った。

「ああ、いや、なんでもない。ちょっと、採点に集中しすぎてな」

 俺はそう誤魔化し、伏見の答案用紙を手に取った。小テストの解答用紙。またしても完璧な字で埋め尽くされている。どうせまたカンニングでもしたのだろう。だが、証拠がない。どこにも。

 俺は伏見の解答用紙を、まるで汚らわしいものに触れるかのように、指先で摘んで持ち上げた。そして、その解答用紙を、ゴミ箱に放り込もうとした。その時、脳裏に、有紀の言葉が蘇った。

「伏見君がそんなことするわけないって、私、信じてるよ」

 俺の手が、ぴたりと止まった。有紀は、あいつを信じている。もしここで、俺が伏見の答案を破り捨てたり、点数を改ざんしたりしたら、有紀はどう思うだろう? 彼女は、きっと俺を軽蔑するに違いない。

 チッと、再び舌打ちが出た。俺は解答用紙をゴミ箱から抜き出し、乱暴に机の上に置いた。どうすればいい。この忌々しい伏見健太を、どうやって排除すればいい? 公開の場で恥をかかせ、有紀から遠ざけるには。

 俺は、パソコンの検索窓に、「生徒 カンニング 巧妙な手口」と入力した。そして、いくつかヒットした記事を読み漁る。
 
 ポケットに忍ばせた小型カメラで、テスト中に教科書を撮影する。
 スマートウォッチに答えを仕込んでおく。
 消しゴムに極小の文字でメモを書いておく。

 どれも、伏見がやりそうな手口だ。いや、むしろ、俺が想像もつかないような、もっと巧妙な方法で、あいつはカンニングをしているに違いない。そう、俺は確信していた。

 よし。次のテストで、必ずあいつの不正を暴いてやる。そして、その結果を、有紀の目の前で晒してやる。そうすれば、有紀も、あんな奴の化けの皮が剥がれ、俺の正当性が証明されるだろう。

 俺は、歪んだ笑みを浮かべた。教師としてのプライド、そして、有紀への歪んだ感情。それらが混じり合い、伏見健太への憎悪をさらに増幅させていく。

 俺は、伏見を徹底的に追い詰める計画を立て始めた。まずは、次のテストで、より難易度の高い問題を出題する。そして、試験中の監視を強化する。さらに、彼が頻繁に利用している図書室にも、目を光らせておく必要があるだろう。完璧な計画を立て、伏見の人生を破壊してやる。それが、俺の数学教師としての使命だ。


第6話


 放課後の自習室は、いつものように静かで、窓の外から聞こえる秋風の音が、どこか物悲しい。俺と有紀は、机を並べて数学の問題集に取り組んでいた。彼女のノートには、丁寧に書かれた数式と、俺が書き加えた解説のメモが並んでいる。普段なら、彼女の「わかった!」という声や、笑顔が俺の気分を軽くしてくれる。でも、今日は違った。彼女の表情には、どこか重い影が漂っている。

「ねえ、伏見君、この問題、ほんとにこの解き方で合ってる?」
 有紀が少し不安げに聞いてきた。彼女が指差したのは、確率の問題。確かに、ちょっとしたひねりが効いているが、俺には見慣れたタイプだ。

「うん、合ってるよ。ほら、ここで場合の数を整理して…」
 俺は彼女のノートに計算を書き加えながら、丁寧に説明した。いつもなら、彼女はすぐに目を輝かせて頷くのに、今日は反応が鈍い。俺は一瞬手を止めて、彼女の顔を見た。

「…どうした? なんか、元気ないみたいだけど」 俺は思い切って聞いてみた。有紀は一瞬、目を逸らし、ノートに視線を落とした。

「うーん、別に…ただ、ちょっと考えちゃって」 彼女の声は小さく、どこかためらいが混じっている。俺の胸に、嫌な予感が広がった。

「考えてるって、何を? 上野先生のこと?」
 俺は半ば直感で言った。有紀がビクッと肩を震わせたのが、答えだった。やっぱり。あの男、また何かしたんだ。

「実は…」
 有紀は唇を噛み、言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。

「今日、数学の授業の後、上野先生に呼び止められて。次のテストのこと、話されたんだけど…なんか、変な感じだった」

「変な感じ?」
 俺は眉を寄せた。彼女は深呼吸して、続ける。

「うん。先生、伏見君のこと、めっちゃ気にしてるみたいで…『次のテストで、伏見の不正を絶対に暴く』みたいなこと言ってた。私、びっくりして…だって、伏見君がカンニングするわけないって、知ってるから」

 その言葉に、俺の心臓が一瞬止まった。不正を暴く? 何だ、それ。俺はカンニングなんて一度もしたことない。自分で勉強して、満点を取ってきた。それなのに、上野先生はまだそんなことを…いや、待て。俺はふと気づいた。あの男、わざとだ。俺を陥れるために、何か企んでるんだ。

「…で、有紀はどう思った?」
 俺は平静を装って聞いたけど、声は少し震えていた。有紀は俺をじっと見て、目を潤ませた。

「私、伏見君がそんなことしないって、信じてる。ほんとに。でも…上野先生、なんか本気でそう思ってるみたいで…怖かったんだ。私、先生に『伏見君はそんな人じゃない』って言おうとしたけど、なんか、言えなくて…」

 彼女の声は震え、目には涙が滲んでいた。俺は胸が締め付けられるような思いだった。有紀は俺を信じてくれてる。でも、同時に、彼女は上野先生との関係も気にしてる。あの男の威圧的な態度に、彼女は押し潰されそうなんだ。

「有紀、いいよ。気にしないで」
 俺は無理やり笑顔を作って言った。「上野先生が何を企んでても、俺はいつも通りやるだけ。カンニングなんてしてないし、テストで結果出せば、向こうも黙るさ」

 有紀は小さく頷いたけど、その表情はまだ晴れない。
「うん…でも、もし先生が、伏見君に何かひどいことしたら…私、どうしたらいいかわからないよ…」

 その言葉に、俺は言葉を失った。有紀は、俺と上野先生の間に挟まれて、苦しんでる。彼女の優しさが、こんな形で彼女を傷つけるなんて、思ってもみなかった。

 その夜、俺は家に帰っても、頭の中はぐちゃぐちゃだった。上野先生が「不正を暴く」と言った意味。きっと、あの男は俺を陥れるために、何かでっち上げる気だ。たとえば、テスト中に俺を監視して、適当な理由で不正をでっち上げるとか。俺には証拠はないけど、あの男の執念深さなら、やりかねない。


 翌日の数学の授業。いつも通り、俺は上野先生の声を無視して、窓の外を見ていた。でも、今日はいつもより視線を感じる。ちらりと見ると、上野先生が俺を睨んでいる。その目は、まるで獲物を捕らえる猛獣のようだった。俺は無表情を装ったけど、内心、警戒心がマックスだった。

 そして、テスト当日。試験のある教室に、上野先生が入ってきた。いつもより念入りに席をチェックし、俺の机の周りを何度も往復する。明らかに、俺を狙ってる。試験が始まり、問題用紙をめくった瞬間、俺は違和感を覚えた。問題の難易度が、いつもより異様に高い。まるで、俺をわざと落とそうとしてるみたいだ。

 それでも、俺は冷静に問題を解き進めた。自分で勉強してきた知識が、頭の中でパズルのように組み合わさっていく。時間はギリギリだったけど、なんとか全問解き終えた。答案用紙を提出する時、上野先生と目が合った。彼の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。まるで、「お前はもう終わりだ」と言わんばかりに。

 テストの翌日、俺は職員室に呼び出された。嫌な予感しかしない。職員室に入ると、上野先生が机に座り、俺の答案用紙を手に持っていた。

「伏見、今回のテスト、お前、カンニングしたな?」
 上野先生はニヤリと笑いながら言った。俺は一瞬、耳を疑った。

「何? カンニング? してませんけど」
 俺は冷静に反論した。だが、上野先生は答案用紙を机に叩きつけ、声を荒げた。

「とぼけるな! お前の席の近くで、メモ書きが見つかったんだ! これが証拠だ!」
 彼が取り出したのは、小さな紙切れ。そこには、確かに数式が書かれていた。でも、俺の字じゃない。明らかに、誰かが用意したものだ。

「それ、俺のじゃないです。先生、勝手にでっち上げないでください」
 俺は怒りを抑えて言った。だが、上野先生は嘲笑うように笑った。

「でっち上げ? ふん、証拠がある以上、お前の言い訳は通用しない。明日、職員会議でこの件を報告する。覚悟しておけ」

 俺は言葉を失い、職員室を出た。頭の中は真っ白だった。あのメモは、絶対に上野先生が仕込んだものだ。でも、どうやって証明する? 俺の心は、怒りと焦りでぐちゃぐちゃだった。

 その放課後、自習室で有紀に会った。彼女は俺の顔を見るなり、目を潤ませた。

「伏見君…先生、ほんとにカンニングの話、してた。私、信じられない…でも、先生、証拠があるって…」

「有紀、あれはでっち上げだ。俺、絶対そんなことしてない」
 俺は必死に訴えた。有紀は頷いたけど、その目は揺れていた。彼女は俺を信じたい。でも、上野先生の「証拠」が、彼女の心に重くのしかかっている。

 自習室を出て、俺は空を見上げた。どんよりとした曇り空が、俺の心を映しているようだった。俺は上野先生を倒すために、数学を頑張ってきた。でも、今、俺が戦うのは、でっち上げられた不正の汚名だ。そして、有紀の心の中の迷い。あの男の策略に、どうやって立ち向かえばいいのだろう?


第7話


 翌日の職員会議室は、いつもより張り詰めた空気に包まれていた。教員たちの間には、どこか落ち着かない様子が漂っている。俺は、会議の議題が伏見健太のことであると知っていた。そして、その議題の中心で、俺が彼の「不正」を糾弾することになっている。

 俺は静かに着席し、周囲を見渡した。教頭が咳払いをして、会議の開始を告げる。各教科からの報告が淡々と進む中、俺の心臓は高鳴っていた。早く、この時が来てほしい。そして、あの伏見健太を、公衆の面前で晒し者にしてやりたい。そうすれば、有紀もあいつから離れ、俺の元に戻ってくるはずだ。

「……それでは、次に、数学科の上野先生から、重要なご報告があります」
 教頭の声に、俺はゆっくりと立ち上がった。全員の視線が、俺に集中した。

「皆さま、本日はお時間をいただきありがとうございます。本日、私がご報告いたしますのは、大変遺憾ながら、本校生徒によるカンニングの件でございます」
 俺はわざとらしく重々しい口調で話し始めた。教員たちの間に、ざわめきが広がる。

「先日行われました期末テストにおいて、1年B組、伏見健太が、不正行為を行った疑いが濃厚でございます」

 伏見の名前を出した瞬間、会議室の空気は一変した。数人の教員が驚いたように顔を上げた。特に、国語科の山田先生が、鋭い視線を俺に向けているのがわかった。山田先生は、男子生徒にも分け隔てなく接し、生徒からの信頼も厚い。以前から、俺の伏見への態度を快く思っていないようだった。

「伏見は、これまでも定期的に満点を取ってきましたが、その学習態度から鑑みても、到底、自力で達成できる点数とは考えられませんでした。そこで今回、私は細心の注意を払って試験を監視しておりましたところ、試験中に彼の座席周辺から、数式が書かれた不審なメモを発見いたしました」

 俺は得意げに、例のメモ用紙を取り出し、皆に見せた。それは、俺が巧妙に仕込んだものだ。俺の字ではない、しかし、試験で使うような数式が書かれている。これで誰もが伏見のカンニングを信じるだろう。

「このメモには、今回のテストで出題された問題の解答に繋がる数式が、具体的に書かれております。これは、まぎれもなくカンニング行為の証拠であり、伏見は間違いなく不正行為を働いたと断定せざるを得ません」

 俺は言葉に力を込め、自信満々に言い放った。会議室は再びざわめきに包まれる。勝利を確信した俺は、山田先生の顔を見た。彼女は腕を組み、険しい表情で俺を見つめている。だが、これで彼女も黙るだろう。

「上野先生、少々よろしいでしょうか?」

 しかし、山田先生の声が、会議室に響き渡った。俺は内心舌打ちしたが、表情には出さずに、彼女の方を向いた。

「何でしょうか、山田先生」
「そのメモについて、いくつかお伺いしたいのですが。まず、そのメモは、伏見君の筆跡でしょうか?」

 山田先生の質問に、俺は一瞬言葉に詰まった。入念に伏見の筆跡をなぞったがバレたか?

「い、いや、筆跡は…断定できません。しかし、彼の座席から発見されたことは事実です」

 俺は焦って答えた。山田先生は、その言葉を待っていたかのように、さらに畳み掛けてきた。

「断定できない、と。では、上野先生は、このメモが伏見君のものであると、どのような根拠を持って主張されるのですか? 彼が自分で書いたものではない可能性は考えなかったのですか?」

 山田先生の目は、まるで俺の嘘を見抜いているかのように、鋭い。俺は額に汗が滲むのを感じた。

「そ、それは…彼の普段の学習態度、そして、試験中の不審な行動から…」
「不審な行動とは、具体的にどのような行動でしょうか? そして、学習態度が悪いというだけで、カンニングをしたと断定できるのでしょうか?」

 山田先生の質問は、的確に俺の主張の矛盾を突いてくる。会議室の他の教員たちも、訝しげな表情で俺を見始めた。

「それと、上野先生。伏見君の今回のテストの点数は?」
 山田先生の突然の質問に、俺は一瞬たじろいだ。まさか、点数を聞いてくるとは思わなかった。

「え、ええと…満点、で…」
 俺がそう言うと、会議室がどよめいた。満点。その事実は、俺の主張の信憑性をさらに揺るがす。

「満点ですか。それは素晴らしい。では、このメモが本物であったとして、なぜ彼は満点を取れたのでしょうか? カンニングをする必要があったと?」

 山田先生は、冷徹な表情で俺に問い詰めた。俺は、言葉に詰まり、汗が止まらなくなった。俺の完璧なはずの計画が、山田先生の一言で、脆くも崩れ去っていく。

「私には、上野先生の主張に矛盾があるように思えます。伏見君が本当にカンニングをしたのであれば、なぜこれまでにも満点を取ることができたのか。そして、なぜ今回、わざわざそのようなメモを使って、しかも満点を取るような、矛盾した行動を取ったのか。もっと詳しく調査する必要があるのではないでしょうか?」

 山田先生は、周囲の教員たちを見渡しながら、そう提案した。会議室は、山田先生の言葉に賛同するかのように、ざわめきが大きくなった。

 俺は、顔から血の気が引くのを感じた。こんなはずではなかった。俺は伏見を追い詰めるはずだったのに、逆に自分が追い詰められている。

「教頭先生、この件は、もう少し慎重に検討すべきかと存じます。伏見君の過去の成績も鑑み、安易にカンニングと断定するのは時期尚早ではないでしょうか」

 別の教員も、山田先生に同調する。俺は、自分の首を絞めていることに気づいた。このままでは、俺の教師としての信用まで失いかねない。

 会議室のざわめきが、まるで嘲笑のように俺の耳に響く。伏見健太。あいつを貶めようとした俺の企みは、かえって俺自身の立場を危うくする結果となった。


第8話


 放課後の図書室は、いつもより静けさが重く感じられた。窓の外では、秋の夕暮れが空を茜色に染めている。俺は机に突っ伏し、頭の中で職員会議のことを反芻していた。さっき、山田先生から会議の内容を聞かされたばかりだ。上野先生が、俺のカンニングをでっち上げようとしたこと。山田先生がその矛盾を突いて、俺を庇ってくれたこと。全てが、まるで悪い夢のようだった。

「伏見君、大丈夫?」

 有紀の声が、静かな空間に響いた。彼女は俺の向かいに座り、心配そうに俺の顔を覗き込む。いつもなら、その笑顔に心が軽くなるのに、今日は胸がざわついて仕方ない。

「…ああ、うん。山田先生から、会議の話、聞いたよ」
 俺は無理やり笑顔を作って答えた。有紀は少しホッとしたように頷いたけど、その目はまだ不安げだ。

「よかった…山田先生、ほんとにすごかったんだから。職員会議で、上野先生の言い分をバッチリ論破してたって聞いたよ。伏見君、無実だって、ちゃんと証明されたよね?」 
 有紀の声は明るく、俺を励まそうとしているのが伝わってくる。でも、俺の心は燃えていた。上野先生が、俺を陥れるためにメモをでっち上げた。あんな卑劣な手を使ってまで、俺を貶めようとした。その事実に、怒りが抑えきれなかった。

「証明されたって…でも、こんなの許せないよ」
 俺は拳を握りしめ、声を低くした。

「上野先生、俺がカンニングなんてしてないって、絶対わかってた。それなのに、わざと俺をハメようとしたんだ。こんなの、絶対許さない」

 有紀の目が一瞬揺れた。彼女は唇を噛み、言葉を探すように視線を落とした。

「うん、わかるよ…私も、先生がそんなことするなんて、信じられなかった。でも…伏見君、ちょっと落ち着いて。ことを荒立てると、もっとややこしくなるよ」

「荒立てる?」
 俺は思わず声を上げた。

「あの男が俺を嵌めたんだぞ? このまま黙ってたら、また何か仕掛けてくるかもしれない。職員会議で、上野先生の嘘をみんなの前で暴いてやる!」

 俺の言葉に、有紀は慌てたように手を振った。
「待って、伏見君! そんなことしたら、先生、もっと意固地になっちゃうよ! それに…私、先生のこと、嫌いじゃないんだ。確かに、今回のことはひどいけど…先生、いつも私のこと気にかけてくれるし…」

 その言葉に、俺の心が一瞬冷えた。有紀は、上野先生を嫌いじゃない? あの男が俺にしたことを知っても、まだそんなことを言うのか? 俺は無意識に拳を強く握りしめた。

 その時、図書室のドアが開き、山田先生が入ってきた。彼女は俺たちの様子を見て、軽く微笑んだ。

「おや、二人とも真剣な顔してるね。何かあった?」

 俺は一瞬迷ったが、思い切って口を開いた。
「山田先生、職員会議の話、ありがとうございました。でも、俺、このままじゃ終われません。上野先生、俺を嵌めようとしたんです。次は俺が、みんなの前で…」

「伏見君、ちょっと待ちなさい」

 山田先生の声は穏やかだったが、どこか有無を言わさぬ力があった。彼女は俺の隣に腰を下ろし、真剣な目で俺を見た。

「職員会議の件は、私がちゃんとフォローしたよ。伏見君の無実は、教員の間でもほぼ認められてる。でも、ここで君が事を荒立てたら、状況は逆効果になるかもしれない」

「逆効果?」
 俺は眉を寄せた。山田先生は静かに頷いた。

「そう。上野先生は、確かに今回のことで間違いを犯した。でも、君が彼を公然と糾弾したら、彼はさらに意固地になって、もっとひどいことを考えるかもしれない。それに、教員の間で騒ぎが大きくなれば、君の立場も危うくなる。伏見君、私は君のことを全力で守るつもりだ。だから、ここは冷静になって、私に任せてくれないかな?」

 山田先生の言葉は、まるで冷水をかぶったように俺を落ち着かせた。確かに、彼女の言う通りかもしれない。上野先生を直接攻撃すれば、俺が不利になる可能性もある。でも、胸の奥の怒りは、そう簡単に消えなかった。

「…わかりました。でも、俺、黙って見過ごす気はないです」
 俺は小さく呟いた。山田先生は優しく微笑んで、俺の肩を軽く叩いた。

「その気持ち、わかるよ。でも、君は賢い。頭を使って、賢く戦う方法を考えてごらん。君ならできる」
 そう言って、山田先生は立ち上がり、図書室を出て行った。

 山田先生が出て行った後、有紀が急に身を乗り出してきた。

「ねえ、伏見君! 私、いいこと思いついたよ!」

「いいこと?」
 俺は少し驚いて彼女を見た。有紀の目は、さっきの不安げな表情から一変して、キラキラと輝いていた。

「うん! 山田先生の言う通り、頭を使って戦おうよ! 伏見君の無実を、数学的に証明するの! たとえばさ、次のテストで、また満点取っちゃうとか! そしたら、誰も伏見君がカンニングしてるなんて思わないよね!」

 有紀の提案に、俺は一瞬言葉を失った。数学的に証明? 確かに、俺がこれまでやってきたのは、まさにそれだ。自分で勉強して、満点を取って、上野先生を見返してきた。でも、今度はもっと大きな舞台だ。学校全体に、俺の実力を証明するチャンス。

「…それ、いいかもな」
 俺は小さく笑って頷いた。有紀も嬉しそうに笑い、ノートを広げた。

「じゃあ、さっそく次のテストに向けて勉強しよう! 私も、伏見君に負けないくらい頑張るから!」

 その笑顔に、俺の心は少し軽くなった。でも、胸の奥では、まだ上野先生への怒りが燻っている。有紀の提案は、確かに賢い。でも、俺はただ満点を取るだけじゃなく、あの男に一泡吹かせたい。その方法は、まだわからないけど。

 図書室の窓から見える夕焼けは、まるで俺の心を映すように、赤く燃えていた。俺は深呼吸して、問題集に目を落とした。次の戦いは、テスト会場だ。そこで、俺は絶対に負けない。


第9話


 職員会議の夜。自宅の書斎で、俺は熱いコーヒーを片手に、山田先生の言葉を反芻していた。あの女教師は、俺の完璧な計画を、わずか数分で打ち砕きやがった。伏見健太のカンニング疑惑をでっち上げ、彼を退学に追い込むはずだったのに。

「筆跡は…断定できません」

 俺の口から出たその言葉が、会議室でどんな失笑を買ったか、今でも鮮明に思い出せる。
 教師としてのプライドが、粉々に打ち砕かれた瞬間だった。山田は俺を侮辱した。そして、あの生意気な伏見を、わざとらしいほどに擁護した。

 机に置かれた伏見のテスト用紙が、俺の怒りをさらに煽る。またも満点。あいつの顔が、俺の脳裏にちらつく。あの憎たらしい目つき。俺への反抗心。そして、俺の目を盗んで佐藤有紀と親密になる図々しさ。

 あの会議で、有紀が伏見を信じていると知った瞬間、俺の胸に去来したのは、怒りだけではなかった。深い、深い絶望感だ。有紀は、俺が特別に目をかけている生徒。彼女の笑顔は、俺の教師生活の唯一の潤いだった。その彼女が、よりにもよって、あの反抗的な男を信じている。俺の心が、凍り付くようだった。

 有紀は、きっとあの会議の話も聞いているだろう。俺が伏見を陥れようとしたことも。彼女は今、俺をどう思っているだろうか。軽蔑しているだろうか。考えただけで、胃がキリキリと痛む。

 いや、違う。有紀は俺を信じてくれているはずだ。彼女は俺の真意を理解してくれる。俺は、彼女のために、彼女にとって「正しい」選択肢を示そうとしただけだ。伏見のような悪影響を及ぼす生徒から、彼女を守ろうとしただけなんだ。
だが、山田先生が邪魔をした。あの女が余計な口出しをしなければ、すべては上手くいっていたはずなのに。

 俺は拳を握りしめ、机を強く叩いた。

「くそっ!」
 俺は、もう後には引けない。伏見健太をこの学校から追い出す。それが、俺の教師としての、そして男としての意地だ。そのためなら、どんな手を使ってでも。

 俺は、パソコンの画面に、新しいテスト問題の作成画面を表示させた。次のテストは、これまでで最も難しく、そして、最も巧妙な仕掛けを施した問題にする。

 伏見の得意分野を徹底的に分析し、彼が普段使用している参考書や問題集では対処できないような、応用問題や、ひっかけ問題を大量に盛り込む。さらに、試験中の監視体制を強化する。今回は、彼の動きを徹底的に記録し、不正行為の「決定的な証拠」を掴んでやる。そして、その「証拠」を、今度こそ誰もが否定できない形で突きつける。山田先生のような余計な口出しをさせないために、今回は外部の人間も巻き込むことを考えた。例えば、教育委員会に匿名で通報するとか。

 俺は、静かに笑みを浮かべた。今回は、誰も彼を庇えない。誰も俺を止められない。しかし、それだけでは終わらせない。伏見をただ学校から追い出すだけでは、俺の気が済まない。有紀への執着が、俺の心をさらに歪ませていった。

「…あいつは、生徒指導室で、二度と学校に来たくないと思わせるような、地獄を見ることになるだろう」

 俺は独り言のように呟いた。退学処分だけではない。彼が学校にいたこと自体を、後悔させてやる。彼が「数学が得意」などと二度と口にできないように、徹底的に打ちのめしてやる。そして、その姿を、有紀の目に焼き付けてやる。そうすれば、有紀は、俺の元に戻ってくる。俺の教師としての、そして男としての正当性を、彼女も理解してくれるだろう。

 夜が更け、外はすっかり暗くなっていた。書斎の電気スタンドの光だけが、俺の冷たい笑みを照らし出していた。伏見健太。お前はもう、俺の掌の上だ。


第10話


 テスト当日。教室の空気はいつもより重く、緊張感が漂っていた。俺は自分の席に座り、配られた問題用紙を手に取った。一目見て、すぐにわかった。これは尋常じゃない。上野先生が、俺を完全に潰すつもりで作った問題だ。複雑な微分方程式、ひねりの効いた確率問題、そして見たこともないような応用問題が並んでいる。普通の生徒なら、まず絶望するレベルだ。

 でも、俺は違った。問題を眺めながら、胸の奥で何か熱いものが湧き上がってくるのを感じた。確かに難しい。でも、どこかで、この難問を解くのが楽しみだとすら思っていた。数学は、俺にとってただの勉強じゃない。上野先生への反抗であり、俺自身の証明の場だ。そして、最近は有紀と一緒に学ぶ時間そのものが、俺の心を支えている。

「伏見君、がんばってね」

 試験開始直前、有紀が隣の席から小さな拳を握りながら、ニコッと囁いた。有紀の声には、いつもの明るさに加えて、どこか切実な響きがあった。俺は軽く頷き、彼女に笑顔を返した。

 「お前もな」と小さく答えたけど、彼女の目は少し揺れている。きっと、彼女もこのテストがただの試験じゃないことを感じているんだ。

 試験中、俺は全神経を問題に集中させた。上野先生の監視の視線が、背中に突き刺さるように感じる。でも、俺は動じなかった。一問一問、丁寧に解き進めていく。頭の中で数式が踊り、解法がパズルのピースのようにはまっていく。時間はギリギリだったけど、最後の問題を解き終えた瞬間、俺は確信した。

「これなら、満点をとれたはずだ!」


 試験終了後、教室を出ると、有紀が待っていた。

「伏見君、どうだった? 大丈夫?」
 有紀の声には、心配と期待が混じっている。

 俺は軽く笑って答えた。
「多分、いけた。結構難しかったけど、楽しかったよ」

 有紀はホッとしたように笑ったけど、その笑顔にはまだ影があった。

「よかった…でも、なんか、上野先生、今日、いつもより怖い顔してたよ。伏見君のこと、めっちゃ見てたし…」

 その言葉に、俺の胸に小さな棘が刺さった。上野先生は、きっとまた何か企んでる。でも、今回は違う。俺はちゃんと準備してきた。どんな「証拠」をでっち上げられても、俺には数学の実力がある。数学だけが、俺の武器だ。


 数日後、テストの結果が返ってきた。掲示板に貼り出された成績一覧を見て、俺は安堵した。
 数学100点。またしても満点。クラス中がざわつき、俺の周りに視線が集まる。有紀が駆け寄ってきて、目を輝かせた。

「伏見君! やったじゃん! ほんとにすごいよ!」

 でも、その喜びも束の間だった。放課後、俺は再び職員室に呼び出された。上野先生が、冷たい目で俺を待っていた。

「伏見、今回のテストも満点だな。だが…お前の席の近くで、また不審なメモが見つかった。どう説明する?」

 俺は一瞬、息を呑んだ。またか。またあの男の仕込みだ。でも、今度は動揺しなかった。

「先生、それ、俺のじゃないです。筆跡、確認してください。俺、試験中にそんなもの使ってません。問題、全部自分で解きました」

 上野先生の目が一瞬揺れた。だが、彼はすぐにニヤリと笑った。

「ふん、強情だな。だが、今回は教育委員会にも報告済みだ。お前の不正は、必ず暴かれる」

 その言葉に、俺の怒りが爆発しそうになった。でも、その時、ドアが開き、山田先生が入ってきた。

「上野先生、ちょっとよろしいですか? 伏見君のテストについて、私も話したいことがあります」

 上野先生の顔が一瞬引きつった。山田先生は穏やかな口調で続けた。

「伏見君の答案を、私も確認しました。どの問題も、解法が非常に論理的で、独自のアプローチが見られます。カンニングした人間が、こんな解答を書けると思いますか?」

 上野先生は言葉に詰まり、顔を赤らめた。

「で、でも、メモが…」
「そのメモについてですが、筆跡鑑定を依頼しました。結果はまだですが、伏見君のものではない可能性が高いです。それに、上野先生、伏見君の過去の成績や、彼が佐藤さんに教えている内容を考えると、彼の実力は本物だと私は確信しています」

 山田先生の言葉に、俺は胸が熱くなった。有紀も、そばで小さく頷いている。彼女は俺を信じてくれてる。山田先生も、俺を守ろうとしてくれてる。

 その瞬間、上野先生の表情が微妙に変わった。怒りと苛立ちの奥に、ほんの一瞬、何か別の感情が垣間見えた。まるで、俺の答案を見ながら、数学そのものに心を動かされたような。そんな表情だった。


「…伏見、お前の答案、確かに…よくできている」
 上野先生が、渋々といった口調で呟いた。俺は驚いて上野先生を見た。あの男が、初めて俺の実力を認めた?

「でも、誤解するな。俺はお前を許したわけじゃない」
 彼はすぐにいつもの冷たい口調に戻ったが、その目はどこか迷いを含んでいるようだった。

「ただ…お前の数学への取り組み、嫌いじゃない。だが、次はお前を絶対に超えてやる」

 その言葉に、俺は思わず笑いそうになった。超えてやる?
「お前教師だろ?」
 思わず、声に出そうだった。まるで、俺と同じ目線で数学を競おうとしてるみたいじゃないか。俺も負けてられない。

「先生、俺も負けませんよ。次も、満点取らせていただきます」

 上野先生は一瞬、目を細めたが、何も言わずに職員室を出て行った。山田先生が俺に軽く微笑み、有紀がホッとしたように息をついた。

「伏見君、よかった…なんか、先生、ちょっと変わった気がするね」

「かもな」
 俺は小さく笑った。上野先生はまだ俺を敵視してる。でも、さっきの言葉には、どこか数学への情熱が感じられた。あの男も、結局、数学が好きなんだ。俺と同じように。

 その夜、俺は家で参考書を開いた。次のテストに向けて、もっと難しい問題に挑戦しよう。俺の戦いは、上野先生を倒すことだけじゃない。数学そのものへの愛を、もっと深めたい。有紀の笑顔と、山田先生の信頼を胸に、俺は新たなページをめくった。


第11話


 季節は巡り、寒さが身に染みる冬の足音が聞こえ始めた。あれから、上野先生と俺の関係は、奇妙な均衡を保っていた。

 上野先生はまだ俺に小言を言うこともあるし、時折嫌味を混ぜるのも相変わらずだ。だが、以前のような一方的な八つ当たりは減り、数学の授業では、以前よりも活発な質問や、時には熱のこもった解説をするようになった。俺も彼の授業を以前ほど拒絶しなくなり、面白い解法や、新しい視点に気づかされることもあった。


 同じ日の夜の職員室。俺は、パソコンに向かっていた。たぶん疲れた表情を浮かべていただろう。
 終業時間が過ぎ、他の教師たちは皆、帰り支度をしている。

「上野先生、まだ残っていらっしゃったんですか?」

 背後から声が聞こえた。山田先生だった。彼女はいつもより穏やかな表情をしていた。

「ええ、少し残務がありまして。山田先生も、まだお帰りにならないんですか?」

 俺が問うと、山田先生は少し照れたように頭をかいた。

「いや、私も少し」

「そうですか。今日の伏見の授業、いや、解答を見返していたんです。あの小僧、相変わらず憎たらしいが、今回の応用問題の解法は、実に鮮やかだった。正直、感心したよ」

 俺の口から、伏見への素直な賞賛の言葉が出てくるとは、自分でも驚いた。山田先生は少し驚いたように俺を見た。

「そうですね。伏見君の数学の才能は、本当に素晴らしいものがあります。上野先生の指導も、彼の才能を引き出す一助になったのでしょうね」

 山田先生が優しく微笑んだ。俺は、その笑顔に、一瞬言葉を失った。山田先生の笑顔は、いつも彼を窘める時とは違い、温かく、そして、どこか心に響くものがあった。俺の頑なだった心が、少しずつ溶けていくのを感じた。

「そ、そうでしょうか? しかし、あいつにはまだ、学ばなければならないことがある。数学は、ただ数式を解くだけではない。もっと、情感のようなものが必要だと、私は思うんですよ」

 俺は、伏見健太に向けた言葉のようでありながら、どこか自分自身にも言い聞かせているような口調で呟いた。山田先生は静かに頷いてくれた。

「ええ、私もそう思います。国語と同じように、数学も、結局は人間が作り出したものですからね。そこには、必ず感情や、ひらめきが介在するものです」

 山田先生の言葉に、俺ははっとした。山田先生は国語の教師でありながら、俺が考えていたこと、そして数学の本質を、まるで全て見透かしているかのように言い当てた。その瞬間、俺の心に、これまで抱いたことのない、温かい感情が芽生えた。それは、かつて有紀に抱いた歪んだ執着とは異なる、純粋な恋心だった。

「山田先生…」

 俺は、彼女の瞳をじっと見つめた。山田先生は少し首を傾げたが、その瞳は優しく、俺を見守っていた。

 職員室の窓の外には、満月が輝いていた。数学は、俺に伏見健太という「宿敵」を与え、彼を通して、俺自身の視野を広げてくれた。そして、数学への真摯な取り組みは、俺に、山田先生という、かけがえのない存在をもたらしてくれた。

 数式だけでは表現できない、人間の心の機微、そして、そこから生まれる情感。俺は、その夜、教師として、そして一人の人間として、大切なことを学んだ気がした。


エピローグ


 ある日の放課後、俺はいつものように有紀と図書室で勉強していた。彼女は以前よりも数学が得意になり、「伏見君のおかげだよ!」と満面の笑みを向けてくれる。その笑顔を見るたびに、俺の心は温かくなった。

「ねえ、伏見君。次の数学の授業、なんか上野先生、いつもより気合入ってるみたいだね」
 有紀が参考書から顔を上げて言った。「この前のテストで、伏見君がまた満点取ったからかな?」

 俺は小さく笑った。その通りだ。あの後も、俺は数学の小テストで満点を取り続け、上野先生のカンニング疑惑は完全に払拭された。むしろ、俺の数学の才能は、学校全体に認められることになった。上野先生は、相変わらず俺を目の敵にしているようだが、先生の目には、以前のような憎悪だけでなく、どこか挑戦的な光が宿るようになった。まるで、俺をライバルとして見ているかのように思えた。

「かもな。でも、俺も負ける気はないし」
 俺はそう言いながら、有紀の隣に座り直した。彼女の髪から、甘いシャンプーの香りが微かに漂ってくる。

「そうだね! 伏見君はほんとすごいよ。私も、伏見君みたいになれたらいいのにな」
 有紀はそう言って、少し寂しそうに笑った。

「有紀も十分すごいよ。だって、最初あんなに苦手だったのに、今では応用問題も解けるようになったんだから」
 俺は彼女の頭を軽くポンと叩いた。有紀は顔を赤らめ、はにかむように微笑んだ。

 図書室が閉まる時間になり、俺たちは連れ立って昇降口に向かった。外はすっかり暗くなり、澄み切った冬の空には、満月が煌々と輝いていた。

「今日は、ありがとうね、伏見君」

 有紀が立ち止まり、俺の方を向いた。

「伏見君と勉強するようになって、ほんと、数学が楽しくなったよ。上野先生のことは、まだちょっと苦手だけど…でも、伏見君のおかげで、先生の授業も少しだけ、面白く感じるようになったんだよね」

 有紀の言葉に、俺の胸に温かいものが広がった。俺が数学を頑張ってきたのは、上野先生を見返すためだった。でも、今はそれだけじゃない。有紀と一緒に学び、彼女が成長していく姿を見ることが、俺の大きな喜びになっていた。

「俺もだよ、有紀」
 俺はそう言って、彼女の頬に手を伸ばした。有紀は少し驚いたように目を見開いたが、拒むことなく俺の指を受け入れた。柔らかな肌の感触が、俺の指先に伝わった。

 俺はゆっくりと顔を近づけ、有紀の唇にそっと自分の唇を重ねた。初めてのキスだった。温かくて、柔らかい。彼女の唇から、甘い香りがした。有紀は一瞬身を強張らせたが、やがてそっと目を閉じ、俺のキスを受け入れた。


 夜空の下、俺たちの心は一つになった。数学は、俺に有紀との出会いをくれた。そして、上野先生という厄介な存在を通して、俺は数学の奥深さ、そして、そこにある情感のようなものに気づかされた。数式だけでは語れない、ひらめきや直感、そして、答えを導き出す喜び。それは、まるで有紀への想いのように、俺の心を揺さぶるものだった。

 俺と上野先生。それぞれの場所で、それぞれの経験を通して、同じ結論に辿り着いたことに、俺たちはこのとき、まだ気づいていなかった。そして、これからも、このことを誰かに語り合うことはないだろう。だが、同じ月が、二人のそれぞれの心に、静かに問いかけていたように思う。

 数学に情感が必要なことを、果たして数学的に証明出来るのだろうか?、と。


~完~


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山根あきら | 哲学者 記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします