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チャイコフスキーとシェーンベルクのピアノ三重奏曲に聴く悲しみの変容


今晩は、2026年5月1日にHyperionからリリースされた、アムステルダム・ピアノ・トリオによるチャイコフスキー《ピアノ三重奏曲 イ短調「偉大な芸術家の思い出に」》と、シェーンベルク《浄められた夜》を聴きます。

収録曲は以下の通り。

ピョートル・チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50「偉大な芸術家の思い出に」
 第1楽章 悲歌的小品
  モデラート・アッサイ
  アダージョ・コン・ドゥオーロ・エ・ベン・ソステヌート
 第2楽章 主題と変奏
アルノルト・シェーンベルク:浄められた夜 作品4
 ヘンク・ガイタルトによるピアノ三重奏版
演奏
アムステルダム・ピアノ・トリオ
 アンナ・リプキンド=マゾール
 ドミトリー・プロコフィエフ
 アンドレイ・ググニン

アムステルダム・ピアノ・トリオは、アンナ・リプキンド=マゾール、ドミトリー・プロコフィエフ、アンドレイ・ググニンによるアンサンブルです。リプキンド=マゾールはヨーロッパを中心に活動するヴァイオリニスト、プロコフィエフはモスクワ音楽院で学んだチェリスト、指揮者、ググニンはシドニー国際ピアノ・コンクール優勝後、録音と演奏の両面で評価を高めているピアニストです。三人ともロシア、ヨーロッパの音楽文化を深く持ちながら、国際的な舞台で活動してきた演奏家たちです。なお、ドミトリー・プロコフィエフは作曲家のプロコフィエフとは調べた限りでは血縁関係はなさそう。

早速聴いてみます。

チャイコフスキーの《ピアノ三重奏曲 イ短調》は、以前にも別の録音で取り上げました。

この曲は、やはり大きな作品ですね。冒頭からチェロが深い悲歌を歌い出し、ピアノとヴァイオリンが加わるにつれて、室内楽でありながら交響的な広がりを持っていきます。

この演奏で聴くと、チャイコフスキーの音楽は単なる追悼の情緒ではなく、三つの楽器が一つの記憶を別々の方向から語り直しているように感じます。ピアノは厚い和声で場面を作り、ヴァイオリンは感情の高まりを鋭く描き、チェロは作品の奥底にある悲しみを支えています。

第2部の変奏曲も、ここでは一つ一つの性格を細かく追うより、音楽が次々に姿を変えながら、最初の悲歌の記憶から離れたり戻ったりする過程がこの曲の肝ですね。舞曲的な明るさや技巧的な華やかさが出てきても、その奥には常に冒頭の悲しみが残っています。そしてそれが自然にシェーンベルクにつながります。

アムステルダム・ピアノ・トリオの演奏はハイペリオンの特徴の温かい音色がより特徴を際立たせています。ロシア系の演奏のような濃厚さを強調するよりも、柔らかい線で描いていて、ピアノは奥に位置しつつも存在感があり、それでいて前に出過ぎず、ヴァイオリン、チェロの三者がアンサンブルとして立ち上がります。一人一人がソロとして出るというよりは、それぞれの役割を意識しながらのバランスが取れた演奏です。

続くシェーンベルクの《浄められた夜》は、ヘンク・ガイタルトによるピアノ三重奏編曲で演奏されています。先日紹介したマーラーの9番もそうですが、最近はこういった後期ロマン派の作品が小さい編成で演奏されることが増えてきましたね。ヘンク・ガイタルトは、オランダのヴィオラ奏者、指揮者、室内楽指導者です。1974年にシェーンベルク・アンサンブルを創設し、1976年から2009年まではシェーンベルク四重奏団のヴィオラ奏者として活動しました。シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、ツェムリンスキーなど、20世紀初頭のウィーン周辺の作品を長く演奏し、録音してきた音楽家です。

この《浄められた夜》のピアノ三重奏編曲も、そうした経験をもとにしたものです。原曲の弦楽六重奏版の濃密な響きをそのまま縮めるというより、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの編成によって、和声の動きや低音の進行、旋律の受け渡しを見えやすくしている編曲と言えます。シェーンベルクを知り尽くした演奏家による、作品の内側を照らすような編曲です。

この作品は弦楽六重奏で聴くと調性が崩れかける直前の和声感もあって、非常に複雑で全体を捉えるのが少し難しく感じることもあるのですが、ピアノ三重奏で聴くとすっきりとした響きでこの曲の持つハーモニーが透けて聞こえてきます。

この曲は、リヒャルト・デーメルの詩にもとづく作品で、冷たい月夜に、男女が林の中を歩いている風景から始まり、女性は、自分が別の男性との間に子を宿していることを告白します。男性はそれを責めるのではなく、その子を自分たちの愛によって受け入れると語ります。最後に二人は、明るい夜の中を歩いていきます。

さて、この曲は詩と音楽を厳密に一行ずつ対応させることは難しいのですが、聴いているうちに、自分の中ではいくつかの言葉が音楽と重なってきました。以下、全くの個人的な感覚ですが、詩と音楽の進行を重ねてみたいと思います。

まず冒頭、曲は、重く暗い歩みから始まります。

二人の人が、葉を落とした冷たい林を歩いていく。
月は二人に寄り添って進み、
二人はその光の中を見つめている。
月は高い樫の木々の上を渡り、
空の光を曇らせる雲はひとつもない。
その光の中へ、黒い梢の鋭い影が伸びている。

ニ短調を中心にしながら、冒頭から半音階的な響きが濃く、普通の機能和声だけでは割り切れない不安定さがあります。低音のDが地面のように置かれ、その上で旋律がためらうように動きます。やがてDの持続が崩れ、D、D♯、E、E♭、そしてAへとバスが動いていくあたりでは、調性感の中にありながら、足もとが少しずつ揺らいでいくように感じられます。

詩と音楽の私のイマジネーションでは、二人の人が、葉を落とした冷たい林を歩くところ、低音に置かれるDは、冷たい地面のようでもあり、二人の重い足取りのようでもあります。音楽は夜の描写から半音階的な揺れが少しずつ入ってくることで、月光の美しさの中に、これから語られる告白の重さがにじみ出てきます。黒い梢の影が月明かりに伸びていくように、鋭い音型、半音階的な陰影によって音楽の中にも不安の影が伸びていくようです。

トラック13の終結からトラック14からの部分は、女性の告白が始まり、音楽はより緊張を帯び、訴えるような線が前に出てきます。

ひとりの女の声が聞こえる
私は子を宿しています。
けれど、それはあなたの子ではありません。
私は罪を抱いて、あなたのそばを歩いています。
私は、自分自身を深く傷つけました。
もう幸福など信じていませんでした。

音楽は、単なる夜の歩みから、女性の内面へと入っていくように聴こえます。音楽は言葉を直接なぞるわけではありませんが、半音階的な和声の揺れと、行き場を失うような旋律の動きの中に、告白する前からすでに押し寄せていた罪悪感と不安が感じられます。ここでは、言葉が発せられるよりも先に、音楽の方が彼女の胸の内を語っているようです。

それでも私の中には、重い渇きがありました。
生きる意味を求め、母となる幸福を求め、
そして、果たすべき務めを求めていたのです。
そのために、私は踏み越えてしまいました。
身震いしながら、私は女としての身を、
見知らぬ男の腕にゆだねました。
そして、そのことを自ら祝福さえしたのです。
いま、人生は私に報いを与えました。
いま私は、あなたに、
ああ、あなたに出会ってしまったのです。

音楽はここで、冒頭の夜の歩みから少し離れ、より切迫した内面の声へと入っていきます。旋律はためらいながら揺れ、半音階的な和声がその言葉の重さを支えています。ピアノ三重奏版では、ヴァイオリンとチェロの線が人物の声のように浮かび上がり、ピアノがその下で不安定な心の動きを作っているように感じられます。

第100小節前後からは、告白が単なる事実の提示ではなく、彼女自身の過去と罪悪感へ沈み込んでいくように聴こえます。このあたりの音楽は、普通の和声の流れとして追おうとすると、かなりつかみにくくなります。けれど、そのわかりにくさこそが、彼女の心の混乱に重なっているように思います。低音は少しずつ動き、響きは半音階的に絡み合い、言葉になる前の罪悪感や自己弁明が、音の中で渦を巻いているようです。

第140小節を過ぎるころからは、音楽はいっそう激しくなります。愛する人に出会ったことが、単純な幸福ではなく、過去を突きつけるものとして感じられる。そのねじれが、暗く追い込まれていく響きの中に表れているようです。

詩の言葉を一行ずつそのままなぞっているわけではありませんが、第63小節から第187小節あたりまでを、女の告白とその内面の深まりとして聴くと、この部分の半音階的な不安定さがとても自然に感じられます。女の声は、言葉として語られる前から、すでに音楽の中で震えているようです。

彼女はぎこちない足どりで歩いている。
彼女は空を見上げる。
月はなおも、ともに進んでいく。
彼女の暗いまなざしは、光の中に沈んでいく。

第188小節からは、弦のソロが半音ずつ下がっていく印象的な主題が現れます。ここは、女の告白が終わった後の沈黙でしょうか。言葉をすべて出し切った後、彼女の中から力が抜け、暗いまなざしが月光の中に沈んでいく。半音ずつ下降する旋律は、その沈み込む視線や、返答を待つ不安そのもののように感じられます。ここで音楽は、冒頭の夜に戻るというより、告白を経た後の、もう同じではない夜を描いているようです。

そして、暗い響きが変ホ短調的な地点まで沈み込んだ沈黙のあと、突然ニ長調の和音が開けます。

ひとりの男の声が聞こえる。

まだ男の言葉の内容が語られる前に、音楽はすでにその声の性格を示しています。拒絶ではなく、受容へ向かう声です。変ホ短調の閉じた暗さから、ニ長調の澄んだ光へ移るこの転換は、沈黙を破って男が口を開く瞬間そのもののように感じられます。このニ長調の響きは、単なる「明るさ」ではなく、受け入れの明るさです。直前までの変ホ短調的な沈み込みが深いので、ニ長調に変わった瞬間、女の罪悪感そのものが別の意味を与えられるように聴こえます。

あなたが身ごもったその子を、
あなたの魂の重荷としてはいけません。
ごらんなさい、世界はなんと澄んで輝いているのでしょう。
すべてのもののまわりに、光があります。
あなたは私とともに、冷たい海を漂っています。
けれど、ひとつの温もりが静かに揺らめいています。
あなたから私へ、
私からあなたへと。

男の言葉はまず受容から始まります。音楽もまた、暗い響きを力で押しのけるのではなく、別の光の中へ静かに移り変わっていきます。直前までの沈み込みが深かっただけに、ニ長調の響きは、救いというより、もっと静かな赦しのように感じられます。続く旋律の広がりは、男の言葉が女を包み込み、同時に夜の景色そのものを変えていくようです。月光はもはや、彼女の罪悪感を照らし出す冷たい光ではありません。すべてのもののまわりに光がある、という詩の言葉のように、音楽の空気全体が少しずつ澄んでいきます。

そして、二人の間に温もりが行き交い始めます。ここから音楽は、個人の告白や罪悪感を越えて、二人の関係そのものが変わっていく場面に入っていくように聴こえます。

その温もりが、あなたの宿した子を清め、輝かせるでしょう。
あなたはその子を、私の子として産むのです。
あなたは私の中に光をもたらしました。
あなたは私自身をも、新しく生まれさせました。
男は彼女のたくましい腰を抱く。
二人の息は、夜の空気の中で口づけを交わす。

第249小節あたりで響きは嬰ヘ長調的な明るさを帯び、ここから音楽は、受容からさらに変容へ進んでいきます。女の過去が消えるわけではなく、宿された子の存在がなかったことになるわけでもありません。しかし、それらは男の言葉によって、別の意味を与えられていきます。

音楽もまた、暗い響きを完全に捨てるのではなく、その記憶を抱えたまま、光の中へ移っていくように聴こえます。ニ長調の響きは、ただ明るいというより、冷たかった夜の中に温もりが生まれ、それが二人の間を行き交うような明るさです。

この部分では、男の言葉と音楽が、過去を受け入れて新しい意味へ変えていきます。詩の中の「浄める」という言葉は、道徳的に清めるというより、暗いものが変容して新しい姿に変わる、という感覚に近いように思います。シェーンベルクの音楽もまさにそのように、半音階的な不安を残しながら、次第に明るい夜へ向かっていきます。

二人が、高く明るい夜の中を歩いていく。

最後の部分は、詩の結びの一行に重なります。

ここは、もう新しい言葉が語られる場面ではありません。男の受容の言葉が終わり、二人のあいだに何かが決定的に変わったあと、音楽は後奏のように静かに広がっていきます。冒頭と同じ夜、同じ林、同じ月光でありながら、その意味はまったく変わっています。ここには深い安堵のような落ち着きがあります。暗さを通り抜けた後に残る安堵感。冒頭の重い歩みは、ここではもう同じ重さでは響きません。二人は過去を消したのではなく、それを抱えたまま、別の夜の中へ進んでいくように感じられます。

この後奏は、《浄められた夜》という題名そのものを表しているように思います。浄められたのは、夜ではなく、二人の世界。互いを見つめるまなざしなのかもしれません。

ピアノ三重奏版では、ヴァイオリンとチェロがまるで男女二人の声のように聴こえます。弦楽六重奏版による演奏や、弦合奏版の演奏では、音楽が非常に劇的になります。それはちょっとこの詩の内容に合わないほど劇的で、特に弦合奏ではフォルテの部分が巨大な波になり感情が押し寄せてきます。しかし、この曲はもともと密やかな詩と音楽だと思います。ピアノ三重奏版では極端な感情表現は抑えられ、その波の中にある言葉のようなものが見えやすくなる気がします。響きと旋律は整理され、変容する和声とメロディははっきりと区別され、時に弦楽器、そして時にはピアノが主役となりその変容を密やかに奏でていきます。私にはこの編成の方が本質に近いのではないかと思えてきます。

そして終結部に向かって音楽が澄んでいくに従って、弦合奏では出せないピアノの分散和音の美しさが清らかに音楽が変容していく姿をより鮮明に描いていきます。これはピアノだからこそ出せる美しい音響でしょう。

チャイコフスキーとシェーンベルク、このカップリングで面白いのは、どちらも「悲しみ」や「重荷」を扱いながら、最後に向かう方向が違うところでしょう。チャイコフスキーのトリオでは、変奏を通して記憶がさまざまに広がりますが、最後には第1楽章の悲歌が戻り、葬送へ向かいます。悲しみは変奏され、豊かに広がっても、最後には死者を見送る場所へ帰っていきます。

一方、シェーンベルクの《浄められた夜》では、暗い歩みの音楽が、受容と愛によって変容していきます。悲しみや罪悪感が消えるのではありませんが、それが別の意味を与えられ、ほのかな希望となって受け入れ直されていきます。この違いが、二つの作品を並べて聴くことでかなり鮮明になります。

演奏については、アムステルダム・ピアノ・トリオの響きは、かなり明晰です。チャイコフスキーでは、ピアノの重量感と弦の歌がよく整理されていて、作品の大きな構造が見えやすくなっています。過度に甘く沈み込むのではなく、悲しみの中にある運動性や、変奏曲の多彩さがはっきりと出ています。

シェーンベルクでは、編曲の効果もあって、和声の骨格がかなり聴き取りやすくなっています。弦楽六重奏版のような濃密な官能性とは違いますが、その代わり、低音の動き、半音階的な緊張、旋律の受け渡しがよく見えます。これはかなり面白い演奏だと思います。

録音は2025年5月、ロンドンの聖サイラス殉教者教会で行われています。響きは豊かですが、ぼやけすぎず、三つの楽器の位置関係がわかりやすいです。チャイコフスキーではピアノの厚みがしっかりあり、シェーンベルクでは低音の動きや和声の濁りがよく聴こえます。空間の広がりはありますが、音像は近すぎず、室内楽としての対話とサウンドがうまくバランスが取れています。

最初は少し意外に見えるカップリングですが、聴いてみると、二つの作品はかなり深いところでつながっています。悲しみをそのまま葬送へ運ぶ音楽と、悲しみを淡い希望へと変えていく音楽。その二つの道筋を、ピアノ三重奏という編成で聴かせてくれるアルバムでありました。

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