生きる意味論
生きる意味は実在はしない。
客体的実在ではなく現象として「立ち現れる」。
生成という形で、それも受動的発生、触発、という形で。
生きる意味を問うているとき脳みそは病んでいる。
外圧に晒されて疲弊し、その外圧をシャットアウトするために意図的にシャットアウトして、まず外圧を下げる。
外圧が下がるとどうなるか、耐え難い刺激もなくなるぶん、虚無と無意味が訪れる。
「生きる意味がない…」というありふれた感覚として。
じゃあそこからどう抜け出すか。
生きる意味は絶対的な存在、つまり神のような形で存在しない。ではもう終わりか、この発想はデカダンと実存主義の罠。
ここが肝で、意味は対象との関係性の中で触発され生成する。つまりある意味で生きる意味はそこら中に転がっている。
しかしないと思うのは脳がそのそこら中にいる他者や対象を拒絶するからだ。
なぜ拒絶するか外圧に晒されすぎて脳が病んだからだ、だから、その脳が意味を感じられる為の「余白」を作ることが最も重要な作業になる。
余白が生まれれば意味を見いだせるようになる。
