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無くならない「境界」に、少しだけ寄り添う|『君と私』鑑賞記録

2025年11月14日(金)日本公開の映画『君と私』を観た。
中学生の頃、連日とある事故のニュースを見ていた記憶を用意して、映画館へ向かった。

※本記事の最後の章は、題材となった事故についての記述を含みます。記述を含む箇所で再度同様の注意喚起を記載しますが、事故のトラウマを想起する可能性のある方は、ご自身の心身の状態を優先してください。無理に読み進めなくても大丈夫です。お読みいただく際は、予めご注意ください。

 ★ をつけた章は映画『君と私』の内容に触れています。まだ映画を鑑賞されていない方はご注意ください。

それ以外の章は、基本的に公式サイト等で出ている情報以上の映画の内容には触れずに書きました。 ★ がついていない章だけ読んでもらっても問題ないように構成しています。(上手くいってるといいんだけど…)

私の感想は ★ がついた章に書きました。鑑賞前に私の感想を読むことで、何かしらの固定された視点や考えを持ってほしくないからです。私の感想は私自身にとっては大事なものですが、これを読んでいるあなたには、あなた自身の感想を大事にしてほしいです。


あらすじと鑑賞理由

修学旅行の前日。セミ(パク・ヘス)は、教室で不思議な夢を見た。
胸騒ぎを覚えたセミは学校を抜け出し、
脚のけがで入院中のハウン(キム・シウン)の病室へと走る。
セミは、一緒に修学旅行に行こうとハウンを必死で説得し、
ビデオカメラを片手に何とか旅費を工面しようとする。
しかしどこか煮え切らないハウンの態度に、
セミの抑えていた感情がついに溢れ出す。
心に秘めてきた想いを、今日こそ伝えたい。
お互い言葉にならない気持ちを抱えたまま、2人だけの夜が訪れた━━。

映画『君と私』公式サイト

何ヵ月か前、Twitterのおすすめ欄にこのポスターが出てきた。あまりに頭を離れなくて絶対観に行こうと思った。でも同時に、併記された題材を見て、どういう心構えで観たらいいのか悩んでもいた。

『君と私』ポスター

光の夢、影の行方

セミとハウンの親密さが感じられる軽快な会話。少ないカット数と静的な長回しのカメラワークで演出されるゆったりとした時間の流れ。学校を早退した日の午後が驚くほど長く感じるものだったことを思い出させてくれる。

映画全編を包み込む暖かくて柔らかい光は、あるはずの影を消失させ、人や物の輪郭を融解しながら、セミやハウン、観客すらも幸せな夢の中にいるような心地にさせる。この夢は永遠に続く、そんな錯覚すら覚える。

では、影はどこへ行ったのか。

物語が進むにつれて2人の間に諍いが起こる。ハウンは抱えた事情を打ち明けることができず、セミはその態度に対するもどかしさや苛立ちを抑え切れなくなる。怪我のせいで足取りすら合わなくなり、2人は遠ざかっていく。
そして、ハウンと連絡がつかなくなる。

死んでしまったペットの話。
テーブルの端に置かれた水の入ったコップ。
止まったままの時計。
水溜まりから拾い上げられる恐竜のオブジェ。
廃屋の中で身を寄せ合う犬たち。

あちこちに挟み込まれるこれらの描写は、とある事故を想起させる。その度に身体から力が抜けていき、そして、わたしたち観客は彼女たちの行く末をすでに知っていたことに気付く。光に満ちたこの映画における影が生まれ、死の匂いを充満させていく。

★ 孤立した眼差しと存在

ハウンと離れた後、カラオケに来たセミはボーカルグループBig mamaの「諦め(체념)」を歌う。失恋ソングと言っていい歌詞のバックで流れる映像は、修学旅行先である済州島で楽しい時間を過ごすセミとハウンのものに変わっていく。

徐々にエスカレートする歌声と相まって、ハウンに対してセミが抱える感情とその大きさがありありと伝わってくる。セミの眼差しが現実や時間を超越している瞬間とも捉えられる。

しかし、ハウンの眼差しはその場に存在しない。映像の中にはハウンの眼差しでセミを見ていると思われる瞬間があるが、これはあくまで「セミが望むハウンの眼差し」に過ぎない。一方通行、片思いの状態である。ハウンはセミのことをどう思っているのだろうか。

連絡がつかなくなったハウンを探す中、セミはハウンの幼馴染から「あなたは自分勝手すぎる」「ハウンがどんな事情を抱えてるのかわかってない」と責め立てられてしまう。セミは自身の眼差しを省みざるを得なくなる。

隔たりは各々の眼差しや思いだけに留まらない。作中、セミだけが何度も鏡に映り込む。まるで彼女の存在が世界から切り取られているかのように感じられてしまう。

今わたしたちが見ているのは、誰にとっての現実なのか。何が在って、何が居ないのか。セミの眼差しや存在の揺らぎにあわせて、彼女と同化していた観客の眼差しは少しずつ剥離し始める。

★ 曖昧になる境界

病室のカーテン。
ハウンの部屋の窓。
廃屋を囲むフェンス。

セミとハウンを遮るものが無くなった終盤、迷子犬の飼い主は犬が迷子になるまでの経緯や、それを防げなかった、尽くせなかった後悔について2人の前で吐露する。

鑑賞を通して想起してきたやるせなさや喪失は、この独白にどうしようもなく結びつき、観客をスクリーンの中へ溶け込ませていく。

自身の態度についてハウンに謝ったあと、セミは教室で見た夢について語り始める。

修学旅行から帰ってくると、そこにはセミ以外の誰もいなかった。歩き回りながら辿り着いた草原で、ハウンが死んでいるのを見つける。その横顔は友達や先生にも見えてくる。しかし、セミはそれが自分自身であることに気付く。

冷たい光に満ちた教室で、夏服を着たハウンが目を覚ます。彼女が働くカフェの机の端には、水の入ったコップが置かれている。ハウンが乗っているバスの中では、沈没船の引き揚げが中断されたニュースが流れている。しかし、ニュースの主題はすぐに最新の潜水技術に移り変わる。ハウンは絡まったイヤホンをほどけないまま、泣き崩れる。

作中の様々な場面と同じ構図のショットに、コントラストを持たせて描写していく。夢の構造自体は、漫画における「回想(黒枠のコマ)内でさらに過去(灰色枠のコマ)を語る」形に似ている。しかし、作品が時間を支配する映画館において、観客にこの構造を理解する十分な時間は与えられない。

映画と観客。
夢と現実。
過去、現在、未来。
生と死。
君と私。

全ての要素が絡み合い、あらゆる境界が曖昧になっていく。その後2人が何回も何回もお別れを言い合う時間は、確かに存在する幸せと変えようのない終わりを同時に映し出す。

形を持ったそれぞれの愛と、無数に重なる사랑해(愛してる)の声に包まれ、そして、「すぐ戻るね」の一言で映画は終わる。

慰めのような映画だった。

愛する他者との突然かつ不条理な別れを経験した(もしくはこれから経験するかもしれない)観客にとって、一緒に過ごすはずだった時間や伝えられるはずだった言葉は後悔に変わってしまう。

だからこそ、本作の冗長に感じかねない時間演出や、伝えすぎているように感じる終盤の言葉たちは、その後悔を代替することで溶かして、愛に戻すために必要不可欠なものだった。

そして、境界が曖昧になった中で描写される様々な愛の形は、誰かを愛したり誰かに愛されたりした事実は、時間や空間を越えて、いつまでも変わることなく、わたしたちの中に存在し続けると優しく教えてくれた。

濁流のような情報量や倍速での動画視聴が当たり前になりつつある現代において、映画館という閉じられたロケーションで、時間をかけながらこの映画と演出に向き合えたのは幸せで大切な体験だった。

余談だが、この映画には光の粒子性と波動性についての授業が行われる場面がある。分野としては量子力学に当たる。喪失や死に向き合う作品に量子力学的視点があるのは、今年公開された映画『片思い世界』と同じだ。

量子力学によると、物質がどのような状態で存在しているかは、観測という行為によって「定まって見える」らしい。言い換えるなら、観測を行っていない、もしくは行えない場合は、その存在についてたくさんの可能性が共存していると言える。

結局のところ、わたしたちは愛した他者が今もどこかにいると信じていたいし、少なくとも自分の一部になっていると相手に知っていてほしいのだと思う。

無くならない「境界」に、少しだけ寄り添う





※この先の文章は題材となった事故についての記述を含みます。事故のトラウマを想起する可能性のある方は、ご自身の心身の状態を優先してください。無理に読み進めなくても大丈夫です。お読みいただく際は、予めご注意ください。





この映画は2014年4月16日に発生したセウォル号沈没事故を題材としている。300人以上が犠牲となり、その多くが修学旅行で済州島へ向かう途中の高校生だった。当時中学生だった私は、連日報道されるニュースをただ見ていた。人災の側面があったことはなんとなく覚えている。

本編が始まる前にこの事故の詳細がテロップで表示される。ただ、どうやらこのテロップは韓国での公開時にはなかったものらしい。好意的に捉えるなら、それぞれの観客が抱える喪失に作品が呼応する可能性を多少損なってでも、痛ましい事故を風化させないために国外へ周知する選択をしたと考えるべきなのだろう。

でも、そう考えると余計にこの作品を消費した罪悪感が拭えなかった。私は事故の「犠牲者家族」ではないし、事故自体も「体験」ではなく「記憶」の一部としてしか実感できない。事故の直接的な言及や描写がない本作において、テロップは当事者性のなさを浮き彫りにし、自分の感動のために事故を利用しただけだという感覚を強くする。本国での公開時に想定されていた観客と私の間には、無くならない「境界」があることを、かえって突き付けられたように感じてしまった。

どうしたらいいんだろう。何をするべきなんだろう。そもそも、何かできることなんてあるのだろうか。鑑賞から2週間近くたった今、私の中にあるとりあえずの答えは「知ること」だ。それは事故自体についてもそうだし、私と他者の間にある「境界」についても当てはまる。

事故について調べてみた。発生から72時間の出来事を集約したサイトや、「犠牲者家族」の特集記事が見つかった。沈没の原因が判断されたのは2024年、それが公表されたのは今年2025年だったらしい。

調べる中で事故を題材とした他の映画や本があることもわかった。下記は名前をよく見かけた映画とエッセイ集。すぐにはできないけれど、近いうちに観たり読んだりしてみようと思う。

私は自分のすべてを他者と重ねることはできないし、他者の思いや体験を自分の物にはできない。どうやっても「境界」は無くならない。それでも、こんな風に少しでもいいから「知ること」を通して、想像して、寄り添って、祈ることくらいはできる気がしている。

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