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列の途中 第6話 想定外は、起きる ――それは手順の問題か

朝倉恒一が病棟の空気に少し慣れてきたと感じたのは、七月の終わり頃だった。

もちろん、何でもできるわけではない。

介助もまだぎこちないし、評価に迷うことも多い。

それでも少なくとも、病室のカーテンを開ける前に喉が詰まる感じは、最初の頃より減っていた。

患者の表情を見る。

最初の一言を短くする。

無理に一回で全部やろうとしない。

そういう小さなことを意識するだけで、入れる場面は少しずつ増えていた。


その日、午後に入った依頼は、少し緊張する内容だった。

三崎清、69歳。

脳幹梗塞後、気管切開管理中。離床評価。

カルテ上では、循環動態は比較的安定。

呼吸状態も悪化はなく、午前中の看護記録にも大きな変化はない。

ただし、気管切開がある。吸引歴もある。

いつもの離床より、見るものも気を配る場所も増える。

病室前で記録を確認していると、受け持ちの看護師の高橋が声をかけてきた。

「今ちょうど落ち着いてます。吸引もさっき済ませました」

「ありがとうございます。今日は端座位くらいまで、状態を見ながら進めようと思っています」

「お願いします。私も一緒に入りますね」

朝倉は少し安心した。

ひとりではない。

しかも気道管理に慣れている看護師がそばにいる。

分からないことがあればすぐ相談できる。

病室に入ると、三崎さんは半眼で天井を見ていた。

意識は清明に近いが、発語は難しい。

問いかけに対し、瞬きや顔のわずかな動きで反応する。

「こんにちは。リハビリの朝倉です。今日は少し起きられるか、様子を見させてください」

患者は小さく一度まばたきをした。

朝倉は高橋と目を合わせ、体位やラインの位置を確認する。

モニター波形。

酸素飽和度。

気切チューブの固定。

点滴ルート。

頭の中で順に確認していく。

落ち着いている。大丈夫。

自分にそう言い聞かせながら、ゆっくり上半身を起こしていった。

端座位までは何とか持っていけた。

若干の努力呼吸はあるが、明らかな破綻はない。

酸素も、脈も大きく変わらない。

高橋が頷く。

「いけそうですね」

「はい。今日はこのくらいで戻します」

朝倉はそう答えた。

ここまでは、むしろ想定より順調だった。

気切があっても、状態を見ながらなら十分いける。

そんな手応えすら少しあった。

問題は、その直後に起きた。

ベッドへ戻し、体位を整えようとした瞬間だった。

何かが、ほんの一瞬ずれた。

朝倉の手元ではなく、視界の端。

白いガーゼ。

テープ。

チューブのライン。

次の瞬間、高橋の声が鋭く変わった。

「え、抜けた!」

朝倉の身体が止まった。

気管カニューレ―喉に入れていた管―が、外れていた。

一瞬、何が起きたか脳が追いつかない。

ただ、病室の空気だけが一気に変わったのが分かった。


「先生呼んで!」

高橋がナースコールを押しながら叫ぶ。

朝倉は患者の顔を見た。

呼吸、表情、モニター。

見なければいけないものは分かるのに、身体が思うように動かなかった。

「朝倉さん、酸素!」

高橋の声でようやく我に返り、朝倉は壁側の酸素投与準備に手を伸ばした。

手が少し震えていた。

廊下から足音が近づく。

主治医は病室に入ると状況を一目見て、落ち着いた声で確認した。

「抜去は今?」

「はい、体位戻しのタイミングで」

医師が患者の状態を見ながら指示を出す。

看護師がそれに即座に応じる。

朝倉も、言われたものを取る。

動いてはいる。

でも、自分が今どこまで役に立っているのか分からなかった。


数分後。

事態は、ひとまず落ち着いた。

モニターの数字も大きくは崩れない。

病室の緊張が、少しだけ緩む。

高橋が深く息を吐いた。

「……いったん大丈夫そうです」

医師が頷き、必要な指示を残して出ていく。

高橋も処置の確認に入る。

朝倉は病室の隅に立ったまま、自分の手を見ていた。

まだ少し震えている。

​病室を出たあと、朝倉はすぐに記録室へ戻れなかった。

​廊下の端、物品庫の前の人通りが少ない場所で立ち止まる。

​頭の中では、さっきの場面が何度も再生されていた。

​自分のせいだ。

その考えが、まず最初に来た。


​夕方。

記録室のパソコンの前で、朝倉はインシデントレポートの入力画面を開いたまま、もう何十分もフリーズしていた。

​「発生状況:端坐位から背臥位への体位変換時、気管カニューレが抜去」

​事実を打ち込む指がひどく重い。

​介助が乱暴だったわけではない。角度の問題で、抜ける時は抜ける。頭では分かっていても、客観的な文章に落とし込んでいく作業は、まるで自分の罪状を一つひとつ書き連ねているような気分だった。

「朝倉くん」

声をかけられて振り向くと、相馬がいた。今日のことは主任にも報告してある。伝わっているのだろう。しかし、いつもの表情だった。

朝倉は先に口を開いた。

「……自分の介助、まずかったですよね」

相馬はすぐには答えなかった。

そして静かに言った。

「振り返りは、しておいた方がいいですね」

責める調子ではなかった。

「どの角度だったか。張力がかかっていなかったか。他に手を添えられたか。そこは整理しておくと、次に活きると思います」

少し間。

「ただ」

声が少し柔らかくなった。

「全部を“自分のせい”にする必要はありません」

朝倉は顔を上げた。

相馬は続けた。

「改善できることはあります。でも、ゼロにできないこともあります」

静かな言い方だった。

「気管切開がある方の離床は、どれだけ注意しても、リスクが完全になくなるわけではありません」

少し間。

「医療は、“何も起きないようにする仕事”だと思いたくなります」

相馬はゆっくり言った。

「でも実際は」

一拍。

「起きたときに崩れないように準備する仕事に近い」

朝倉は黙って聞いていた。

相馬は続けた。

「今日は、看護師さんが一緒にいた。先生もすぐ来られた。物も近くにあった」

「はい」

「それは偶然ではありません」

短く言った。

「普段から、そういう体制を作っているからです」

相馬は少しだけ姿勢を変えた。

「技術は大事です」

一拍。

「でも、それと同じくらい、一人で抱えない流れを作ることも、大事です」

朝倉は小さくうなずいた。

「……怖かったです」

相馬はすぐに否定しなかった。

「そうですよね」

それだけだった。

「最初は、身体が止まることもあります」

落ち着いた声。

「珍しいことではありません」

そして短く言った。

「今日のことは、整理しておくとして」

一拍。

「起きたことと、悪かったことは、分けて考えましょう」


看護師の高橋がリハ室に寄ってくれた。

「さっきはありがとうございました。朝倉さんもいてくれて助かりました」

朝倉は言った。

「途中、かなり固まってしまって……」

看護師は首を振った。

「最初は皆そうですよ」

そして続けた。

「呼べたし、動けていたし、それで十分です」

胸の奥が、さっきよりもさらに苦しくなった。

​怒ってくれた方が、ずっと楽だった。

​実際には何もできず固まっていただけの自分を、周りは「不可抗力だから」「新人だから」と許してくれる。


その日の帰り。

相馬がロッカーを閉めながら言った。

「今日のこと、引きずりすぎなくて大丈夫だと思います」

朝倉は振り返る。

相馬は続けた。

「振り返るのは大事です」

短く。

「でも、明日入れなくなると、もったいない」

それだけだった。

朝倉はロッカーの前で少し立ち止まった。

何も起きない現場なんて、たぶんない。

どれだけ気をつけても、想定外は起きる。

だから怖い。

でも、怖いからこそ。

一人で抱えない準備をしておく。


アパートに帰ると、スマホが震えた。

大学の同期グループだった。

【勉強するとやっぱ活きるな!明日も頑張ろうぜ】

ムードメーカーの田中のメッセージ。

 流し見して、画面を伏せる。

今夜は無理だ。


次回、第7話「居続ける」

答えが出ないまま、

それでも行かなければならない日がある。

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