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列の途中 第11話 とりあえず抑制 ――縛られた手を、ほどけない

入院三日目の夜、ナースコールが鳴り続いていた。

佐伯はベッドの上で体を起こし、点滴のチューブを握っていた。

「帰る」と低い声で言う

看護師が近づいた。

「ここは病院ですよ」

佐伯は首を振った。

「違う」

次の瞬間、点滴を強く引いた。

アラームが鳴り、看護師が慌てて押さえる。

佐伯は腕を振り払った。

力が強かった。表情は険しく、目の焦点が合っていない。

転倒、自己抜去、混乱。どれも起こり得る。

カルテを見た全員が理解していた。

身体のリスクだけが、リスクではない。

医師が短く言った。

「抑制しましょう」

看護師がうなずく。ミトン(手袋型の拘束具)、ベッド柵、身体ベルト。

準備が進む。

佐伯は「やめろ」と声を上げて抵抗したが、止まらなかった。

数分後、抑制は完了した。

病室は静かになった。


翌朝、佐伯は眠っていた。

昨日のことを覚えていない様子だった。

朝倉はカルテを確認し、ベッドサイドに立った。

手首にはミトン、ベッドにはベルト。

それは必要な処置だった。

誰も疑っていない。

数日間、せん妄(夜間に起こりやすい意識の混乱状態で、入院や手術がきっかけになることがある)は続いた。

夜になると起き上がり、怒り、点滴を触り、帰ろうとする。

何度も繰り返した。

転倒こそなかったが、危険だった。

そして時間が過ぎた。


数日後、佐伯の様子は少しずつ変わっていた。

夜間の大きな興奮はなくなり、大声も出さず、点滴を抜くこともない。

ただ起き上がり、ベッドの端に座り、周囲を見回してからまた横になる。

その程度だった。

看護記録にはこう書かれていた。

「夜間、自己にて起き上がりあり。転倒なし。見守りにて対応」


リハビリ場面での佐伯は安定していた。

車椅子への移乗、立ち上がり、方向転換、歩行。

どれも問題ない。

起き上がり時の重心移動もコントロールできており、突発的な動きもなかった。

だが病室に戻り、ベッドに横たわると現実は戻ってきた。

看護師が手慣れた手つきでミトンをつけ、ベルトを締める。

以前のように佐伯は暴れなかった。

ただ、自分の固定された手をじっと見ていた。

「先生」とぽつりと言った。

「俺は、もう悪いこと、してないのに」

朝倉は息を呑んだ。

「なんで、まだ縛られるんだ」

声に怒りはなかった。ただ、深い諦めと悲しみが混じっていた。

「こんなところ……もう、嫌だ」

朝倉は佐伯の目を見た。最初の頃の焦点の合わない狂乱とは違う。

せん妄は終わった。興奮状態はすでに収まっている。

だが縛られ続けることで環境への興味を失い、認知機能そのものが確実に落ちてきているのが分かった。


リハビリの時間には歩けるようになっている。

身体は良くなっている。

なのに、ベッドに縛り付けられることで頭の中が少しずつ削り取られていく。

このままでは駄目だ。

転ばないかもしれないが、人として壊れてしまう。


午後、ナースステーションで朝倉は看護師――今日の受け持ちは高橋さんだ――に声をかけた。

「最近、夜間の様子はどうですか」

高橋はカルテから目を離さず答えた。

「前よりは落ち着いています。ただ、起き上がりが頻回で、なかなか抑制が外せないですね」

「転倒はしていませんが」と続ける。

「夜間は人も少ないですし、見守りが間に合わないタイミングがあると困るので」

言い訳ではない。説明だった。

「センサーマットは使えそうでしょうか」と朝倉は言った。

センサーマットとは、ベッドから離れる動きを感知して看護師に知らせる装置だ。

これがあれば、拘束しなくても転倒リスクを下げられる可能性がある。

高橋は首を横に振った。

「数が足りないんです。もっとリスクの高い方がいて、そちらに優先的に使っています」

そして。

「だから、とりあえず抑制ですね。」

短い言葉だった。

でも、それが現実だった。

病棟には限られた数しかない。

誰に使うか、常に選ばなければならない。その判断は間違っていない。

夕方、リハ室に戻る途中で相馬が声をかけた。

「様子はどうですか」

「落ち着いています。夜も起き上がる程度です。ただ抑制は続いていて、リハでは安定しているし、転倒もしていない。でも認知が落ちてきています。このままでいいのか迷いますが、かといって病棟に無理は言えなくて」

相馬は歩みを止めた。

「こういう時こそ、個人で抱えないことです」

「看護師さんの判断も正しいかもしれない。あなたの評価も正しいかもしれない。だから」と相馬は続けた。

「仕組みを使います」

「仕組みですか」

「身体抑制対策委員会―病院内で、患者を縛る処置が本当に必要かどうかを審査する組織―です。

個人で交渉するのではなく、公式ルートに上申して組織の判断を仰ぐんです。

ただし上申するには根拠が要ります。

リハビリの視点を、他部門が分かる言葉に翻訳してください」

朝倉はうなずき、カルテに向かった。

「動けます」という抽象的な言葉は使わない。

専門的なバランス評価、起き上がり時の重心移動の安定性。

それらを客観的なデータとして記載した。

『起立動作そのものが安定しているため、センサーマットの反応から見守りへ移行しても、転倒リスクは極めて低いと評価します』

理学療法士としての説明責任だった。

自分がリスクを取る、ということだった。

もし外して転倒すれば、この評価を書いた自分の責任も問われる。

キーボードを叩く指先が、少しだけ重かった。

数日後、身体抑制対策委員会の評価が行われた。

短いカンファレンスで、朝倉の提出した理学療法評価が判断の決め手になった。

結論は簡潔だった。

「日中、抑制解除。夜間は代替案(センサーマットの調整)にて対応」


その日の午後、佐伯のミトンが外された。

佐伯は自分の手を見てゆっくり指を動かし、言った。

「やっと外れたな」

朝倉は佐伯の動きを注視した。ベッドの端に座り、立ち上がる。

少しだけ身体が揺れる。

朝倉は一歩近づいた。

だが佐伯は自分の足で踏みとどまり、重心を戻した。

評価通り、転ばない。

朝倉は、自分の取ったリスクが患者の尊厳を少しだけ取り戻したのを感じていた。


数日後、朝倉の担当期間は終わった。

回復期リハビリテーション病棟への転棟だった。

ストレッチャーではなく、車椅子だった。

「向こうでも歩くぞ」と佐伯は言った。

「はい」と朝倉は答えた。

ドアが閉まり、車椅子が動き出す。

朝倉は遠ざかる車椅子を見送りながら考えていた。

あの評価は正しかったのだろうか。

病棟で転倒しなかったのは自分の評価が正確だったからか、それともたまたま運が良かっただけか。

夜間の看護師たちの見えない努力に、ギリギリで助けられていただけではないのか。

分からない。

急性期の時間は短すぎる。

リスクを取って、評価を出して、組織を動かして、なんとかつなぐ。

でもその結果は正しかったのか、ただ現場をかき乱しただけだったか。

本当の答え合わせができる前に患者は次のステージへ去っていく。

勝ったわけではない。

すべてが検証されたわけでもない。

ただ、つながった。


次回、第12話「列に並ぶ」

一年目が終わり、病棟に新しい顔が増える。

教わったことの意味も、少しだけ変わる。

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