列の途中 第33話 時間決めてやろう ――「実習」と「定時」
九月末。
相馬が大学へ移ってから、初めての実習生が来ることになった。
受け入れ先は急性期。
送り出し元は、相馬のいる大学だった。
朝礼で主任の野口が言った。
「来週から三週間、実習生が一人来る。担当は朝倉と田中で見る」
朝倉は小さくうなずいた。
田中は隣で、いつものように表情を変えなかった。
ただ、朝礼後にぽつりと言った。
「相馬さんのところの学生か」
「そう」
「じゃあ、変なことできないな」
田中は冗談のように言ったが、朝倉には少しだけ分かった。
実習生を預かるということは、患者を見ることとは違う重さがある。
学生本人の学び。
患者の安全。
指導者側の時間。
そして、現場の流れ。
全部を一度に守らなければならない。
その日の夜。
子どもを風呂に入れ、寝かしつけながら、朝倉はスマートフォンを手に取った。
隣の部屋にいる妻にメッセージを送る。
【来週から実習生を見ることになった】
少しして返信が来た。
【そうなんだ】
【遅くなる?】
短い言葉だった。
責める感じはない。
ただ、確認しているだけだった。
朝倉は少しだけ画面を見つめた。
それから、打ち込んだ。
【大丈夫にする】
送信。
既読。
すぐに返事が来た。
【無理しないでね】
それだけだった。
朝倉はスマートフォンを置いた。
約束をした、と思った。
学生に対してでも、職場に対してでもない。
家族に対しての約束だった。
「昔の実習ってさ」
翌日の昼休み。
田中がカルテを開きながら言った。
「遅くまで残って、レポート直して、学生も指導者も疲れ果てるやつ、多かったよな」
「多かったなー」
朝倉は苦笑した。
「今はそれ、できないな」
田中は短く言った。
「できないというより、やらない方がいい」
朝倉は顔を上げた。
田中は続けた。
「疲れ切った指導者が、疲れ切った学生に、疲れ切ったフィードバックしても、あんまり残らない」
それは、田中らしい言い方だった。
朝倉はうなずいた。
「時間決めてやる?」
「だな」
二人は昼休みに、実習の進め方を簡単に決めた。
朝は数分。
その日の目標を確認する。
昼に十五分。
午前中に見たことを整理し、午後の視点を決める。
夕方は最後の一時間。
最初の十五分で学生にデイリーノートを書いてもらう。
残りで症例の考え方を一緒に整理する。
「レポートは?」
田中が聞いた。
「これも時間を決める。止まったら一緒に書く」
朝倉が答えると、田中は少し笑った。
「いいね。考えさせるふりして放置するの、一番しんどいからな」
朝倉は、相馬に教わってきたことを思い出した。
分からない人を、分からない場所に一人で立たせ続けない。
それは患者に対しても、学生に対しても同じだった。
田中がペットボトルの水を一口飲んだ。
「あとさ」
少しだけ間を置いた。
「俺も、あんまり遅くまでは残れない」
朝倉は顔を上げた。
「うちも同じだ」
田中は軽くうなずいた。
「まだ小さいからな」
「一歳だっけ」
「そう」
田中は短く答えた。
「帰ったら風呂入れて、寝かしつけて、それで一日終わる」
少し笑った。
朝倉も、同じ顔をしていた。
ここで田中がふと朝倉を見る。
「……お前、最近ちょっと顔やばいぞ」
朝倉は苦笑した。
「失礼だな」
「いや、クマすごい」
田中はそれだけ言って、水を一口飲んだ。
少し間。
「相馬さん、たまにそういう顔してたわ」
朝倉は、一瞬だけ返事を止めた。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「残業前提の指導はできない」
静かな声だった。
「学生も、自分たちも、潰れる」
朝倉は小さくうなずいた。
「時間を守るのも、指導の一部だな」
「そういうこと」
翌週。
実習生は、緊張した顔でリハビリ室に入ってきた。
名前は水野。三年生。
挨拶の声は小さかったが、姿勢はまっすぐだった。
「三週間、よろしくお願いします」
朝倉はうなずいた。
「よろしくお願いします」
田中も軽く頭を下げた。
「無理しすぎないで。分からないことは分からないって言ってくれた方が助かるから」
水野は少し驚いたように顔を上げた。
たぶん、もっと厳しい言葉を想像していたのだろう。
朝倉は一枚の紙を渡した。
「まず、今日からこれを使います」
そこには、三つの欄があった。
今日の目標。
今日見たこと。
明日に残すこと。
「細かく書かなくていいです。きれいな文章もいりません。今日、自分が何を見るのか。何を見たのか。そこだけ残していきましょう」
水野は紙を見つめた。
「毎日、提出ですか」
「提出というより、共有です」
朝倉は言った。
「私たちが、水野さんの考えを知るためのものです」
田中が横から付け加えた。
「真っ赤に直すための紙じゃないよ」
水野の肩が、少しだけ下がった。
午前中は、見学から始めた。
脳梗塞後の端坐位評価。
TKA術後の可動域練習。
心不全を合併した患者の離床判断。
水野は、どれも必死にメモを取っていた。
ただ、メモが多すぎた。
患者の顔を見る時間より、ノートを見る時間の方が長い。
昼。
朝倉は食堂の隅で、水野に聞いた。
「午前中、何が一番印象に残りましたか」
水野はノートを見た。
「えっと、脳梗塞の方の麻痺の評価と、TKAの膝屈曲と、心不全のバイタルと……」
言葉が増えていく。
田中が途中で止めた。
「一個でいいよ。というか、一個にして」
水野は顔を上げた。
「一個、ですか」
「一個」
田中は弁当の蓋を閉めながら言った。
「全部覚えようとすると、全部薄くなる」
水野は少し黙った。
それから、小さく言った。
「心不全の方で、歩けそうなのに止めたことです」
朝倉はうなずいた。
「いい視点です」
水野の表情が少し緩んだ。
朝倉は続けた。
「では午後は、“できそうでも止める判断”を見てください」
水野はデイリーノートに書き込んだ。
できそうでも止める判断。
字はまだ硬かった。
でも、目標にはなっていた。
夕方。
最後の一時間。
水野はデイリーノートを書き始めた。
十五分。
タイマーを置いた。
最初、水野は驚いていた。
「時間、測るんですか」
田中が答えた。
「測る。終わりがないと、書類に食べられちゃうぞ」
朝倉は笑いそうになったが、言っていることは本当だった。
十五分後。
水野の紙には、短い文章が並んでいた。
できそうでも、全身状態によって止める判断がある。
歩行能力だけでなく、心不全や血圧、疲労感を見る。
患者さんができると言っても、安全とは限らない。
十分だった。
文章として整っているかどうかより、今日の学びが残っていることの方が大切だった。
症例報告の時間。
水野は一人の患者について説明しようとして、途中で止まった。
「統合と解釈が……うまく書けません」
以前の朝倉なら、少し考えてみようか、と言っていたかもしれない。
でも今は違った。
「では、一緒に書きましょう」
水野は驚いた顔をした。
「いいんですか」
「いいです」
朝倉は隣に座った。
田中が椅子の背にもたれながら言った。
「止まってる時間が長いと、だんだん自分がダメな気がしてくるからな」
水野は少しだけ下を向いた。
その言葉は、刺さったようだった。
定時の十分前。
デイリーノートも、症例の整理も終わった。
水野は荷物をまとめながら、不思議そうに言った。
「こんな時間に、帰っていいんですか」
田中がすぐに答えた。
「いいって言ってるじゃん」
朝倉も言った。
「帰ってください。休むのも実習の一部です」
水野は少し迷ってから、頭を下げた。
「ありがとうございました」
その背中がリハビリ室を出ていく。
朝倉は時計を見た。
まだ定時前だった。
田中が伸びをした。
「いいね」
「何が」
「学生も帰る。俺らも帰る。患者にも迷惑かけてない」
田中はパソコンを閉じた。
「これでいいんだよ」
朝倉はうなずいた。
教えることは、背負わせることではない。
一緒に、持てる形にすることだ。
そう思いながら、田中と並んで病院を出た。
田中と組んで、見えなかったものが見えた。
でも田中は言った。
この構造って、ガチャだよな。
