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列の途中 第3話 病棟の味方 ――名前、覚えましたか

朝倉恒一は、病棟に入るたびに少しだけ肩に力が入っていた。

リハビリ室とは空気が違う。

ナースステーションには電話の音があり、モニターのアラームがあり、誰かの名前を呼ぶ声がある。

ベッドサイドでは点滴が交換され、検温が終わり、食事の下膳が始まっている。

その中を、理学療法士の白衣で歩く。

自分はここにいていいのだろうか。

そんな感覚が、まだ消えなかった。


 その日の午前、朝倉は新しい患者のリハビリに向かっていた。

脳梗塞後の患者。

発症から2日。

主治医からは「可能なら端坐位、立位まで」と指示が出ていた。

カルテ上では、バイタルは安定している。

麻痺は軽度。

意識も清明。

条件だけ見れば、入れそうだった。

朝倉は病棟へ向かう途中で、今日こそはスムーズに進めたいと思っていた。

ナースステーションに着くと、看護師たちは忙しそうに動いていた。

誰に声をかければいいのか、一瞬迷う。

顔は見たことがある。

でも、名前が出てこない。

朝倉はカウンター越しに言った。

「すみません。三〇八号室の山崎さん、リハビリ入っても大丈夫ですか」

近くにいた看護師が、パソコンから顔を上げた。

「山崎さん?ああ、今ちょっと待ってください」

その声は冷たくはなかった。

ただ、余裕もなかった。

看護師は別の看護師に声をかけ、さらに処置中のスタッフにも確認している。

朝倉はその場に立ったまま、少し居心地が悪くなった。

自分が一言聞いたことで、病棟の流れを止めているような気がした。

結局、別の看護師が言った。

「今、点滴更新したばかりなので、行くならルート気をつけてください。あと、昼前に検査呼ばれるかもしれません」

「わかりました」

朝倉はそう答えたが、心の中では少し焦っていた。

検査。

昼前。

点滴更新直後。

カルテだけ見ていた時には、そこまで考えていなかった。


病室に入ると、山崎さんはベッド上でテレビを見ていた。

「こんにちは。リハビリの朝倉です」

山崎さんは穏やかにうなずいた。

「少し起きる練習をしてみてもいいですか」

「はい」

反応は良い。

朝倉はほっとした。

だが、ベッド柵を外し、点滴ラインを確認した瞬間、動きが止まった。

点滴は右手の甲に入っている。

モニターコードもある。

尿器がベッド脇に置かれ、足元にはオーバーテーブルの脚とゴミ箱がある。

どれも、動かせないわけではない。

でも、全部少しずつ邪魔だった。

朝倉は点滴スタンドを移動させようとした。

その時、ラインがベッド柵に軽く引っかかった。

「あっ」

小さな声が出る。

山崎さんが不安そうに見る。

「大丈夫ですか」

「大丈夫です。少し整えますね」

朝倉は慌ててラインを直した。

その瞬間、背後から声がした。

「朝倉さん、こっち側から起こした方がいいかもです」

振り返ると、さっき対応してくれた看護師がカーテンの外に立っていた。

名札には「高橋」と書かれていた。

「点滴、右手ですよね。右から起きた方がラインに余裕あります」

「あ、はい。ありがとうございます」

高橋は中に入り、点滴ラインを軽く持ち上げた。

「山崎さん、さっきトイレ行きたいって言ってたので、起きたらまた言うかもしれません」

「そうなんですね」

「あと検査、まだ呼ばれてないです。今なら少しなら大丈夫です」

その一言で、朝倉の中の緊張が少し抜けた。

少しなら大丈夫。

病棟の人がそう言ってくれるだけで、こんなに動きやすくなるのかと思った。

高橋はラインを持ちながら言った。

「足元のゴミ箱、ぶつかりやすいんでどけますね」

「すみません」

「いえいえ。リハさん一人で全部見るの大変ですよね」

その言葉に、朝倉は少し驚いた。

責められると思っていたわけではない。

でも、そんなふうに言われるとも思っていなかった。

端坐位は問題なく取れた。

山崎さんは少しふらついたが、声かけで修正できる範囲だった。

立位も短時間なら可能。

血圧の変動も大きくない。

評価としては、十分だった。


病室を出たあと、朝倉は高橋に頭を下げた。

「ありがとうございました。助かりました」

高橋は軽く笑った。

「いえ。山崎さん、午前中ちょっと不安そうだったので、起きられてよかったです」

朝倉はその言葉を聞いて、はっとした。

自分は端坐位や立位の可否ばかり見ていた。

でも病棟では、その前から患者の表情や訴えを見ている人がいる。

山崎さんが不安そうだったこと。

トイレに行きたがっていたこと。

検査のタイミング。

点滴の更新。

それらは、カルテには全部書かれていない。

相馬が言っていたことを思い出した。

患者さんがリハ以外の時間を過ごしているのは、病棟です。


記録室に戻ると、相馬が画面を見ながら入力していた。

朝倉は隣に座った。

「山崎さん、端坐位と立位まで見られました」

「よかったですね」

「高橋さんに手伝ってもらいました」

相馬はそこで少しだけ顔を上げた。

「名前、覚えましたか」

朝倉は一瞬言葉に詰まった。

「……名札を見ました」

相馬は責めるでもなく、静かにうなずいた。

「それはとてもいいですね。次に会ったら、名前で呼べますから」

朝倉は画面に視線を落とした。

「病棟って、まだ緊張します」

「すると思います」

相馬は短く答えた。

「リハビリ室は、自分たちの場所です。でも病棟は、患者さんの生活の場所であり、看護師さんたちの仕事場でもあります」

朝倉は黙って聞いていた。

「そこに入らせてもらう感覚は、持っておいた方がいいです」

「入らせてもらう……」

「遠慮しすぎる必要はありません。理学療法士にも役割がありますから」

相馬は続けた。

「ただ、当然のように入ると、うまくいかなくなります」

朝倉は山崎さんの病室を思い出した。

「その意味で、看護師さん、でなく、名前で呼ぶのは大事なことです。看護助手さんもそうですね。たくさんいますが、これは頑張りましょう」

点滴、モニター、検査、トイレ希望、名前。

自分一人では見えていなかったことばかりだった。

「病棟でうまくやるって、技術の前なんですね」

朝倉が言うと、相馬は少しだけ笑った。

「技術を出すための前提、かもしれませんね」


その日の午後。

朝倉は別の患者の様子を見に病棟へ向かった。

ナースステーションには、高橋がいた。

忙しそうだった。でも、今日のうちに言っておきたかった。

朝倉は少し迷ってから、声をかけた。

「高橋さん」

高橋が顔を上げる。

「はい」

「午前中はありがとうございました。山崎さん、短時間ですが立てました」

高橋は少し表情を緩めた。

「あ、よかったです。本人も気にしてたので」

「午後、疲れが出ていたら教えてください」

「わかりました」

それだけの会話だった。

でも、朝倉には朝と少し違って感じられた。

病棟の空気が変わったわけではない。

忙しさも、音も、人の流れも同じだった。

変わったのは、自分の立ち方だった。

誰かの名前を呼ぶ。

助けてもらったことに礼を言う。

患者のリハビリ以外の時間を、少し想像する。

それだけで、病棟は「怖い場所」から「一緒に患者を見る場所」に少し近づいた。


夕方、記録を終えたあと、朝倉はメモ帳に小さく書いた。

高橋さん。

山崎さん、午前は不安あり。トイレ希望。検査前なら短時間可。

それは評価結果ではなかった。

可動域でも、筋力でも、バイタルでもない。

でも、明日の自分を助ける情報だった。

そしてたぶん、患者を助ける情報でもあった。

相馬が帰り支度をしながら言った。

「朝倉くん」

「はい」

「病棟で味方を増やすというのは、媚びることではありません」

朝倉は顔を上げた。

「患者さんを見る目を増やすことです」

その言葉は、すぐには返せないくらい静かに重かった。

味方を増やす。

それは、自分が楽をするためだけではない。

患者を一人で抱え込まないため。

見落としを減らすため。

病棟で過ごす二十三時間と、リハビリの数十分をつなぐため。

朝倉はメモ帳を閉じた。

明日もたぶん、病棟に入る時は少し緊張する。

それでも、今日よりは少しだけ声をかけられる気がした。

名前を呼ぶこと。

礼を言うこと。

一人で全部見ようとしないこと。

それは派手な技術ではない。

けれど、臨床の入口に立つためには、必要な技術だった。


病棟に、味方ができたばかりだった。

しかし、優しい声は、患者から言葉を奪っていく。

次回、第4話 「子ども扱いするな」

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