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列の途中 第35話 触れない方が動ける ――直接触れるか、外から誘導するか

十一月の後半。

進行性核上性麻痺――PSPの患者が、朝倉の担当になった。

七十代の男性。進行性核上性麻痺。入院から一週間。

カルテには、パーキンソン病との鑑別に時間がかかったと書いてあった。

検査を重ね、最終的にPSPの診断がついた。

朝倉は、病室に入る前に少し止まった。

PSPの患者を担当するのは、これで三人目だった。

一人目は、まだ駆け出しの頃。

右も左も分からないまま、パーキンソン病と同じように介入して、全くうまくいかなかった。

二人目は、少し理解が深まっていたが、それでも難しかった。

三人目の今、自分がどれだけ分かっているか、正直なところ自信はなかった。

病室に入ると、患者は車椅子に座っていた。

背筋は比較的まっすぐだが、頭が少し前傾している。顔の向きが独特だった。

「こんにちは。リハビリの朝倉です」

患者はゆっくりと顔を上げた。時間がかかったが、視線は合った。

「……よろしく」

声は小さかった。

歩行練習に入る前に、朝倉はまず立位を確認した。

患者が立ち上がる。

しっかり立てる。筋力は比較的保たれている。

では、歩いてみましょう、と朝倉が声をかけた時だった。

患者が傾き、足が止まった。しかし、転びそうな様子はなく傾いて止まっている。

「……出ない」

「今から一緒に」

朝倉が少し腕に触れようとした瞬間、患者の体が固まった。

全身の筋緊張が、一気に上がる感じだった。

「……動けない」

朝倉は、手を引いた。

少し距離を取る。

「ゆっくりでいいですよ」

声だけかける。

しばらく待つ。

患者の体から、少しずつ力が抜けていく。

そして、ふっと一歩が出た。

――触れようとした瞬間に、固まった

朝倉は、その感触を頭に残しながら歩行を見た。

直線は出る。

でも、止まった後の再発進が難しい。

廊下の端で折り返そうとした時、患者の足がまたすくんだ。

朝倉は今度は触れなかった。

「廊下の先の窓を見てください」

視線を前に向けさせる。

患者の足が、少しだけ動いた。

でも止まる。

「右手で、壁を触ってみてください」

患者の手が壁に触れる。

一歩、出た。

折り返せた。

病室に戻りながら、朝倉は考えた。

触れると固まる。でも、環境を整えると動ける。

パーキンソン病では有効な接触介助が、PSPでは逆に作用することがある。

全身を極限まで固めてバランスを保っているところに、余計な手が加わると、制御システムがパニックを起こす。

その日の昼。

記録室で、朝倉が考えながらカルテを打っていると、田中が来た。

「PSPの患者、さっき廊下で見てた」

「見てたか」

「触れようとした瞬間、固まってたな」

「そうなんだよ」

朝倉は少し前のめりになった。

「田中、PSP見たことある?」

「回復期で一人見た。難しかった」

「どうしてた」

「正直、あんまりうまくいかなかった。パーキンソンと同じように入ったら全然ダメ。徐々に触れない方向にした。」

「そっちの方が動けるんだよな」

「動ける。でも、それでいいのかって不安になる。俺は何のためにいるんだって」


その一言が、妙にリアルだった。

朝倉も、今日の介入でそれを感じていた。

「触れないことが介入だって、なかなか納得できないよな」

「そうだな。手を出した方がやってる感がある。でも、それが邪魔になる」

田中は少し考えてから言った。

「あと、家族がしんどい」

「そうだな」

「PSPって、認知よりも精神症状が先に出ることある。気分の波が大きくなって、感情をコントロールできなくなる。家族も混乱するし、本人も分かってるから余計に過敏になる」

朝倉はうなずいた。

「今の担当患者、奥さんが面会に来てる。毎日来てる。でも、どんどん表情が疲れてきてる」

「話せてる?」

「少しずつ。ただ、限界に近そうで」

「聞ける時に聞いとけ」

田中が言った。

「退院後のことを、少しずつでも整理しておかないと、後で本人も家族も追い詰められる」

「そうだよね。」

朝倉は、奥さんに声をかけるタイミングを考えた。

夕方の面会の時間。

奥さんが廊下のベンチに座っていた。

「少し、お時間よろしいですか」

奥さんは少し驚いた顔をしたが、うなずいた。

「最近、ご主人の様子はいかがですか。ご家族から見て、変わったことや、心配なことがあれば聞かせてください」

奥さんはしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「……性格が変わったみたいで」

「はい」

「昔は、穏やかな人だったんです」

少し間。

「今は、ちょっとしたことで不機嫌になって。私が何かするたびに、違う、そうじゃないって言われる」

朝倉は黙って聞いた。

「それが、病気のせいだって分かってはいるんです。でも」

奥さんの目が、少し赤くなった。

「分かっていても、つらいものはつらいんですよね」

朝倉は、何かを言おうとして、やめた。

「そうですよね」

それだけ言った。

奥さんは少し息をついた。

「朝倉さん、これからどうなりますか」

朝倉は少し間を置いた。

「先生からもお話があったと思いますが、PSPは、残念ながら進行する病気です。ただ、関わった患者さんを考えると、進み方はゆっくりだと感じています」

「はい」

「ご主人の体の状態を見ながら、今できることを一つずつ整理していきましょう。先々のことも、早めに一緒に考えていきたいと思っています」

奥さんはうなずいた。

「……お願いします」

病棟を出る時、外はもう暗くなっていた。

記録室で、田中がまだ残っていた。

「話せたか」

「少し」

「しんどそうだったか」

「かなり」

田中は、しばらく何も言わなかった。

それから、缶コーヒーをもう一本、朝倉の机に置いた。

「神経難病って、正解がないんだよな」

「ないな」

「進行するのは止められない。でも、今日を少し良くすることはできる。その積み重ねしかない」

朝倉はうなずいた。

田中は、窓の外を少し見た。

「俺さ」

声のトーンが少し変わった。

「辞めようと思ってる」

朝倉は、すぐには反応しなかった。

驚かなかった、というより。

どこかで、そういう日が来ると思っていた。

「そうか」

「うん」

田中はそれ以上を急かなかった。

朝倉も、聞きすぎなかった。

「いつ」

「来月末」

「急だな」

「前から考えてた。今回のPSPで決まったわけじゃない。ただ、ああいう患者と家族を見てると、ここでできることの限界がはっきり見える」

田中は少し考えてから言った。

「正解がない中で、できることをやる。その積み重ねしかないって、さっき言ったけど」

「うん」

「それは、ここじゃなくてもできるなって思った」

朝倉は、田中の横顔を見た。

「制度が変わらないと、届かないものもある。それは前から分かってた。でも、制度の中でできることをやり続けるのか、外に出てやれることを探すのか」

田中は、その先を急かなかった。

ただ、静かに言った。

「俺は外に出る」

朝倉は、何も返せなかった。

理解できてしまったからだ。

でも、同じことはできないとも思っていた。

自分には、相馬から教わった視点がある。

ここで使われるべきものがある。

それは、田中の選択を否定することにはならない。

ただ、別の道だった。

「小さく飲み会やるか」

朝倉がそう言うと、田中は少しだけ笑った。

「いいねー」


次回、第36話「どの列か」

医療の列、環境の列、目指すもの。

列に並ぶ時、どの列かの問いは避けて通れない。

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