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列の途中 第22話 引き継ぎ ――教える、ということ

十二月。

朝のリハビリ室。

「来週から実習生が来ます」

主任の野口が、申し送り表を見ながら言った。

静かな空気。

誰も驚かないが、少しだけ、全員の姿勢が変わる。

野口は続けた。

「担当は――相馬」

相馬は軽く頷いた。

朝倉は離れた席からその様子を見ていた。

――相馬さんなら大丈夫

誰もがそう思っていた。


午前八時。

リハビリ室のドアが開き、若い男性が立っていた。

「失礼します」

声は小さいが姿勢は整っている。

でも、目が少しだけ揺れていた。

相馬がゆっくり近づき、穏やかな声で言った。

「相馬です」

学生は深く頭を下げる。

「本日からお世話になります」

「まず、施設の説明をします」

丁寧な口調。病棟を回り、ナースステーション、処置室、リハビリ室を案内する。

説明は簡潔で、声は落ち着いている。

学生は必死にメモを取るが、呼吸が少し速い。

相馬はそれを見ていたが、何も言わなかった。


昼、患者の見学。

相馬が静かに言った。

「今日は見学だけでいいです。環境に慣れることが、最初の仕事です」

十六時四十五分。

「今日はここまでにしましょう。初日は早く帰る方がいいです」

学生は戸惑いながらも帰路についた。

相馬もいつも通り、定時で席を立った。

「お先に失礼します」

朝倉はその背中を見ていた。

何も変わらない、いつも通りの相馬だった。


その翌日。朝九時になっても、実習生は来なかった。

九時十五分、九時三十分。

リハビリ室の空気が重くなる。

九時四十五分、電話が鳴った。

受話器を取った相馬の応答は短かった。

「……はい。分かりました」

受話器を置くと、相馬はゆっくりと言った。

「大学からです。本人が来られないそうです。

大学側から、少し事情を聞きました。

責任を問うようなことではない、とのことでした」

一拍置いて、相馬は続けた。

「申し訳ないが、今回の実習は中止、とのことです」

少しだけ息を吐いた相馬に、主任の野口が言った。

「そうか」

それだけ。責めず、評価せず、ただ受け止めた。


数日後の夕方、相馬は主任の前に立っていた。

「主任。来週から、前からお話ししていた育休に入らせていただきます」

朝倉は顔を上げた。

――ああ、そうだった

「三人目です」

と言う相馬に、主任が笑った。

相馬は「お先に失礼します」と、変わらない背中で去っていった。

でも、その背中は少しだけ遠くなる気がした。



年が明けた一月。主任が言った。

「次の実習生が来る。担当は――朝倉、お前だ」

「はい」

「バックアップは俺がやる。宮田も手伝え。ただし、基本は主担当が持つ」

重い言葉だった。


午前八時。

ドアが開き、若い女性の実習生が入ってきた。

白衣に名札。整った姿勢だが、声が少し震えている。

朝倉はそれを見逃さなかった。

――緊張だけじゃない。余裕がない

彼女は真面目で丁寧だったが、歩幅が小さく、呼吸が浅い。

夕方、彼女が帰った後、宮田が心配そうに聞いてきた。

「朝倉さん、大丈夫そうですか」

「分からない。でも、気をつけて見ておく」

その夜、朝倉は迷った末に相馬へメッセージを送った。

『実習生のことで少し相談したいです』

返信は数分後。

『今、公園にいる。子どもが外に出たいと騒いでいて。見ながらでよければ話せるよ』


住宅街の小さな公園。

冬の冷たい空気の中、相馬が子どもと同じ高さでしゃがんでいた。

「おー!速いな!」

仕事中とは別人のような、明るい父親の顔。

​「悪いね朝倉くん。こんな場所で」

相馬が朝倉に向き直る。後ろでは子どもが砂をいじっている。

​朝倉は学生の様子を伝えた。

「真面目ですが、無理をしそうです。……彼女を見ていると、少し前の自分を思い出すんです」

​あの、患者の足関節が動かずに立ち尽くした日々。

いくら調べても、いくら考えても『足りない』と感じていたあの重圧。

完璧な相馬さんの背中を前に、自分の不甲斐なさに足がすくんでいた。

​目の前の学生も、きっと同じだ。

『やらなければ』という真面目さだけで、臨床という重い空間に必死に立ち続けようとしている。

​朝倉は短く息を吐き出した。

「俺は、どうやって指導すればいいんでしょうか」

​相馬は静かに聞いていたが、やがて短く言った。

「よく見てるね。そういう子は――やっぱ抱えむよね。」

「真面目な分だけ、全部を背負おうとして、ある日突然動けなくなる」

「守ったほうがいいと思うな。」

​一拍置いて、相馬は続けた。

「背負っているものを、少し下ろしてやる。できることを、少し減らす。それが指導なんじゃないかな。」

​朝倉は、少しだけ迷ってから口を開いた。

「……でも、レポートも、評価の整理も、結局俺たちが手伝うことになりそうです。それは、彼女のためにならないんじゃないでしょうか」

​相馬は砂場にしゃがみ込んだまま、ふっと口角を上げた。

「それでいいよ。」

​相馬は砂を払って立ち上がり、朝倉を真っ直ぐに見た。

「理学療法を嫌いにならずに、元気に学校へ帰す。

それが今回の守るべき最優先じゃないかな。」

​一歩、相馬が近づく。

「分からないことは、後でいくらでも教えられる。

でも、一度折れた心は簡単には戻らない。

朝倉君が図書館で必死に調べていた時、隣に宮田君がいたでしょ?」

​朝倉は、はっとして顔を上げた。

あの夜、一人では抱えきれなかった重圧を、隣で一緒に本を広げていた宮田の存在が、どれほど軽くしてくれていたか。

​「一人で背負わせない。その環境を作ってやる。

……私は朝倉君にそうしてきたと思ってるよ。今度はやってあげる番になってみたら?」

​風が少し吹いた。

朝倉は静かにうなずいた。

預かっているのは、患者だけではない。

学生という一人の人間もなのだ。

​「……分かりました。やってみます」

​「大丈夫だよ。」

相馬はいつもの淡々とした、けれど確かな信頼の籠もった声でそう言った。

後ろでは子どもが「お父さん、見て!」とはしゃいでいる。

冬の空は、ただ静かだった。


次回、第23話「守るもの、繋ぐもの」

預かり、守り、繋ぐ。

押すだけじゃない。

前に進みながら自分の地図ができつつあった。


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