列の途中 第38話 使えるもの ――平行棒のない「家」で
訪問は週二回、一回四十分。
それ以外の時間、田辺さんは家の中にいる。
義雄さんが仕事で出ている間は一人だ。
後ろへの倒れやすさが残っている状態で、安全に体を動かせる手段がない。
パーキンソン病は動かさないでいると固くなる。
でも転倒リスクを考えると、一人で無理に歩き回らせるわけにもいかない。
座ったままできる自主トレを指導してはいた。
足踏みと、足首の運動。
田辺さんは来てもらうことに満足している、という印象があった。
悪い意味ではない。
ただ、訪問の時間だけが運動の時間になっている感じがした。
どうするか。
その日の午後、もう一件の訪問があった。
小暮ヨシさん。要介護5。
ほぼ寝たきり。
家族が中心になって生活している人だった。
リハでは拘縮予防、体位変換、軽い座位と必要時に痰の吸引。
ご家族から昔のお話を聞きながら安定して生活を続けていた。
昔は日本で何人目かの女性トラック運転手だったらしい。
先立たれた夫と力強く子育てをしてきたと娘さん家族は言っていた。
体調はこれまで大きく変わっていなかった。
でも、その日は少し違った。家族からも見て欲しいと言われ、部屋へ向かう。
額に触れると、熱があった。
呼吸も浅い。体温38.6度、酸素88%
佐々木は家族に言った。
「救急車、使いましょう!」
家族はすぐにうなずいた。
救急車が呼ばれた。
担架に乗せられた体は軽かった。
その後の経過は、まだ分からない。
佐々木は翌日リハビリ室に入った。
器具の並ぶ棚の端に、使われていないデスクサイクル――ペダルだけの自転車マシン――が置いてあった。
ペ座ったまま足を動かせる器具だ 。
以前、入院患者の自主トレ用に部署が購入したものだが、最近はあまり使われていなかった。
佐々木は少し考えてから、主任の野口のところへ行った。
「田辺さんの訪問で使っていいですか、あのデスクサイクル」
野口は一度だけ振り返った。
「田辺さん、誰?」
「六十八歳、パーキンソン、脊椎固定術後。訪問で担当してます。座位での自主トレが足りなくて」
「ああ、あれか」
野口は少し考えてから言った。
「使っていいよ。壊さなければ。最近誰も使ってないしな」
「ありがとうございます」
「ま、色々考えてみるんだな」
それだけ言って、野口は手元の書類に戻った。
佐々木はデスクサイクルを抱えて、少しの間その場に立っていた。
考えてみるんだな、という言葉は、軽い言い方だったが、軽くなかった。
デスクサイクルの埃を払いながら、久しぶりに思い出す言葉があった。
前の職場。円満な退職とは言い難かった。
『何度も聞かないでよ、言ったよね。視野狭いなー。』
『使えるものはなんでも使うんだよ。』
頼られてはいる人だった。
革新的なところはあるが、価値や負けをはっきりつけたがる。
言葉そのものは、思い返すと胸の奥に引っ掛かりはあるが、役に立つ部分もある。
今、経験を重ね、ゆっくり整理がついてきたからだろうか。
以前ほど思い出すのが苦ではなくなってきた。
今の職場に来られたこと、あそこを出られたことは、よかった。
でも、ああいう職場はどこにでもある。あの先輩のような人も、どこにでもいる。
だからこそ、今ここで安穏としていていいのかな、という感覚が、時々ふっと出てくることがあった。
うまく言えないが、あそこで消耗している誰かのことを、自分は忘れてしまっているのではないか、というような。
佐々木はデスクサイクルを持ち直した。
重い。
今、自分にできることをやる。それがどこかに繋がるかどうかは、分からなかった。
これが田辺さんに使えるかどうかも、持っていってみないと分からない。
三回目の訪問で、デスクサイクルを持ち込んだ。
「これ、座ったまま足が動かせるんですけど、試してみますか」
田辺さんはソファに腰掛けたまま、差し出されたデスクサイクルをじっと見た。
「なにこれ、自転車みたい」
「そうなんです。ペダルだけの自転車みたいなものです。座ったまま足で回すと、膝と股関節が動きます」
「座ったままでいいの」
「はい」
田辺さんはペダルに足を乗せた。ゆっくりと、回し始めた。
「……あ、動く」
「どうですか」
「悪くないわね。テレビ見ながらでもできそう」
チョコがデスクサイクルに興味を持ち、近づいてきた。
「そこはやーよ、チョコちゃん」
田辺さんがペダルを回しながら言った。チョコは止まったが、離れなかった。
「やっぱり、日中、お一人の時間が長いですよね」
佐々木は、部屋の様子を見ながら言った。
田辺さんは少し考えてから、うなずいた。
「夫が仕事の日はね。テレビ見たり、座ってることが多いのよね。」
「退院したばっかりのときは、とても出かけるなんてって思ってたけど、これじゃボケちゃうかもって思ったわ」
笑いながら言うが、どこか真剣だ。
「ケアマネジャーさんには、もうお会いしましたか」
「ええ、一度来てくださったけど……まだ具体的なことは決まってなくて」
佐々木は少し間を置いた。
「もしよろしければ、こちらから一度ご連絡してもいいですか」
田辺さんは顔を上げた。
「そんなことまでしてくれるの?」
「はい。田辺さんの生活を一緒に考えていくのが、私たちの仕事なので」
数日後。
佐々木はケアマネジャーに電話をかけた。
「訪問リハで担当している田辺さんの件でご相談です。日中の活動量が少なくて、運動の機会が限られている状況で……」
電話の向こうで、ケアマネジャーが静かにうなずいた気配がした。
「ちょうどいいタイミングだと思います。近くに最近、理学療法士の方――田中さんっていう方なんですけど、知ってます?確か佐々木さんのとこの病院にいらした方だとか――」
佐々木は少し間を置いた。
「……はい、知ってます」
回復期にいた田中が、独立したという話は聞いていた。
辞める前、朝倉や宮田と飲んでいたあの夜のことを、佐々木はよく知らない。
でも、田中が「自分でやる」と言っていたらしいことは、どこかで聞いていた。
「どんなところか、少し教えてもらえますか」
「比較的若い人向けのところなんですけど、専門的なリハビリもやっていて、田辺さんくらいの方も結構いるみたいですよ。」
その提案を、佐々木はそのまま田辺さんに伝えた。
「ケアマネさんが、見学できるところを紹介してくれました」
田辺さんは少し考えてから、言った。
「……じゃあ、一度だけ行ってみようかな」
生活は、少しずつ整っていく。
でも、「家で暮らす」ということは、
それだけじゃない。
