列の途中 第18話 一週間 ――記憶が、毎日消えていく中で
九月。
新しい患者情報が回ってきた。
アミロイド脳症。高齢の医師、武田という名前だった。
病室に入ると、ベッドに腰掛けていた武田が朝倉の後ろを見て突然声を張り上げた。
「野口ー!!」
びくりと振り返ると、いつの間にか主任の野口が立っていた。
野口は少しだけ肩をすくめ、苦笑しながらベッドに近づいた。
「先生、病院中に響いてますよ」
武田がにやりと笑う。
「お前がちんたら歩いてたからだ」
「先生の方こそ、昔からこのやり方で。今ならパワハラで一発アウトですよ」
「なんだと。お前が勝手に動くからだろうが」
二人は、まるで昔に戻ったように言葉をぶつけ合いながら笑っていた。
朝倉は静かにその後ろ姿を見ていた。
いつも飄々としている主任が、完全に後輩の顔になっている。
上下関係でも役職でもない、長い時間を一緒に過ごした者同士だけが持つ遠慮のない信頼があった。
「先生」と野口が振り返る。
「こいつ、うちの期待の若手です。よろしくお願いします」
武田はゆっくりと朝倉を見て、深くうなずいた。
「野口が言うなら間違いない。よろしくな」
その目は、年齢を重ねてもなお曇りのない知性を保っていた。
歩行練習の途中、朝倉は聞いた。
「主任の若い頃ってどんなだったんですか?今はドンと構えてますけど。」
武田はふと思い出したように笑った。
「そうだな。あいつ、初対面で俺のこと別の医者と間違えてめちゃくちゃしゃべってきたんだ」
続けて。
「回し蹴り入れてやった」
朝倉が思わず吹き出す。
「本当ですか」
「本当だ。廊下でだぞ」
武田は楽しそうに笑った。
「でもな」
少しだけ声が落ちる。
「あいつは、不器用だったが、患者から逃げなかった」
二日目。
朝のミーティングで、相馬が静かに口を開いた。
「本日から、野口主任が介護休暇に入ります」
リハビリ室の空気が一瞬で止まった。
誰も声を出さない。
キーボードの音も、紙をめくる音も、ぴたりと消えた。
「期間は未定です。その間、私が代行します」
相馬の声はいつもと変わらず淡々としていた。
だがその言葉の意味する重さを、誰もが理解していた。
この病棟から、最大の防波堤が消えた。
その日の午後、武田は歩行練習の途中で急に立ち止まった。
「……眠いなあ」
声に力がない。
朝倉はすぐ横に付き直した。
昨日は安定していた足取りが、明らかに崩れている。
一歩ごとに身体が左右へ流れる。
「今日はここまでにしましょう。一度休みますか」
武田は少し考えるような顔をしてから、ゆっくりとうなずいた。
ベッドへ戻る途中、武田は何度か目を閉じかけていた。
朝倉は歩幅を合わせながら、胸の奥に小さな違和感が沈んでいくのを感じていた。
その日、武田はまだ朝倉の名前を覚えていた。
三日目。
朝倉が病室へ入ると、武田はベッドに深く沈み込むように横たわっていた。
「先生、おはようございます」
反応が遅い。
数秒してから、武田の目がゆっくり開いた。
歩行練習を始めても、立位は不安定だった。
足が出ない。
視線も定まらない。
平行棒の途中で、武田が突然立ち止まった
「……ここは、どこだ?」
朝倉は声の調子を変えずに答えた。
「リハビリ室です」
武田は不思議そうに自分の手を見た。
まるで初めて見るもののように。
「回診に行かないと」
その言葉は、どこか遠くの時間から流れてきたもののようだった。
四日目。
朝のカンファレンスで、主治医がMRI画像を示しながら静かに説明していた。
進行が早い。
改善は難しい。
短期間で急速に認知機能が低下する可能性が高い。
部屋の空気が重く沈む。
その日の午後、家族説明が行われた。
来ていたのは妻だけだった。
痩せた身体で椅子に座り、何度も小さくうなずいている。
朝倉は説明の補足で呼ばれ、部屋の隅に立っていた。
「息子さんたちは……」
誰かの問いかけに、妻は少しだけ間を空けた。
「もう、何年も会っていません」
静かな声だった。
「仕事ばかりの人でしたから」
少し間があった。
「お正月も、子供の入学式も」
それだけだった。続きはなかった。
責める響きはなかった。
ただ、長い時間を一人で耐えてきた疲労だけが残っていた。
説明が終わったあと、妻は立ち上がる時によろめいた。
朝倉が反射的に椅子を引く。
「あ、すみません」
妻は力なく笑った。
その顔を見た瞬間、朝倉は初めて理解した。
この人は患者になる前に、医師であっただけでなく、誰かの夫だった。
五日目には、会話が成立しなくなった。
「先生、足を動かしますね」
返答はない。
武田は窓の外の一点を、ただじっと見ていた。
朝倉の声はもう届いていない。
それでも朝倉は、ゆっくりと膝を曲げ、足関節を動かし、硬くなり始めた関節を丁寧に伸ばしていく。
届かないと分かっていても、やめる理由にはならなかった。
六日目。
武田をベッドから起こそうとした。
声をかけても反応はない。
身体を傾けると、力任せに押し戻してくる。
何をされるか分からないのか。
パニックになって振り払うような動きだった。
言葉には、反応がない。
介助量が大きく、結局その日は離床を断念した。
七日目、退院が決まった。
自宅ではなく、療養型施設への直接転院だった。
介助量はやはり大きく、起こすに起こせない。
車椅子でなく、ストレッチャーでの退院となった。
武田の目は虚空をさまよい、視線も合わない。
相馬が少し離れた場所で見守っている。
野口はいない。
ストレッチャーがゆっくり動き出す。
廊下の空気が少しだけ冷たく感じた。
その時だった。
武田の視線がふと朝倉を捉えた。
濁った瞳の奥に、一瞬だけかつての光が戻ったように見えた。
武田の唇がかすかに動く。
「……野口?」
朝倉は息を飲んだ。
武田は朝倉を野口だと思っているのか。
訂正すべきか。
事実を伝えるべきか。
でも、その事実はこの人をどこへ連れていくのだろう。
朝倉はゆっくりとストレッチャーの横にひざまずいた。
武田の視線と同じ高さになる。
そして静かに、はっきりと答えた。
「はい。野口です」
武田は安心したようにふっと目を細め、そのまま静かに目を閉じた。
その瞬間、朝倉は誰かの代わりになるということの重さを、初めて自分の体で理解した。
ストレッチャーがエレベーターに吸い込まれていく。
扉が閉まる。
金属音が短く響いた。
朝倉はその扉が完全に閉まるまで、深く頭を下げていた。
振り返ると、相馬が静かにうなずいた。
ただ、それだけだった。
主任の不在。
失われていく記憶。
取り戻せない時間。
その圧倒的な現実の前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
相馬の残業が一時間増えた。
それが何を意味するか、分かるようになってしまった。
