列の途中 第36話 どの列か ――お前は、守られてきたんだよ
年末。
田中が退職した。その翌日。
田中の送別会の一次会が終わったあと、店の外に出ると、夜気が少し冷たかった。
駅前の居酒屋はまだ明るく、酔客の声が路地に漏れている。
宮田がコートを着ながら、少し早口で言った。
「田中さん、本当に辞めちゃうんですね」
田中は、ポケットに手を入れたまま、軽くうなずいた。
「うん」
宮田は一瞬言葉を探してから、まっすぐ言った。
「……まだまだ、一緒に働きたかったです!」
その声は少し大きかった。
周囲の数人が、ちらりとこちらを見る。
田中は苦笑した。
「ありがとな」
短く、それだけ言った。
宮田は、少し肩を落としたが、それでも続けた。
「田中さんがいると、現場が回るんですよ。正直、かなり不安です」
田中は、ほんの少し考えてから言った。
「頭数足りなくなったら、声かけるわ」
軽い調子だった。
でも、冗談には聞こえなかった。
宮田は、無理に笑った。
「……やめませんよ、俺は」
言葉は強かったが、声には力がなかった。
田中はそれ以上何も言わず、ただ肩をぽんと叩いた。
「頑張れ」
店を出たあと、自然と人数が減っていった。
最後に残ったのは、朝倉と田中の二人だった。
駅前の小さなバー。
客はまばらで、店内は静かだった。
二人はカウンターに並んで座った。
しばらく、他愛もない話が続いた。
患者のこと。
新人のこと。
病棟の細かい出来事。
家庭のこと。
やがて、話が途切れた。
グラスの氷が、かすかに音を立てた。
朝倉は、少し迷ってから口を開いた。
「こないだの制度の話だけど」
田中は、横目で見た。
「うん」
朝倉は、言葉を選びながら続けた。
「それでも……居続けることが、この仕事だと俺は思ってる」
少し間。
「相馬さんに、そう教わった」
田中は、しばらく黙っていた。
表情は変わらない。
怒っているようにも見えない。
でも、どこか遠くを見るような目をしていた。
田中は、ふっと小さく笑った。
呆れたのか。
悲しんだのか。
自分でも分からないような、不思議な笑いだった。
そして、静かに言った。
「朝倉」
「うん」
「代診で整えた体幹の筋緊張が、次の日にはまたガチガチに戻されてる。これから子供を育てる、若い父親の体だよ。」
朝倉は、何も言えなかった。
「崩してるのは、代償動作すら見抜けない年数だけのベテランだ。で、退院した後のその父親には、使えるサービスがろくにない」
グラスの氷が、小さく音を立てた。
「逆にその時の俺の担当は、もう反応もない要介護5。こっちには、使い切れないほど手厚い制度が用意されてる」
誰のせい、とは言わなかった。
田中の声には、怒りすらなかった。ただ、底の抜けたような冷たい響きがあった。
「現場の運と、いびつな制度。……こういったものにもう付き合いたくないんだよ」
朝倉は、言葉を失った。
否定できなかった。田中の言う通りだと思った。何も言えない。
でも、ここで黙ってはいけない気がした。
相馬さんなら、どう返すだろう。何か言わなければ。
焦りに似た感情のまま、朝倉は言葉を絞り出した。
「……それでも。医療職として……その価値観は……」
田中が、静かに遮った。
「俺は昨日付けで退職してる」
朝倉は、息を止めた。
田中は続けた。
「俺はもう、医療職じゃない。」
少し間。
それから、グラスの氷を指で回しながら言った。
「……相馬さんに、急性期に、お前は守られて育ってきたんだよ」
朝倉は、何も言えなかった。
相馬がいた。野口がいた。
理不尽にぶつかったとき、その立ち方を見せてくれた人がいた。
では、田中は。
自分で学び、自分で判断したと言っていた。
ここまでできるから、外に出る選択ができる。
――そうでなかった者は。
宮田の言葉が、ふと頭をよぎった。
見守ることと放置することって、どう違うんでしょう。
朝倉には、答えられなかった。
否定もできない。
だが、理解できてしまった。
ただ、その言葉が重く残った。
しばらくして、田中が息を吐いた。
「……悪かったな」
朝倉は顔を上げた。
田中は、いつもの調子で言った。
「忘れてくれ」
そして、少しだけ笑った。
「また飲もう」
年が明けた。
一月。
相馬はいない。
田中もいない。
宮田は回復期にいる。
佐々木は、急性期で静かに働いている。
現場は止まらなかった。
朝倉は、数日間、妙に静かな感覚のまま働いていた。
田中の言葉が、頭のどこかに残っていた。
守られてきたんだよ、お前は。
その通りだった。
朝倉は、そのことを否定できなかった。
相馬がいた。
主任がいた。
理不尽にぶつかった時の、立ち方を見せてくれた人がいた。
もし自分が田中と同じ環境で育っていたら。
そう考えると、どこへたどり着いていたか、分からなかった。
田中と同じ道を選んでいたかもしれない。
あるいは、もっと早く折れていたかもしれない。
ただ。
それでも、自分はここに残るのだと思った。
なぜかと問われると、うまく答えられない。
ただ残りたいのではない。
でも、自分が教わってきたことは、ここで使われるべきだと思っていた。
相馬から教わったこと。
野口から教わったこと。
患者から教わったこと。
それは、田中の腕が外へ持ち出されるのと同じように、ここに置いていくべきものだった。
二月。
朝倉は、相馬から引き継いだ書籍の原稿を少しずつ進めていた。
エビデンスをまとめる。
現場での判断を書く。
技術だけではない。
現場の理不尽や理学療法士としての役割の限界、それに直面したときの振る舞いまで残す。
田中が持ち出したものを、せめて言葉にして残したかった。
相馬のいる大学にも、連絡を入れた。
研究や教育での協力の可能性。
臨床と教育をつなぐ形。
返ってきたメールは短かった。
【できそうです】
それだけだった。
でも、それで十分だった。
そして三月。
原稿の第一稿が、ようやく形になってきた。
夜。子どもが寝たあと、朝倉は机に向かっていた。
妻が隣で洗濯物を畳んでいる。
「進んでる?」
「少しずつ」
「田中くんにも見せるの?」
朝倉は少し考えた。
「……そのうち」
妻は洗濯物を畳みながら笑った。
「あの人、ほんと面白いよね。恒一の次に」
「順番つけるなよ」
「あっ、起きた!」
「…俺行くよ」
それだけの会話だった。
でも、悪くない夜だった。
四月。
新年度が始まった。
朝礼のあと、新人がリハビリ室の隅で少し緊張した顔をしていた。
佐々木が声をかけていた。
言葉は少なかった。
でも、以前の佐々木ならできなかった距離の詰め方だった。
朝倉は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
佐々木が新人に何かを言っている。
新人が小さくうなずいている。
言葉は聞こえなかった。
でも、その光景は朝倉には少し見覚えがあった。
かつて、自分が宮田にしたこと。
そのまた前に、相馬が自分にしてくれたこと。
朝礼が終わり、人が動き出す。
朝倉は、自分のデスクに向かった。
書籍の原稿ファイルを開く。
相馬の大学から、先週返信が来ていた。
今月中に一度、打ち合わせをしましょうという内容だった。
研究の計画書も、少しずつ形になってきている。
宮田から昨日ラインが来た。回復期の勉強会、また開くことになりました。報告まで。それだけだった。
田中からは、ひと月ほど前に短いメッセージが一件来ていた。
【やっぱ大変だな。でも、なんとかやってるよ】
それ以上でも、それ以下でもなかった。
朝倉は、原稿の続きを打ち始めた。
窓の外で、春の風が木の枝を揺らしていた。
積み重ねても、分からないことの方が、ずっと多い。
でも。
今日は、ここにいる。
そして、目の前に患者がいる。
病棟からリハビリ依頼の内線が鳴った。
朝倉は受話器を取った。
「はい、リハビリ室です」
少し話を聞く。
「分かりました。すぐ行きます」
受話器を置いて、立ち上がる。
白衣のポケットにメモを入れる。
廊下に出る。
春の光が、床に斜めに差していた。
私は、どの列に並ぶのか。
今の列がどこへ向かうのかも、以前よりも、簡単には言えなくなっていた。
それでも、目の前には歩くべき道があった。
病棟へ向かう廊下を、車椅子の患者がゆっくりと進んでいく。
列は、今日も続いていた。
退院は、終わりじゃない。
生活という、列が始まる。
ここからは、病院の外の話。
