列の途中 あとがき
最後までこの物語を読んでくださり、ありがとうございました。
この物語を通して描きたかったのは、特別な英雄ではなく、現実の現場で働く人たちの姿でした。
フィクションの世界では、ひとりのキャラクターが職域を超えて何でも解決するような描写が見られることもあります。
しかし実際の現場では、それぞれが自他の職域を尊重し、必要に応じて助け合いながら、患者さんのために最善を尽くしています。
そこには派手な奇跡や魔法はありませんが、確かなドラマの連続があります。
多くの物語では、歩けるようになったり、病気が治ったりする場面が描かれます。
それは希望を伝えるうえで大切な表現です。
しかし実際の臨床では、回復はゆっくりで、結果が思い通りにならないことも少なくありません。
それでもなお、安全に過ごせた一日、穏やかな時間を守ることそのものに、大きな価値があります。
また、避けられない理不尽、尽きていく寿命、そして現場の中で起きるさまざまな問題。
光も影も含めた現実を、フィクションという形で誠実に伝えてみたい。その思いで、この物語を書きました。
この仕事は、すぐにできるようになるものではありません。
技術だけでなく、考え方や経験、そしてその人の生き方そのものが、少しずつ重なっていきます。
それはきっと、どんな仕事にも同じことが言えるのだと思います。
第三部で一度幕を閉じたあと、この物語にはもう三話が加わりました。
急性期を離れ、患者さんの自宅へと踏み出す、佐々木という若いセラピストの話です。
病院では見えなかった生活が、玄関の向こうにあった。
体調が急変した時、家族は救急車を呼んでいいのか迷っていた。
正解のはずの道具が、玄関の隅に置かれたままになっていた。
本編では描きませんでしたが、実際の臨床では、訪問に来られること自体を負担に感じている方もいます。
家は病院ではなく、その人の場所です。
定期的に他人が入ってくることを、快く思わない人がいても、何もおかしくない。
病院の中では、患者さんは「治療を受ける側」にいる。
でも家に帰れば、その人の生活の主役は、その人自身です。
何を使い、何を使わないか。どう暮らすかを決めるのは、本人でした。
「使えるもの」は、制度や道具だけではなかった。
その人の価値観や習慣、家族との関係、長年の暮らし方。
そういうものを含めて、初めて「使えるもの」になる。
在宅の三話で描きたかったのは、そういうことでした。
本作を通じて、患者さんを医療者の目から描くというスタイルを一貫して選びました。
セラピストが何を見て、何を考え、どう動いたか。
その視点の積み重ねが、患者さんの生活の輪郭を浮かび上がらせる。
在宅の三話でも、その書き方は変わりませんでした。
病院の外にも、列は続いていました。
そしてそれは、現実の医療現場で働く多くの人たちの姿でもあると、私は思っています。
最後に、少しだけ自分のことを書かせてください。
私は今、急性期病院で理学療法士として働いています。
臨床歴は10年を超えました。
ただ、その10年は順調ではありませんでした。
最初の職場は、人間関係が上手くいかず、辞めています。
次の職場も、3ヶ月で辞めました。
新しい職場に来た時、私には実績も信用もありませんでした。
それでも続けたのは、この仕事が好きだったからだと思います。
学んだことがそのまま誰かの回復に、生活に繋がる。
人と関わり、人生について多くの知見を自然と得られる。
目立たない職種かもしれませんが、現場には毎日、ドラマがあります。
その言葉にしにくいドラマを、自分なりに形にしたのがこの作品です。
うまくいかない現場でも、理不尽な環境でも、続けている人がいます。
もしこの物語を読み終えたあと、病院の廊下を歩く誰かの姿や、在宅やデイで静かに働く医療職の背中が、少しだけ違って見えたなら。
あるいは、ご自身の仕事や日常の中にある小さな役割を、少しだけ誇らしく感じてもらえたなら。
そうであったらいいと、私は思っています。
列は、これからも続いていきます。
