伊能忠敬の野望と情熱に感服する展覧会「伊能忠敬ー新しい地図の世界へー」(豊田市博物館・2026年3月)
2026.3.29 Sunday
豊田市博物館が数年前にできたのは知っていた。それなのに、今までうっかりチェックが抜けていた。「伊能忠敬の展示をやってるよ」とオットが教えてくれたのは、最終日前夜、3/28のことだった。
「最終日、混んでるかもしれないけど、行っちゃう?」
われながら、なかなかの行動力だと思う。
その決断は、正しかった。すごく楽しい展覧会だったのだ。しかも、すっかりこの博物館のファンになって帰って来た。


商人から暦学、そして測量の人へ
伊能忠敬は、不思議な人だ。
商家に養子入りし、米の販売や薪問屋を多角経営して財をなした実業家が、50歳で隠居してから暦学(天文学)を学び始め、55歳から17年間かけて日本全国を歩いて測量し、精密な日本地図を作り上げた。
しかも最初の動機が「地球の大きさを解明したい」だったというのだから、野望のスケールが違いすぎる。
彼はこんな方法で地球の大きさを測ろうと考えた。
たとえば、江戸と蝦夷地(北海道)の2地点で、同じ星(北極星)の見える角度を測る。2地点の角度の差=緯度の差がわかる。その2地点を実際に歩いて距離を測る。「緯度1度あたりの距離」が計算でき、それに360をかけると地球一周の距離が出る——という理屈らしい。
…わかった?
正直、わたしはイマイチよくわかっていない(笑)。でも、なんかすごいらしい。
忠敬はそれで、自分の理論の正しさを証明した。
会場には美しい装飾の施された望遠鏡が置いてあった。これで月を観測したのはまだわかる。でも木星の衛星まで観測していたとは驚きだ。この小さな江戸時代の望遠鏡で、木星の衛星が見られたなんて、その精度に驚く。
プロローグ「伊能中図フロア展」
まず圧倒されるのが、伊能中図の原寸大復元だ。
8枚の地図をつなぎ合わせると、日本地図が完成する。フロアいっぱいに広げられた地図の上で、最初に「オットの地元と自分の地元」を探した。オットの地元、北海道には誰もいなかったので、悠々と探せたが、わたしは地元民なので、愛知県には常に人がいて、なかなか見られなかった。
でもちゃんと生まれた場所の名前が見つかった。それだけでテンションが上がる。


200年以上前に、徒歩で測量した地図が、こんなに正確なのか、と驚く。現代の地図と重ねても、ほぼ一致しそうだ。その事実をまず体感すると、グッと盛り上がる。そして、展示へと進む。
第I章「伊能忠敬とその偉業」
最初の測量隊は5人だった。
幕府から測量の許可を得て、北海道まで自費で訪れたそうだ。制作した地図の出来がよかったため、第5次からは幕府の公務となり、人数は一気に3〜4倍に膨れ上がった。
幕府のお墨付きが得られると、地元の人々に協力が要請された。人馬を無償で差し出し、食事を用意し、測量隊を迎え入れる——それが地方に課された義務でもあったのだ。
弟子の覚悟書「一札之事」(国宝)も展示されていた。19歳の箱田良助が記したその誓約書には、「役に立たなければ解雇してくれ、測量先で病死した場合はその場に埋葬してくれ」という趣旨のことが書いてある。弟子たちはそんな決死の覚悟で隊に加わったのだ。
伊能忠敬の業績は偉業だけど、決して彼一人の手柄ではない。ワークシートを埋めながら、そんなことを何度も考えた。
こんなに国宝の多い展覧会も珍しい。
伊能忠敬記念館所蔵の関係資料は国宝に一括指定されていて、測量日記、測量道具、書状類など大量の資料が並ぶ。美術品ではない古い道具たちが国宝となって並んでいる。
象限儀(星の位置から角度を測る道具)、半円方位盤(今の分度器にあたるもの)、量程車(距離を測る車)、地図にしるしをつけるための判子——測量の旅で酷使しただろう道具たちが、今や国宝だ。
使っているときは、まさか道具が国宝になるとは、誰も想像できなかっただろう。
なかでも「測量日記」の状態のよさに驚いた。江戸時代のものとは思えないほどきれいで、文字も達筆すぎず読みやすい。忠敬殿はきちょうめんな人だったんだろう、とじんわりした。
第II章「日本・世界を把握する眼 —近世以前—」
伊能図が生まれる前の日本地図・世界地図を集めたこのセクションが、またおもしろかった。
鎌倉時代後期の「日本図」(重要文化財)は、日本列島を太い線が取り巻いている。これは龍だそうだ——国土を守護すると考えられていたから。科学的な地図ではなく、祈りの地図といえるかもしれない。
「ブリエ日本図」は、1590年にイエズス会士モレイラが地理調査したものを下敷きとした「モレイラ図」と呼ばれる系統の日本図で、パリで刊行された。それまでの日本地図より実際の地形に近い。東日本や四国の形がようやく「地図らしく」なってくる。

そして伊能図へ——という流れで見ると、地図がいかに人類の知的営為の積み重ねであるかが、じわじわと伝わってくる。
ちなみにこのセクションで一番気に入ったのが「レバント戦闘図・世界地図屏風」(作品番号51、重要文化財)。とっても華やかで洒落ていて、最近描かれたといっても不思議でないほど。そして、戦闘図が想像以上に「西洋画」で驚く。

絵付けをやっていた者としては、有田焼で焼かれた角皿、「染付方形世界図皿」も気になった。海の波が青海波になっていて素晴らしい。しかも日本は世界の中心にある。江戸後期の地図が元になっていると考えられているそうだ。

第III章「とよたに残る伊能の足跡」
豊田市博物館らしい、地元密着のセクションだ。
1811(文化8)年3月26日、第七次測量で伊能隊は豊田市域を訪れた。残された文書には、測量隊を受け入れた地元の人々の記録がある。
「測量隊の受け入れは大変だったが、光栄でもあった」というような内容で、遠来の客を迎える緊張と誇りが混ざり合った感情が読み取れる。
毎朝6時頃から測量を始め、昼頃まで歩く。一日平均10キロ以上。17年間、55歳から71歳までそれを続けた忠敬。
食べていたメニューを見ると、焼き豆腐に長芋、花玉子(花形にしたゆで卵)、しいたけなど、現代の我々と同じようなものを食べている。好物は「しそ巻き」「とうがらし」「ひしお」
健康法として、焼き白米や葛根(かっこん)、花苓(かれい)などを摂っていたという記録もある。体が資本、という意識が徹底していた人だったのだろう。
しかし持病もあった。「瘧(マラリア)」「痰咳」「歯痛」など。決して丈夫とはいえない体で過酷な測量を続けていた。
第IV章「近世とよたの古絵図の世界 —伊能図以前—」
豊田市とその周辺に残る江戸〜明治時代の古絵図14枚を紹介するセクション。
作品番号71の「三河国加茂郡小松野村絵図」(1871年)が気に入った。理由は、黄色い部分がひよこみたいだったから。写真を撮ればよかった!
秀悦だったワークシートと図録売り切れにショック
伊能図3種類(大図・中図・小図)を全部見られたのが楽しかった。
①3万6千分の1の地図214枚からなる大図。集落が黒色の長方形で表されるなど、簡略化された描写が目立つ
②21万6千分の1の地図8枚からなる中図。行程を示す朱線や測量の目標とした山との方角を示す書き込みが見られる
③43万2千分の1の地図3枚からなる小図は海岸線や測量線、地名が明瞭に読み取れる
答えを穴埋めするワークシートがすごくよかった。
問いに答えながら展示を見ていくと、知識が自然に積み上がっていく。「伊能博士」になれる感じ、というのが一番近い。子どもたちがすごく興味を持って楽しんでいた、と会場のスタッフさんが言っていたが、そうだろうなと思った。大人も十分楽しめる。
しかし、ショックなことがあった。まず、チラシはなかった。最終日だから仕方がない。それはよくあること。
でも、どこにもミュージアムショップがない。図録は作ってないのだろうか?一応、聞いてみた。すると、なんと「売り切れ」だという。しかも一度売り切れて増刷して、再度売り切れ!
ええーーー!!図録を買う気だったから、撮影OKでもほとんど写真を撮らなかったのに。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
「展覧会は一期一会だ」とはわかっていたけれど、図録も出会えるとは限らない。会期は早めに来るのが吉。何度目かの学習をした。
といっても知ったのが昨日だったんだからね。仕方がない。来られただけよかった。
桜が咲いていた
桜が咲いていて、建物も美しく、素敵な一日だった。
隣の豊田市美術館にはよく来ていて、拙著『ナゴヤ愛』でも取り上げたほど好きな美術館だ。でも博物館は今回が初めて。常設展はものすごく見ごたえがあった。残り30分ではとても見切れなかった。



今後の展示も見逃せない博物館が、また一つ増えた。

伊能忠敬ー新しい地図の世界へー
会場:豊田市博物館(〒471-0034 愛知県豊田市小坂本町5丁目80番地)
会期:2026年1月31日(土)~3月29日(日)
開館時間:10:00~17:30(入場は17:00まで)
休館日:月曜日(祝日は開館)
アクセス:名鉄三河線豊田市駅・愛知環状鉄道新豊田駅より徒歩15分
チケット:一般 1,200円、高校生・大学生 1,000円、中学生以下 無料
※減免等に関する詳細は美術館HPをご覧ください
問合せ:0565-85-0900(豊田市博物館)
