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読書感想文『唐十郎襲来!』『ミて』(第170号)

僕は、言葉より先に、体の表現が体に入ってきたので…そう東京の大学に出てきて、土方巽、笠井叡を知った…寺山修司の天井桟敷もまず身体から感覚的に同期していったように思う。

当時、演劇では、肉体論が盛んであった。そしてそれはアルトーに発しているところも多く、『貝殻と僧侶』とか『ナポレオン』の映画を見て、俳優アルトーに惚れたこともあって、深く、考えもせずに踊りや演劇を見ていた。

状況劇場も、舞台をそんなに多く見たわけでもないけれど、(なんせ寺山派でもうなんとなく出入りしていたから)行きにくいところもあった。ちょっと見てこいなどと云われると行っていたというくらいで、黒テント、紅テントなどと云われても、はぁ?という感じだった。

情況劇場も、好きだった(『夜行館』はもっと好きだった。踊りが入っていたから)けれど、役者の肉体だけをじっと見ていた気がする。唐十郎の本や、記事は良く読んでいた。『月下の一群』などという雑誌も読んだ。ロマンティークな文章とその肉体表現は好きだった。

そのままの見方で、ずっと今に至るというのが正直なところだ。

最近、誘われて唐組の公演に行くようになってからは、なんか、昔の状況劇場と違うなということを強く意識するようになった。肉体と言葉についての関係についてなんだけど、唐組のそばには、信奉者が多くて、うっかり不用意なことを聞くと大変そうな気がするので、ずっと黙っていた。

そのまま疑問は墓へ…かと思っていて、まぁ、自分究極は寺山派だから、特に悔いることもないからさほど気にはしていなかったのだが、最近でた『唐十郎 襲来!』が一気に疑問を解消してくれた。解消されただけでなく、一歩先へ興味を持たせてくれた。

+編集・樋口良澄

 『ユリイカ』や『現代詩手帖』あるいは『現代思想』…『エピステーメ』とか思想がかった雑誌が、時代を席巻していた頃があった。70年代から80年代だろうか…。あの頃は、数多の編集長がしのぎを削って雑誌を編集していた時代だった。
 そのうちの、一人、『現代詩手帖』の編集長であった樋口良澄がこの単行本を編集した。樋口の編集技量と唐十郎をずっと追いかけてきた、唐愛が爆発しているこの本は、永久保存版の特集になる。これ以上の特集は、誰も組むことができないので、最終編集版だと云える。歴史に残り、長く愛読される本になるだろう。いやならないといけない。

 編集は、記事をややクロニクルに並べてあるが(平行に並べるのが昔の流儀だった)、読むにしたがって、唐十郎や紅テントに深く、スパイラル状に切り込んでいくような、編集になっている。なので、最初から順に読むのをおすすめしたい。

+言葉と肉体

さて、自分の疑問は、唐十郎は大学の教授になることで、自己作品を客観化するようになり…たとえばほぼ、無意識に行なってきた〈誤読〉も、彼が授業で〈誤読〉を勧めるように/解説するようになっただんかいで、従来の誤読はできなくなっているだろう…ということで、そうすると作品も演出も大きく変わってくるだろうということだ。

作家は、時に、天才でも、いや天才だからこそ書けなくなることがあり、それゆえに自殺することすらあるのだから…そして唐は天才なのだから、作品のトーンが、文体が変わるということは、当然であるし、それをどうするかが、読者や観客のもう一つの興味となる。
まぁまぁ、それは関係者には、聞きにくいし、否定することが多い。

で、いきなり、『唐十郎 襲来!』の僕のコアな部分に行くと…
(この本を読む人たちは、それぞれの疑問、あるいは熱い思いをもって読むだろうから、読む箇所も感動するところも、異なると思うし、その全部に答えているような特集本だから読み方はそれぞれだ。これは自分の読み方のメモになる)

『変容と様式』川村毅——第三エロチカというとてもパンクな都市的な劇団を率いてバブルに浮かれている日本に切り込みを入れた劇作家・演出家——の、上演と戯曲への解説には、驚かされ、そして、ずっと抱えていた疑問が解けていった。
川村は、唐の上演冒頭を見聞きするだけで、唐十郎が今どういう風に演劇をとらえているかをつかんでいた。(まぁそれは冷静に考えれば不思議なことではなくて、たとえば、自分の仕事のジャンルでいけば、ダンサーが幕開け立った瞬間に、今日の出来というのは分かるもので、あ、凄いことが今日は起きるというのも察知できる分けだから…)
それが1~5までのナンバー付けされた、登場人物(名前がつけられていない)の割ぜりのあり様によって、判断できるというのだから…
で、川村がとらえたその感覚は、どんな風に…ということは自分には分からないが、そこにその戯曲の存在意義のようなものがあるということは、分かった(川村にここで教わった)
このことは、自分にとっては衝撃で、ずっとずっと鄭義信の『千年の孤独』や『人魚伝説』の割ぜりの魅力と、その解釈が分からなかったことも(すごく心を捉えるもので…あった)今、ようやく分かった。理解や解釈じゃなくて、演奏のようなもので、ゲストに来たギタリストが、いきなり弾く自分アレンジのリフのようなもので、ある種、全体を引っぱるトーンのようなもの、基調のようなもので…なるほどね…と、川村の感性に舌をまいたしだいだ。
川村の解析には、他にもいろいろあるのだが、こなしきれないので、人生の宿題にして次に。

次の驚きは、
新井高子『一世一代の水中花』
~水槽に飛び込んで、水のレンズ越しに妖しく笑う十八番をなし遂げた最後の作品であった。
という冒頭の一行。
唐十郎の言葉になりながら、新井は自分の言葉として唐を語っていくのである。

新井がこの文章の中で
 だが、芝居の声に念入りに耳をそばだてるなら、~
と語っている。また、
 いま冷静に戯曲を読むと~
とも言っている。
新井は、幾通りものやり方で、唐十郎の言葉にじいいっと、自分の肉体を、耳を冷やしながら、向かっているのだ。一緒に高揚して(きっとそういう時も多々あるだろう。そんな時は、再びテントを訪れて、冷えた身体で熱い言葉が、詩的な力を発揮しているかどうかを聞いているのだ)

詩人の新井にしてみれば、詩人のあたりまえ、かもしれないが、自分にとっては、これもまた衝撃だった。肉体の表現は、何もしないで入れば入ってくることもある(自分はそうしてきた)が、言葉は、澄まさないと、入ってこないのかもしれない。

岩下徹が、山荘で踊ってくれたことがあって、それは谷川俊太郎の『耳をすます』だった。踊るたびに、今までは聞こえてなかった風の音や川のせせらぎが、身体に染みてきたという経験をした。今、思うけれど、言葉は聞かなくては入ってこないのかもしれない。その人が発した、風の節のようなもの(それは詩でもあり、短歌の歌の部分でもあるかもしれない)は身体に入ってこないのかもしれないと、つくづく思うのだ。

言葉の〈入り〉が苦手な自分には、50年前に聞きたかったとも思うが…今でも知ることができたのは、感謝という他はない。
 言葉を澄まして聞く
その気持ちで、また唐組に足を向けたいと思う。


あとは、申し訳ないが、こなしきれないので、自分のメモを書き記しておく。

久保井研
 唐十郎が舞台を演出できなくなってから、久保井は戯曲を演出する、言葉によって、唐戯曲を舞台化して成功しているが、(そういう評を書いたこともある)じゃぁ肉体はというのが、ずっと疑問であったのだが、とりあえず肉体は切っていると書かれていた。
 あ、なるほどね。と、とても腑におちた。ここから僕はまた久保井演出をとらえ直していけるんだろうなと思った。

唐の蜷川の対談も面白い。それぞれが相手の、ツボのような演出技についてい、さらっとひと言で言及していて、それが演出の胆を掴んでいて、あ、やっぱりそういう風に考えているのかと、いちいち、頷けて面白い。(寺山修司への評価は僕的にはちょっとなと思うけれど、ここで云うことでもない…)

安保由夫
安保の音楽については、飴屋法水とはまた違っているとてつもない面白さで、戯曲を書く時にも音楽が筆致に影響を与えている、しかもナイマンの音楽ではないが、繰り返しているようなないような…そんな音の生理は、実に舞台的なんだろうなと、これもまたそうだろうなと思いながらも、吃驚した。

不破万作と佐野史郎が語った、小説へ傾倒することによって起きる、戯曲のこと…そして一瞬、小説によって、メジャーへ顔を出したことの功罪…まぁ僕は罪のほうを思うけれど…が書かれていて、それも愛に満ちている。小説と戯曲の文体はだいぶに断絶があって、早々、両方をこなせるというようなことはないのだろうな…とも思った。

小説を書くのを本格化するまえの、唐十郎戯曲を集中して身体に取り入れてみようと、今は、思っている。まぁ、舞台無しでできるかどうかは、はなはだ疑問ではあるが。


ミテの第170号に載っている渡辺弘の書いた『唐十郎 襲来!』の書評も印象的だ。
渡辺弘にあったのは、彼がシティロード誌の演劇担当だった頃だ。渡辺は人の悪口を云わない。もちろん演出家の悪口も。目は厳しいが悪口は云わない。僕にとっては、演劇を見る、信頼するに一番の人だった。80年代だろうか、劇場がどんどんたち、ディレクターが必要になって、演劇に関係していていた人がどんどん転身していった。渡辺はその最後のほうだったと思う。
渡辺は蜷川幸雄について、劇場を移ったりもしていた。蜷川もだいぶ渡辺には助けてもらっただろう。
 僕は「おとうさん」と呼んでいたことが長くあって、本当に信頼していた。(実は年下なんだけどね…)なぜかというと、本当に演劇を良く見ていた。若い人の演劇にも丁寧に対していた。どこの劇場にいっても初日に、出会うことが多かった。
 唐十郎の舞台も追いかけていたと思う。その渡辺の静かな語りっぷりは、ある意味、唐十郎の凄さをさらに浮き彫りにしているところがある。『ミて』の唐十郎特集号も良かったけれど、今号の渡辺弘の文章も必要不可欠のものだ。
 久しぶりにディレクターの目ではなく、シティロードの記者だった頃の、演劇を鑑賞する人、演劇人を評価する人の文章に出会えて、何かちょっとほわっとした気持ちになった。

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