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意思は方向指示器

「やろうとしない」というのは、定期的に説明が必要になるのだけど。

物事に取りかかる時、意識を向けなくても「やろう」となっている状態はあるのだから、やろうとしているに決まっているものだけど、その状態に「強い意思を乗せなくて良い」というところ。既に動作は「やる」方向へ向いているのだから。そして”意思”を退けるようなこの表現は、角度を変えると、「意思というものは、それだけ事を(方々へ向けて)複雑にするもの」でもあるということ。少し砕いていく。

何かを続けるような状態にするには、いくらかのコントロールが必要で、意思という本来であれば、いつまでも無条件に続くものではないその時の「熱」を、継続させようとするのだから、その状態を「作る(確保する)」ことに意識を置いた方が良い―――この状態が、”無意識”に戻すとか、スイッチは一度だけ(入れれば良い)と表現してきている部分。自分が自覚するために「意識に上げること」は必要なのだけど、それはずっとその状態が必要なのではなくて、「やる」ことに自分を向かわせたなら、「その後に意思を使う必要はない」ということ。これがまた別の言い方をすると、「そのこと(姿勢)が”当たり前”の状態である」ということ。ここには自惚れや期待、約束されたものなど何ひとつないことは解ると思う。だけども「当たり前」の姿勢をすでに決めてしまうスタンス「肚」がある。

そして事はただ行っていくのみ。たまには色濃いコトも事象として受けることや、心が強い執着で現実(具体)からなかなか離れないことも体験していくのだけど、その中をくり返し経験していくこと自体が「慣れ」ていくものなので。しかもスタンスは既に決めてあるのだから、コトには対応しつつ、大きな流れの中であることは遠くに(自分の奥に。無意識近くに)確認しつつ。そうできる状態にある。

”スタンスを決めている”というのは、具体的な何かを固定してしまったというものではなくて、具体は処理していくその流れの中で起きてくること「その流れ」を拾っていくだけで、何かを集めよう、良い方に運ぼうとしなくても自然と起きてくる事象から、また対処や思考などを繰り出していくという「同じこと」をくり返している状態のこと。そもそもこのことに(無)意識があると、必然的に具体(小さなコト、現実)への意識の向け方が淡くなる。人は一度にあちこちに意識を向けられないのだから。”盲点”があることは、こうして活かすことができる。何かに自覚する時、どこかの殆どが無自覚の「見えていない」世界となっている。

現実をまったく無視しているわけじゃなく、対処という消化は行っているのだから、足元も甘くならないし、同時に大きな世界の流れはやんわりと掴み続けているのだから、現実だけへの執着は自然と薄まるということがこの中で体験することができる。頭の中の世界で思考する状態は、過去からの古いクセ習慣として暫く目にすることになる為に、自然と加わってくる新たな事象に対して”思うように進んでいない”など、「私」は何らかの判定をしたくなるものだけど、長く続けていると、その中身への見方(目線)も少しずつ切り替わってくる。そうして脳内の強くて古い配線は少しずつ自然と切り替わっているというイメージ。

そんなこんなの、この長い”流れ”の中で感じてきたのは、人は「その時」の状態を表現するということ。今の、頭の中にあることしか当然出力することができないので、ずっと長いこと読んで来てくれていた方には、昔の「私」の表現する内容・考え方とは違うことがよく解ると思う。人の中身は全く同じなんかじゃないこと。それは変えなければいけないという意味でなく、何らかで結んでしまっているそれは変えても(変えた方が)良いかもしれないということ。環境という外部が様々に変化していく中で、”そのまま”である必要はなく、残すにしても現在の頭で思考し直してみるということ―――違う世界をこの内側に展開しても良いかどうかを機会を利用して考える。そうでもなければ、人は必ず習慣の中に生きる…余計なエネルギーを使わなくて済むから。

自分自身の選択・判断は信じて良い。だけども他者のそれは自分にないものを現している。自分はこうだけど、他者はこう考えるなど、自分という「内」と、他者含む環境側の「外」とは異なりも示している。その異なるものと人は接し続けることで、その中では迷いや揺れる体験もする。矛盾や葛藤を抱えたりして生きる。それで良いのだと思っている。

自分と他者をきちんと分ける意識の使い方は、難しいと思っている。それはスッと処理できることと、そうでないことの様々があるから。それこそ「自分の持っている事由」があるので、それがある限りは何かそれと繋がることに対しては反応が強くなるということになる。逆に言えば、人は「他者」をいつも何らかで思う状態を持っているということになる。

事由を持つことを「悪」と言っているのではなくて、それがあることで、結局自分が苦しくなるならば、一度解してみてもいいのではないか?という緩みの話。大人になれば色々な経験をしてきたことは記憶を辿れば判るのだけど、その当たり前に無意識に残している記憶によって自分が不快になるならば、因はここあるということになる。それを解体できるのも「私自身」であるということ―――

『私』という存在は、とても強い意思と実行力を持っている。

(明日はもう一段下がると思う。過去にも記事を目にしてきている方には、確認になると思います。それこそ、同じ内容であっても、「現在の自分(目)」によって、理解の深さや配線の仕方は変わるので、やっぱり「受け取り」の時点で何かが生まれていると言える。自分の状態(脳内)が違えば、解釈は簡単に変わってしまうのが人だと思う)

追)
昨日の中で”普通”という表現をしているのだけども、それは私が書きながら「普通か?」と思うから。書いている時に自然と出てくる言葉を打ち込み、それを”見る”私は同時に理解がなされる状態で、「それは普通か?」という突っ込みを受けている状態にあるもの。それでもあれを削除しないのは、「私がそう思っている(た)」ということを自ら確認できるため。この一瞬でも内側では確かに「?」という状態にあり、何かが引っかかっている。その体験を通して、その後にどんどん「普通とは?」ということが自然と緩まることに繋がっていくように感じる。

書いていて自分の思う”普通”であることは解っている。誰もがその状態を普通に、つまり「中心」にして事を捉えたり考えたりしている。「中心」にしてあるのは「私」でいい。その「私」の中に多くのことが含まれていればそれでかなり十分な状態があるだろうと感じている。


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