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人は確かめることができる

昨日の内容の終わりだったか、人の意識は「その時」何かに向けられて、他の事はまったく見えない、ということを書いたそのことで。それが私の中の意識に奥でしっかりと上がり、それが「次の出来事」という起きてくる事象をその目線から入るような連なりとなっていると感じた。実際には連なりという表現は違うかもしれない。フォーカスが変わっていないことにより”見続ける状態”が正確。その入り口から入る(ものを見る)状態とも。そしてこのことをサクッと書いたのが昨朝のFacebookだった。

この「意識に(奥で)上がる」というところが、「いきなり“なる”状態ではない」と言えると思っている。それはずっと私自身が自分を観察し続けていて、それはもう大分長いことそれをやり続けている中で、現在のように「少し思った、そうなった」という見え方に来るまでには、かなりの長い月日がかかっていることから。このことが自分の中の紐づけや結びが解けていると表現する部分であり、人はものを観る時に、殆んどの場合無意識で「自分の枠」の中から見ているとする部分。その固まった価値観とでも言うような入り口は習慣化されていて、それが崩れるのに時間がかかるということ。身体と一体化した在り方となっていることもあり、なかなかそれを見破ることができない。

それを崩すという考え方もあるけども、「それはある」と認めた上で、反対側やまったく別の入り口から入る(世界を見る)ということで、”周囲から”自然と塊が解れやすい状態になることもあると思うので、方法は一つとは思っていない。「その状況・状態」を、どのように捉えるかということ自体も、崩し方には色々あると考えることに繋がっているものだと思う。

色んなことを知っていることは確実にその入り口が沢山あることを示していて、ものの見方として多様だと思う。だけどもそれは、それだけでも場面によっては何も決めていないことでもあるので、ものを見る時はしっかりと絞る「見る」ことは大切なのだと思う。「見る(観る)」ことを定めた上で、入り口を替えた世界を思考するという流れなのだと思う。


「何かの枠の中に収まる」ことは、窮屈であり、他があまり見えていないことという表現をしてきているけども、ここ最近では逆の、”その収まる状態”がなければダメなこともあるのだと感じた―――ワン達との生活において、人と犬(動物)の違いを見ることで、随分と明らかに出来ることがあると思った。(メモから)

「”それ”はこうして使うもの」という人の概念を完全に無視するから笑える。小さなペット用のおウチ。しょっちゅう逆さまだったり、入り口が天井を向いていたりしているのを、もう気にならなくなってきた(笑)この子達は、”そんなの関係ねー”なんだよね、と主人とよく話す。ワン達を見ていると、人が如何に”もの”を知っているかということがわかる。それはその知から世界を把握していることだとすぐにわかる。「違うもの」を観るということは、「私」の所属するものの様子が判ることでもある。人は他者との間に大きな違いを観る時に、ものごとを捉えやすい。

そんなメモがあって2日後。ワンコが珍しく普通にカーペットにシャーっとオシッコしたんだけど。トイレシートの近くで本人はきっと、「やった」つもりだろうと思うのだけど、それを処理している時にふと思ったね、人はこういうことにはならない、と。それが「何かの枠の中に収まる」こととした部分。人は「トイレ」という場所、その使い方、そういう時に…などを必ず守るから基本的に粗相ということがない。「必ず」に近い確実な習慣。

それはそれ以外ですることの恥じらいや、いけないことという当然の禁止行為など、意識せずとも必ず「枠」の中に収まるべき事として行為しているから。だけども犬は、必ずしもそうでなくてもよく、何かの理由や優先すること、もっと言えば何にも考えていないから、そうすることが可能であるということ。人の無意識の中には確実な習慣も含まれるけども、犬の無意識は、無秩序が多いと想像する。だから躾けたいことは何度もくり返して憶えてもらう。言葉も通じないのだから、「何かと何か、これ」という紐づけにより行動がパターン化されるようにくり返す。

そしてまた、この「結び付け」が、基本的には人のそれも同様だと思うのだけども、大きく違うのは人はそれを時をずらして「確かめる」ということができること。単に事象の結びつけだけでは、偶然も含まれてしまい、そこには間違いがあることも知っているから。

先日、ミルクの散歩をして帰宅した時、既に散歩を終えて留守番中だった2ピキが、ドアの開く音に反応してワンワンと吠えた。これは殆どないことで、「なんで?」と一瞬思うものの、その結びつけが想像できた。

私がドアを開ける前には、近所の方が車で帰宅して「車の音」が聞こえている。それは主人が停める駐車場と同じ方向。そして私は「ドアを開ける」――主人が帰ってきた時の反応は[車の音ー玄関の開く音]、毎日こうして吠えること。それと勘違いしたのだと思った。この様なことに人は”反応”しない。それは例えば時間だったり、直に車を見て違うことを確かめたりと、何らかで「そうでないこと」を事前にチェックすることが可能だから。また、「分からない」時というのは、反射的な反応よりも、その事に集中する(聞き耳を立てる)などの動きになり、時間をかけることもできるため即座に動かないということもできる。

確かめる、思考を挟む。この事により人は動物的な反射をせずに済んでいると思っていた。

・・・

「他の事が見えていない」

今に集中する限りそうなってしまう、または一度にそれらを上げる(意識する)と、処理が困難になる…、そのことから、感知は色々あったにせよ、それらの優先順位をつけて今やる事をやる。結局はそういう事になるのだろうと思った。身体も一つしかないのだから。

昨日は、ライトくんの診察を決めるのに現状や時間的なこと、明日明後日の用事などのあれこれをザーッと考えて、夕方に行くと決めた。

先生の診察は相変わらずかなりゆっくりで、独りで診察・薬の用意・会計とやるので、動物1ピキでも1時間待ちは普通。そのゆっくりな時間をゆっくりとしたままに集中するようにした。他のことに気を散らしてしまうことは容易なくらい、意識に上げようと思えば色々あったから、絞ることに集中していた。

帰りはすっかり暗くなり、その時間特有の渋滞にもハマりながらも、家の近くになってからは安全に、でも気持ちが急ぐことを解放した。留守番のワン達は真っ暗な中のケージにいるから。

時間も遅いしライトの絶食ということもあり、皆のおやつもなし。まったく穏やかでいられない時間が続いたライトはベッドの中でしっかり眠っていた。


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