「夜見枯古書店心書譚」第九話
ただ、普通の蛇ではない。胴体こそ靄がかっているものの、その顎は阿光の手に添えるように親しげに掌の上にある。
そして、確かにはっきりと見えた。
顎が、にたりと笑ったのを。
「昼間の答えを返してやるよ、夏笠妹。僕は」
阿光が手を伸ばす。その動作とともに蛇が伸びる。顎が広がる。
それは蛇の範疇を超え、阿光の身長さえも超えた巨大な顎となって、軽自動車ほどの大きさだったウサギに襲い掛かった。
「―――物語喰らいだ」
それは、たった一瞬の出来事だった。
美夜子が呆然と見守る中、逃げる兎を顎が追う。バクン! と音を立てて閉じられた顎は、ウサギの半分を丸のみにしていた。
そして、もう半分のウサギから……血ではなく、文字が、漏れ出ていた。
「ひっ……」
文字は、こう書かれていた。
『どうして』
それが無数に漏れ出て、ずる、と兎が体を引きずるごとに血のようにべちゃべちゃと地面に落ちていく。
その生々しさは、生き物のそれだ。
だが、あふれ出る血は、決して生き物のそれではない。
阿光から伸びた顎が、最後の一口を味わうかのように舌なめずりをする。それは、ちらりと見えた阿光と同じ動きで、彼もまた、何かを味わうように唇に舌を這わせ、この場に似合わない妖しげな色気を醸し出している。
―――物語喰らい。
阿光は、あれを食べている。
「安心しろ、これで最後だ」
その言葉と同時に、顎が再び大きく広がり、ズルズルと逃げていた兎の残り半分を、すべて、食べた。
―――ごくんっ。
「あとはこの部屋か」
「あ、待って……!」
阿光は足がすくんでいる美夜子を見もせず、すたすたと暗闇の先へと進んでいってしまう。
慌てて、美夜子はその背を追いかけた。
歩いて数分もしないうちに、阿光の歩みが止まる。そこにあったのは、宙に浮いてぱらぱらと風に吹かれるようにページが揺れている一冊の本だった。
見たことのない本だ。
「あれも、食べるの……?」
「ああ」
そういうが早いか否か、先ほどの顎が再び現れ、ぱくんっ、と本一冊を飲み込む。
だが、すぐにぺっと本そのものは吐き出された。
同時に、周囲から暗闇が消え去り、そこはいつも通り、美夜子が日々掃除をしていてきれいなままの兄の部屋であった。
「は、あ……」
あまりのことに、とうとう美夜子は腰が抜けてしまい、その場にへなへなと座り込む。その様子を、あきれたように阿光が見ていた。
「……こういう時、兄だったら手を差し伸べて暖かいものを入れてくれます」
「要求が多いな……まぁいい」
阿光はそういって、渋々と美夜子に手を差し伸べたのだった。
「これはもらってくぞ」
意外にも蜂蜜入りのホットミルクまで入れてくれた阿光の手の中には、真っ黒い部屋に浮かんでいた本があった。
表紙や背に題名のない、西洋の古書のような装丁の本には見覚えがない。
そんなのあったかな、と思いつつ、美夜子は肩にかけたストールがずり落ちないようにしてこくりと頷いた。
「どうぞ。たぶん、兄の物なので」
正直、あれほどの恐怖体験をしておいて置いておきたい本でもない。
「今回の件、原因はこれだから、これがなくなったら何の問題もないだろ」
「え、その本が原因なんですか?!」
「ああ。『心書』だからな」
「その、心書ってなんですか?」
マグカップを机の上に置きながら尋ねると、阿光は少し悩むように目を瞑る。
「『心書』は、いつから存在するのかわからないものだ」
「はい?」
信じられない、とは思いつつも、話の腰を折って阿光に話を止められてはかなわない。
とりあえず、神妙な態度で話を聞くことにした。
「だが、無数にある。誰かが作ったのか、そういう詳細なことはわからないが、悟志の手に渡るぐらいには無数にな。持ち主の心象を勝手に記載する本で、その持ち主が持つ特定の感情に反応する。この本の場合は、孤独だな。悟志のものかまではわからないが」
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