見出し画像

「夜見枯古書店心書譚」第十八話

ビリィィッ!!

「ひゃっ!」

美夜子が思わず耳を覆うほどの、まるで世界が破けるような音が周囲に響く。

その音がした途端に、眼前の幽霊は掻き消えてしまった。

「あれ……? いったい何が……」

「伏せろ!」

阿光が鋭く叫ぶと同時に、美夜子の頭が地面すれすれまで落とされる。いきなり近づいてきた地面に「きゃあああ!?」と悲鳴を上げた。

「ちょっと! 何する……」

怒りと共に見上げた先――阿光がいるはずの場所に、真っ黒い能面が浮かんでいた。

「…………え」

真っ黒い顔、白く細い二つの眼、ぽっかりと開いた口。

それが逆三日月形にニタァッと微笑むのを、美夜子は呆然と見つめていた。



――――しくじった!

阿光が歯噛みしたのは、一瞬だ。

美夜子を「安全地帯」まで押し込むのに少しの時間を要したため、自分の身は後回しになってしまった。

まぁ、それでもかまわない。基本的に自分の身はどうでもいいと思っている。

だが、自分が将来進む道を曲げてしまったやつの妹だ。同じような体験で、道をゆがめてはならない。

自分の腕一本吹き飛ぶことぐらい、どうってことはない。

先程まで美夜子がいた場所に黒い風が吹きつける。それも集中的に。

黒い風はよく見れば鎌の形をしている。阿光の右腕は美夜子の代わりに根元からその鎌の餌食にされてしまい、ポタリ、と血ではない、黒い文字が滴っていた。

もしも美夜子がこれを見ていれば、あの兎と同じだということに気が付いただろう。だが、その心配はないし、まず心配もしていなかった。

これを見せる気はないが、見られても問題ないと思っていたのである。

問題は、右腕がなくなったことでも、美夜子が狙われたことでもない。

「―――『心書』が、書き変わった」

先程までの心書はずいぶんと大人しい、レベル的に言えば可愛いものだった。

あれは、おそらく建物の『心書』だ。

長い年月をかけて綴られた建物の記憶が、一冊の本となった。

図書館という場所柄もあるのだろうが、あのがらんとした倉庫は初期の建物の記憶であり、あの人影はただの案内人として誰かが夢想したものだろう。

建物の記憶は人に感化されやすいので、おそらくこの図書館の館長でも模していたはずだ。今はもう、確認のしようがないが。

問題は、「誰が物語を書き換えたか」である。

書き手に慣れる人間はそうそういない。想像がつく相手なので、阿光は悟志の行動のせいだと結論付けた。

「あのバカ野郎。妹がいるのに無茶したな」

あぁ、なんて面倒だ。

妹を押し付けられ、厄介ごとまで勝手に任され、挙句の果てには巻き込まれ。

つくづく迷惑をかけてくる男である。だが仕方ない。あいつの道を曲げたのは自分なのだ。

阿光は、視界の端から物語が溢れているのを見た。

物語が溢れるのは、狂気の証。

そして、阿光の『食いがい』が出てきた瞬間でもある。

きゅっと、瞳孔が細くなる。物語を食べる怪物へと、意識が少し傾いていく。

残った左腕に、蛇が現れる。

その瞬間、殺到していた黒い鎌を、顎が喰らいつくす。

「……存分に食うか。夏笠妹が現れるまで」

怪物と呼ばれた男が、無造作に暴れだす。



―――ケタケタと、それは不愉快に笑う。

口元を抑えて悲鳴をこらえ、涙目になりながら阿光を見る美夜子を、ケタケタと笑う。

「オマエノセイダヨ」

「オマエガカレヲツレテキタカラ」

「オマエガココマデツレテキタカラ」

「ウデヲナクシテシマッタヨ」

「怪物ニナッテシマッタヨ」

「「アノ物語喰ライガ」」

ヘッドホンのように、左右から真っ黒い能面がケタケタと笑う。あぁ、なんて不愉快な。夜見枯さんの蛇がいたら、きっと食べてくれるのに。

あぁ、痛くないのかな?

「イタイニキマッテイルジャナイカ」

「イタミヲシラナイワケジャナイカラネ」

「キミノセイダ」「きみのせいだ」

「うるさいッ!」

美夜子は、ずっと見ていた。透明な膜が張っている、まるで繭のような空間に、阿光の手によって押し込められて。

その繭は、どんなに叩いても、引っ搔いても、美夜子の腕を優しく返してきて。

これは阿光が作ったものだと、理解するまで時間はかからなかった。だって、阿光の気配がするのだ。

先ほど恐怖で目を瞑っていた時と同じ、触れていた時と同じ温かさと、意外に強く頼りになる気配を持っていて。

目の前で、阿光が暴れている。阿光の腕から伸びた真っ黒い顎が、ひたすら影絵のように地面から溢れ出るどす黒い怪物を貪っている。

恐ろしいのは、阿光の表情だった。

顎が暴れるたびに、阿光の表情は陰っていく。

まるで阿光の生命力を吸い取るように顎が動き、どんどん阿光の表情は生気が抜けていく。

怪物に、なろうとするかのようだ。

「やめて……」

腕がなくなったのを、美夜子は目の前で見ていた。

痛いだろうに、辛いだろうに、阿光は表情の一片にさえ、それに関する何も
かもの感情を浮かべなかった。

この時に初めて、美夜子は、この人が怖いと思った。

だが、もっと恐ろしかったのは、彼が物語を食べる時だ。

阿光が、阿光でなくなっていく。

彼自身がなんとも思っていないことが、ひどく恐ろしい。

「やめてください! 夜見枯さん……阿光さん!!」

どんなに訴えても届かない。優しい壁は優しいまま。

阿光のものではない真っ黒い能面が、美夜子の心を引っ掻くように嗤い続ける。

お前のせいだ、と。

あぁ、そうだ。兄の時もそうだった。

悟志がいなくなった時も、そう思った。


自分はこの家の子供ではないから、兄は出ていったのではないか?


いいなと思ったら応援しよう!

千羽はる(ChibaHaru) 読んでいただきありがとうございます。 頂いたサポートは、より人に届く物語を書くための糧にさせていただきます(*´▽`*)