「夜見枯古書店心書譚」第十九話
美夜子は、孤児だ。夏笠の家の子ではない。
悟志の代わりに大切にしてもらうために、兄は身代わりになったのではないか?
両親の過保護がひどくなるにつれて、美夜子はそう思うようになっていった。
優しい人が損をする。たとえば、兄のような人が。たとえば……阿光のような人が。
あの兎は自分だ、と美夜子は唐突に気が付いた。
阿光が食べてくれた、あの化け物のような真っ黒い兎。
あれは、自分自身だ。どうしてと叫んだのは、私だ。
どうして、私を棄てちゃったの? お兄ちゃん……。
どうして、私を助けちゃったの? 阿光さん。
人の心に巣食う化け物は、私じゃないのか。
誰かの腕に縋りついて、誰かの居場所を奪い去って、生きている私。
誰かに怪物と呼ばれるべきは、阿光ではなく、私ではないのか―――?
「やだよぉぉ……」
ずるり、と足もとが崩れる。いや、足から力が抜けてしまう。呆然として、阿光をただ見つめるがままになる。
自分の心の卑しさが嫌だ。阿光に縋った自分が、兄から居場所を奪った自分が。
ぽたぽたと、涙があふれてくる。そうだ、見えなくなればいいと、心のどこかが悲鳴を上げる。
こんな痛みばかりの風景、見なければいい。涙で見えなくなればいい。逃げてしまえ。逃げてしまえ。逃げてしまえ。
逃げ――――。
「逃げてばかりはいられないからね」
ふと、脳裏に、兄の声が響いた。これは過去のことだ。兄が家を出る日のこと。
どうしていくのか、と聞いた。父も母も怒り心頭で、勘当すると言ってきかなかったあの日。
「見たものから、逃げてばかりはいられないから」
そういって、兄はリュックをしょって、家から出ていった。くしゃりと、美夜子の頭を一度撫でて。
―――兄も、阿光が怪物になる、この光景を見たのだろうか。
いや、見たに違いない。だから、あんなにまっすぐな目をしていたのだ。
たぶん、阿光を助けるために。怪物と呼ばれる親友を、怪物じゃなくすために。
ケタケタと笑う能面二つを―――美夜子は、阿光が操る顎に倣って、ぶん殴った。
「!?」
「!?」
「黙りなさい。あの人は怪物なんかじゃない――ただの、良い人よ」
そうだ。逃げてばかりいられない。この意地は、兄譲りだ。
涙を流したまま、美夜子はきっと阿光ではない能面を――この状況を作り出した、原因の物語を睨んだ。
阿光は、「物語が書き換えられた」と言った。元凶は絶対にこいつらだ。
―――阿光さんに、食べてもらわなきゃ。
そのためにはこの繭からでなければいけない。どうやって出るか悩んでいた時――。
「美夜子! お前なら書き換えられる!」
久方ぶりに聞く、懐かしい声がした。
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