「夜見枯古書店心書譚」第七話
「兎……?」
美夜子は思わずつぶやいたものの、それが「違う」ことははっきりと見て取れた。
ただ毛並みが真っ黒なわけではなく、背中や耳の先に棘がついている。しかも大きさはバスケットボールよりも大きい。
何よりも、真っ赤に染まった眼に、はっきりと敵意が宿っていた。
「どうして」
兎の口から放たれた言葉と、美夜子の口から漏れ出た言葉は全く同じ音だった。
あの兎は、美夜子の心からできたもの?
「どうして」「わかってあげないの」
「どうして」「わかろうとしてあげないの」
「どうして」「私を見てはくれないの」
「どうして」「いないお兄ちゃんばかり見るの」
「言わないで!!」
それは、不満。美夜子が閉じ込め続けていた、両親への不満だった。
だけど、それは言葉にしてはいけない。だって、両親はずっと黙り込んでいるのだ。いないことにしているのだ、兄を。
「私を放っておいて、お兄ちゃんだけ」
「言わないでったら!」
黙らせないといけない、そう思い、美夜子は机の上にある手に触れたものを振りかざした。
手にしたものは……ハサミ。あぁ、一番武器になりそうなものだな、とちらりと思いながら、金属部分を黒い兎へと突き刺そうとした。
だが、ぴょんとはねて除けられる。ウサギは、たたたたっと音を立てて部屋を突っ切り、ふっと扉の前で消えた。
「どこに……?!」
美夜子は慌てて扉を開く。すると、まるで、待っていたかのように二つ足で兎が立っていた。だが、美夜子を見るなり、たたっと逃げてゆく。
「待って!」
美夜子が叫ぶも、黒い兎は隣の部屋――兄の部屋のドアの前で、ふっと消えてしまった。
片手にハサミを握りしめたまま、黒い兎を止めなければ、という一心で美夜子は兄の部屋のドアノブを動かす――そこに、阿光からもらった忠告の文字は全く頭に浮かばなかった。
空けるなという言葉が頭に浮かんだのは、すでに扉を開いてしまった後のこと。
何の変哲もない兄の部屋は―――真っ黒に染まっていた。
「なに……これ……」
『どうして』
「あっ」
目の前に、黒い兎がいた。真っ赤な目が爛々と輝いていて、まるで危険信号のようだ、と思う。
ダメだ、と思うのに、足が勝手に動いてしまった。ウサギに向かって、美夜子の足は催眠術でもかけられたかのようにまっすぐ進んでいく。それは、自然と、真っ黒な部屋に入っていくことを意味していた。
『どうして』
それが兎から発された言葉なのか、自分の口から発された言葉なのか、暗闇の中で美夜子はわからなくなっていく。
怖かった。恐ろしかった。自分の感情が、心の底から怖いと思った。
あの兎は、私だ。あの恐ろしい兎は、私の真っ黒な心なのだ。
―――壊さなければいけない。
ふと、心の奥底からもう一つの真っ黒い声が聞こえた。
――あの不要な思いを、邪魔な兎を、壊さなければ。
手の中にあった金属がさらに冷たくなり、その存在感を示してくる。
「私は、この刃で、あの兎を壊さなければならない」
それは、激しく強い意志だった。今までの人生で一度も抱いたことがないぐらい、強烈な衝動だ。
兎は、逃げない。ただ、その真っ赤な目がニヤリと悪辣に歪むのが、わかった。
なんて忌々しい――!
美夜子はカッと目を見開いて、ハサミを振りかぶりながら、叫んだ。
「壊れろ―――!」
美夜子の手は、その刃は、ニヤァッと笑みが深くなる兎に向かってまっすぐ進み……。
「それ、却下」
聞きなれない美声と共に、後ろから、腕を止められた。
「お兄ちゃん……」
頭の中にふと浮かんだあの優しい面影。それをかき消すように、振り向いた先にいたのは不機嫌丸出しの美しい青年……夜見枯阿光だった。
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