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映画『聴く隣人のいるところ』を観て:「枠組み」の中で立ち上がる、他者と向き合うことの普遍性

先日、ドキュメンタリー映画『聴く隣人のいるところ』を観てきました。
島根県にある全寮制のキリスト教愛真高等学校を舞台に、生徒たちのありのままの姿や共同生活の様子を記録した作品です。この映画を観るきっかけをくれたのは、同校の卒業生である友人でした。彼から「まことさんが観たら、どんな感想をもつのかなと思ったので」と声をかけられ、足を運ぶことにしたのです。

予想外だった「違和感のなさ」

事前にこの映画を観た人たちの感想をいくつか目にしていました。「観ていて苦しかった」「こんな場所が日常にもあればいいのに」といった声があり、私自身もスクリーンと自分の感覚のあいだに、何かしらの“違和感”や摩擦のようなものを抱くのではないかと予想していました。

しかし、いざ観終わってみると、私にはまったく違和感がなかったのです。
確かにそこに描かれていたのは、愛真高校の大きな特徴でもある「とことんまでの向き合い」、対話、そして共同生活の姿でした。生徒たちは自らの心と深く向き合い、それをさらけ出すようにお互いとぶつかり合っています。

そういった経験がない方、あるいは苦手意識を持って避けてきた方にとっては、彼らの姿を見ているだけで息苦しさを覚えるのかもしれません。その感覚は想像できるものの、私自身は肌感覚としてその苦しさがわからず、ごく自然なものとして受け止めていました。

それらは、私が常日頃から求めており、また日々体感しているコミュニケーションや関係性、対話と通じるものでした。まさしくそのような「他者と自分との深い部分に触れ、向き合いを必要とするもの」、同じような向き合い方や距離感を心地よいと感じる人たちと、私はこれまでよい関係を紡いできたのだと改めて気づかされるときでした。

「枠組み」の強制力と、再現性のない体験

なぜ愛真高校では、あれほどの「向き合い」や「対話」が可能なのか。
友人とも語り合ったのですが、それは間違いなく、全寮制であり三年間を共にする高校という「箱」「枠組み」「システム」の存在ゆえでしょう。

あの環境は意図され、期待され、仕組まれたものであり、「自由」が語られ大切にされていますが、そこには環境ゆえの強制力やパワーが確実に存在しています。それこそ、「自由であれ」「自由になれ」という強制力ともいうものです。

そして、教育現場という文脈において、この営みを愛真高校の「教育効果」や「教育的成果」とあえて表現した場合、そこにいわゆる「再現性」があるかという話にもなりました。答えは否。生徒一人ひとりが多様である以上、そこで起きる具体的なできごとや体験そのものを他で同じように再現することはできません。

しかし、具体的な体験に再現性はなくとも、その環境下で立ち上がってくる「問い」や「葛藤」は、学校という現場をはるかに超えた、人間の人生や人間関係における普遍的なことがらであるように感じられました。
だからこそ、観客の中のある人はその普遍性に強く惹かれ、またある人は、自分自身の根源的な部分を揺さぶられるような恐れを覚えるのではないかと思います。

「同じ」であることを喜ぶか、「違い」を面白がるか

この「恐れ」の正体はなんなのか。
映画のあとの友人との会話で出た「人はなぜ、“同じ”であることで喜ぶのだろうか?」という問いについても共有したいと思います。

私は、初対面の相手と出身地や趣味などの共通点を見つけて「おーっ!」と同調し合う感覚があまりよくわかりません。むしろ「同じ」であることを喜んで関係をスタートさせると、そこからさらに踏み込んで話したとき、必ず存在する「違い」が見えてきた瞬間に萎えてしまうことがあるように思います。

私の場合、はじめから他者は「違う」「異なる」存在だと思っているので、違うことそのものが面白い(興味深い)と感じます。
たとえば同じお店の同じラーメンが好きでも、「どこがどのように好きなのか」というポイントは必ず異なります。その「異なり」を伝え合い、知っていく過程こそが面白いのです。
そして、自分のもつ「異なり」こそが自分自身であり、それをこそ相手に知ってほしい、そのようにも思っています。

しかし、「同じでありたい」「同じであってほしい」と思いがちな大半の人たちにとっては、本当は同じではない、異なっているお互いの姿を知ってしまうこと、そしてその普遍的な「違い」と向き合わざるを得ないことは、恐ろしく、できることなら避けたいことなのかもしれません。

キリスト教の根底にあるもの

この「普遍性」というキーワードから、キリスト教とは何か、という話にもなりました。

現在、世界に無数に存在しているキリスト教には様々な形があり、みながそれぞれに、何かしらの「理想的な形」を志向しているように見えます。正解はあるのか。

少なくともイエスという人は、何かかっちりと形が決まった宗教システムを広めようとしたというよりも、「人間にとって普遍的なことがら」について語り、それが歴史を通じて、世界中で共有されていくことを願っていたのではないか。私たちはそのような考えを共有しました。

愛真高校の「全寮制」という強力な枠組みも、ある種の形(システム)ではあります。しかしそれは、人間を特定の型にはめるためのものではなく、人間が本来持っている普遍的な違いや問いを浮き彫りにし、それらと向き合うことへと生徒たちを向かわせるための「器」のようなものとして機能しているようにも感じられました。

日常に開かれた対話への招待

はなから「同じ」を求めず違いを面白がる私と、愛真高校のシステムの中でとことん他者と向き合ってきた卒業生の友人。かくして私たちの会話が、深い対話にならないわけがありませんでした。

この映画を観て何を感じるかを分かち合うことは、多くの人を「よい対話」と「向き合いの時間」へと招いてくれるように思います。(それに応じ、その特別な機会に踏み出すかどうかは人それぞれでしょうが)
それらは本来、ひとつの学校のなかにしか存在しない特殊な営みではなく、誰もが日常のなかで経験し得る、特別でありながら普遍的でもある人間の営みであると私は思っています。
映画をきっかけに、そんな対話ができる友人関係があることを、私自身は心からありがたく感じました。

本作は、一般人である未成年が出演するドキュメンタリー作品ということで、DVDや配信での公開は予定されていないそうです。そのため、多くの人に観ていただく機会が限られているのが非常に残念でなりません。
もし、お近くの劇場や上映会で観る機会がある方は、ぜひ足を運んでみてください。そして観終わったあと、誰かと一緒に、それぞれの「違い」「異なり」その大切さについて、言葉を交わしてみてはいかがでしょうか。


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