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歴史から消し去られた女性作曲家、千野照代《メヌエット》紹介原稿

先日5月17日(日)に、兵庫県神戸市の素敵なピアノのバー「クラシックサロン・アマデウス」というところで、ジョイントコンサートに参加させていただきました。

その名を神戸元町珍曲祭といい、全国津々浦々の猛者が集まり、聞いたこともない作曲家の、聞いたことのないような曲を演奏するという、すごい集まりです(いらっしゃった方からも「東京でもこんな会はない、まるで研究発表のようだ」というありがたいコメントをいただきました)。次回は11月の終わりごろみたいです。興味のある方はぜひフォローしてチェック、またいらっしゃってください。

私はその中で千野照代という方をメインで取り上げ、演奏を披露しました。千野照代は日本人の作曲家ですが、生年、没年、出身地の全てが行方知れずの、まさに歴史に埋もれてしまった作曲家です。まだまだ勉強不足なことを実感しましたが、YouTubeに動画を上げましたので、紹介資料として書いた原稿を共有します。

他にも面白い曲をたくさん上げたいと思っているので、良ければチャンネル登録をお願いいたします!!

本文

今回メインでやらせてもらう曲として、千野照代という方が書いた曲を取り上げました。千野照代について、邦人作曲家にとっても詳しい方でもご存じないと思いますが、それも無理からぬことです。今からそんな彼女の物語をお話したいと思います。

まず、この曲について本人がコメントを残しているので、ちょっと読みにくいところもあるのですが、全文読み上げます。

掲載樂譜に就て
千野照代

此のメヌエツトは、私の末定稿『レ・マジユールの交響曲』の一部であります。
もとが管絃樂に立案したものをピアノの形にまとめ、その上に目的の交響樂の方がまだすつかり出來上つて居ない先に、此の一部分だけを發表してしまふのはどうかと思ふのですが。
然し制作で出來上らなければヱスキースは見せるものではないと云ふ作法があるわけでもないのですから。
此のメヌエツトのフラーズの配置は管絃楽のとは少し違つて居ります。それは合奏的な着想のピアノでは無意味に終るところが有るだらうと懸念しましたし、一つは此れを出していただく月間樂譜の頁数の制限のことも考へたからであります。
ピアノ曲としては聲にそくばくされ、その上限られた音域内で終始して居るのが氣がかりなのですが、もとが管絃楽のデツサンだからと云ふ事にして、此れはそのまゝにして手をつけずに置きました。
トリオの部分の潜在的な和聲間に就ては菅原先生の助言をいただきました。

月刊樂譜第廿六巻第四號

千野照代について現在残っている楽譜はおそらくこれだけ、彼女について記された文章は先ほど紹介したコメントが全てです。断片的に残る資料から、メヌエットやレ・マジュールの交響曲とは別の、マンドリンオーケストラのための組曲を一作書いていることが判明しています。

しかし、他の資料からわかる時代背景と照合すれば、このコメントからいくつかの重要なポイントを見出すことができます。

まず、菅原先生とは、作曲家の菅原明朗(すがわらめいろう)です。そして菅原明朗が指揮をしたコンサートで千野の曲が散発的に取り上げられていることから、千野照代は菅原明朗の直弟子(じきでし)であり、菅原の前職である帝国音楽学校作曲科の生徒であったと考えられます。帝国音楽学校は新興の大学でしたが、お家騒動によりこの時期には半壊、菅原も教授職を辞しています。

また、千野照代のような女性が作曲科の門を叩くことは、当時非常に先進的なことでした。日本で本格的な西洋音楽教育が始まったのはだいたい1890年ごろからですが、設立当初「女性は大作曲家になることができない」という、どこから聞いたか分からない偏見によって女性の作曲科入学が制限されていました。著名な日本人女性作曲家である金井喜久子が、女性として日本で初めて東京音楽学校の作曲科に入学したのは、1933年のことです。時期を考えると、千野は金井とほぼ同期ということになります。

さて、曲についてですが、やや和声が固いところがあるものの、実直な構成で、伸びやかな、とても美しい曲です。このときにはすでに日本におけるナショナリズムを西洋音楽に乗せる書法はほぼ確立しているのですが、この曲はそのような日本の作曲の影響を全く感じません。この曲が発表された時期、1937年は戦中に当たる時期ですが、都市部では比較的自由が認められていました。しかし、足元では日本の軍国主義が燻っており、この曲が掲載された月刊楽譜でも翌年1938年以降一気に加速することになります。

帝国音楽学校が東京にあったため千野照代もおそらく東京にいた、それもおそらくかなり位が高いご令嬢だったと考えられるのですが、戦禍に呑まれた後いったいどうなったのかは分かりません。メヌエットを出した1937年が、彼女の足取りをたどることができる最後の年です。レ・マジュールの交響曲は完成しなかったし、完成したとしても披露されることのないまま、空襲で失われたと思います。生きて、かつ音楽家としての活動を続けていれば、金井喜久子のような女性を代表する作曲家になれたかもしれません。しかし今になって残るのは、権利者不明の、この1枚の楽譜だけです。

補足

千野照代について、本稿では東京居住の大学生として描きましたが、もうひとつ有力な仮説として、同志社大学の学生であった可能性も考えられます。

菅原明朗は同志社大学マンドリンクラブによく出入りしていましたし、彼らを指揮して自作を演奏した記録も残っています。そこで出会ったのが当時学生だった千野照代だったというわけです。

また、真偽不明ながら、千野姓は奈良県によく見られるという話もあり、このことには一定の信頼性があると言える……かもしれません。

ただ、帝国音楽大学だったとしても同志社大学だったとしても結論は変わりません。活動時間は短く、戦中のゴタゴタで亡くなったか、行方不明になったか。最終的に残ったのはメヌエットだけでした。

参考文献

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