純文学と純喫茶は似ている。
純文学と純喫茶は似ている。
いや、似ていたと言うべきか。
共に「俗なるもの」との距離を示す接頭辞「純」を冠し、否定的差異によって自己を定義している。
純喫茶は、酒や接待や風俗性を帯びた喫茶空間との否定的差異によって、
純文学は、大衆文学や通俗文学との否定的差異によって、
自らを浄化された場所、あるいは高尚な場所として区別し、その輪郭を立ち上げた。
このように「俗」なるものを否定し、清潔さや高尚さの側へ自らを置くことで、自己の領域を画定する語の構造に、わたしは些か傲慢な空気を感じてしまう。
家父長的な権威をありがたい高尚さとして受け取ってしまう昭和の空気を彷彿とさせているというのは、言い過ぎだろうか。
⭐️
わたしには、純文学と純喫茶は、昭和の空気感を同根とする兄弟のような語に思えるのだ。
しかしその兄弟語も、現代では袂を分けた。
純喫茶は、閉塞した昭和の空気感を、懐かしみ溢れる昭和レトロという消費可能な魅力へと変換した。
いまや純喫茶は、潔癖な浄化空間を過去のものとし、非俗を現代のおしゃれ空間へ変換し再生を果たした。
一方で、純文学は退潮にあると言われる。その現状認識が正しいかどうかは不明だが、非俗であることそれ自体が価値を保証した時代ではなくなった。
内輪に有り難がられるだけの高尚さと難解さだけでは、何の証明にもならない。
🐯
このようなとき、わたしは中島敦の『山月記』を思い出す。虎になったつもりでいる孤独な男の閉じた妄想語りとして。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心をこじらせた者が、自ら選んだ孤高を「純」という名で飾り、閉じた夢想を一方的に語っている。
その声に、たまたま通りすがりの者が立ち止まるが、話を聞いて、やがて立ち去ってしまう。
閉じた夢想には、外から手を差し伸べることができないからだ。
文学が、純文学という虎語りから降りるときが来ている。
俗なるものとの距離によって自らを定義することをやめ、俗のただなかに降りていくことである。
虎語りをやめるとは、そういうことだ。
