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世界が少し遠くなった──約束を軽く扱えない男と、出会ってしまった人たちの物語

世界が少し遠くなった──約束を軽く扱えない男と、出会ってしまった人たちの物語

「約束する」――その言葉を、彼は軽く使わない。

駅前のスーパーで、いちばん遅いレジの列に並ぶ男・相沢啓。
三十代半ばのフリーランスエンジニア。黒っぽい服、少ない口数、読み古した哲学書。

彼は誰かを救おうとはしない。
ただ、目の前のことから逃げない。

保育士の佳奈は、SNSの小さな悪意に日常を削られていく。
古い酒屋を手伝うあすかは、母の善意が人の時間を奪っていたことに気づく。
沖縄へ逃げるように旅に出た悠斗は、嘘で塗り固めた人生の先で、父になる不安を抱えている。
そして、路地裏のバー「アリストクレス」の老いたマスターは、相沢自身がまだ帰れない場所を見つめている。

相沢が置いていくのは、答えではない。
読み古された一冊の本と、約束を軽く扱わない人間の沈黙だけだ。

これは、世界を変える物語ではありません。
誰かと出会ったあと、自分の世界との距離が、ほんの少し変わる物語です。

以下は、Kindle小説『世界が少し遠くなった』第一話「遅い列」からの試し読みです。


あらすじ

松原佳奈は、郊外の保育園で働く保育士。
子どもの数を数え、散歩の道を確かめ、連絡帳を書き、毎日をなんとか終わらせている。

そんな佳奈の日常に、SNSの小さな悪意が入り込む。
本名ではない読書アカウントに届いた返信。
プロフィールには書いていないはずの職業。
どこまで知られているのかわからない不安が、眠りと仕事を少しずつ削っていく。

その途中で佳奈は、いちばん遅いレジの列に並ぶ男・相沢啓と出会う。
相沢は助けるとも、導くとも言わない。
ただ、相手の言葉と行動を見て、軽く扱えないものを軽く扱わない。

約束は、人を救うこともある。
同時に、人を縛ることもある。

『世界が少し遠くなった』は、相沢啓と出会ってしまった人たちが、自分の人生の見方を少しだけ変えていく連作小説です。


試し読み:第一話「遅い列」より

「聞こえてんのか。早くしろよ、ばばあ」

夜のスーパーに、その声はよく通った。

松原佳奈(かな)は、声の主のすぐ後ろに並んでいた。
いちばん進みの遅いレジの列だった。先頭の客のかごに値引きシールの品が多くて、そのうちの一つがうまく読み取れず、年配の店員は、何度も頭を下げながら、端末で価格を照会していた。この列に並ぶ客は、その遅さを知って並んでいる。
知らずに並んだ男が、一人だけいた。
スーツの中年だった。ネクタイが半分ゆるんでいて、酔っているのは声だけでわかった。

男が、レジ台の下を革靴の先で蹴った。
鈍い音がして、店員の肩が跳ねた。手にしていた品が、読み取りの機械の前を二度通った。
二重に登録された一件を取り消すのは、この店員には、通すことより時間のかかる操作だった。すみませんねえ、と誰にともなく言って、老眼鏡を少し上げて、画面のボタンを探し始めた。
急かした声が、列を、いちばん確実に遅くした。
列の空気が固くなった。誰も動かなかった。

佳奈は、自分の口が開くのを、止められなかった。

「あの……やめませんか」

「はあ?」

男が振り返った。近くで見ると、思ったより歳がいっていて、思ったより目が据わっていた。

「関係ねえだろ。引っ込んでろ」

それで終わりだった。
佳奈の声は、そこで尽きた。続きの言葉は、喉のどこにもなかった。

列の先頭のほうから、男が一人、歩いてきた。
その顔に、見覚えがあった。どこで見たのか、とっさには出てこない。ただ、初めての顔ではなかった。
急ぐでもなく、身構えるでもなく、ただ、酔った男とレジの間の位置に立った。

「なんだ、お前」

酔った男が、新しい相手に向き直った。

「じゃあ何か、この列、お前がどうにかしてくれんのかよ」

「あなたと、何かを約束した覚えはない」

「……は?」

酔った男の顔から、一瞬、酔いが抜けた。
怒鳴られたのなら、怒鳴り返せた。すごまれたのなら、すごみ返せた。けれど返ってきたのは、そのどちらでもない、平坦な言葉だった。
男は、それでも一度、相沢を睨みつけた。酔って据わった目に、それくらいの凄みは残っていた。
けれど、目が合った瞬間、その凄みが、行き場をなくした。相沢は、睨み返してなどいない。ただ、静かにこちらを見ている。静かなのに、底の見えない目だった。酔った男が、思わず半歩、引いた。

「約束う?……なんなんだよ、お前」

「すぐそこに交番があります。続けるなら、一緒に行きますか」

男は何か言いかけて、やめた。
舌打ちをして、かごを床に置いたまま、店を出ていった。自動ドアが閉まる音だけが、やけに大きく聞こえた。

立っていた男は、何事もなかったように、列の元の位置へ戻っていった。
誰かが小さく息を吐いた。レジの音が、また始まった。

その男と、佳奈は、その日の朝に、一度だけ会っていた。


その朝、佳奈は、子どもの数を一瞬だけ見失った。

保育士になってから、数を数える癖がついた。
部屋を出る前に数える。玄関で靴を履かせながら数える。門を出たところで数える。公園に着いたら数える。帰る前に数える。園に戻って、靴を脱いだところでまた数える。

九人。

二歳児クラスの子どもは、その日、九人だった。
歩ける子は散歩ロープの輪を握り、まだ足取りのあやしい二人は散歩車に乗っていた。散歩車は、列の後ろでパートの吉川さんが押している。ロープを握る手は、どれも小さく、すぐにほかのものへ伸びたがる。花壇の土。排水溝のふた。自動販売機の下に落ちた丸い石。犬。鳩。バスの音。
世界には、二歳児の手を誘うものが多すぎる。

「ロープ、持ってね」

佳奈はできるだけ明るい声で言った。
明るい声は、元気だから出るのではない。保育士の声は、半分くらい技術でできている。

「はーい」

返事は返ってくる。
けれど返事と行動は、別の場所にある。

駅から少し離れた住宅街の道は、歩道と車道が白線一本で分かれているだけだった。車通りは多くない。ただ、抜け道に使う車と自転車が時々ありえない速度で通る。朝のニュースでは、また園児の列に車が突っ込んだ事故が流れていた。画面の中で、誰かが何度も言っていた。
なぜ防げなかったのか。
どうすれば防げたのか。

佳奈はテレビに向かって答えそうになった。

防げるなら、防いでいる。

もちろん、口には出さなかった。
出しても何も変わらない言葉は、仕事を始めてから少しずつ増えた。園長に言わない言葉。保護者に言わない言葉。同僚に言わない言葉。子どもに言うわけにはいかない言葉。
そのうち、自分にも言わなくなった。

疲れた。
怖い。
向いていないのかもしれない。

そういう言葉は、頭の中でもあまりはっきり読まないほうがいい。一度形になると、その形のまま残ってしまう。

読まないほうがいい言葉は、この十日ほど、頭の外にもあった。

佳奈は、Xに本名とは別の名前のアカウントを持っている。読んだ本の感想を短く書いたり、仕事帰りの空の写真を載せたりするだけの、フォロワーの少ない静かな場所。たまに誰かが小さく反応してくれると嬉しい、それくらいの場所だった。
十日前、佳奈はそこに、何度も読み返している小説の感想を書いた。
救われた、とは書かなかった。救いという言葉は重すぎる。重い言葉は、助けられた側も、助けた側も、少しずつ縛る。だから、こう書いた。

――世界が少し遠くなった。その距離があったから、次の日も起きられた。

返信は、三日後に来た。

――こういう読み方をする人がいるから、作者は勘違いするんですよ。

知らないアカウントだった。画面を閉じようとした指の先に、次が届いた。

――保育士さんですよね。子ども相手の仕事をしている人が、こういう死生観の小説をありがたがってるの、普通に怖いです。

佳奈は、プロフィールに保育士とは書いていない。
少なくとも、はっきりとは。
それから、眠りが浅い。夜中に目が覚めて、通知を確かめて、何もないことを確かめて、また浅く眠る。今朝も、そうやって朝になった。
だから今、数えている。目の前の九人を、いつもより一回多く。

「とうちゃくしたら、お茶飲もうね」

「おちゃ」

「そう、お茶」

「こうえん?」

「公園。あと少し」

子どもたちの声が、細い道に散らばっていく。

交差点の少し手前で、佳奈は列を止めた。
信号のない小さな横断箇所だった。反対側には、区画の小さな公園が見えている。滑り台がひとつ、砂場がひとつ、隅に古いベンチがあるだけの公園。けれど午前中の二歳児には、それで十分だった。

「止まります。ぴたっ」

佳奈が言うと、子どもたちはばらばらに止まった。
止まった、というより、散らばりかけたものがかろうじて留まった。

佳奈は数えた。

1、2、3、4、5、6、7、8。

そこで、音がした。
いや——音は、少し前からしていたのかもしれない。気づくのが、いつもより半呼吸、遅れた。寝不足の頭は、そういう遅れ方を、あとからしか教えてくれない。

自転車のベルではなかった。原付のエンジン音でもない。もっと細くて、軽くて、頼りない音だった。
電動キックボードが、車道の端をこちらへ向かってきていた。

乗っている若い男は、片手をハンドルに乗せ、もう片方の手でスマートフォンを持っていた。イヤホンをしているのか、こちらを見ているのかもわからない。道幅の狭さに対して、速度だけが浮いていた。

「下がって。ロープ持って」

佳奈は言った。

その時、ロープのいちばん端にいた律(りつ)くんが、白線の向こう側へ半歩出た。
理由はわからない。
反対側の公園に何か見えたのかもしれないし、ただロープの輪が手から抜けただけかもしれない。二歳児の行動に、あとから理由をつけることはできる。けれどその瞬間、理由は何の役にも立たない。

佳奈は手を伸ばした。
届かなかった。

黒い車輪が、視界の端で大きくなった。

次の瞬間、黒い無地のTシャツを着た男が、佳奈の横をすり抜けるように前へ出た。
走った、というほどではなかった。
飛び込んだ、というほどでもない。
ただ、そこに足を置くしかない場所へ、一歩置いた。

男は片膝を落とすようにして、律くんの体を片腕で抱え、白線の内側へ引いた。
電動キックボードは、そのすぐ横を抜けた。

「危ねえな」

乗っていた男が言った。

佳奈は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
危ないのは、どちらだったのだろう。
考えようとした瞬間、足元が急に遠くなった。

律くんが泣き出した。
遅れて恐怖が来たのかもしれない。あるいは、大人たちの声と体のこわばりを、何かの危険として受け取っただけかもしれない。

「律くん、大丈夫。大丈夫だよ」

佳奈はしゃがみ込んで、律くんの背中を撫でた。
誰に向かって言っているのか、自分でもわからなかった。

男は、泣いている律くんから少しだけ顔をそむけた。
年齢は三十代前後に見えた。背は高いほうで、痩せているのに、肩から先だけが妙に据わっている。ジーンズに、履き込んだスニーカー。近所の人が、ちょっとそこまで、という格好だった。人と目を合わせるとき、まばたきが少なかった。
それ以上のことは、見ただけでは何もわからなかった。

「あの」

佳奈はようやく声を出した。

「すみません。本当に、ありがとうございました」

男は律くんを見て、それから佳奈を見た。

「怪我は」

言われて初めて、確かめていなかったことに気づいた。
あらためて律くんを見た。擦り傷はなかった。帽子が少しずれて、頬に涙がついているだけだった。

「大丈夫です。怪我は、ないです」

「なら、よかったです」

男はそう言って、立ち去ろうとした。

佳奈は反射的に声をかけた。

「あの、園にも報告しますし、お礼もしたいので……ご連絡先を伺ってもいいですか」

男は少しだけ振り返った。

「報告なら、通りすがりでいいと思います」

「でも、助けていただいたので」

「いや、助けたというほどのことではないので」

律くんが、また大きく泣いた。
男はその声に、はっきり眉を寄せた。

佳奈は、思わず謝った。

「すみません。怖かったんだと思います」

「怖いなら、それでいい」

「え」

「次は出ない」

それは励ましではなかった。
慰めでもなかった。
ただ、事実を置いただけの言い方だった。

男は自分の袖についた小さな砂を払った。律くんの靴が当たったのだと、佳奈はその時になって気づいた。

「すみません、汚れてしまって」

「子供は嫌いだ。」

男は言った。

佳奈は返事ができなかった。

男は、泣いている律くんをもう一度見た。うんざりしているのを、隠す気配もなかった。
けれど、そこに軽蔑はなかった。
面倒だ、という顔に近かった。

「でも、死んでいいとは思っていない。」

それだけ言うと、男は今度こそ歩いていった。

その男の名前が相沢啓(けい)だと、佳奈が知るのは、もう少し先のことになる。


ここから先で、佳奈はSNSの悪意に少しずつ追い詰められていきます。
そして相沢は、助言でも説教でもなく、ただ「約束を軽く扱わない」人間として、佳奈の前にもう一度現れます。

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