【短編小説】メガネとネイルと平行線―犬猿の私たちは、中身が入れ替わってもやっぱり最悪―【GL/百合/恋愛小説】
【衝突】
「人生に必要なものは、3つある」
渡利 祈(わたり いのり)は、窓の外を流れる、まるでちぎりパンのような形をした雲を眺めながら、さも重大な真実を今この瞬間に発見したかのように言った。
「愛と、自由。それと、最新のiPhone。これさえあれば、砂漠でも火星でも、あるいはこの退屈な栃木の町でも生きていける」
「四つ目を付け加えるなら、『沈黙』ね。あなたのその騒々しい口を閉じるために必要なものよ。ついでに五つ目は『常識』かしら。それは、あなたがどこかのコインランドリーに忘れてきたみたいだけど」
即座に、鋭利な刃物のような言葉を返したのは、後ろの席の六井 架子(ろくい かこ)だ。
私たちの距離は、出席番号のせいで常に1メートル以内だ。けれど、物理的な近さに反して、心の距離はブラジルの真裏か、あるいはアンドロメダ銀河くらい遠い。
私はいわゆる一軍ギャル。SNSの「いいね」の数でその日の血圧が決まり、ネイルの輝きが人生の輝きだと信じている。
彼女は優等生だ。分厚い眼鏡の奥で常に「この世の無駄」をカウントし、効率と論理こそが正義だと信じている。
私たちは、高校の入学式の日に目が合った瞬間、同時にこう確信した。
「あ、こいつとは一生、仲良くなれない」
けれど、神様ってやつは、時々バレーボールのトスをミスするみたいだ。しかも、かなり致命的な方向に。
【不法占拠】
事の始まりは、月曜日の5時間目。湿気がまとわりつく体育館でのバレーボールだった。
運命という名の悪戯好きが、私と架子を同じチームに放り込んだ。
私たちは、お互いにパスは出さない。架子がトスを上げれば、私はわざと明後日の方向にスパイクを打ち、私がボールを呼んでも、架子は聞こえないふりをしてレシーブする。コート上の空気は、南極の氷山よりも冷え切っていた。
けれど、試合の終盤。「この一点を取られたら負ける」という絶体絶命のマッチポイントがやってきた。相手チームの放った、不格好に回転するチャンスボールが、コートのちょうど真ん中、私と架子の間にふわっと浮いた。
「私が取る!」
「私が!」
二人が一目散に駆け出した。
それは友情でもチームプレイでもない。ただ相手に「手柄を渡したくない」という、純粋で醜い負けず嫌いの意地だけだった。時速40キロくらい(あくまで体感だけど)で加速した私たちの頭が、同じ一点で交差した。
ゴッ。
鈍い、重たい音がした。
頭の中で小さな宇宙がビッグバンを起こしたような感覚。私の視界は、急激に電波の悪くなったテレビ画面のように砂嵐に包まれ、記憶はそこで「圏外」になった。
次に目を覚ました時、そこは保健室だった。鼻をつく消毒液の匂いと、遠くで聞こえる音楽室のピアノの音。
「祈、大丈夫?あんた、派手に頭打って倒れたんだよ」
親友の声。私はぼんやりと、
「ううん……痛いけど大丈夫……」
と答える。けれど、親友は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、私を凝視した。
「え?六井さんに聞いてないんだけど……」
どういうことかと体を起こすと、親友の視線の先にいたのは、なんと私自身――つまり「渡利 祈」の体だった。私はパニックになり、慌てて壁の鏡に飛びついた。そこに映っていたのは、分厚い眼鏡をかけ、無造作に結ばれたボサボサの髪、そして全く覇気のない地味な制服を着た「六井 架子」だった。
不思議そうな顔をした私の親友は、授業のチャイムで保健室を出て行った。
「どういうこと?!あんた誰なの?私の体だよね?!」
目の前の「私」が、私の声で、けれど聞き覚えのある冷徹な口調で言った。
「それは、こっちのセリフよ。私の体をそんな風にバタバタ動かさないで。心拍数が無駄に上がるわ」
入れ替わっていた。
私の体は、あの忌々しい優等生に「不法占拠」されてしまったのだ。
【知らない努力】
「ひとまず、この事態を公にするのは非論理的ね」
架子(体は私)の提案で、私たちはそれぞれの家へ帰ることになった。家族にバレたら、精神科か超能力研究所に直行だ。
私は、架子の自宅の鏡の前で途方に暮れていた。
「視界が砂嵐すぎて何も見えない……」
私は邪魔な眼鏡を外してみた。すると、ぼやけた視界の中で、鏡の中の輪郭が妙に整っていることに気づいた。 私は顔を洗って、髪を解き、毛先を整えてみた。
「……ちょっと待って。……加工なしでこれ?!かわいすぎない?!」
眼鏡を外し、凛とした眉が見えるように前髪を分けたその姿は、都会のモデルも裸足で逃げ出すような、神秘的な美少女だった。
「なんでアイツ、こんな最強の顔を持ってて使わないのよ!もったいなさすぎ!宝の持ち腐れって言葉、アイツのためにあるんじゃないの?」
私は興奮して、架子のスマホでこっそり自撮りをした。シャッター音が、静かな優等生の部屋に犯罪的な響きを立てた。
一方で、祈の体に入った架子は、お風呂場で人生最大のピンチを迎えていた。
「……1日くらい入らなくても死にはしないけれど。明日、この体の持ち主から不潔だと罵られるのはもっと嫌だわ」
意を決して脱衣所で服を脱ぐ。
「……っ!」
まず、自分の体にはない「重力」に驚く。一歩動くたびに、胸がゆさっと揺れる感触。それは、架子にとって未知の物理現象だった。
さらに驚愕したのは、全身の徹底したケアだ。指先から足の甲、耳の後ろまで、無駄毛ひとつない。つるつるを通り越して、もはや陶器のような質感の肌。
「私、剃刀の場所も知らないわ。明日もし毛が1ミリでも生えてきても、私は一切責任を負わないから!」
架子は誰にも届かない叫びを風呂場で上げ、なるべく自分の裸を見ないように、目を瞑って体を洗った。
風呂上がり、架子は自室を見渡した。
彼女が想像していたのは、派手なピンクの壁紙や、中身の薄いファッション誌が散乱した部屋だった。けれど、そこにあったのは驚くほど整理整頓された空間だった。
壁一面の大きな本棚には、最新のトレンド誌など一冊もなく、代わりに数学や英語、世界史の参考書がぎっしりと並んでいた。どの本もページが手垢で黒ずみ、色とりどりの付箋が、まるで秋のイチョウの葉のように溢れ出している。
「……あいつ、いつも学年3位以内なのは、不正か、運がいいだけだと思ってたけど。……そうね、運だけでこの付箋の数は説明がつかないわ」
架子は、祈の「ヘラヘラした笑顔」の裏側にある、血の滲むような努力の跡に触れ、胸の奥が少しだけ、炭酸を飲んだ時のようにチクッとした。
【偽物の反乱】
「あんたになりきるなんて、絶対に嫌」
翌朝、駅のホームで待ち合わせた私たちは、同時にそう宣言した。私たちはお互いの振る舞いを真似ることを放棄した。
私は架子の制服――まるで「昭和の女学生」がそのままタイムスリップしてきたような、膝下十五センチの重苦しいプリーツスカートと、ボタンを一番上まで完璧に留めたブラウスを睨みつけた。
「センスが絶滅してる。でも、素材がいいんだから料理のしようはあるわ」
私はまず、その長すぎるスカートのウエスト部分を器用に三回折り込んだ。プリーツの形を崩さないように、架子の引き出しにあった細いベルトを使って、見えない位置でしっかりとウエストをマークする。
これで丈は膝上、黄金比の完成だ。 ブラウスの第一ボタンを外し、襟を少しだけ抜いて着る。これだけで、首筋のラインが驚くほど綺麗に見える。
仕上げに、架子が三年前、勇気が出ずに放置していた未開封のコンタクトレンズを装着した。
鏡の中の「六井架子」は、眼鏡という名の拘束具を外され、魔法をかけられたシンデレラのように輝いていた。髪をラフに解き、指先にほんの少しだけ架子のハンドクリームをつけて毛先にニュアンスをつければ、もう誰も彼女を「地味な優等生」とは呼べない。
「よし、これで戦える」
私は架子の体を使って、ランウェイを歩くような足取りで、戦場(=学校)へと向かった。
登校し、教室のドアをスライドさせた瞬間、空気が物理的に震えるのを感じた。
「え……六井さん?」
「嘘だろ、あんな美人だったのかよ」
クラス中の男子の視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、一点の曇りもなく私に集中した。
私は、架子の少し低めで通る声を使って、冷淡に言い放った。
「何見てるの?授業が始まるわよ」
突き放すようなその一言に、今度は女子生徒たちから
「……カッコいい!」
と、黄色い悲鳴が上がった。
しかし、事件はその後の数学のテストで起きた。私はヘラヘラしているが、実は影で血の滲むような努力をしている「努力型の天才」だ。一方で、架子は「理論派の優等生」。
テストが返却された時、数学教師の相波先生が、興奮気味に教壇を叩いた。
「おい、六井!お前、今回の難問を完答したな。学年一位だ!ついに、あの鉄壁だった渡利を抜かしたぞ!渡利、お前はどうした、タピオカの飲みすぎか?今回は六井に一歩譲ったな」
その言葉を聞いた私は、架子の体で地団駄を踏んだ。
(ちょっと待って、最悪すぎる……!)
私はスマホを引っ張り出し、私の体(中身は架子)に怒りのLINEを叩きつけた。
『ちょっと!あんた、もっと頑張ってくれない?!超屈辱的なんだけど!』
すぐに、いつもの無機質な返信が来た。
『順当な結果よ。入れ替わっても知識は変わらない。あなたの方が私より優れていることが証明されただけ。むしろ感謝してほしいくらいね』
「感謝するわけないでしょ!私の積み上げてきた『学年一位』の称号を、横取りされた気分よ!」
私は図書室の隅で、架子の細い指を震わせながら憤慨した。この、自分と自分の「手柄の奪い合い」という奇妙で不条理な状況に、私は頭を抱えるしかなかった。
一方、私の体に入った架子も、一軍グループという名の「群れ」に馴染むつもりは毛頭なかった。
「ねー、祈!放課後モック行こーよ。新作のパイ、SNSに載せなきゃでしょ?」
祈の親友たちが、いつもの軽いノリで誘いかける。けれど、架子は、スマートフォンの画面を見るどころか、カバンから取り出した分厚い学術書に視線を落としたまま、無機質な声で答えた。
「断るわ。今日は図書館で、中世ヨーロッパの農業史について考察を深めなきゃいけないから」
「はあ?図書館?祈、頭打ってキャラ変しすぎじゃない?」
友人たちの困惑を置き去りにして、架子は凛とした足取りで、ギャル御用達のたまり場ではなく、静寂の聖域へと消えていった。
しかし、数日後。逃げ切れない強引な誘いによって、架子はついにカラオケボックスという名の「密室」に強制連行された。
「ほら、祈!いつものやつ歌ってよ!」
タンバリンが鳴り響き、最新のダンスチューンが予約される中、架子はマイクを握りしめ、極めて冷静にリモコンを操作した。
選んだ曲は、太寿堂(だいじゅどう)正一の演歌、
『男の荒波・日本海』。
「……え、演歌?しかも太寿堂?」
友人たちがぽかんとする中、前奏が流れ出す。架子は一軍ギャルの華やかな見た目からは想像もつかないような、深く、重みのある声を響かせた。
「――北の~岬は~、雪が舞う~……」
その歌声には、女子高生が到底持ち合わせているはずのない「人生の年輪」のような哀愁が宿っていた。
「ちょっと……ビブラート効きすぎじゃない?」
「こぶしの回し方が、プロのそれなんだけど……」
友人たちは、タンバリンを叩く手も忘れて、ただただ圧倒されていた。最新のトレンドに敏感なはずの祈の体が、昭和の哀愁を完璧に歌い上げている。そのあまりにシュールで圧倒的な光景に、室内には謎の感動と、深い静寂が訪れたのだった。
それは、カラオケでの「演歌事件」の翌日のことだった。
学校の廊下。今まで祈の「明るすぎるオーラ」――正確に言えば、二十メートル先からでも視認できるような、あのキラキラした一軍の防壁――に怯えて、決して近寄ろうとしなかった大人しいタイプの下級生が、架子の前で派手にノートをぶちまけた。
その子は、祈の姿を見て、まるで飢えた猛獣に遭遇した小動物のようにガタガタと震え出した。
「ご、ごめんなさい!すぐ片付けます!」
架子は、溜息をひとつ吐くと、無言で膝をついた。そして、散らばったノートを、まるで図書館の司書が本を整理するかのような、正確で淀みのない動作で拾い集めた。
「……大丈夫?落ち着いて行動すれば、落とし物は減るはずよ」
架子は真っ直ぐに、その子の瞳を見つめてノートを手渡した。冷徹なようでいて、その奥には「正しい道を示してあげよう」という、彼女なりの生真面目な温かさが宿っていた。
下級生の少女は、ノートを受け取ったままフリーズした。華やかなギャルの外見に、冷徹な知性が宿り、言葉の端々に哲学を感じさせる。それは、もはや単なる「怖い先輩」ではなく、一種の「救世主」に近い何かだった。
「祈先輩……今まで、チャラい人だって偏見を持っててごめんなさい!めっちゃ知的で、凛としてて……最高に素敵です!」
少女は顔を真っ赤にして走り去っていった。
それからというもの、校内の空気は一変した。
「祈先輩、最近ミステリアスすぎない?」
「ギャップ萌えの権化だわ」
という噂が、光の速さで校内を駆け巡った。
架子が中庭で百科事典を読めば「知的な聖母」と呼ばれ、売店で淡々とメロンパンを買えば「効率を重んじる美の象徴」と崇められる。
女子生徒の間で、祈(中身は架子)を崇拝する「祈先輩・新生ファンクラブ」――通称『女神の騎士団(仮)』が爆誕するまで、二十四時間もかからなかった。
本人は「どうして周りが騒がしいのか理解できないわ。みんなもっと、自分自身の研鑽に時間を使うべきよ」と冷たく切り捨てていたけれど、その塩対応がさらに信者を増やすという、手の付けられないループに突入していた。
【72時間】
入れ替わってから、ちょうど72時間が経過した。
カップラーメンなら1440個作れる計算だし、光速に近いロケットに乗っていれば、今頃どこか遠くの銀河まで届いているかもしれない時間だ。
「ちょっと、もう3日たったんですけどー。私の貴重な16歳の72時間を、この眼鏡と分厚い参考書に捧げるのはもう限界」
架子の体に入った私は、図書室の片隅で、山積みにされた古い文献を指差して嘆いた。
架子は私の体を使って、眉間に皺を寄せながら分厚い民俗学の本をめくっている。
「私だって必死に探しているのよ。でも見て、この体たらく。古今東西、あらゆる伝承や怪異現象の記録を洗ったけれど、『入れ替わりを直す方法』なんてどの文献にも載ってないの。科学的根拠どころか、オカルト的な整合性すら見当たらないわ」
「もう一回、体育館で頭をぶつけ合うのは試したしね。おかげで私のおでこ、冷えピタだらけだよ。SNSにアップしたら『新種のファッションですか?』ってフォロワーに煽られたし」
「あれは非論理的な強行突破だったわね。脳震盪のリスクが増えるだけだったわ」
架子は重たい溜息をつき、本を閉じた。その仕草すら、私の華やかな体で行われると、なんだか映画のワンシーンのように決まっていて腹が立つ。
「ふう……。もしかしたら、私たちは何か決定的な、宇宙の法則に嫌われるようなことをしたのかもしれない。……最悪の場合、死ぬまでこのままかもね」
「はあ?!最悪すぎる!10年後、あんたの体でウェディングドレスとか着るの?鏡を見るたびに『あ、私、六井架子だった』って思い出すの?悪夢なんだけど!」
「こっちのセリフよ。あなたの体で、一生、太寿堂正一を隠れて聴き続けなきゃいけない私の苦労も考えて。……それに、」
架子はふと視線を落とし、私の指先に触れた。
「死ぬまで『渡利祈』として生きる覚悟なんて、私にはまだ、1gも備わっていないんだから」
私たちは顔を見合わせた。
窓の外では、何も知らないカラスが3回鳴いて、どこかへ飛び去っていった。
【雨の日の「非論理的」な手繋ぎ】
入れ替わり5日目。
空は、誰かがバケツをひっくり返したような、無慈悲な雨に包まれていた。私たちは学校の軒下で、たった一本の、小さなビニール傘を前に立ち尽くしていた。
「……ねえ、なんで一本しかないのよ。優等生なら、折りたたみ傘くらい常備しておきなさいよ」
私は、不満げに空を睨んだ。
「今日の降水確率は十パーセントだったわ。折りたたみ傘を持ち歩く重さと、雨に降られるリスクを天秤にかけた結果よ。それより、あなたのその高い靴、雨で台無しになっても知らないわよ」
架子が、私の愛用する厚底ブーツを指差して冷たく言い放つ。
結局、私たちは一本の傘に潜り込むことになった。肩と肩が、嫌でもぶつかる距離。
「……ちょっと、近いんだけど」
「あなたが濡れないように配慮しているのよ。感謝してほしいくらいだわ」
架子の声が、すぐ耳元で聞こえる。雨音にかき消されそうなほど小さな音。なのに、なぜか自分の心臓の音が、ドラムの連打みたいに激しく響いているのがわかった。
(あれ、これ……私の心臓?それとも架子の体の心臓……?)
どちらの鼓動か分からないけれど、トクントクンと速まるリズムは、確実に傘の中の空気を熱くしていた。
歩くたびに、手の甲が触れる。一度。二度。
「っ……」
「……」
お互いに無言になる。
変にリアクションをしたら、相手に「意識している」と悟られてしまう。それは、私たちにとって敗北を意味していた。
「……ねえ、さっきから手が当たってるんだけど。わざと?」
私は、照れ隠しに最大限の攻撃的な言葉を選んだ。
「自意識過剰。傘が小さいから物理的に回避不可能なだけ。あなたがそんなに動揺しているから、振動が伝わってくるのよ」
「動揺なんてしてないし!私は今、雨の成分が肌に及ぼす影響について考えてただけ!」
「嘘をつかないで。心拍数が上がっているのが、空気の振動でわかるわ」
「あんたこそ!さっきから顔、私の肌なのに真っ赤じゃない!」
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