脱線からしか、出てこないものがある─心理学が知っている「寄り道」の効用
ある朝、AIと話していて、気がつくと当初の質問とはずいぶん違う場所まで来ていました。
慌てて引き返したかというと、そうでもありません。
むしろその寄り道の中で、自分が長年抱えていた思い込みに一つ、気づいてしまったのです。
私はこんな年になっても、脱線の中から、知らなかったこと、考えたこともなかったこと、自分の中で眠っていたものが出てきます。
まっすぐ歩いている道の上では、持っているものにさえ気づけないのに。
今日は、この「脱線」を心理学の側から眺めてみたいと思います。
実は心理学は、寄り道の効用について、ずいぶん昔からいろいろなことを知っているんです。
1 脱線に罪悪感を持つ心
まず、脱線と聞いたときの、あの胸のざわつきから始めましょう。
「また話が逸れてしまった」「時間を無駄にした」。
脱線には、どこか罪悪感がつきまといます。
学校では授業から逸れないことを求められ、仕事では段取り通りに進むことが評価される。
私たちは長い時間をかけて、「まっすぐ=善、寄り道=悪」という感覚を身につけてきました。
以前の記事で、「すぐ答えが欲しい」と急いでしまう心について書きました。
あのとき扱ったのは、答えが出ない時間に耐えられない心—いわば時間の宙ぶらりんへの不耐性でした。
今回の脱線は、その姉妹版です。
決めた道から外れたまま歩くことへの不安——道の宙ぶらりんへの不耐性。
急ぐ心と、逸れることを恐れる心は、根っこでつながっています。
どちらも、不確実な状態を一刻も早く終わらせたい、という心の動きです。
でも、心理学の知見は、この罪悪感に「ちょっと待って」と言います。
2 心理学は「寄り道」をどう見てきたか
机の前でいくら唸っても出なかった答えが、散歩の途中や、お風呂の中で、ふっと降りてくる。誰にでも覚えがあると思います。
心理学はこの現象を、まぐれ扱いしてきませんでした。
心があてもなくさまよっている状態を、心理学では「マインドワンダリング」と呼びます。
ぼんやりしているとき、脳の中では「デフォルトモード・ネットワーク」と呼ばれる回路が活発に働いていることが知られています。
何もしていないようでいて、脳は記憶や経験の断片を、ふだんはつながらない組み合わせで結び直している。
単純な作業をしてぼんやり過ごした後のほうが、創造的なアイデアが出やすくなったという実験報告もあります。
課題からいったん離れることで解決が近づく現象には、「インキュベーション(孵化)効果」という名前もついています。
前回の記事でも触れましたが、卵を温めるように、答えは離れている間に育つのです。
もう一つ、「セレンディピティ」という言葉があります。
探していなかったものを、偶然に見つける力。
科学史に残る発見の少なくない数が、当初の目的からの脱線の中で生まれてきました。
つまり、こういうことです。
脱線は、思考の失敗ではなく、思考の別モード。
まっすぐ歩く思考と、さまよう思考は、役割の違う二つの道具なのです。
3 宙ぶらりんを持ちこたえる──ネガティブ・ケイパビリティ再訪
とはいえ、脱線の途中は不安です。
ここがどこか分からない。
元の話に戻れるのか分からない。
この宙ぶらりんの居心地の悪さこそが、私たちに寄り道をやめさせる張本人です。
ここで思い出したいのが、「ネガティブ・ケイパビリティ」です。
19世紀のイギリスの詩人ジョン・キーツが残した概念で、日本では精神科医の帚木蓬生さんが著書『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』で広く紹介しました。
一言でいうと、答えの出ない、どっちつかずの状態の中に、不安を感じながらも留まり続ける力のことです。
前回の記事では、これを「答えを急がない力」として紹介しました。
今回付け加えたいのは、もう一つの顔です。
それは、道を外れたまま、歩き続けられる力。
「この寄り道に意味があるのか」を、寄り道の途中で決めない。
意味は、たいてい後から分かるからです。
宙ぶらりんを持ちこたえた人だけが、脱線の先にあったものを拾って帰ってこられます。
4 「中国製は避ける」──無意識の刷り込みに気づいた朝
さて、冒頭の朝の話です。私が脱線の中で気づいた思い込みとは、何だったのか。
それは、「中国製のものは避ける」という自分の体質でした。
長く勤めた組織では、その判断が当たり前で、合理的でもあった。
けれど組織を離れて何年も経つのに、反射だけが体に残っていて、中国発のAIの話題に、中身を見る前から心が閉じていたのです。
心理学では、長年の経験や環境の中で作られる「心の型」を、スキーマと呼びます。
スキーマは本来、判断を速くしてくれる省エネの仕組みです。
毎回ゼロから考えていたら、生活が回りませんから。
問題は、スキーマが本人に見えないことです。
私たちはスキーマを「通して」世界を見ているので、それ自体を見ることがめったにない。
では、どんなときに見えるのか。
皮肉なことに、まっすぐ歩いているときではありません。
予定通りの道の上では、スキーマは静かに、正確に、いつも通り働くだけです。
型がきしんで音を立てるのは、想定外の場所—つまり、脱線の中なんです。
あの朝の私も、AIとの寄り道がなければ、自分の反射に気づかないままだったと思います。
脱線は、外の世界の新しい情報だけでなく、自分の内側の古い型にも出会わせてくれる。
私が脱線をやめられない、いちばんの理由はここにあります。
5 探索には「安全基地」がいる
ここまで読んで、こう思った方もいるかもしれません。
「効用は分かった。でも、脱線したまま戻ってこられなくなったら?」
もっともな不安です。
そして、この問いへの答えを、心理学はとても美しい形で持っています。
愛着理論という、心の発達についての大きな理論があります。
イギリスの精神科医ジョン・ボウルビィらが打ち立てたもので、その中に「安全基地」という考え方が出てきます。
小さな子どもは、養育者という戻れる場所があると感じられるとき、そこを基地にして、遠くまで探索に出かけられる。
逆に、戻る場所が不確かだと、子どもは養育者にしがみつき、探索をやめてしまう。
つまり——探索の広さを決めるのは、勇気ではなく、帰り道の確かさなんです。
これは子どもだけの話ではありません。
大人の学びも、仕事も、AIとの対話も、同じ構造をしています。
今日はここまで戻れればいい、という現在地の目印。私はこれをやるために始めた、という当初の問い。
それらが「安全基地」として置いてあれば、私たちは安心して、遠くまで脱線できます。
基地がなければ、脱線は迷子になり、私たちは怖くなって、まっすぐの道にしがみつくようになる。
技術の側から書いたIT・AI編で、私は「設計とは、脱線を禁止することではなく、帰り道を用意すること」と書きました。
書き終えてから気づいたのですが、これは心理学が半世紀以上前から知っていたことと、同じ構造だったんですね。
帰り道があるから、遠くへ行ける。
安全基地があるから、探索できる。
技術の話と心の話は、別々の山を登って、同じ頂上で出会いました。
脱線に罪悪感を持つ必要は、ありません。
必要なのは、出かける前に、戻れる場所をひとつ決めておくことだけ。
それさえあれば、寄り道の先で拾ってくるものは、あなたがまだ出会っていない、あなた自身かもしれません。
このテーマのきっかけになった朝の出来事と、AIとの付き合い方の設計については、【IT・AI編】に詳しく書いています。
技術の側から同じ頂上を眺めてみたい方は、そちらもどうぞ。
最後に、ひとつ聞かせてください。あなたが最近した「いい脱線」は、何でしたか? よかったらコメントで教えてください。
