【noteでBL】スローモーション
ジャンル:心中ロードトリップ
あらすじ:
遙希は気に入った二人の男と関係を結んでいる。深夜、遥希はその片割れである紘に「海へ行きたい」と告げられ、二人きりのドライブへ出る。行き先も理由も曖昧なまま、高速道路を北へ走り続ける。
ブックライトの小さな灯りの向こう側。ドアが微かな音を立てて開かれたのに気がついて、遥希はそちらに目を向けた。
それは幽霊のようにそこに立ちつくしていた。どうした、と声をかければ、掠れた声で返事が返ってくる。
海に行きたい。
スマートフォンのロック画面を見れば、時間は21時。こんな時間に海。まさかお台場に行きたいというのではないだろう。気をつけろよ、と言っても、影がその場から動く気配はなかった。本を閉じて財布とスマートフォンを手に取った。静かな影に近寄っても、遥希には彼の呼吸の音が聞こえなかった。目の前の男が息を潜めて、じっと何かを堪えているのだとわかった。
行くか。
そう問いかけてみれば頷いたので、ベッドの足元に放っていたガウンを乱雑に手にして部屋のドアを開けた。もう一人の同居人も起きているのだろうかと思ったが、その姿はない。今夜は二人きりで出かけたいらしかった。ふたりで裸足のままスニーカーを履いて、地下の駐車場へ行った。彼はいつものように、黒く磨かれた車の運転席に滑り込んだ。遥希は助手席に。手にしたガウンをブランケットのように膝に広げて、シートをリクライニングさせる。
ふたりきりの夜のドライブはこうして始まった。
タクシーのテールランプがひしめく都内の道を抜けて、車は首都高速へ入った。スピードが上がる。ごお、と風を切る音が大きくなって、ラジオが聞こえなくなったので音量を上げた。数十分走っていると、川口JCT方面、と書かれた案内標識を何度か通り過ぎた。やがて、東北自動車道に乗る。海が見たいと言ったら、ふつうは神奈川方面の湘南とか、そのあたりに行くものだろう。ちらりと運転席の様子を伺っても、真面目な顔をしてハンドルを握る横顔を、オレンジの光が時折照らしているだけだった。光の当たらない影は濃く、その表情は伺い知れない。
遥希はうつらうつらと船を漕いで助手席側の窓の外を見つめた。オレンジの照明が一定間隔で過ぎていく。赤い反射板、白く引かれた縞のライン、速度を知らせる丸い看板。ラジオからはチェット・ベイカーの歌声が流れている。
この一時間ほど、二人の間に会話はなかった。遥希は、運転席の男がずっと何かを口に出そうとしていることを知っていた。口にしていいものかと悩んで、息を深く吸っては止め、口元を動かしては止め。彼がそれを繰り返していることを知っていて、待っていた。また考え込んで黙り込んだ雰囲気が感じられて、遥希は何も言わずに目を閉じた。タイヤがこん、こん、と、減速を促すハンプに乗り上げて鳴いては車体を揺らした。スピードが緩む気配はなかった。
――遥希と紘は恋人でもなかったし、友人でもなかった。名前のつけられない関係だった。紘がもう一人の男と二人がかりで遥希を手篭めにしてから始まった歪な関係は、もう三年も経とうかというところだった。
遥希は元から狂っていた。
求められれば金を対価に誰にでも抱かれた。時には金でなくても、自分をどろどろとした欲目で見る人間なら誰でも受け入れては捨てて、それに安心していた。神様も罪も罰も、何も恐れていなかった。そんな人間だから、紘たちに何をされても、警察に通報することもなく自分を囲うことを許した。自分に対する二人の男の執着を、嫉妬を、愛憎を、映画でも観るように楽しんでいた。
遥希は、紘がそれを知っていて、この関係に甘んじていることも知っていた。だから遥希は『紘も狂っている』とすら思っていた。自分一人に愛情を傾けないことに怒り泣くくせ、一向に自分のことを諦めて手放そうとはしなかった。だから遥希も腕を振り払うことはしなかった。きっとこれからも、振り払おうとはしないだろうとも思っていた。
紘が口を開いたのは、遥希がうたた寝から目を覚ました頃だった。いつのまにか一時間半ほどが過ぎていて、案内標識を見れば福島県までたどり着いている。車は順調に北上しているらしかった。車は変わらず高速道路にふさわしい速度で走り続けている。幾分か他の車も減って、車体同士が迫って風を切る音も少なくなっていた。
どこへ向かうのかと尋ね、会話を始めようとした遥希が話し始める前に、紘は呟くように言った。
「なんで、ついてきてくれたの」
遥希への問いかけだった。紘としても、遥希が夜中に海を見たいわけではないことはわかっていた。なのにどうして。
どう答えようか逡巡していると、続けて紘が言った。
「お前が隼さんのことが好きなのはわかってる」
隼さんというのは、家にひとり置いてきた同居人だ。遥希はちらと紘の横顔を見た。声は震えていなかったし、泣いている様子もなかった。
遥希が一人の男性として、憧れと恋のような感情を抱くのは隼に対してのみのことだった。彼に対して感じる胸の苦しくなるようなときめきや、赤面するような恥じらいを、紘に対して感じたことはなかった。知的でぼそぼそと低く話す声も、鬱陶しくなく頭を撫でる手つきも、自由を与えようとする態度も、紘にはなかったから。
独占欲も、嫉妬も、紘が遥希に向けるような感情を、彼に返したことはなかった。
少し考えて、遥希は口を開いた。
「お前が、苦しそうだったから」
車内に沈黙が落ちた。道路は相変わらず暗く、案内標識がなければ自分がどこにいるのかわからないほど、同じような風景がずっと続いている。たまに知らない名前のスーパーマーケットの看板や、控えめに光るミニチュア模型のような街の明かりが、窓の外に現れては消えていく。
「同情か」
乾いた笑いだった。
「そうかもな」
愛情だと返せたならどんなによかっただろう。けれど、紘には嘘をつきたくなかった。
紘が、は、と笑うように口端から息を洩らした。
アクセルが踏み込まれる。
エンジンが唸って、ごおっと風切音が大きくなる。
「じゃあさ、」
紘は一瞬助手席を見て笑った。橙色がその顔の逆光になって、この世で見た何よりも、きれいな景色だと遥希は思った。
「一緒に死んで」
紘の視線が進行方向に戻る。ライトの明かりが、ガードレールの縞模様が過ぎていく間隔が狭く早くなっていく。座っているシートの下で、タイヤがアスファルトに食らいつこうとしては無理矢理に剥がされている感触がする。音量を上げたはずのラジオはまた聞こえなくなった。
遥希はじっと助手席のシートの中に納まっていた。叫ぶでも、怯えるでもなかった。ただ思った。ああ、この時がきたのだな、と。
不思議な感覚だったが、そのとき、いつかこうなるような気がしていたように感じたのだ。ずっと昔から、それこそ紘に出会う前から、自分の人生はこんなふうに、どこかでふつりと途切れるように終わるのではないかと思っていた。それはきっと、とうの昔に自分は死んでいたような気がしていたからかもしれなかった。
だから、これでいいと思えた。
「いいよ」
それだけ口にした。
頭はひどく冷静で、ふと目の前に映る全てのものがゆっくりと動き出した。前を走る車のルームミラーが見えるほどの距離。運転手が目を剥いて驚愕の表情をしている。視界の端には煙、暖かな夕日のような明かり。その瞬間を迎える直前、運転席の方から、紘の右腕が自分を庇うように差し出される。甲高い悲鳴のような、耳を擘くブレーキ音。目を閉じる――。
気がつけば車は高速道路の路肩に停まっていた。隣からは鼻を啜る音が聞こえてくる。遥希が運転席の方に目をやれば、紘はハンドルに突っ伏すように顔を伏せていた。こちらに差し出されている右手が震えている。
「……っんで……」
「……紘?」
「なんで、いいよとか、言うんだよ……!」
振り絞る声だった。ハザードランプがかちかちと鳴っている。震えていた右手が、力無く遙希の膝に落ちた。血が通っているとは思えないほど冷たかった。遙希はその指先に自分の指先をくっつけて、熱を分けるように摩った。
「いいって思ったから」
「なんで、……なん、で……」
壊れたレコードのように繰り返す紘の手を握って、遙希は呟いた。
「お前となら」
一緒に壊れようとしてくれた人間はいなかったから。庇うように出された腕のことを、あの世でも忘れないでいたいと思ったから。それで十分だった。あの人にあるものが何もなくても、かけがえのないそれさえあれば十分だったのだと、わかったから。指先を絡めて、きゅっとにぎった。その指先に体温が戻ってくるまで、しばらく目を閉じて、声をあげて泣く紘の嗚咽を聞いていた。
遙希はティッシュボックスからティッシュを数枚抜き取って、紘の汁気の多い顔面に貼り付けた。わぷ、とくぐもった声がする。それからカーナビの画面を弄り出した。最寄りのサービスエリアまでの距離を確認する。
「腹減った」
「……は?」
「蕎麦食って帰ろ」
紘はなんでもないように言う遙希をじっと見つめて、口を半開きにしていた。
「はやく車動かせよ」
「……おう……」
福島県のサービスエリアが、深夜のドライブ心中デートの終着点だった。
駐車場には大型の輸送トラックが何台かと、 乗用車とバイクとがちらほらと停まっていた。車の中で仮眠をとる人々を横目に店舗へ向かう。外の露店は当然ながら閉まっていて、牛串やらアイスクリームやらの看板がひっそりと佇んでいる。東京にいた時には感じなかった、秋口のような肌寒さとひやりとしたし湿気。店舗自体も、どこかぼんやりとした蛍光灯の灯りに包まれていた。
店内へ入れば、作業着姿の男性、ヘルメットを小脇に抱えたライダー、大学生と思しき若い女と男のカップルが、静かに店内をうろついている。この時間でも食堂は営業していて、食券の販売機がぴかぴかと光っていた。遙希は「かき揚げそば」のボタンを押して、後ろでそれをぼうっと見ていた紘の方を振り返った。顎で示されて、紘も同じボタンを押した。
しばらく待っていれば、番号札で呼び出される。青白い店内照明の下、かき揚げそばが二杯並んだ。遙希は七味を振りかけて、割り箸をぺき、と割った。いただきます、と手を合わせて、麺を啜る。
紘は眼前のかき揚げそばを見下ろした。黒い蕎麦つゆに、なんの変哲もないかき揚げ。桜エビと目が合った。蕎麦は若干水分を含みすぎて延びているように見える。箸を割って一口啜る。ふつうだ。暖かくて、いかにも業務用の香りのカツオの出汁が効いていて、やはり蕎麦はコシがなくて何もしなくてもぷつぷつ切れる。こんなものと思えばこんなものだろう。美味しいも不味いもない、ふつうの味。
食べすすめているとまた涙が出てきた。好きな人と心中するためにここまできたのに、失敗して、いっしょに食べる食事は暖かくて、ふつうで、日常だった。遙希は泣きながら蕎麦を啜る紘を見て、ふは、と笑った。
「お前財布持ってないだろ。俺がなんか買ってやるよ」
土産物の売店を物色する紘の横で、財布をひらひらと泳がせて遙希は言った。
高速道路のサービスエリアの売店というのは便利なもので、福島県のサービスエリアだというのに、他の東北の土産物や東京土産なんかも売っている。仙台みやげのコーナーの前で、二人は伊達政宗像の写真のパッケージを眺めていた。牛タン味ポテトチップス、と、筆文字で書かれた袋を手に紘は呟いた。
「……あのさ」
「うん?」
紘はばつの悪そうな顔で遙希を見た。
「隼さんって、牛タン食うんだっけ」
