【創作BL小説】金時豆のパン−1
夜にだけ開くパン屋がある。 突然の休職で行き場を失った佐藤は、夜にさまよい歩いているうち、パン屋「よなか堂」を見つける。どこか浮世離れした店主・望月と、焼きたてのパンの匂い。会話、食事、心の動きを見つめ直して、二人が眠るための定位置を見つけようとする物語。
11月開催文学フリマ43東京に向けて鋭意執筆中です。
資料から顔を上げると、PCのモニタに映る文字が突然読めなくなっていた。視界が霞んだとか目の前の景色が見えなくなったのではなかった。文字が文字として書いてあるのは理解できるのに、その文意が読み取れないのだ。必死で眼球を動かして行をなぞっていく。手のひらに嫌な汗が滲む。やはり、何度やっても読めない。
生まれて初めてのことに困り果てて、とにかく上長に報告しなければと隣の席の上司に声を掛けて、コードが読めないことを報告する。彼女は能面のような顔で「ああ、とうとう来た」と言った。意味を尋ねる前に、彼女は席を立ちどこかへ電話した。とにかく横になっていなさい、との言葉に従い、仮眠室(もとは会議室だったのを1つ潰して作られた)へ向かう。白いパーテーションで区切られた室内は薄暗く、モニタの光で焼かれた目を休ませるのにちょうどよかった。
数分間横になって待っていると、どこからともなく現れたエプロン姿の母が「あんた仕事はどうしたのさ」と機嫌の悪い声で話しかけてくる。今とてもできる状況じゃないってのが見てわかんないの?っていうか、上司に寝とけって言われてるんだから俺は業務命令に従ってるだけでこれも仕事なんだけど?……待て、なぜ母が。声の元を見れば母の影は消えていた。呆然とパーテーションの継ぎ目を見つめていると、仮眠室の入り口の扉が開き、上司が近寄ってきた。口を開くも、言うべき言葉がうまく思いつかず出てこない。すみません?でも体調不良は誰でもなるものだろ。いや、日頃の自己管理を怠っていてすみません?頭もうまく動かない。口に出すべき言葉はとうとう見つからなかった。
彼女は俺の首にかかった社員証兼セキュリティカードをひょいと外した。セキュリティカードがなければ、このフロアには入室できない。手洗いに立つ時忘れたりしたら締め出される。セキュリティカードを同僚に預けるのは、休暇などで肌身離さず携行できない場合だ。混乱していると、彼女は行政機関でしか見ない古いビデオ映像のナレーションでもしているような、熱のない声で話し始める。
「とりあえず今日は上がって駅前のメンクリ行って診断書もらってきて、そしたらそのまま帰っていいよ」
耳を疑った。メンクリというのは、メンタルクリニックの略称だ。
「はい?」
「あそこ、飛び入り診てくれるしすぐ紙書いてくれるから。明日面談予定組んでおくからそのとき専務に提出して。時間また連絡するね」
「あの、」
「うまくフォローできなくてごめんね、佐藤くん」
「いや、そんな、」
「復職できそうならまた渡すから」
じゃ、よろしく。昼休憩に出る部下を送るみたいに、彼女は社員証にネックストラップを巻き付けながらデスクへと戻ってゆく。脂汗が額をつうと垂れていった。人の感情に鈍いことを自覚しているとはいえ、流石に彼女に謝意がないことはわかった。額面通りに受け取ってはいけない言葉は、いつも唐突にやってくる。こんなふうに。
なかば夢心地でなんとかして手荷物をまとめてフロアを出る。言われた通りに駅前のメンタルクリニックにたどりついて、受付の人に挨拶して、問診票を書いて、いや、書けたんだっけ?問診票を出して待合の椅子に座り直して、それから、……それからどうしたのだろう。記憶がない。
帰宅すると、薄暗い部屋の中でダイニングテーブルの上に捨ててあったトマトのヘタが干からびていた。カーテンを開けると、夕日が室内に差し込んでくる。夕暮れの部屋を眺めるなんていつぶりかわからない。ゆっくりセンチメンタルな気分に浸るべきところを、部屋の至る所に転がっているコンビニのレジ袋が邪魔してくる。中身はだいたいティッシュとパンのパッケージをくしゃくしゃに丸めたプラスチックのごみだ。部屋の電気をつける気力もなく寝室に向かう。ベッドサイドのテーブルには、カビの生えた麦茶のペットボトルが鎮座している。これは夢かもしれない。ベッドに潜り込んでスマホの画面を見れば、「面談日時について」のメールの通知。夢じゃなかった。嫌なトトロかよ。
夕飯を食べる気は起きなかった。というか、口に運べそうな食糧が家にないのはわかっていた。ベッドの中で宅配アプリの一覧を眺めるが、シズル感たっぷりの写真を見ても胸焼けするだけ。小さな光る画面をつつく無為な時間をどれだけ過ごしていたのか、気がつけば部屋の中は真っ暗だ。静まり返った暗い部屋の中で、布団の中だけが暖かい。体はこんなに暖かいのに、眠気は一向にやってこない。むくりと起き上がり、部屋の電気をつけると、ふと正気が戻ってくる。
俺、どうなるんだろう。
企業は慈善事業じゃない。従業員は労働を対価に金を稼いでいる。労働のできない従業員を抱えていても仕方がない。クッキーがぼろぼろ溢れていくみたいに、自分では制御できない暗い考えがつぎつぎと浮かんでは溢れていく。利益を生み出す能力がなくなった今、俺は会社にいる意味がない。金が稼げなくなったら仕送り先の親は困るだろう。困るというか、縁を切られるかもしれない。都内の大学まで出してもらって、どうにか働き始めて四年ぐらいしか経っていない。親に負担をかけてわがままを通し続けた結果がこれか。ぼろぼろ、体が崩れていくような気がした。崩れてこぼれたかけらを拾うのも面倒くさい。これまでこんなふうになったことがなかったから、どう対処したらいいのかわからない。対処法を考えるのも面倒くさい。そんな暇があるなら放り投げてきた仕事に戻るほうがよほど生産性が高い。自分のことを考えている場合じゃないのに、どうして体が動かない?
頭を振って、一瞬浮かんだ極端な考えを振り切る。明日は面談だから、このまま眠るわけにはいかない。通りがかる部屋の電気をつけては歩いて、風呂へと辿り着くのにいつもの倍かかった。シャワーを浴びながら、メイリオフォント10ptで書かれた「クビ」「樹海」「電車」たちがエクセルのシートの上で踊っている幻覚を見た。ドライヤーをする気力もなく、濡れた髪のまままたベッドに戻り、光る画面をつついては雷鳥の足が太いことを知ったり、シマエナガが並んで暖をとるらしいことを知ったりして朝を待った。
