最善か無しかーーーメスセデス・ベンツW124の助手席で
俺は今、数世代前のメルセデスに、ふた回りも若い女性を乗せている。フロントフードには、スリーポインテッドスターのエンブレムがそそり立つ。左手首にはIWCのパイロットウォッチを巻いて。
今回、駆り出したのは、メルセデス・ベンツのEクラス。名機の誉れ高きW124型だ。
今や歴代ベンツの中でも「最善か無しか」のキャッチフレーズを体現した最後のメルセデスベンツだと評価される。
1986年から1997年ほどまでのロングセラーであったW124は、前期、中期、後期に分類されフロントグリルの形状違いで見分けるらしい。
子供のお絵描きに出てきそうな典型的な四角いデザインだが、かっこ悪い古さではなく、エレガントさと品格を兼ね備えている。当時は標準的であったが、現代の基準ではコンパクトな、全長4.4mにも満たないサイズ感と、メンテナンス性の良さからも、正にちょうど良い塩梅のネオクラシックである。一回り小ぶりな機種の190E も名機として人気だが、W124には、俺が求めるレディーを隣に乗せたときの「空間の質」がある。
これほど手堅い人気には訳がある。車格からしたらオーバークオリティともいえる高品質な作りこみがにじみ出てくるボディ剛性が乗員の安心感にも繋がり、足回りは路面に吸い付くようなフラット感が実にしっとりして、類まれな心地良さである。BMWアルピナともまた違う次元の味わい深さである。高速のつなぎ目など段差を越えても、ホイールベースが長いわけではないのに、通常は時間差であるはずの前輪と後輪でピッチのズレがなく、不思議とフラットなのである。大きな船がうねりを何事もなく、いなすような。
メルセデスが、乗用車はかくあるべきと、ベンチマークを示そうとしていたのかは知らないが、頷かざるを得ない。
意図的な設計なのか、まるでバネのように重たいアクセルを頑張れっと言わんばかりに、踏み込まないと発進できないのだが、これもまた不思議と高速になると、車速に沿った安定感とアクセルの重みがむしろ扱いやすく活きてくる。また片側に配置されたウィンカーレバーとワイパースイッチが一体というのも、ほかの車から乗り換える度に戸惑うが、憎めず合理的でもある。
変哲もないのに、乗るほどに味わい深く、手放せない名機である。
さて、“ドイツ車然”として、かつ乗用車の本質を体現したW124にマッチする俺のコレクションウォッチはどれか。

多くの軍用時計を輩出して、質実剛健なメーカーとしてしばしば紹介されるIWCだな。なぜかドイツのブランドだと勘違いされがちなIWC(インターナショナル・ウォッチ・カンパニー)だが、実は”ドイツ語圏”のシャフハウゼンに本拠を構えるスイス時計だ。
IWCといえば、ポルトギーゼが定番人気機種でもあるが、視認性と質実剛健さから、パイロットコレクションシリーズを選んだ。中でも名機と称されるマークXII(12)だ。俺の美意識では、大きすぎない36ミリケースのアラビア文字の実用性と年代も合致する点でW124にピッタリではないか。中身は、あのジャガールクルト製自動巻きキャリバー889ベースのムーブメントで信頼性も高い。
EクラスとIWCの組み合わせで落ち着いた雰囲気を漂わせながら、閉店時間に彼女を迎えに行った。
「敢えてこういう車に乗るなんて、素敵なチョイスですね。」
デートカーのイメージからスポーツカーで迎えに来るかと思い込んでいたのか、ネオヴィンテージのベンツに感心を示していた。
今回のレディは、懇意にしていた銀座の時計店の新人女性スタッフだ。実に好みであった。
文字通りの新人で、あまりに危なっかしい手つきに、思わず客の俺が時計の丁寧な取り扱い方を顔を突き合わせる様に伝えたのが、きっかけだ。よこしまな想いも半分に。
その後、数か月、商品の最近のモデルからヴィンテージ時計について、俺との談義へ付き合ううちに、驚くほどに良品への彼女の審美眼も併せて磨かれていったようだ。
懇意にしている店のイケメン店長の「女」であってはいけないので、予め、アフターがOKかは訊いておいた。銀座の時計店ゆえに、「美学」もなく単に高い時計で虚勢を張るようなギラついた客が多い。そんな輩からの高級な食事への誘いもあるかもしれないが、俺はあえて、コメディを見るのも接客の勉強になるよと、理由にならない理由で、知人がステージに立つスタンドアップコメディに誘い出していたのだ。
約束の日の閉店後、俺のW124でライブハウスに向かった。それは迷路のように入組んだ下北沢にあった。
マーケティングに踊らされて高級時計を買うなんてアホらしいなどと、資本主義社会を風刺するのがスタンドアップコメディ。ステージが終わったのは22時。閉店後に直接来たので夕食もとっていない。ロードサイドの24時間のレストランに立ち寄りがてら家まで送っていくよとオファーし乗せた。

道中、「私、時間がないの」と彼女が放った。
門限でもあるのかと問うたが、
「私、婚約していいものか迷っているの。相談に乗って」と。
これまで、キスも、手さえ繋いでいない。
だが、俺は知っている。女の「相談に乗って」は、「寝て」と同義だと。
「ゆっくり話を聞くよ」とだけ伝えて、しばらく行くと、あつらえたように、ロードサイドにホテルが見えた。ボンネットの先端に輝くベンツのエンブレムが導くかのように。
俺はスローダウンして、W124 のウィンカーを左に向けたが、やはりだ。
彼女は驚きもせず、何も言わなかった。
W124の重厚なドアが閉まる音が、駐車場に響いた。身体を寄せ合ったのは、IWCの短針が文字盤の12時位置の三角マークと重なる頃合いであった。
図らずも結婚直前の女と寝たのはこれで何人目であろうか。
審美眼が磨かれた彼女が、本物を知る男として見てくれたのだろう。
たまたま、その時計店へは、しばらく間が空いた。彼女の姿が見当たらなかった。
妊娠して寿退社したそうだ。
俺は、ふと、その日も偶然に着けていたマークXIIに目を落とし、ズレていた日付表示を直した。
