合鍵
出張帰りをグリーン車でゆったり、、などと思ったのが裏目に出てしまったようだ。グリーン券は自腹なのに、と拓海はちっと心の中で舌うちをした。
通路の向こう側女性2人連れが席に着いたのを見た時になんだかなと感じた。彼女らは上着を脱いで深々と座り背もたれを目いっぱい倒し一気にリラックスモードになった。足元は狭いが居酒屋が出来上がったようだ。
ふたりほぼ同時にきゅぱっと缶チューハイのプルタブを引き上げ、まずはごくりと一口。それぞれのドリンクホルダーに柑橘が描かれた缶が刺さるのと同時におしゃべりが始まった。
呼吸をいつしてるんだろうかと不思議になるぐらい話し続けている。
細かいことは聞き取れないがどうせどーでもいい話に決まっている。
いや、聞き取れないというのは逆に不快なのだ。
なんのはなしだかがわかれば「くだらねぇ」と
こちらとしても気持ちの処理のしようがあるってものだ。
それが拓海には全く関係のないことだとしてもだ。
「ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ」と泥でできた平仮名だけが耳に
撫でつけられていく。
だがそれもしばしの我慢だ。
家に帰ればきいこが待ってくれているから。
おばさん共に付けられた品のない泥を優しく落としてもらおう。
拓海はぺとくとちゃしかない泥の中で少し眠った。
きいこには家庭があった。
会う度に拓海を受け入れてはいるが
なるべく拓海を見ないようにしているようだった。
「言って。どうして欲しいのか言って」という拓海の問いには
「イヤ」だとも「ダメ」だとも「こうして」とも答えない。
拓海の腕の中で苦しそうに声を漏らす。
「あ、ふ・・ぅん・ん・・」
きいこが拓海の耳に生み落としていくものは
声ともため息とも判別できないほどか細い。
同じ頃きいこは軽い食事を作って拓海の帰りを待っていた。
この人とはいつかきっとこうなるというその予感が的中した夜、
とっくに誰かのものであるきいこを拓海は押しいただくように抱きしめた。
きいこはただ黙って拓海の首筋にそれが答えであるかのように顔を寄せた。差し出された唇をふさいだ拓海が
「イヤ」だとも「ダメ」だとも言わせてはくれなかったのだ。
そう思うことで自分を正当化してきた。
辛い恋を拓海にさせている自分は世の中の誰よりも汚れていて
誰よりも美しいのだと。
温め直せばすぐ食事にできるよう作ったものを器に盛りつけた。
鍋類は洗って伏せてある。
あとは郵便受けに部屋の合鍵を入れておけばそれでお終いに出来る。
たったそれだけのことなのに、それをせずに平日の逢瀬を重ねてきた。
返された鍵を見れば拓海もわかってくれるだろう。
不倫に不可抗力などあるはずがない。
始めたのが自分なら、終わりにするのも自分しかいない。
全てをなくしてしまわないうちに、そう今日こそ。
きいこはエプロンをパッパとはたき自分に言い聞かせた。
誰もいない部屋で1人の静かな宣誓。
真っ白なままの小さなメモ用紙に合鍵を挟み、郵便受けの右端にそっと置いた。そして拓海と鉢合わせしないよう駅へと急いだ。
「きいこさん!!」
駅のホームの端で人混みの向こうから拓海に呼ばれたような気がした。
未練じゃないとしたらこれは自惚れか。まだ拓海が駅に着く時間ではない。
それでもきいこはホームに背を向けるように吊革を掴む。
目の前にはギャルが2人座っていて化粧を直しながらのおしゃべりに余念がない。おだんごの位置や買ってきた服がどうのこうの。
電車は走り出したがその音と音の間に走る水脈を見つけたかのようにギャル達の声がきいこの耳を目指し向かってくる。
化粧がひと段落したら今度は前髪をチェックし始めた。
じーっと鏡を覗き込みながら前髪を引っ張ってみたりささっと払ってみたりしている。「可愛い」がレベルアップするための前髪を1mm単位で追求している。
「バカみたい」
ぱっとギャル達のおしゃべりが止まり2人はじろりと上目遣いできいこを睨んだ。口をついて声が出てしまっていたのだ。
隣に立っている老婦人がぷぅっと笑った。
ギャル達はまた無遠慮なおしゃべりを始め、
老婦人は呆れたようにしかめっ面をした。
さっきホームで聞こえたのが拓海の声だったのかはわからないが、まだきいこの耳たぶを甘噛みするように響いている。
次第にそれは盾となり余計な声を遮断していく。
電車はガタンと1度だけ揺れて、拓海の住む街を離れて行った。
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