六月の鯨 第六話
「それで、ちょっと考えさせてって言っちゃったんだ」
電話の向こうで沙知絵が清の言葉を繰り返すと、清はローテーブルに置いたスマホの前でうん、と頷いた。休日の今日はよく晴れたいい天気で、東側の窓辺に明るい光が差し込んでいる。散歩するには最適だが、清はとてもそんな気分にはなれなかった。
「プロポーズのあとに言うなんてずるいよ。断れない状況作ってるんだもん」
一人暮らしの2DK、ソファでクッションを抱えた清はそう愚痴をこぼした。柔らかいものに触れるのはストレス緩和に役立つらしいとどこかで聞いた。確かにささくれた気持ちが少しは落ち着く気もするが、心の安寧にはほど遠い。
然との飲み会の翌日、清は迷わず沙知絵に電話をかけた。沙知絵はいま、地元の中学校で音楽の先生をしている。沙知絵とは高校進学で道が分かれた。しかしその後も交流は続き、今でも帰省のたびに飲みに行く仲だ。吹奏楽部の顧問になった沙知絵は毎日忙しいのかと思いきや、働き方改革と部活動の地域移行のおかげで土日は比較的休めるのだという。
あのあと、然の「会社辞める」発言について、二人はちょっとした言い争いになった。兄のために人生をかけて恩返しをしたい然と、そこまでする必要はないんじゃないかと主張する清。今までも然と付き合う中で軽いいざこざはあったが、今回は問題の大きさが段違いだ。
久しぶりの電話で沙知絵も初めは清のプロポーズという言葉にはしゃいでいたものの、清が徐々に荒れた口調になるのに雲行きが怪しいと察したのか、その後は聞き役に徹している。
「然の言う『恩返し』って、お兄さんのお店の開店資金を融資するとか、内装工事を手伝うとか、そういうのを想像してたのに『会社を辞めて兄貴と一緒に店をやる。清もついてきてくれ』って言うんだよ。お兄さんに頼まれたわけでもないのに、なんで私までそんなことしなきゃいけないの」
「ごもっとも」
沙知絵が間髪入れず肯定してくれたことで、客観的に見てもやっぱりそう思うんだと清は少し安心する。
「家庭の事情を考慮しても、ちょっと飛躍しすぎな気はするかな。よっぽどお兄さんのことが大切なんだね」
沙知絵はバランスの取れた考え方をする人だ。清の意見に共感はするものの、あくまで中立の立場を崩さない。そういう凛として公平な態度が好かれて、沙知絵の夫は沙知絵を見初めたのだろう。沙知絵は去年の秋に同じ中学に勤務していた体育教師と結婚して、その披露宴で感極まった清が号泣したばかりだった。
「参考までに聞きたいんだけど、沙知絵ちゃんの結婚の決め手ってなんだったの?」
話す時間も長くなり、清はそろりと立ち上がってベランダの窓をほんの少し開けた。風通しがよくなり、白のレースのカーテンがふわりと揺れる。春の暖かな風が抜けていく。
「決め手かあ。うーん、そうだなあ」
沙知絵は清のどんな疑問にも真剣に答えようとしてくれる。そういう真面目なところが沙知絵の好感の持てるところだ。
独身の清には結婚というものの実感がまだ湧かない。沙知絵には楽器の技術も資格もあるし、ひとりで生きようと思えば生きていけるはずだ。沙知絵の人生で隣に誰かがいてくれたらいいなとは思っていたが、学生時代モテないわけではなかった沙知絵がどうして彼を選んだのか、清は聞いたことがなかった。
沙知絵は唸りながらしばらく考えたのち、たぶんだけど、と前置きした。
「彼の隣がいちばん私らしく生きられるって思ったからかな。価値観が同じっていうより、許せる範囲が一緒なんだと思う」
許せる範囲、と清は口に出して繰り返した。目から鱗が落ちた気がした。付き合うなら価値観が同じ人がいい、というのはよく聞くが、それは自分と同じものを好きな人のことを言うんだと思っていた。しかし沙知絵の言うように、許せるもの、許せないものが同じというのは、他人と共同生活を送る上でストレスをできる限り少なくするための最低条件とも言えるかもしれない。
清は人生で初めて付き合ったのが然だった。鯨に振られてからというもの、清は恋というものが分からなくなっていた。嫌われるのが怖くて、誰かに好意を抱くことができないでいた。
それを打ち破ったのが然だ。然は自分がどう思われるかをあまり考えていない。清の喜ぶ顔を見るのが何よりも好きで、清が嬉しいと自分も嬉しくて、それを全身を使って表現する。純粋でまっすぐ。清はそんな彼なら自分をさらけ出してもいいと思い、付き合うことを決めた。
そういえば、然は今までわがままの類を一度も言ったことがない。初めてのわがままが結婚の申し出と兄の店を手伝うこと。ずいぶんと大きなお願いだが、然にとってはどちらも曲げられないほど大事な決断だったのかもしれない。
「迷ったら勇気が必要なほうを選ぶといいよ。どんな選択にしろ、決めた道を正解にしていくしかないんだと思う。嫌になったら別れたっていいんだし」
温和な沙知絵がいつになく物騒なことを言ったので、清は目を丸くした。
「沙知絵ちゃんもそんなこと思うんだ」
「そりゃ思うよ。結婚だって仕事だって、嫌になったら辞めてやるって毎日思ってる。でもそうしないのは、きっといまが幸せだからなんだろうね。私、清ちゃんにも幸せになってほしいな」
ふふ、と沙知絵が電話の向こうで笑ったので、清の気持ちもほぐれていく。いつも優しくてしっかりしていて、いい親友を持ったなと清は思う。きっと生徒たちからも人気があるに違いない。
「今日はありがとう。私、もう一度然と話してみるね」
「うまくいくといいね」
またね、と言って電話を切ると、清は天井を向いてふうと大きく息を吐いた。頭のなかを整理する。然はきっと自分を信じてプロポーズしてくれた。私となら家族になってもいいと思って辛い過去も打ち明けてくれた。しかしお兄さんと店をやることは、然のなかでは結婚より先に決まっていたことなのかもしれない。これが唯一、彼のどうしても譲れない部分だったに違いない。
じゃあ私は? 私の譲れない部分ってなんだろう。
清はよし、と決めてスマホを手に取ると、さっそくラインの然とのトーク画面を開いてメッセージを送信した。既読はすぐに付き、しばらくすると返事も来て、何度かやり取りしたのち来週の日曜日に約束を取り付けた。
やることは決まった。あとは自分で考え、選んだ道を正解にするだけだ。
次の週末、清は然と二人で出かけることにした。駅から市内路線バスに乗り、四つめの停留所で然が降車ボタンを押した。そこから少し歩いた後、交通量の多い道を抜けて一本奥の細い道に入った。この辺りは建物が連なるものの比較的古さが目立つ。メインストリートは街のイベントごとでも使われるので清も通ったことがあるが、少し奥まっただけで全く知らない街に見えてくる。
清は仙台に住んで六年になるが、生活圏から離れたこの辺りはほとんど来たことがない。よく見ると知らない雑貨店があったりレストランがあったり、新しい発見があって面白い。もう少し足を伸ばせば広瀬川の河川敷に出て、そこは公園になっているのでピクニックに良さそうだ。
そうして歩いていると、建物に囲まれたなかにぽつんと、古くて白い、蔦の絡んだ二階建ての建物があった。
一階はガラス張りになっており、いまはロールスクリーンが下りていて中は見えない。二階の手すり付きの二つの窓にはカーテンがかけられ、おそらく居住スペースになっている。屋根は赤茶のトタンで、蔦は壁を這って屋根のてっぺんまで達している。一階のガラス窓のすぐ横には小さな庇と木製のドアがあり、そこから中に入っていけるようだった。
こんな街のど真ん中に、こんなに古い建物があるなんて。清が驚いていると、然は慣れたようにジーンズのポケットから鍵を取り出し、ガチャリと母屋のドアを開けた。中に入って暗い玄関に明かりをつけると、生活感のある室内があらわになる。ここが然の兄の店であり、自宅らしい。
「兄貴、来たよ!」
然は家の中に向かって叫んだが、返事はない。
「あれ、おかしいな」
然は呟くと勝手に靴を脱いで上がり込んだ。清がどうしようか迷っていると、どうぞ、と然に言われて清も続いた。お邪魔します、と言って靴を揃えて框を上がる。玄関の正面にはまず階段があって、そこから二階に行けるようになっている。その横の廊下の奥には業務用のキッチンがちらりと見えて、二人はそこから店の方に回ることにした。用意されていたサンダルを履き、キッチンを抜けてホールに出る。店内の内装工事は終わっているらしく、白くてきれいな壁に木製のテーブルと椅子、平皿の形をしたペンダントライトが清たちを出迎えた。
四人掛けのテーブル席が四つに二人掛けが二つ、カウンター席は五つ。広くはないが明るく清潔感があって気持ちがいい。
椅子は硬いのかキルト生地の座布団が敷かれ、テーブルが面している壁の小さな棚にはさまざまな本が何冊かずつ並べられている。清が近付いて見てみると、文庫に洋書、写真集などがジャンルを問わず置いてある。きっと然の兄が実際に読んで選んだのだろう。
日当たりのよい店の隅には大きなユーカリの植木鉢が置いてあり、他にもエアープランツの入った小さなガラス鉢があちこちに飾られて可愛らしい。
はっきり言って然の兄はセンスがいい。おしゃれだし可愛いし映えるし、こういうのは若い人たちにうけそうだ。幹線道路から外れた隠れ家的な立地もいいし、建物も雰囲気があっていい。彼はよくこんな穴場を見つけたなと感心する。
あとは肝心の料理だ。それを今日は然と食べさせてもらうことになっている。
「兄貴、店にいるって言ってたのに」
ちょっと待ってて、と言って然は清を店に残し、母屋の方に戻っていった。ぽつんと残された清は暇になり、店内をぐるりと見渡した。
ここまで来るのに然の兄はどれほど努力し、耐えたのだろう。もしも家庭がうまくいっていたら、もっと早く夢は実現していたはずだ。しかしそれがなければ自分と然は出会うことがなかったかもしれないと思うと、清は複雑な気持ちになる。
清はそっとロールスクリーンを上げて外を見た。近くに競合店はないようだし、お昼時になったら需要はあるんじゃないかと思った。この辺りは会社も多く、外でランチしたいお客さんも一定数いるだろうと予想する。
清は目を閉じ、ここで働く自分を想像した。美味しそうな匂いに囲まれて、自分はエプロンをつけてテーブルに料理を運んだりレジで精算したりしている。キッチンでは然の兄が料理を作り、経営的なことは然が担ってくれる。メニューは季節ごとに変えてもいいし、夜は貸し切りにしてもいい。店に流すのはアコースティックな曲がきっと合う。カフェライブなんかができたらもっと素敵だ。ここはビル群だから、夜間や休日なら音を出してもおそらく問題はない。清の楽団の選抜メンバーでコンサートを開いてもいい。それから、それから。
「ごめん清、兄貴連れてきた」
バタバタとした足音と然の声が聞こえて清は目を開けた。
「すみません、裏庭のプランターの世話をしていたら遅くなってしまって」
「いえ、私たちもいま来たところなので――」
振り返った清は言葉を失った。然のあとに続いてきたのは、あの日清を拒絶した鯨だった。
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