環流夢譚 その7――「国家神道」という“戦後の”神話
「貴様らはみんな、パロディだ」
全員が一様に、むっと腹を立てた表情や態度を見せ、尾籠者が代表で、一歩前へ進み、反論しはじめた。「パロディだと思われるのなら、あなたも、あなたの過去の行動のパロディを演じたらいかがです。だいたい、これからはじまるのがパロディで、今までのはすべてパロディではなかったなどと、どういう確信があっておっしゃることができるのです。パロディでないものなんて、だいたい現実にあるのですか。現実そのものが何かのパロディであるとお考えになったことは一度もないのですか。このグロテスクに歪曲された現実は、いったい何のパロディだろうとお考えになったことは一度もないのですか。ではいったい、このパロディ化された現実の、本物の方はどこにあるのでしょうか。ありとあらゆる思想の中でしょうか。ありとあらゆる理想の中でしょうか。ありとあらゆる空想の中でしょうか。ありとあらゆる幻想の中でしょうか。どれでもあり、どれでもありません。はっきりした本物なんて、あるわけがないのです。もしもはっきりした本物が、おれははっきりした本物だといって名乗り出てこようものなら、たちまちそれもパロディになってしまうからです。左様。うつし世は夢です。しかし夜の夢さえまことではないのです。夢の原理についてご存じのあなたなら、これは納得できる筈です。
はじめに
前回(その6)申し上げたように、明治時代前半の日本においては、神社は「宗教」ではないと“される”方向に進みました。今回はこの問題について掘り下げてみたいと思います。
まず、前回述べたことをちょっとだけおさらいしておきましょう。そもそも現在われわれが用いている「宗教」という概念は、明治以前の日本には存在しませんでした。「仏法」とか「神道」とか「儒教」といった概念はあっても、「宗教」というジャンル概念は存在していなかった。当時の日本を生きた人々にとって、「宗教」というのは未知の新たな概念でした。ですので当然のことながら、「宗教」と「非宗教」を区別するものさしも存在していませんでした。近代の日本は、この未知の概念を手探りでどうにかこうにか受容していったわけです。
そして、この「宗教」という概念は、キリスト教(特にプロテスタント)を背景に新しく創作された概念でした。ですので明治初期には、何が「宗教」であり何が「非宗教」なのかという問題は、キリスト教を強固な基準に語られていきました。キリスト教というものさしを基準にして、仏教は「宗教」ではないと主張する西洋人やキリスト者もいたことは、前回見たとおりです。
しかも当時は、キリスト教は西洋の近代文明と不可分であり、「文明開化」を進めるためには、日本人もキリスト教徒になるしかないという主張が説得力を持っていました。こういう状況のなかで、島地黙雷や井上円了といった浄土真宗関係者は、仏教も立派な「宗教」であるという主張を構築していきました。こうした真宗関係者の活動によって、仏教は「宗教」だと“される”ことになったのです。事態の推移によっては、仏教が「宗教」ではないと“される”方向に進むということも、当時であればありえないことではなかった。彼らが何もしなければ、仏教は「宗教」ではないと“される”ことだってありえたわけです。
かくして、「宗教」というのは何かというと、キリスト教や仏教のようなもののことだという話になってきます。そこから、キリスト教と仏教に共通する要素を備えているものが「宗教」だという考え方が成立していきます。つまり、「(キリスト教や仏教のように)教義や教団組織を備え、生前や死後の問題について語り、布教や葬儀などを行うもの」が「宗教」だと“される”ようになったわけです。逆に言えば、こうした要素を備えていない神道や神社は、「宗教」ではないと“される”ようになったということです。
明治期に、神社は「宗教」ではないと論じた人物を列挙しておくと、井上毅、伊藤博文、元田永孚、佐々木高行、久米邦武、福沢諭吉、陸羯南、島地黙雷などがいます。それ以外にも、キリスト教徒や、西洋からやってきたキリスト教の宣教師たちも、神道は「宗教」ではないと主張していました。彼らは政治的な立場も「宗教」観も全く異なる人々です。例えば、元田永孚や佐々木高行は神祇官の再再興を主張した人々です。久米邦武は、明治25(1892)年の「神道は祭天の古俗」という論文を神道家たちに非難され(今風に言うと「炎上」して)、帝国大学教授の地位を追われた人物です。島地黙雷は真宗僧侶であり、近代の日本において仏教が占める立場を確保すべく活動した人です。少し前まで1万円札に印刷されていた福沢諭吉は、仏教からも神道からも距離を置いていた人です。
このように、神社は「宗教」ではないというものの見方は、立場の違いを超えていろんな人々に共有されていました。それが言わば当時の「常識」だったのです。「神社非宗教論」は、近代の日本で「宗教」という新しい概念が創作され受容されていくのと表裏一体の現象として創作されました。当時の「宗教」という概念に対するイメージは、現在の我々の“常識的な”感覚とはだいぶ異なっていました。「宗教」というのはキリスト教や仏教のようなものだと“される”状況においては、神社は「宗教」という枠から容易に外れることが可能だったわけです。「宗教」に含まれるものの範囲が、現在の我々のイメージよりもはるかに狭かったのです。明治時代前半の言語空間においては、「神社非宗教論」はそうおかしなものではなかったのです。
前回のおさらいはひとまずこれくらいにしましょう。以上のような説明を聞いても、「納得できない」とか「それは違うぞ」と思う方もおられるかもしれません。「神道非宗教論」や「神社非宗教論」については、本屋や図書館やいんたあねっとなどで、次のように説明されているのを今でもちょくちょく見かけます。
〇明治政府は、神道を“事実上の国教”として扱い、国民に神社参拝を強制しようとした。しかし、国民に特定の「宗教」を強制することは、政教分離や信教の自由に抵触する。そこで明治政府は、神道や神社は「宗教」ではないという詭弁を創作して、「非宗教」だということにして国民に神社参拝を強制した。
このような見解を世間に広めるうえで大きな役割を果たした人物の一人が、宗教学者の村上重良(1928-1991)です。村上は1970年に『国家神道』(岩波新書)という本を出して、近代の日本というのは、「国家神道」というものが国民を支配していた時代だというストーリーを描きました。村上はこの本の冒頭で、次のように述べています。
国家神道は、二十数年以前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした。日本の近代は、こと思想、宗教にかんするかぎり、国家神道によって基本的に方向づけられてきたといっても過言ではない。(中略)国家神道は、民族宗教としての神社神道を、二〇世紀なかばにいたるまで固定化した、時代錯誤の国教制度であった。
村上はこの「国家神道」という概念を、「神社神道と皇室神道を直結して形成された特異な民族宗教」だと定義しています。そのうえで、近代の日本では、「国家神道」が「超宗教」の国家祭祀として、教派神道や仏教やキリスト教といった「宗教」の上位に君臨していたと主張しました。村上は、「国家神道」の歴史を、①形成期・②教義的完成期・③制度的完成期・④ファシズム的国教期という4つの時期にわけて説明しています[村上 1970: pp.78-79]。
①の形成期は明治維新から明治20年代初頭(1868年~1880年代末)で、この時期に「祭祀と宗教の分離」によって、「国家神道」の基本的性格が定まったのだそうです。
②の教義的完成期は、帝国憲法発布から日露戦争(の終わり)まで(1889年~1905年)で、「国家神道」が「超宗教の国家祭祀」として教派神道・仏教・キリスト教の上位に君臨する体制が成立したのだそうです。
③の制度的完成期は、明治30年代末から昭和初期(1900年代後半~1930年代初頭)で、日本資本主義が帝国主義化した時期であり、祭式などの神社制度が完成した時期だそうです。
④のファシズム的国教期は、満州事変から敗戦(1931年~1945年)で、「国家神道」はこの時期に絶頂期を迎え、国民に対する精神的支配の武器としての真価を発揮したのだそうです。
このように村上は、近代の「政治」と「宗教」の関係に関する歴史を、「国家神道」というものがどんどん力を強めていく過程として描きました。明治維新から大日本帝国崩壊までの日本には、「国家神道」というものがずっと君臨し続けていた。「国家神道」というものが国民を強く抑圧していた。「国家神道」は時代があとになればなるほど強力になっていった。右肩上がりで直線的に強くなっていった。そういうストーリーを描いたわけです。極めて単純でわかりやすい「物語」です。極めて単純でわかりやすい「物語」であるがゆえに、広く受け入れられやすかったのかもしれません。
なお、村上が『国家神道』を刊行する以前にも、「国家神道」という概念を用いて近代の日本の宗教政策を理解しようとした人はいました。歴史学者の藤谷俊雄(1912-1995)です。藤谷は1959年の「国家神道の成立」という論文のなかで、明治時代の日本では、「絶対主義への傾斜をしめしつつあった支配階級が、天皇を絶対君主とする統一国家形成のためのイデオロギーとして国家神道を採用するに至った」と述べています[藤谷 1959: p.257]。藤谷によれば、この体制においては国民は、皇室祭祀とそれに伴う官庁や学校での祭典に参列する義務があり、「国民はその信じる宗教のいかんに拘らず、この国家的祭典に参列する義務があるものとされた」のだそうです[藤谷 1959: p.277]。また藤谷によれば、神社や神道は「宗教」ではないという思想は、「国民に対する神社崇拝の強制と信教自由との矛盾をごまかすため」のリクツだったそうです[藤谷1959: p.280]。
ともあれ藤谷俊雄も村上重良も、明治時代前半から大日本帝国崩壊までの期間においては、「国家神道」というものがずっと君臨し続けていて、右肩上がりの発展を続けていたというストーリーを描いたわけです(特に村上の著作は、広く読まれたため大きな影響力がありました)。「明治政府は、神道を事実上の国教として扱い、国民に神社参拝を強制しようとした」とか、「明治政府は、神社参拝の強制と信教の自由との矛盾をごまかすために、神社は『宗教』ではないという詭弁を創作した」などといった今でもしばしば見かける説は、こうした研究者が描いた図式に基づいたものです(藤谷や村上以前はどうだったのかについては、また後ほど述べます)。
ところがその後、村上説に対しては、多くの研究者から批判が投げかけられるようになりました。近代の政教関係に関する実証的な研究が進むにつれて、村上が描いた図式は多くの問題を抱えていることが明らかになっていったのです。明治時代前半から大日本帝国崩壊にかけて、「国家神道」というものがずっと右肩上がりで発展を続けていった、などという単純極まる「物語」では、説明がつかない事実があまりにも多いことがわかってきたのです。
村上説の問題点を批判した研究者のうちの一人に、神道学者の阪本是丸(1950-2021)がいます。阪本は、明治期の膨大な量の行政文書を中心に一次史料を精査し、緻密な実証研究に基づいて、村上説を批判する論文を次々に発表していきました(阪本があげた研究成果は、1994年に出版された『国家神道形成過程の研究』(岩波書店)などの書籍にまとまっています)。阪本と、その弟子筋にあたる新田均(1958-)などの神道学者たちが進めていった実証研究によって、村上が描いた図式は根底から揺らぐことになりました。阪本らが実証研究を通じて明らかにしていった近代の神社神道の像は、村上重良が描いた像とは全く異なるものでした。村上説はそのままでは成り立たないことが明らかになっていったわけです。
しかし残念なことに、こうした事情は専門家には知られていても、一般にはまだまだ知られていません。そのため、現在でも本屋や図書館やいんたあねっとでは、村上説を無批判にコピペしたような主張がしばしば見られます。しかし、現在でも村上説を踏襲している研究者はすでに少数派であり、専門家のあいだでは、村上説と大幅に異なる像が共有されつつあります[山口 2018: p.96]。不幸なことに、村上説以降に蓄積されていった研究成果が一般にはまだまだ伝わっておらず、イメージがいっこうに更新されないのです。
そこで本稿ではまず、阪本をはじめとする研究者たちが明らかにしていったことを紹介してみたいと思います。ただ、繰り返しになるようですが、阪本をはじめとする研究者が明らかにしていった近代の神社神道の像は、一般的なイメージとは異なるものです。ですので、本稿がこれから述べることを読んで「このDJプラパンチャとかいう輩は、独自の妄想やあやしいトンデモ説を勝手に創作して広めようとしているんじゃないか」と思う方も、ひょっとしたら出てくるかもしれません。
しかし、本稿は、多くの研究者たちが明らかにしていったことを紹介するにとどめ、私がそこに独自に何かをつけ加えるつもりはありません(最後のあたりで蛇足のような感想を述べることはあるかもしれません)。参考文献のところに、どういう研究を根拠にこういうものを書いたのかがわかるように種本を明記いたします。本稿がこれから述べる問題に興味を覚えた方は、このへっぽこ学習ノートは話半分でかまいませんので、是非ともご自身で参考文献のところに並んでいるものを読んでみてください。
明治時代前半の神社政策――蛇行と混乱
前回のおさらい
前置きはともかく始めることにしましょう。まず簡単におさらいをしておきます。明治維新直後の日本では、西洋列強に対抗して独立を維持するために、「国民」としての一体感や、「国家」との一体感や、「国家」への忠誠心を人々が抱くようになることが急務であると考えられました。そのため、「国民」意識を形成するための教化運動が政府の主導で展開されていくことになります。
最初期の明治政府は、その教化運動を神道によって行おうとしました。「祭政一致」を掲げて神祇官を復興し、いわゆる「神仏判然令」を発するなど、神道に肩入れした政策を実行しました。明治2(1869)年には宣教使という官庁および職員を設置し、翌明治3(1870)年に大教宣布の詔を発しました。この詔は、宣教使が「惟神之大道」(神の御心のままの道)を布教することを命じました。開国後の日本では、キリスト教が西洋から流入・浸透し、人々が異国の教えになびいてしまうのではないかという懸念が存在していました。そこで、宣教使に「惟神之大道」を布教させて人々を教化し、それを通じて人々を統合してキリスト教が流入するのを防ごうとしたのです。
しかし、「惟神之大道」を説くといっても、そもそも一体何を布教したらいいのか不明確だったうえに、人に教えを説くことを得意とする神職者も不足していました。それまで人々に教えを説いてきた説法のプロである僧侶たちに比べると、神職者たちは能力も経験も不足してたのです。特に地方では十分な布教体制が整えられず、あちこちで戸惑いや混乱の声があがりました。宣教使に「惟神之大道」を布教させる政策は失敗に終わったのです。
かくして、明治政府は政策を転換します。明治4(1871)年に神祇官は神祇省に改組され、翌明治5(1872)年3月にはその神祇省と宣教使が廃止されて、代わりに教部省という官庁と教導職という役職が設置されました。この教導職には神職だけではなく僧侶なども就任することになり、神職と僧侶が合同で人々を教化することになりました。つまり、神道に肩入れした政策から、神道だけでなく仏教も取り込んだ政策へと転換したわけです(政策転換後は、いわゆる「神仏判然令」のような極端な政策も見られなくなります)。明治6年に教部省は大教院(教導職を育成したり、人々を教化する活動を行ったりすることを目的として設けられた機関)を設置し、神仏合同の強化体制を整備していきました。
しかし、この体制においても教部省の方針が徐々に神道偏重へと傾いていき、神道が仏教よりも優位な状況になってしまいました。また、大教院の主な任務だった教導職の育成も、資金不足などの要因でうまく進みませんでした。肝心の教化活動についても、仏教側と神道側で布教の内容や方法などで足並みがそろわず、布教を行う側もそれを聞く側も混乱していました。
そういうわけで、政府内外から教部省および大教院に対する強い反対運動が巻き起こりました。反対運動の主な担い手となったのが、木戸孝允や伊藤博文などの長州出身の政治家と、彼らと親密な関係にあった島地黙雷です。黙雷は長州出身の浄土真宗本願寺派の僧侶で、長州閥の政治家たちとのあいだに太いパイプがありました。黙雷などの真宗関係者たちは、真宗を大教院から分離させる運動を展開し、さらに教部省および大教院の解体を訴えました。その後いろんなすったもんだの末に、明治8(1875)年に大教院は解散することになり、明治10(1877)年には教部省も廃止となりました(教部省の業務は内務省の社寺局という部署に引き継がれます)。
「国家の宗祀」とその「現実」
以上のことを踏まえたうえで、明治初期の神社行政について見てみましょう。明治政府は明治4(1871)年5月に、神社は「国家の宗祀」(国家の公的な祭祀施設)だと宣言した布告(太政官布告第234号)と、「官社以下定額・神官職制等規則」(太政官布告第235号)を公布しました。太政官布告第234号にはこうあります。
神社の儀は国家の宗祀にて一人一家の私有にすべきに非ざるは勿論の事に候。
つまり、神社は「国家の宗祀」であり、神職の私有財産ではないとされたのです。神社は“本来は”公的なものであるから、従来のように特定の家が、世襲によって神社を私有物のようにしている状態は許さないというわけです。要するにこの布告は、神職の世襲を廃止したものです。この布告によって全国の神職はいったん全員解職されて、「学識」や「能力」を備えた者から、必要な人数だけがあらためて任命されました。この措置によって多くの神職が神社を追われ、各地で多くの祭祀が断絶して姿を消していったと言われています[阪本 1989: pp.257-259]。祭祀はマニュアルさえあれば誰でもすぐに執行できるなどというものではないし、長い間特定の神社に仕えてきた神主家を神社から分離することは、祭祀や祭礼に廃絶の危機をもたらすものだったのです。
また、太政官布告第235号によって社格(神社のランキング)が定められました。これはどういうものかというと、全国の神社を上級神社である官社と、それ以外の諸社に分類したものです。官社はこの時点では約100社ほど(その後少しずつ増えていきます)で、官幣社と国幣社に分類されました(あわせて官国幣社と言います)。さらに官幣社は官幣大社・官幣中社・官幣小社に分けられ、国幣社は国幣大社・国幣中社・国幣小社に分けられました。大中小に区分したわけです。
また、官幣社にも国幣社にも分類しがたいものは、明治5(1871)年に設定された別格官幣社に分類されることになりました。別格官幣社には、湊川神社や東照宮などが含まれていくことになるのですが、「別格」と言っても、特に格が高いというわけではありません。ともあれ、官社は神社全体からすればほんの一握りであり、全神社の99%以上は諸社です。
諸社は、当初は府社・藩社・県社・郷社に分けられたのですが、この2ヵ月後に廃藩置県が行われて藩が消滅したため、藩社は実質的には存在しませんでした。また、郷社の下にあった村社も後に独立した社格として認められ、結果的に府社・県社・郷社・村社となりました。さらに諸社のうち、社格のない神社は無社格と呼ばれました(全国の大多数の神社は無社格です)。なお、伊勢神宮については、以上のような社格の枠組みには入らないものだということになりました。
また、この太政官布告第235号によって、社格に応じて神職の定員や階級も定められました。神職は官吏(公務員)としての身分を得ることになり、官国幣社には公費が支出されることになりました。明治5(1872)年2月には、神官の俸給が制定されて、官国幣社だけでなく諸社についても月給が支給されることになりました。府社・県社の祠官(今で言う宮司)および祠掌(今で言う禰宜・権禰宜)に対して大蔵省から月給が支給されることになり、郷社の祠官および祠掌には民費(今で言う地方税)から月給が支出されることになったのです(太政官布告第58号)。
ともあれ、以上のようにして日本の津々浦々にある神社はすべて、「国家の宗祀」(国家の公的な祭祀施設)だということになりました。こう聞くと、「さぞかし神社が政府から手厚く保護され、国教のように扱われて、勢力を増していったんだろう」と思われるかもしれません。ところがその後、明治時代前半を通じて起きていった事態はその逆でした。明治時代前半の神社政策はその後、すべての神社は「国家の宗祀」であるというタテマエを空洞化させる方向へと進んでいくのです。
全神社は「国家の宗祀」だと宣言したはいいものの、以上のような政策を転換しようとする動きが、すぐに政府内部で表面化するようになります。まず明治6(1873)年2月に、郷社の祠官および祠掌に対する給与支出が廃止されました(太政官布告第67号)。同年5月には、官国幣社を除くすべての神社に対して、営繕費(建物を新築したり修繕したりするのにかかる費用)を公費から支給することが禁止されました(太政官布告第161号)。さらに7月には、府社・県社の祠官および祠掌に対する給与支出も廃止されて、今後の給与については「郷村社同様人民ノ信仰帰依ニ任セ」ることになってしまいました(太政官布告第277号)。
このような政策が実行されていった背景には、大蔵省の動向がありました。岩倉使節団が欧米を訪れていた頃、いわゆる留守政府においては大蔵省が権限を強め、財政の切りつめを目指して他省の予算増額要求と対立していました。大蔵省では、井上馨(1836-1915)とその部下の渋沢栄一(1840-1931)が、財政切りつめを目指していました。実際、井上馨は明治6(1873)年4月に、府社および県社は「元来私祭ニ属スル」として、「民祭」の神社の神官給与を官費から支給するのは不合理だと申し立てています。その後紆余曲折はあるものの、結果的にこの大蔵省の主張が通って、7月には、府社・県社についても給与の公費支出が廃止されるに至ったのです[阪本 1994: pp.128-131]。
さらに、明治10(1877)年12月には、官社の神官の定員が削減されました(太政官達第91号)。これによって官幣大社・官幣中社・国幣中社には宮司1名・禰宜1名・主典3名が置かれ、官幣小社・国幣小社・別格官幣社には宮司1名・禰宜1名・主典2名が置かれるだけとなりました。従来は官幣大社には大宮司や小宮司が置かれ、禰宜や権禰宜や主典も複数置かれていました。官幣中社・国幣中社・官幣小社・国幣小社でも、宮司や権宮司が置かれ、禰宜以下の神官も複数置かれていました。それが削減されたのです。
驚くべきことに、この削減策は伊勢神宮にすらも容赦なく適用されて、官社と同様に少宮司制が廃止されました。伊勢神宮には明治6(1873)年以降、年間一万五千円の経費が国庫から支出されていましたが、これも九千円に減額されました。4割もカットされたのです。
さらに、明治11(1878)年3月に内務省は、伊勢神宮の神宮大麻(伊勢神宮の神札)の頒布に対する地方官庁の関与をなくし、大麻を受けとるかどうかは「人民の自由」に任せることにしました(内務省達第30号)。このような政策がとられた背景には、「政教分離」や「信教の自由」の考え方が台頭してきたことがあります[岡田・小林 2021 : p.253]。
さらにさらに、明治12(1879)年には府県社以下の神職の等級が廃止され、「身分取扱ハ一寺住職同様タルヘシ」とされました(太政官達第45号)。かくして諸社の神職は、明治6(1873)年に給与支出を廃止され、明治12(1879)年に名目上の官吏としての地位も失って、お寺の住職と同様に扱われることになりました。つまり明治12(1879)年には、全神社の99%以上を占める諸社は、仏教寺院と同様に扱われるというありさまになっていたのです。諸社は、早くも明治10年代前半に、名実ともに「国家の宗祀」としての地位を失い、言わば「民祀」の神社になってしまったのです。
さて、ここでちょっと思い出していただきたいのが、明治4(1871)年に布告された上知令です。その5で述べたようにこの法令は、「現在の境内」を除いて社寺から土地を上知(没収)しようとしたものです。これによって、多くの寺領を所有していた天台宗・真言宗・臨済宗・浄土宗・時宗などの寺院が大打撃を受ける一方で、寺領を持つ寺院が少なく、主に寺檀制度に支えられていた浄土真宗や日蓮宗や曹洞宗は相対的に打撃を免れました。
この上知令は、寺院にのみ打撃を与えたわけではありません。多くの神社領もボッシュートされ、神社は中世以来の経済的な基盤を失いました。例えば、京都の八坂神社や大阪の住吉神社(現在の住吉大社)のような大社の境内地も大幅に縮小され、「公園」になったり民有地になったりしました。
話が少し脱線しますが、この「公園」というのも、明治時代に新しく誕生した制度です。日本初の「公園」が誕生したのは、明治6(1873)年のことです。この年の1月15日に「公園設置ニ付地所選択ノ件」(太政官布告第16号)が出されて、それに基づいて東京府に浅草公園や深川公園や芝公園や上野公園(現在の上野恩賜公園)といった「公園」が生まれました。浅草公園というのは、上知令で浅草寺からボッシュートした境内地をそのまま「公園」としたものです。深川公園や芝公園や上野公園も、それぞれ富岡八幡宮や増上寺や寛永寺から上知令で没収した境内地を「公園」にしたものです。明治時代に誕生した「公園」という新しい制度は、その起源からして神社や寺院と結びついていたのです。
しかしその後、日本に「公園」を定着させようとした人々のなかから、こうした形態の「公園」を批判する動きが出てきます。西洋の「“本来の”公園」は神社とは全く別のものだ、そんなものは「“ほんとうの”公園」ではないというのです(なんだかどこかで聞いたような話になってきましたね)。こういう流れで明治36(1903)年に、意図的に西洋型を目指した日比谷公園が開園します。
ところで、大正時代に東京に新しくつくられた明治神宮という神社があります。明治天皇とその皇后の昭憲皇太后が祀られた神社です。この明治神宮には、「外苑」と呼ばれる“公園っぽいもの”があります。「外苑」は、日比谷公園と同様に、西洋の造園方式を基調としてつくられたものです。しかし、「外苑」は神社の一部ですから、「“ほんとうの”公園」とやらではなく、“公園っぽいもの”だとしか言いようがありません。我々はしばしば、「ほんもの」とか「にせもの」などということばを無批判に口にしますが、一体何なんでしょうね(もっと詳しく知りたいという方は、白幡洋三郎『近代都市公園史の研究』(思文閣出版、1995年)や山口輝臣『明治神宮の出現』(吉川弘文館、2005年)などの本を読んでみてください)。
脱線はこれくらいにして、話を上知令に戻しましょう。政府は、上知令による寺院領や神社領の処分に関する明確な方針が決まるまでのあいだは、寺院や神社に対して応急措置として、従来の収入の約半分を支給することにしました(これを「半租給与」と言います)。
半祖給与は明治7(1874)年まで続き、同年9月にこの問題に関する方針が定められました。この方針では、官国幣社の経費(神職の給与も含む)は公費から支出されることになりましたが、諸社や仏教寺院には「逓減禄制」が適用されました。「逓減禄制」というのは、半租給与の額をベースにして公費を支給し、支給額をその1/10ずつ毎年減額していき、10年後には支給を廃止するというものです。諸社も仏教寺院も、公費支給はあと10年で打ち切るから、それ以降は独立してジコセキニンでやっていけというわけです。これは、神社にとっては過酷な政策でした。仏教寺院は、寺檀制度の解体後も、檀家の葬儀や法事に従来のように携わって、お布施をもらうことができましたが、そうではない全国の津々浦々の神社にとっては死活問題でした。
そういうわけで、明治10年代の前半には、全神社の99%以上を占める諸社に対する公的な援助の多くが消滅し、寺院と同様に扱われることになりました。ほんの百数十社ほどの官国幣社と、それ以外の諸社のあいだに、明らかな扱いの差が生じることになったのです。それではその後、官国幣社は政府によって手厚く保護されていったのかというと、そんなことはありませんでした(この点については、また後ほど述べます)。
前回のおさらい その2
さて、前回述べたように、明治10年代の神道界は祭神論争に揺れていました。祭神論争の過程では、神道家や真宗関係者が「神道非宗教論」を主張しましたが、両者の「神道非宗教論」は全く異なっていました。神道家たちの唱えた「神道非宗教論」は、神道は「宗教」ではなく「大教」であり、「宗教」よりも優れたものであるとしたうえで、祭政教一致を主張したものでした。また、当時の神道家たちの多くは、神職と教導職を切り離すべきではないと考えていました。
これに対して真宗関係者が唱えた「神道非宗教論」は、政教分離・祭教分離の立場でした。神道は「非宗教」であるから、神職は布教や葬儀に関与すべきではなく、教導職を廃止して神職を布教や葬儀から切り離すべきだと主張するものでした。真宗関係者が「神道非宗教論」を主張した背景には、葬儀という江戸時代以来の既得権益を守るために、神職を葬儀から締め出そうとする意図もありました。「ワシらのシマを食い荒らすのは許さん」というポジショントークとしての側面をも孕んだものだったのです。二つの「神道非宗教論」は、いずれも神道は「宗教」ではないと主張していること“だけ”は共通していますが、その中身は全く異なっていました。
二つの「神道非宗教論」に直面した政府は、おおむね真宗関係者の主張を受け入れる方向に進み、明治15(1882)年に神職による教導職の兼務が禁止され、官国幣社の神職が布教や葬儀を行うことが禁止されました。多くの神道家たちが主張していた祭政教一致ではなく、政教分離・祭教分離の立場をとって神職と教導職を切り離す方向へ進んだのです。
かくして神道家たちは、
①「非宗教」だと“された”祭祀に従事する
②「宗教」活動だと“された”布教や葬儀に従事して「宗教家」として生きていく
の二択を迫られることになりました。布教や葬儀に従事することを望んで②を選んだ人々は、独自に教団を組織して「宗教」としてやっていくことになります。この方向性を選んだ神道は後に教派神道と呼ばれ、およそ13の教団が公認されていくことになりました。これに対して①の方向性は、神社神道と呼ばれました。かくして、神道界は「宗教」だと“された”教派神道と、「非宗教」だと“された”神社神道に分化していくことになったのです。
ただしこのとき、諸社の神職については「当分従前之通」とされました。つまり、当面は布教や葬儀を行っても大目に見るということです。諸社は「非宗教」だと“されて”いるにもかかわらず、「宗教」活動だと“される”布教や葬儀を行っても大目に見られるという状態になりました(この祭神論争から神官教導職分離に至るややこしい経緯については前回詳しく述べましたので、詳しいことはこちらをごらんください)。
なお、村上重良の『国家神道』はこの問題について、次のようなストーリーを描いています。
神道界の指導者の間では、神社神道を国家の祭祀として一般宗教から分離し、国家宗教としての特権的地位を確保しようとする意見が支配的となった。
政府は、神道界の動向にこたえて、祭祀と宗教を分離して、国家神道を確立する政策に踏みきった。
現在の研究水準から言えば、このようなストーリーは成立しません。実際には、当時の神道家たちの多くは神職と教導職を切り離すべきではないと考えていましたし、祭政教一致を主張していました。そのような主張は政府に受け入れられず、真宗関係者が主張していた祭教分離の措置がとられたわけです。
「神社改正之件」と官国幣社保存金制度――神社切り捨て策
さて、先ほど述べたように明治10年代の前半には、全神社の99%以上を占める諸社に対する公的な援助の多くが消滅し、寺院と同様に扱われるありさまになっていました。明治時代前半の神社行政においては、一握りの官国幣社とそれ以外の諸社とのあいだに、明らかに扱いの差が生じることになったのです。それではその後、政府は官国幣社を手厚く保護していったのかというと、そんなことはありませんでした。政府は、官国幣社についても公費支給を打ち切って、ジコセキニンでやっていかせる方針を打ち出したのです。
明治18(1885)年5月に、内務省と大蔵省は共同で、「神社改正之件」と呼ばれる提案を太政官に上申しました。この提案はざっくり言うと、
①伊勢神宮に対する公費支出は、増額したうえで今後も継続することにする。
②官国幣社に対して経費・営繕費を公費から支出するのを廃止する。ただし、これをいきなり実行すると存続不可能になる官国幣社も出てくるだろうから、当分の間(当初の計画では10年)官国幣社に補助金を支給してその一部を貯蓄させていき、将来的には貯まった積立金を元手に「独立自営」させることにする。
というものです。この「神社改正之件」は、その後いろんなすったもんだがあったり修正されたりするのですが、結果的にこれが国策として採用されて、明治20(1887)年から「官国幣社保存金制度」がスタートします。この制度によって、今後15年間のあいだ官国幣社に「保存金」を支給し、その年額の半分を貯蓄するよう義務づけることになりました。そして、15年たったら「保存金」の支給を打ち切って、貯まった積立金をもとにジコセキニンでやっていかせることになりました。
ただ、保存金の年額は、これまでに支給されてきた経費・営繕費の額に対応したものでした。その半分は強制積立となりますから、官国幣社の側からすれば、ラフに言えばいきなり収入が半分になったようなものです。これではとてもやっていけんということで、明治23(1890)年には積立額が年額の半分から35%へと修正され、保存金の支給期間も15年から30年に延長されることになりました。
さて、繰り返しになるようですが、政府は明治4(1871)年に神社は「国家の宗祀」(国家の公的な祭祀施設)だと宣言していました。ところが明治20年頃になると、諸社だけでなく官国幣社に対する経費や営繕費の支出についても、近い将来に打ち切る政策が実行されるありさまになっていたのです。神社は「国家の宗祀」だったはずなのに、気がついたら、伊勢神宮以外のほぼすべての神社がジコセキニンでやっていけと切り捨てられることになってしまっていた(!)のです(措置が別枠でなされた靖国神社や招魂社を除く)。これは見ようによっては、伊勢神宮だけが「国家の宗祀」だという状態です。「国家の宗祀」って何だっけ状態、「祭政一致とはいったい・・・うごごご!」状態になってしまったのです。
なお、ご存じの方も多いかもしれませんが、大日本帝国憲法が公布されたのが明治22年(1889)年で、教育勅語が発布されたのが明治23(1890)年です。驚く方もおられるかもしれませんが、明治維新から大日本帝国崩壊までの約80年間で、神社がお上から最も冷遇されていたのがこの時代です。大日本帝国憲法や教育勅語が定められた時代は、政府と神社の距離が近代史において最も遠のいた時代なのです。
ついでなので紹介しておくと、「神社改正之件」については、内務省によって書かれた「神社改正意見」という明治19(1886)年2月の意見書があります。この意見書は、官国幣社についてざっくり次のように述べています。
「今の官社は、修繕費や祭典費や神官の俸給や些細な調度品に至るまで、官費の支給を求めている。実際に官社には、年額を定めて官費が支給されており、官社は必要なものに事欠いていない。明治4年に(社格が定められて)官国幣社が制定されてから明治18年までに、55社が新たに官国幣社に昇格している。しかも、今も100社あまりの神社が官国幣社への昇格を願い出ている。際限なく官社が増加していくことは、際限なく官費が増加していくことを意味する」と。
「神社改正意見」には、以下のような一節すらあります。
是今日昇格新列ノ願続々百余社ノ多キニ至レル所以、蓋一新ノ際祭政一致ノ国是ヲ立ラレ敬神上過度ノ傾向アリシヨリ事竟ニ爰ニ至レルハ勢ノ当然ニテ、実ハ政府之ヲ誘致セシモノト云ハサルヲ得ス。
(中略)
夫官社ヲ増加シ其礼典ヲ鄭重ニスルハ誠ニ国ノ美事ナリト雖トモ、国庫ノ支出ハ驚く可キノ多額ニ上リ、終ニ世人ヲシテ神社ハ国力ヲ耗スルモノタル歟トノ感想ヲ惹起セシムルニ至ルモ亦未知ル可ラス。是豈敬神ノ本意ナランヤ。
今も100社あまりの神社が新しく官国幣社に昇格したいと願い出ているが、こんなことになったのは明治維新の際に「祭政一致」の国是を立てて、過度に敬神に傾いた政策をとったからだと思われる。これは政府が自ら招いた事態だと言わざるをえない。官社を増やして礼典を丁重に行うのはまことに結構だが、このままだと国庫支出が増加して、神社は国力を消耗するものなんじゃかという疑念を世の人々に抱かせることになるぞ、というのです。
ここには、明治維新の際に見られた「敬神上過度ノ傾向」を反省し、それを是正しようとする意図が見られます。最初期の明治政府が、いわゆる「神仏判然令」を出すなど、神道に肩入れした極端な政策を実行したことは周知のとおりです。しかし、明治19(1886)年のこの「神社改正意見」には、明治初期の神社優遇政策を誤りだとみなして修正し、神社をジコセキニンでやっていかせようとする意図が明白です。そして、いろんなすったもんだはあったものの、「神社改正之件」の構想は採用されて、官国幣社保存金制度が成立することになった。つまり、「政府は明治維新以来ずっと一貫して神道や神社を優遇する政策を続けていった」などというストーリーは全く成立しないのです。
ここでちょっと前回のおさらいをしておきましょう。時は明治21(1888)年6月。枢密院で憲法審議を開会するにあたって、枢密院議長であり憲法の起草者でもあった伊藤博文は、明治天皇も同席するなかで、こう宣言しました。
今憲法の制定せらるゝに方ては先づ我国の機軸を求め、我国の機軸は何なりやと云ふ事を確定せざるべからず。(中略)抑々欧州に於ては憲法政治の萌せること千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして一も国家の機軸たるべきものなし。仏教は一たび隆盛の勢を張り上下の心を繋ぎたるも今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ。
このたび憲法を制定するにあたっては、我が国の機軸となるものが一体何なのかを確定しなければならない。ヨーロッパでは、憲法政治が芽生えて千余年が過ぎており、制度に習熟しているだけでなく、「宗教」というものがあってそれが機軸となっており、「宗教」が深く人々の心に浸透し、人々の心が一つにまとまっている。だが我が国の場合、仏教も神道もよわよわで、国家の機軸になりそうにない。だから、仏教でも神道でもなく、皇室を機軸にするしかない。そのように言ったのです。ここには、神道や神社を国教扱いする意図も保護・優遇する意図も微塵も見られません。
ほぼすべての神社をジコセキニンでやっていかせる方針を示した「神社改正之件」に基づいて、官国幣社保存金制度が始まったのが明治20(1887)年。伊藤博文が憲法を制定するにあたって、仏教でも神道でもなく皇室を機軸にするしかないと宣言したのが明治21(1888)年です。両者の方向性は、神道や神社を見限っている点で、きれいに一致しています。阪本是丸は、次のように指摘しています。
こうした一連の政府による神社の「非国家の宗祀化」政策は明らかに信教自由・政教分離思想の抬頭を考慮した措置であり、帝国憲法発布にともなう帝国議会の開設を意識してのものであった。伊勢神宮はともかくとしても、官社であろうともなるべく国家との関係を薄めていき、最終的には神社と国家との公的関係をなくしてしまおうというのが明治十年代後半から二十年代にかけての政府の基本的構想であった。
そういうわけで、前回述べたことの繰り返しになるようですが、明治時代前半の政府による「宗教」政策の変遷をざっくりまとめると、
①神道に肩入れして、いわゆる「神仏判然令」などの極端な政策を実行した時代
②教部省・大教院のもとで神仏合同の教化体制がとられ、神道だけでなく仏教も体制に取り込もうとした時代
③政教分離や信教の自由といった西洋の考え方や制度を学び、仏教からも神道からも徐々に距離を置いて、干渉を控えるようになっていった時代
という時系列で進んだことになります。そして③の時代には、「神社改正之件」に基づいて官国幣社保存金制度が成立し、伊勢神宮以外のほぼすべての神社を将来的にジコセキニンでやっていかせる政策がとられるに至ったというわけです。
皇室と仏教との関係修復策
さて、ここでちょっと視点を変えて、明治20(1887)年ごろの政府が仏教をどのように扱っていたのかも見てみたいと思います。いったん明治維新のあたりまで時計の針を戻してみましょう。最初期の明治政府は、いわゆる「神仏判然令」に見られるように、カミとホトケを無理やり引き剝がそうとする政策を実行していきました。その政策は皇室にも及びました。
例えば、宮門跡や比丘尼御所(皇族や公家の男子(女子)が出家して居住する寺院およびその住職を宮門跡(比丘尼御所)と言います)は還俗させられ、皇族から僧侶が追放されることになりました。まず明治元年に、今後は皇族が僧侶になることが禁じられます。門跡や比丘尼御所の称号も廃され(明治4年)、朝廷から僧侶に僧位・僧官という形で位階や官職を与えることも廃されました(明治5年)。後七日御修法や大元帥法など、宮中で行われていた密教儀礼も廃止されました(明治4年)。密教儀礼の即位灌頂も廃され、明治天皇は大日如来と本来的に一体であることを確認することなく即位した(少なくとも500年ぶりの)天皇になりました。こういったことはその5で述べたとおりです。
このように、最初期の明治政府は神道に肩入れして、皇室から仏教的要素を排除しようとしました。しかし、これまでに述べてきたように、政府は明治維新以降、神道や神社を優遇する政策をずっと一貫して続けていったわけでは決してありません。仏教に対しても、最初期の極端な政策をその後も続けていったわけではありませんでした。むしろ、いったん排除した仏教とヨリを戻そうとする政策があちこちでみられるようになります(仏教との関係を復旧しようとした以下の様々な政策については、[小倉・山口 2018:pp.195-200]を参照)。
例えば、いったん廃止された門跡や比丘尼御所の称号が復活します。前回述べたように、明治17(1884)年には教導職が廃止されて管長制が定められ、仏教各宗派および教派神道各派は自治的な教団運営を行っていくことになりました。その際に、江戸時代に准門跡だった真宗の管長が門跡を名乗りたいと申し出て、許可されています。明治21(1888)年には、門跡は管長と同様の勅任待遇を受けることになりました。
また、明治16(1883)年の正月には、いったん廃止された後七日御修法が再興されました。真言宗僧侶の釈雲照が盛んに復興運動を展開し、宮内省御用掛の山岡鉄舟(1836-1888)を動かしたことが決め手となって、復興が認められたのです(ただし、従来のように宮中で行うのではなく東寺で行い、天皇に直接加持祈祷を施すのではなく、天皇が与えた衣に加持を行うという形式になったのですが)。その後日清戦争の際には、一度は廃止された大元帥法も行われています(大元帥法は、国家安穏や怨敵調伏をもたらすパワーがあるとされる密教儀礼です)。
ところで、明治以前の宮中には「御黒戸」と呼ばれる部屋がありました。これは一言で言うと、宮中にあった仏間です。仏像や歴代天皇の位牌などが安置され、女官によってお供え物がなされていました。天皇が崩御した際に行われる葬儀や埋葬や供養も、寺院が仏式で行ってきました。天皇の葬儀や埋葬を執り行う寺院は元々は一つに定まっていませんでしたが、やがて泉涌寺という真言宗のお寺に一本化されていきます。泉涌寺は皇室の菩提寺となり、「御寺」と呼ばれました。
明治維新を迎えると、これをどうするのかが問題になりました。「位牌なんか天皇陵のあたりの山の中に埋めてしまえ」という乱暴な案が神祇官から飛び出したこともあったのですが、結局「恭明宮」という宮殿を新しく設けて、そこに移すことになりました。ところが、その恭明宮は明治4(1871)年に完成したものの、2年ほどで廃止されてしまいます。最終的に、位牌と仏像は泉涌寺に移されることになり、そのまま現在に至っています。その後明治11(1878)年には、泉涌寺で歴代天皇や皇族を供養することが正式に認められました。
これに関連することですが、明治10(1877)年には、すべての皇族が神祭によって祀られることになりました。ところがその一方で、仏門に帰依した皇族については、泉涌寺での仏祭も行うことになり、陵墓への玉串料(神道儀礼の際に納めるお金)の2/3は、そのための費用として泉涌寺の僧侶に分配することになりました。そして明治13(1880)年には、明治天皇が泉涌寺を訪れて、霊明殿(御黒戸から移された位牌などが納められている場所です)を参拝しています。明治天皇以降も位牌はつくられ続けて、泉涌寺に納められています。
さらに、皇族の出家も再び認められるようになります。例えば、宗諄女王(1816-1890)と文秀女王(1844-1926)が明治13(1880)年に申請した際には、何の問題もなく許可されて、二人とも皇族の身分のまま比丘尼御所になっています。
また、高僧に大師号を贈る文化も復活します。大師号というのは、朝廷が高僧に対して与える尊称です。例えば、朝廷は866年に最澄に伝教大師という尊称を授与しています。921年には空海に弘法大師という尊称を贈っています。これが復活して、明治9(1876)年には親鸞に対して「見真大師」という大師号が授与されています。真宗による上申を政府が認めたのです。本願寺は江戸時代に、大師号を求める運動を何度も行っているのですが、いずれも失敗に終わっていました。それが明治時代に入ってから成功をおさめたわけです。これは、神道に肩入れした政策を軌道修正した後の明治政府の方が、江戸時代のお上よりも真宗に融和的な面があったことを物語っています。
また、僧侶のなかには華族になった人もいます。ご存じの方も多いと思いますが、明治2(1869)年の版籍奉還によって、それまでの大名や公家は華族と呼ばれることになりました。その後、明治17(1884)年の華族令によって、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位が設けられました。この華族令のもとで、爵位を与えられた神職や僧侶の家柄が20家ほどあります(僧侶はすべて真宗でした)。例えば、明治時代まで出雲大社の宮司職を分担してきた名家である千家家と北島家には、男爵位が授与されています。その一方で、本願寺の門主を世襲してきた大谷家には、明治29(1896)年に伯爵位が授けられています。大谷家には、神職きっての名家である千家家や北島家よりも高い位が授与されたわけです[阪本 1989: pp.281-282]。
さらに明治9(1876)年6月には、仁和寺や大覚寺をはじめとする28の寺院(門跡寺院を含む)に対して、皇室から永続的に年金を支給する措置が始まっています。先ほど述べたように当時は、上知令によって諸社や仏教寺院の土地をボッシュートした補償として、「逓減禄制」が実施されていました。逓減禄制においては、諸社や仏教寺院に対する補償は10年で打ち切られることになっていました。当時の京都府権知事だった槇村正直(1834-1896)は、この逓減禄制のもとではやっていけなくなる仏教寺院が出てくると建言しました。それに基づいて、30ほどの寺院に対して皇室が永続的に年金を支給することになったのです。
そして驚くべきことに、この措置はその後も全く問題視されることなく続いていきます。先ほど述べたように、明治18(1885)年から20(1887)年にかけて、「神社改正之件」に基づいて官国幣社保存金制度が成立し、伊勢神宮以外のほぼすべての神社が切り捨てられることになりました。ところが、そうやってほぼすべての神社が切り捨てられることになった明治20年頃になっても、30ほどの寺院に対して皇室が永続的に年金を支給する措置は、全く問題視されなかった(!)のです。問題視されることなく続いていったのです。例えば、皇室の菩提寺である泉涌寺には、尊像・尊牌奉護料という名目で、年間1,800円ものゼニが支出されていました。と言ってもピンとこない方も多いでしょうから参考までに申し上げると、これは官国幣社保存金制度において、最も高額な保存金が出ていた熱田神宮の保存金年額とほぼ同じ(!)です[小倉・山口 2018: pp.198-199]。
村上説の破綻
ここでちょっと状況を整理してみましょう。
①明治20(1887)年に、「神社改正之件」に基づいて官国幣社保存金制度が始まった。これによって、諸社だけでなく官国幣社に対する経費や営繕費の支出も、近い将来に打ち切られることになった。伊勢神宮以外のほぼすべての神社を、近い将来にジコセキニンでやっていかせることになった。「最終的には神社と国家との公的関係をなくしてしまおうというのが明治十年代後半から二十年代にかけての政府の基本的構想」だった。
②明治9(1876)年6月には、仁和寺や大覚寺をはじめとする28の寺院(門跡寺院を含む)に対して、皇室から永続的に年金を支給する措置が開始された。この措置は、官国幣社保存金制度が成立するころになっても、特に問題視されることなくその後も続いていった。
③最初期の明治政府は、いわゆる「神仏判然令」のような極端な政策を実行した。しかし、その後軌道修正がなされて、いったん排除した仏教との関係を修復しようとする様々な政策がとられていった。
①と②をまとめると、「大日本帝国憲法や教育勅語が定められた頃のお上は、伊勢神宮と約30の仏教寺院だけは今後も永続的に保護するが、それ以外はジコセキニンでやっていかせる方針だった」ということになります。「あ、あれ? 気がついたら神社よりも仏教寺院の方が優遇されるありさまになってないか?」と思う方もおられるかもしれません。
③について言うと、明治政府は、初期の神道に肩入れした政策をその後も続けていったわけではなく、複雑な軌道修正を経ているわけです。軌道修正によって皇室は、仏教寺院との関係を復旧(復古ではない)していきます。皇室の形は、カミとホトケを切り離して、皇室を“ピュアな”ものへと純化しようとした人々の理想とはかけ離れたものになっていったのです。歴史学者の山口輝臣(1970-)はこうした事情について、天皇が神仏の実践に関わるとともに、社寺との関係を複雑に取り結ぶ形で存在しているという点では、江戸時代と決定的な違いはないと言っても許されるのではないかと指摘しています。そのうえで山口は、明治維新で何もかも決まったわけではないとしています[山口 2018: p.199]。
さて、先ほど述べたように村上重良の説では、帝国憲法や教育勅語が定められた時期は、「国家神道」とやらの「教義的完成期」だということになっています。村上によれば、帝国憲法によって「国家神道の、天皇と直結する公法上の地位」が「確立」し[村上 1970: p.128]、「国家神道」とやらが、仏教・教派神道・キリスト教の上位に君臨する体制が成立したということになっています。
しかし、村上が描いたストーリーが全く成立しないことは、これまでに述べてきたことから明らかです。村上の描いたストーリーとは全く異なり、当時の神社は官国幣社保存金制度によってお上から切り捨てられ、情けないほどの状態に置かれていたわけです。「時代が下れば下るほど神社が国家から手厚く保護・優遇されるようになり、強大化していった」などという単純極まる「物語」は成立しません。先ほどの伊藤博文の演説を見ても、帝国憲法によって「国家神道」なるものが仏教・教派神道・キリスト教の上位に君臨する体制が成立したなどという説明は、全くの間違いだとしか言いようがありません。
念のために申し上げておきますが、私がこれまでに述べてきたことは、阪本是丸などの神道学者や、歴史学者の山口輝臣などの研究者が、緻密な実証研究に基づいて明らかにしていった事実をまとめたものです。これまでに述べてきたのは、彼らの著書や論文に書いてあることをまとめただけのものであり、私の独自の説は全く含まれておりません。
このように、明治期の神社政策をめぐっては、専門家のあいだで村上説と大幅に異なる像が共有されつつあります。しかし残念ながら、そういった事情は一般にはまだまだ知られていません。本屋でも図書館でもいんたあねっとでも、先行研究を全く踏まえずに村上説を無批判にコピペしたようなもの言いがまだまだ多いのが現状です。
世紀転換期における「神社改正之件」の崩壊
「神祇官興復運動」と内務省神社局の設置
さて、そういうわけで明治20年前後の政府は、ほぼすべての神社をジコセキニンでやっていかせる方針を打ち出していました。それでは、この方針がその後も維持されていったのかというと、そうではありません。危機感を抱いた神職たちが立ち上がり始めたのです。神職たちは、形骸化してしまった「国家の宗祀」としての立場を神社が取り戻すためには、神祇官を復活させる必要があると考えました。神祇官の再再興を求める運動はそれ以前からあったのですが、ここに至ってそれまでにない盛り上がりを見せることになります。これを「神祇官興復運動」と言います。
本稿でも何度か述べたように、明治の始めに再興された神祇官は、明治4(1871)年に神祇省となり、明治5(1872)年には神祇省が廃止されて教部省が設置されました。しかし、その教部省も明治10(1877)年に廃止されて、その業務は内務省社寺局が引き継ぎました。よって、神祇官の再再興を目指すのであれば、この社寺局に手をつける必要があります。
そこで、神職たちは地道に運動を続けました。明治23(1890)年に設置されたばかりの帝国議会の議員たちに協力を求めたり、選挙を通じて議員たちと関係を深めたり、議会に基盤を置く政党に働きかけたり、神職たちの主張に賛同する議員に政府を追及してもらったりといった具合に、議会を舞台に運動を行いました。
神職たちによる運動もあって内務省社寺局は、明治33年に神社を管轄する神社局と、「宗教」を管轄する宗教局に分離されることになります。明治33年は、西暦で言うと1900年。もはや19世紀が終わろうとしていました。神祇官興復運動が実を結ぶには、約10年もの長い時間を要したわけです。
当初の目標は神祇官の再再興だったけど、実際に設置されたのは内務省神社局。運動を行った神職たちからすれば、満足するには程遠い結果でした。とはいえ、ここで神社を管轄する部署が、「宗教」を管轄する部署から明確に区別されたことは大きな意味を持っていました。神社は「非宗教」であり、「宗教」とは別枠で扱うという方向性が明確に制度化されて、「神社非宗教論」が政府によって公認された形になったからです。
ただし、この分野を専門とする研究者は、政府・内務省には神社を優遇しようとする意図は希薄だったと指摘しています。例えば阪本是丸は、神社局といっても高等官は局長一人だけで、ほかは10人ほどの判任官・属官がいるだけの「三等局」にすぎなかったと指摘しています。政府・内務省にしてみれば、議会や神社界による神祇官興復運動の高まりを無視できず、いわば「議会の御機嫌取り」で神社局を新設したにすぎず、さほどの積極的な意味はなかったというのです[阪本 1994: pp.308-309]。
歴史学者の山口輝臣(1970-)は、不平等条約の改正にともなう内地雑居の開始によって、キリスト教を正式に宗教行政の対象としなければならなくなっており、その部署名が「社寺局」では不適切で、名称や事務内容の再考が求められていたという背景を指摘しています[山口 1999: p.246]。なんともミもフタもない……。
水野錬太郎の登場と神社政策の転換
さて、神職たちによる運動の過程で、明治31(1898)年に全国神職会という組織が成立しました(後に大日本神祇会に改称)。これは、神職たちによる最初の全国的な運動組織です。全国神職会は、内務省神社局の設置以後は、運動の重点を神社への公費支出の復活および官国幣社保存金制度の廃止へと移しました。こうしたなかでついに、神職たちの主張に共鳴する官僚が内務省の内部に出現します。水野錬太郎(1868-1949)です。
明治37(1904)年に内務省神社局長となった水野は、神社への公費支出を復活させるべく辣腕をふるい、大蔵省や内務省内部から噴出した反対論をねじふせていきます。そしていろんなすったもんだの末についに、日露戦争後の明治39(1906)年に官国幣社保存金制度は廃止され、官国幣社に経費等を公費から永続的に支出し続ける「官国幣社国庫供進金制度」が成立しました。さらに諸社についても、地方公共団体から神饌幣帛料(神社で毎年行われる重要なお祭りに対する支出)を出すことが可能になりました(「府県社以下神社神饌幣帛料供進制度」)。

神社政策がこのような方向に進んだ背景には、日露戦争後の「地方改良運動」も絡んでいます。日本は日露戦争にどうにかこうにか勝利したものの、戦時に行われた増税や、農村の若年層の都市への流出や、都市と農村の格差の拡大などの要因によって、地方の疲弊や荒廃が大きな問題となっていました。そこで政府は日露戦争後に、荒廃した地方を改良・再建し、人々に道徳的な教化を行い、動揺していた農村の秩序やキズナを強化することを目指す運動を国策で実行していきました。そうやって行われていった一連のいろんな政策のことを、地方改良運動と言います。
水野錬太郎が、神社への公費支出を復活させるべく努力していたのはまさにこの時期でした。水野はこうした時期に、地方行政を牛耳っていた内務省地方局と交渉することになったのです。地方局は、当初は水野の提案に反対していました。市町村による財政支出の増大につながるような提案を、おいそれと呑んではくれなかったのです。
そこで水野は、「神社を地方自治の中心的施設として位置づけ直す」という政策を打ち出しました。神社は地域住民を結びつけるキズナとして機能し、地方自治において有用であるから、神社をそれにふさわしい存在へと仕立てあげるべきだと提案したのです。つまり、神社を地方改良運動のなかに組み込んでしまおうというわけです。そして水野は、この政策を実現するためには神社の数を減らし、一町村につき一社とすることが理想であると考えました。水野は明治41(1908)年に、次のように発言しています。
今日、府県市町村は、随分、いろ〳〵と費用の多い際に、神社の費用までも負担するのは、実際困難であると思ふ。私は、府県社以下の神社を、其の公共団体と結付ける為には、其数を少なくして、特殊の神社の経費は、公共団体より其費用を支出せしむる方針を執らなければなるまいと考へて居る。現に、此頃も、実行して居りますが、由緒も分らず、維持も出来ず、崇敬する人もない、神社は成るべく合併して、完全なる神社を建てゝ、市町村なり、府県なりで、これを基礎として公共団体が、互に相団結して、地方の行政と神社との連絡を付けたならば神社行政上、又、地方行政上最も宜しきことであらうかと考へて居る。神社の数さへ少なくなれば、其費用も決して余計にはかゝらぬ。一町村で、一神社位経営の出来ぬことはない。
水野は、諸社に対する神饌幣帛料の支出だけでは満足せず、経費の支出も願っていました。全国の津々浦々にある諸社すべてに対してそれを実現しようとしたら、ゼニが無限にあるわけではない以上は、数を減らすべきだという話になってしまうわけです。また、神社を中心としたキズナによって地域の人々を結びつけようとするのであれば、神社がいっぱいあって多様性がある状況よりも、中心が一つである方が都合がいいということになります。地方改良運動に神社を組み込もうとすると、おのずとこういう発想になってしまうとは言えます。
水野の努力もあって、神社は地域のキズナの中心であり、地方自治において有用であるから、神社をそれにふさわしい存在へと整備すべきだという考え方が、神社局以外の官僚にも受け入れられるようになっていきました。それを象徴する出来事を一つあげておきましょう。明治41(1908)年に、内務省地方局出身の井上友一(1871-1919)が、地方局府県課長心得(局長に次ぐ地位です)を兼務したままで、水野の後任として神社局長に就任したのです。
井上は、西洋に留学して自治制度を研究し、地方共同体における精神的なキズナの必要を感じていました。そのため、神社局長に就任すると、地方改良運動とあわせて、地域の中心施設の一つとして神社を据える「神社中心説」を唱えました。井上は神社局長に就任した直後に、水野の主張に賛同したうえで、次のように発言しています。
地方自治の上に円満なる治績を挙げんとするには、民心の共同といふことは最も大事な事であり、殊に、敬神の念に富んで居る我国民には、神社を中心として民心の結合を図るといふことは、取訳けて大切であると思ひます。
かくして、地方行政に強大な権限があった内務省地方局が、神社の活用に乗り出していくことになりました。地方改良運動と神社行政の融合が実現したわけです。そして、以上のような「神社中心説」に基づいて、神社を中心に地方の民をキズナで結びつけるために、維持困難な神社を整理・統廃合しようとする動きが生じました。一町村一社や一村一社を目標とした神社整理が行われ、多くの神社が破壊されていくことになったのです。
そのため、明治31(1898)年の時点では全国におよそ20万社あった神社が、大正5(1916)年には約12万社にまで減少した(!)と言われています[櫻井 1992]。およそ4割にのぼる神社が廃され、慣習やお祭が破壊され、消滅していったのです(ただし、政府は神社整理を直接命じた法令は出さず、実際に神社整理を行う主体になったのは地方官庁でした。よって、明治初期の廃仏毀釈の激しさや形態や発生時期などが地域ごとに大きく異なっていたのと同じように、神社整理の激しさも地域によって大きな違いがありました)。
神道学者の藤本頼生(1974-)は、人材不足や慣習・祭礼の消滅によって、内務官僚の意図とは逆に、農村の精神的紐帯はかえって希薄化したと指摘しています[阪本 2006: pp.269-274]。神社整理は、水野錬太郎が神社局長に在任していた時期の終わりごろにピークを迎えました。神職たちの運動に共鳴し、神社行政をめぐる問題に善意で取り組んだ人物のもとで、神社にまつわる文化を破壊する道が敷きつめられていったのです。
ここでちょっとまとめてみましょう。明治4(1871)年に出された神社は「国家の宗祀」だという宣言は、官国幣社保存金制度が始まった明治20(1887)年には、早くも空洞化していました。その後の政策転換によって、明治の終わり近くになってようやく、神社は「国家の宗祀」らしくなったわけです。全神社は「国家の祭祀」であるというタテマエが、やっと実質を備えるに至ったのです。同時に、この時期に地方改良運動に神社が組み込まれて、地方行政と神社行政が結びつくようになりました。そのため、明治末期から大正期にかけて、小学校の入学・卒業とか、軍隊への入隊や出征などの地域の公的な共同行事の際に、神社参拝が広く実施されるようになっていきました。神社が小学校や青年団などと結びつけられることになったのです。この結果、「神社問題」と呼ばれる事案が各地で起きてくるようになります。
「神社問題」の発生
まず、大正2(1913)年に時の文部大臣である奥田義人(1860-1917)と会談したキリスト教徒が、小学校の教員が生徒を引率して神社参拝を行うのは「宗教」上の信念が含まれていると指摘し、神社の性質を明らかにするよう要求しました。翌年には、プロテスタント系の日本組合基督教会が総会で、多くの国民は神社を「宗教」として崇拝していると指摘しました。同時に、第一次大戦への参戦にあたって神社に戦勝祈念を行わせたことは「宗教」行為であるとも指摘し、この問題の対策を研究することを決議しています。
さらに、大正4(1915)年に大正天皇の御大礼(即位にともなう儀式)が行われた際には、いくつかの地方行政当局が、家ごとにしめ縄を張り、神棚を設けて、神社参拝を行うよう命じたため、浄土真宗門徒とのあいだに軋轢を生じるという事案が発生しています(この問題はまた後ほど触れます)。同年に帝国議会で、元本願寺派僧侶の龍口了信(1867-1943)がこの事案について政府の見解を問いただしました。
これらの問題に関与したキリスト教や真宗の人々の多くは、神社崇敬それ自体を完全に拒否したわけではありませんでした。神社は「非宗教」なのだから、神社で行われている「宗教」的な要素(布教・葬儀・祈祷・神札・お守りなど)を取り除いて、「非宗教化」せよと主張したのです。一例をあげると、昭和5(1930)年のはじめに真宗10派が政府に対して提出した意見書では、
一、正神に参拝し邪神には参拝せず
ニ、国民道徳的意義に於て崇敬し宗教的意義に於ては崇敬する能はず
三、神社に向つて吉凶禍福を祈念せず
四、此の意義を含める神札護札を拝受する能はず
などとして、政府に対して神社での「宗教」的活動を停止すべきだと求めました。ここで見落としてはならない点は、「神社非宗教論」が、神社から布教や祈祷や神札やお守りなどの要素を取り除いて、神社を弱体化させ封じ込めるためのリクツとして用いられているということです(この点についても、また後ほど述べます)。
神社参拝の強制について
「神社問題」をもたらした因縁
話が大正期の「神社問題」の発生まできたことですし、このあたりで近代の日本における神社参拝の強制の問題について見てみたいと思います。
「近代の日本では、国民に神社参拝が強制されていた」と言われることがあります。この問題を見ていくうえで重要なのは、一口に「近代の日本」と言っても、明治維新から大日本帝国の崩壊に至るまでの期間は80年近くあり、時期によって事情は全く異なっていたということです。結論から申し上げると、満州事変(1931年)以降の日本において、神社参拝を国民として当然の義務と見なす風潮が蔓延し、神社参拝を事実上拒否できない状況が生じていたことは間違いありません。しかし、明治維新から敗戦までの約80年のどの時期においても、神社への参拝が強制されていたというのは、明らかに間違いです。「明治維新から敗戦までずっとそうだった」わけでは決してありません。
まず、近代日本宗教行政史を専門とする新田均は、明治時代に国民に神社参拝が強制されていたという「事実を書き記した書物や史料を私は見たことがない」と指摘しています[新田 2014: p.179]。そもそも当時は、国民に参拝させるべき「国家的な神社」が、ほとんどの地域にはありませんでした。「いやいや、全国各地に神社はいっぱいあったじゃないか」と思う方もおられるかもしれません。もちろんそのとおりです。しかし、それらのほとんどは、大正時代になるまで「国家的な神社」だとは到底言えない状態だったのです。
しつこいようですが、明治20(1887)年に始まった官国幣社保存金制度では、伊勢神宮以外のほぼすべての神社をジコセキニンでやっていかせる方針でした。伊勢神宮だけが「国家の宗祀」だともとれる状態になってしまい、神社は「国家の宗祀」だというタテマエは空洞化していました。その後、明治の終わり近くになって官国幣社保存金制度が廃止され、官国幣社国庫供進金制度や府県社以下神社神饌幣帛料供進制度が成立して、ようやく神社は「国家の宗祀」であるというタテマエが実質を備えるに至ったのです。
同時に、この時期に神社が地方改良運動に組み込まれて、地方行政と神社行政がはじめて結びつくようになりました。逆に言えば、明治の終わりごろまでは「国家的な神社」は、厳密に言えば伊勢神宮だけで、広く捉えてもせいぜい伊勢神宮と官国幣社(全国に百数十社しかない)ぐらいだったということです。実際、水野錬太郎は明治41(1908)年に次のように発言しています。
今までは、府県社といふても、府県といふ団体と何か関係があるかといふと、何等関係がない、郷村社も其通りで、(中略)茲に於て始めて公共団体と其土地の神社の連絡が付いて来た。
こんな状況ですから、「国家の宗祀」と呼べるような神社は、多く見積もっても全国に百数十社しかありませんでした。全国の津々浦々に村の氏神はあっても、政府や地方公共団体と「何等関係がない」状態であり、「国家的な神社」ではなかったのです。
ところが、明治の終わりごろに地方行政と神社行政が結びつくようになると、話は変わってきます。各地の神社が「国家の宗祀」としての実質を備え、小学校の入学・卒業とか、軍隊への入隊や出征などの地域の公的な共同行事の際に、神社参拝が広く実施されるようになっていったのです。ここで初めて、「神社問題」が各地で起きるようになる条件がそろったわけです。実際、「神社問題」の発生が史料的に確認できるのはこの時期以降のことです[新田 2014: pp.184-194]。神社参拝をめぐって、キリスト教徒や真宗関係者などとのあいだに軋轢が生じるという事案も、この時期に初めて見られるようになったものです。
そういうわけで大正期になると、地域によっては神社参拝の強制にあたりそうな事案も見られるようになります。先ほど述べたように、大正4(1915)年に大正天皇の御大礼(即位にともなう儀式)が行われた際には、いくつかの地方行政当局が、家ごとにしめ縄を張り、神棚を設けて、神社参拝を行うよう命じたため、浄土真宗門徒とのあいだに軋轢を生じるという事案が発生しています。
例えば島根県では、真宗門徒が神棚やしめ縄や門松の設置を県民に強制しないよう県内務部長に申し入れています。内務部長は「島根県庁は本願寺の指図は受けない」と言って「顔色を変へて立腹」し、真宗側と激しい論争になりましたが、結局しめ縄や門松の設置などは「各自随意」とすることが認められました。香川県では、町村当局と警官が、しめ縄や門松を真宗寺院にも施すよう命じ、それに逆らうと「非国民として不敬呼ばはり」したうえ「科料に処する」と「威圧」するという事案が起きています。こうした事態に対して西本願寺は、全国の末寺寺院に対して、しめ縄や榊や神棚の設置の強制に従うべきでないという訓示を発し、地方行政当局とも文書による論争を行っています[赤澤 1985: p.54]。
帝国憲法第28条をめぐる政府見解の推移
神社参拝の強制の問題について、別な角度からも見てみましょう。ご存じの方も多いかもしれませんが、大日本帝国憲法第28条には、いわゆる「信教の自由」を条件つきで定めた次のような規定があります。
日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
「近代の日本では、この『臣民タルノ義務』という文言を根拠として、政府が国民に神社参拝を強制した」と言われることがあります。この説がどこまで正しいのかについても検証してみましょう。
まず、帝国憲法が制定された当時の基本的な資料を確認してみましょう。明治21(1888)年6月27日に、枢密院で行われていた帝国憲法の審議の場で、こんな事案が起きています。佐々木高行と鳥尾小弥太が、「大臣や官僚が、信教の自由を規定した条文を盾にとって、皇室祭祀の際に拝礼することを拒否したらどうするのか」と問いただしたのです。これに対して、伊東巳代治と伊藤博文が政府の立場で答弁しているのですが、伊東巳代治はこう発言しています。
官吏タル者ハ必ス宗廟ニ礼拝スヘキ義務アリト云フコトニ就テハ刻下一定ノ規則アルコトナシ。(中略)其事将来ニ係リ未タ逆シメ料ルヘカラサル
伊藤博文もこう答えています。
(引用者注:鳥尾が言うことは)将来国家ノ宗教二対スル政略如何ニ関スルモノナリ人誰カ百年ノ寿ヲ保ツモノアランヤ之ニ処スルハ其時々ノ政治家ノ方寸ニ存スルコトニシテ今弁明ノ限ニアラス。
皇室祭祀の際に礼拝しない大臣や官吏が今すぐ出現するとは思えないし、将来そういう事案が起こったらその時に考えればよいというわけです。伊藤に至っては、「人は100年も生きられないのだから、そんなことはその時々の政治家が考えればいい!」と言い放っています。
一方、政府に対して疑義を呈した佐々木高行も、一般に皇室祭祀の際に礼拝しないことについては、こう言っています。
別段国民ノ義務ヲ守ラサルニモアラス又安寧秩序ニ関係ストモ云フヘカラス之ハ人民一般ニ渉ルニアラス
念のために申し上げておくと、佐々木は神祇官の再再興を主張した人物です。その佐々木が、一般に皇室祭祀への礼拝を拒否することについては、「安寧秩序ヲ妨ケ」たことにも「臣民タルノ義務ニ背」いたことにもならないとみなしているのです(佐々木の主張は、「背いたことにならないからこそ、皇室祭祀の際に第28条を盾に礼拝を拒否する大臣や官僚が出現したら困るではないか」というものです)。鳥尾もこう発言しています。
若シ朝廷祭祀ノ際ニ於テ人民カ礼拝セサルモ別段国体ニ関シ又ハ義務ニ背クト云フヘカラサルヘシ
答弁を行った伊東巳代治と伊藤博文も、佐々木と鳥尾による「臣民の義務」に対する解釈を否定していません。つまり彼らはいずれも、一般の国民が皇室祭祀の際に礼拝を拒否することは文句なく認められると解釈していたわけです。皇室祭祀ですら強制されないのですから、ましてや神社参拝を国民に強制することなど考えられていなかったのです。しつこいようですが、当時の政府は、官国幣社保存金制度によって、伊勢神宮以外のほぼすべての神社をジコセキニンでやっていかせる方針でした。神社は「国家の宗祀」であるというタテマエは完全に空洞化していたし、全国の津々浦々に村の氏神はあっても、政府や地方公共団体と「何等関係がない」状態であり、「国家的な神社」では全くありませんでした。こんな状況で、政府が国民に神社参拝を強制しようとするわけがなかったのです。
それでは、神社が「国家の宗祀」としての実質を備えて地方行政に組み込まれ、いわゆる「神社問題」が各地で起きるようになった大正期には、政府はどのような対応を示していたのでしょうか。当時の内務省神社局長だった塚本清治(1872-1945)は、大正5(1916)年にこう答弁しています。
政府としては神社を崇敬するやうにしたい所からして、これを奨励し指導してゐる、されど政府としては未だ曾て神社の崇敬若くは参拝を強制した事実はない
塚本は、同年の「神社に関する注意」という論文のなかでも、次のように述べています。
敬神は、我国民一般が持つべき精神であり而も宗教の信仰と衝突するものではない、(中略)宗教上の信仰は国民の自由であることは憲法の保障する所でありまして、今更申すに及びませぬが、敬神の念は我国民道徳として日本臣民の持つべき精神である、従つて参拝するといふことは固より之を強制すべきことではありませぬけれども、併ながら此美風は奨励作興すべきことと考へるのであります。
神社崇敬は「非宗教」であり「国民道徳」である。「奨励」はするが、「強制」はしない。これが大正期の政府の基本的な見解だったわけです(ただしこのころになると、先ほど触れたように地方行政のレベルでは、強制にあたりそうな事案も見られるようになるのですが)。
さらに時代が下った昭和初期の内務省神社局の見解を示す資料も見てみましょう。当時の神社局事務官で、國學院大學高等師範部で神社法令の講義を担当していた足立収(1892-1962)という人がいます。この人が、昭和2(1927)年に『神社協会雑誌』に発表した「神社行政の概念」という論文があります。『神社協会雑誌』は、神社局内に事務所を置いていた神社協会が発行していた雑誌です。いわば内務省神社局の広報誌のようなものであり、内容も神社局の意向に沿ったものとなっています。そこで足立は次のように述べています。
神社が宗教であると致しましても日本国民は之を信仰しなければならぬ義務はない。宗教に非ずとすれば憲法第二十八条には関係のないことである。どちらにしても憲法の関係から申しますれば日本国民は神社を信仰しなくても宜しいといふことになつて居ります。けれども日本国民は神社を信仰する義務はないと憲法はいひますが、それでは神社に対してどんな態度をとってもよいのであるかと申しますると、私はさう簡単には考へられないと存じます。
(中略)
寧ろ神社に対して相当な敬礼を表するといふことは日本の国体に対する敬礼と同一であります。詰り日本国家に敬礼することが国民の義務である以上は、国家の宗祀たる神社に対して敬礼することも相当の儀礼であります。(中略)神社に対する個人の関係に於きましては之を信仰するの義務はないかも知れませぬが、相当なる敬礼を表する義務があるといふて憚ぬのであります。其敬礼を表する方法は私はどうでも宜しいと思ふ。神前に於て南無阿弥陀仏と唱へませうとも、アーメンを唱へて拝みませうとも、其形式は信仰の自由に任して宜しい。其手段形式はどちらでも無論差支えないところであります。
「神社に対する個人の関係に於きましては之を信仰するの義務はないかも知れませぬが、相当なる敬礼を表する義務がある」とは確かに言っています。しかし驚くべきことに、敬礼の方法は自由であり、南無阿弥陀仏と唱えてもアーメンと唱えてもいいというのです。いずれにせよ、帝国憲法第28条の「臣民タルノ義務」という文言を根拠にして神社参拝を強制しようとしているとは言えません。
「拒否できない空気」の蔓延――満州事変から敗戦まで
さて、以上のような状況が一変するのは、昭和6(1931)年の満州事変以降です。いくつか例をあげましょう。
昭和4(1929)年以降の世界恐慌によって荒廃した農村を救済するために、政府は農山漁村経済更生運動と呼ばれる対策を国策で実行しました。これは農村の自力更生を促すものでしたが、この運動の過程で自力更生祭が行われたり、運動の中心人物たちが公然と神社に参拝して農村再建を誓うという光景が各地で見られました。
また、昭和10(1935)年に岡田啓介内閣は、各都道府県に選挙粛正委員会を設置し、政党政治の時代に見られた選挙の不正や腐敗を防止しようとしました。これは選挙粛正運動と呼ばれています。この運動においても、全国の神社で一斉に粛正祈願祭を行いました。県によっては粛正委員の辞令を神前で交付したり、投票所の正面に天照大神を祀って投票者が礼拝して投票するようなところもあったようです。
もう一例あげましょう。昭和12(1937)年7月に日華事変(日中戦争)が起きると、近衛文麿内閣は戦時体制を整えるために、国民精神総動員運動を開始します。この運動のなかで、県庁の職員が神社に集団参拝したり、工場従業員の集団参拝が励行されたりしました。また、昭和天皇が靖国神社に参拝する時間にあわせて、全国民が1分間の黙禱祈念をすることも定められました。
このように、満州事変以降の日本では、神社参拝を“拒否できない空気”ができあがっていきます。また、それまで帝国憲法を根拠にした神社参拝の強制を主張していなかった内務省神社局も、昭和10年代になると、「神社崇敬は国民の憲法上の義務である」という見解を示すようになります。当時の神社局事務官だった岡田包義(1900-2000)は、昭和11(1936)年に刊行した『神祇制度大要』で、こう述べています。
若し現存宗教中に教則として神社の崇敬を認めざるものがあれば、憲法第二十八条に所謂「安寧秩序ヲ妨ゲ又臣民タルノ義務ニ背ク」ものとして、当該宗教自体が国憲によつて取り締らるゝ関係に立つのである。(中略)国家が国権によつて神社の信仰乃至崇敬を国民に要求すべき範囲は、其の公的方面に於ける神社の信仰乃至崇敬であつて、私的方面に於ける神社の信仰乃至崇敬は国民の自由に委ぬべきは素より条理上当然のことである。
「公的方面」という限定はついているものの、神社に対する「信仰乃至崇敬」が憲法上の義務として要求されるようになったのです。
また、第74回帝国議会において行われた宗教団体法(この法律をめぐってはいろんな問題があるのですが、本稿では割愛します)の審議において、文部大臣の荒木貞夫(1877-1966)は、神社参拝を拒否する宗教団体や宗教教師は、宗教団体法によって取り締られると明言しました。具体的に言うと、宗教教師については業務を停止し、宗教団体については認可を取り消すことができると定められ(第16条)、それに従わない場合には6ヵ月以下の懲役もしくは禁固、または500円以下の罰金に処すと定められたのです(第26条)。
ただし荒木は、昭和14(1939)年1月26日の貴族院宗教団体法案特別委員会で、こう発言してもいます。
唯神社ヲ参拝シナイト云フコトノミニ対シテト云フヤウナコトデアレバ、是ハモウ制裁ハアリマセ ヌデゴザイマス、(中略)一般ノコトデアレバ、唯特ニ参拝ヲシナイト云フコトデアレバ、制裁ハ無イノデアリマス
神社参拝を拒否する宗教団体や宗教教師は、宗教団体法によって取り締られるが、個人が参拝しなくても法的に罰せられることはないというのです。念のために申し上げておくと、荒木貞夫はかつて皇道派のリーダー的存在だった陸軍軍人です。皇道派というのは、天皇親政による国家改造を目指した陸軍の一派です。驚くべきことに、その荒木が昭和14(1939)年に至っても、国民個人については、神社を参拝しなくても法的に罰せられることはないと言っているわけです。
とはいえ、大日本帝国憲法第28条に定められた信教の自由は、事実上否定されたことになります。以上のように、「神社問題」が各地で起きるようになったり、地方行政のレベルで神社参拝の強制に等しい事案が見られるようになるのは大正時代になってからのことであり、国レベルで神社参拝の事実上の強制が見られるようになるのは、満州事変以降のことです。
神祇院と「官僚神道」
ところで、昭和10年代になって中国大陸での戦線が拡大し、戦時体制が徐々に整備されるようになると、戦勝祈願や兵士の入営・出征の際の神社参拝が、以前にもまして行われるようになっていきます。神社が国民や地域を結びつけるキズナとなることを期待する風潮が強まったわけです。
こうした背景もあって、昭和15(1940)年に内務省神社局が格上げされて、内務省の外局として神祇院が新たに設立されました。神祇院では、それまでの神社局にはなかった新たな管轄職務として、「敬神思想ノ普及」が追加されました。
かつての明治政府は、明治3(1870)年に大教宣布の詔を発して「惟神之大道」を布教するよう命じたり、明治5(1872)年に三条教則を定めるなどして、神道による国民教化を行おうとしました。しかしすでに述べたように、そうした政策は挫折して軌道修正を余儀なくされます。明治15(1882)年には、官国幣社の神官による教導職兼務が禁止され、葬儀と布教が禁止されました。よってそれ以降は、思想や教義の問題が絡んだ「敬神思想」を神社によって普及させて、国民教化を行うという方向性は、長らく途絶えていました。ところがここに至ってついに、「敬神思想ノ普及」が神社行政の管轄事項となったのです(逆に言えば、昭和15(1940)年まで「敬神思想ノ普及」は神社行政の管轄事項だとされていなかったということになるのですが……)。
ともあれ神社局は神祇院に格上げされました。それでは、この神祇院が国民をセンノーして神社崇敬や天皇崇敬を植えつけるための「陰謀」(?)を進めていったのかというと、そんなことはありませんでした。神祇院は、教務局指導課という部署から「敬神思想普及資料」と呼ばれる一連の書籍を出版してはいるのですが、その内容は非常に専門的なもので、一般の国民が理解できるようなものではありませんでした。神祇院が一般の国民向けに、神社の意義や「敬神思想」について解説した『神社本義』という本を出すのは、昭和19(1944)年6月になってからのことです[阪本 1994: p.356]。すでに戦争の敗色が濃くなり、サイパン島が陥落して東条英機内閣が総辞職するころの話です。こんなものよりも、文部省教学局が出した『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などの方が、よっぽど影響力があったと言っていいでしょう。
ついでに言うと、戦時中の昭和17(1942)年12月11日付のこんな史料があります。
天皇陛下に於かせられては、今次の大東亜戦争完遂御祈願の為十二月十二日畏くも神宮に御参拝、御告文を奏し給ふ趣なるを以て、此の際官国幣社以下神社に於ても祭祀を厳修し征戦の目的完遂と国威の宣揚とを祈請するの要あるものと認む。然るに現行法令中斯かる場合に祭祀を執行すべき規定なきを以て、新たに規定を制定した該祭祀を中祭となす為、別紙勅令案を出す。
右閣議を請ふ。
これは昭和17(1942)年12月の話です。真珠湾攻撃からすでに約1年が経過しています。ことここに至っても政府は、戦勝祈願のための祭祀執行を、専断事項として神社に命じることができなかったのです。神祇院は、法令の不備のせいで、戦勝祈願のために神社祭祀を独断で行うことすらもできなかったのです。
なお、これは初めてのことではありませんでした。昭和12(1937)年に始まった日華事変(日中戦争)の際には、政府は法令に規定がなかったため、「支那事変に付、官国幣社以下神社に於て祭祀を行ふ、其の祭祀は之を中祭とす」という勅令を出すことで祭祀を行っていました(勅令第583号)。それから5年以上が経過していたというのに、なんともやる気のないことに、政府は戦勝祈願に関する法整備を進めていなかったわけです。
こんな状況でしたので、戦後にGHQによって公職追放となった神祇院官僚は一人もいませんでした。阪本是丸は、「要するに神祇院はなにもしていなかったのである」と言っています[阪本 1989: p.303]。
「宗教」弾圧の背景
さて、戦前の日本では、「国家神道」とやらによって「宗教」弾圧が行われたと言われることもあります。この説についても検討してみましょう。戦前には、例えば以下のような「宗教」弾圧事件が起きています。
〇第一次大本事件(大正10年)および第二次大本事件(昭和10年)の二度にわたる大本教に対する弾圧
〇ひとのみち教団弾圧事件(昭和11年)
〇ホーリネス教会弾圧事件(昭和17,18年)
〇創価教育学会弾圧事件(昭和18年)
戦前には、当局によってこうした「宗教」弾圧が行われたことはもちろん事実です。しかし、これらが「国家神道」とやらによって引き起こされたという説に実証的な根拠はありません。
こうした弾圧が神職や学校の教師によって行われていたというのであれば、「国家神道」(というのが一体何なのかはよくわからんけれども)によって「宗教」が弾圧されたと一応は言えるかもしれません。ですが、そもそも実際に「宗教」を弾圧していたのは神職でも教師でもなく警察です。よって、これらの「宗教」弾圧が「国家神道」とやらによって行われたと主張するためには、
〇警察がどんな思想や根拠法に基づいて「宗教」弾圧を行ったのか
〇当時の警察の組織や行動はどのようなものであったか
といった問題をきちんと解明する必要があります。ところが、そうした問題を解明して、警察による「宗教」弾圧は「国家神道」によって引き起こされたことを実証的に示してみせた研究は皆無なのです。
戦前の日本において、「宗教」を弾圧するのに最も用いられていたのは警察犯処罰令です。警察犯処罰令第2条の16~19では、以下の行為を行った者は「三十日以下ノ拘留又ハ二十圓以下ノ科料ニ處ス」と定められていました。
十六 人ヲ誑惑セシムヘキ流言浮說又ハ虚報ヲ爲シタル者
十七 妄ニ吉凶禍福ヲ說キ又ハ祈禱、符呪等ヲ爲シ若ハ守禮類ヲ授與シテ人ヲ惑ハシメタル者
十八 病者ニ對シ禁厭、祈禱、符呪等ヲ爲シ又ハ神符號、神水等ヲ與ヘ醫療ヲ妨ケタル者
十九 濫ニ催眠術ヲ施シタル者
つまり、“みだりに”占いや祈祷やおまじないを行って人を惑わしたり、お守りやお札や神水などを与えたりした者などは処罰されるというのです。当時の警察は、これらに該当する者を、正式な裁判を待たずに警察署で簡単に拘留することができました。警察は、「非科学的」だとみなされた文化や、「迷信」だと決めつけられた文化に関わる者を、迅速かつ容易に処罰してしまうことができたのです。これは、近代的な「理性」や「合理」や「啓蒙」を背景にした弾圧です。神道家の葦津珍彦(1909-1992)は、次のように指摘しています。
この新宗教への弾圧を、戦後になって、国家神道の宗教圧迫のやうに論ずる者があるが、それは誤りであらう。警察犯処罰令の思想は、国家神道といふべきものではなく、むしろ啓蒙的科学合理主義である。それは啓蒙的科学合理主義の宗教圧迫とでも称すべきものである。
近年の実証研究は、葦津のこの見解が妥当なものであることを示しています。社会学者の小島伸之(1970-)は、『特高月報』に掲載された1938(昭和13)年の「宗教」弾圧事件の件数を調べると、「呪術迷信」が576件、「無許可教会所等」が311件であるのに対して、「不敬」は9件のみ(!)だと指摘しています[小島 2006: pp.135-136]。戦前の「宗教」弾圧事件の多くは、治安維持法ではなく警察犯処罰令に基づいており、必ずしも神社だの天皇制だのに直接的に関係していたわけではないのです。
また、日本近代法史や憲法を専門とする須賀博志(1970-)は、次のように指摘しています。
神職と警察官の採用・養成システムはまったく異なっていたうえ、神社を監督する内務省神社局と警察を所管する同省警保局とでは人事上のつながりは薄い。また、大本教が取り締まられたのは全体主義的革命運動(右派国家社会主義)に対する体制防衛のためであったし、ひとのみち教団取締りは医療妨害・財物詐取といった同教団の「呪術迷信」性を主に問題にしたものであった。その後の宗教取締りも、「国家神道」と関わる神宮の尊厳冒瀆の嫌疑を中心に検挙された事件はわずかで、立憲君主制や戦時体制・総力戦体制を守るためか、無許可医療行為などの呪術迷信的宗教活動のゆえであり、世俗的性格が基調となっていた。
以上のように、戦前の日本で見られた「宗教」弾圧は「国家神道」とやらによって引き起こされたという説は、実証的な根拠に基づいたものだとは到底言えないわけです。
ポジショントークにまみれた「神社非宗教論」
以上のようなわけですので、「明治政府は、国民に神社参拝を強制しようとした。しかし、国民に特定の『宗教』を強制することは、政教分離や信教の自由に抵触する。そこで明治政府は、神道や神社は『宗教』ではないという詭弁を創作して、『非宗教』だということにして国民に強制した」という俗説が誤りであることは明らかです。
繰り返しになるようですが、「宗教」という未知の概念を手探りで受容していった当時の日本では、「宗教」とは「(キリスト教や仏教のように)教義や教団組織を備え、生前や死後の問題について語り、布教や葬儀などを行うもの」だと“されて”いきました。「宗教」だと“される”ものの範囲は、現代の我々がイメージするような「宗教」の範囲よりも、はるかに狭かったのです。「宗教」という概念は、当時と今とではだいぶ異なっていたのです。
「宗教」という概念自体が当時の人々にとっては未知の新しいものでした。神社は「宗教」ではないと“された”と聞くと現代人は違和感を覚えますが、未知の概念を試行錯誤を通じて受容していった当時の人々の感覚ではおかしなことでもなかったのです。「宗教」という未知の新しい概念を受容していく過程のなかで、それと表裏一体の現象として「神道非宗教論」や「神社非宗教論」も生まれたわけです。我々が「明治期前半に神社は『宗教』ではないとされていたというのはおかしい。誰かが奇妙な詭弁を創作したのだ」などと感じるとすれば、それは我々が“現代的価値観”にとらわれてしまっているからです。
そして、これまでに見てきたように「神道非宗教論」および「神社非宗教論」は、時代時代でその政治的な意味を目まぐるしく変えていった概念です。
このへんで、目まぐるしくてややこしい経緯をちょっとまとめてみましょう。前回触れたように、1878(明治11)年に来日したイギリスの女性旅行家のイザベラ・バードは、「私がこれまでに会ってきた国民のうちで日本人ほど信仰心を欠く国民はいない」「私たちからすると宗教というものの本質をなすものを神道が全く欠いている」と述べていました。西洋からやってきたキリスト教の宣教師にも、神道は「宗教」ではないと主張した人がいました。
日本で「宗教」という新しい概念が創作され受容されていく過程において重要な役割を果たした島地黙雷も、神道は「宗教」ではないと主張しました。伊勢神宮や天照大神については、日本の「国体」に基づく「非宗教」として真宗でも崇敬するが、日本の各地で見られる神社や村の氏神に対する帰依は「未開」であり、「文明開化」の時代にふさわしくない「迷信」だと論じていました。これらの「神道非宗教論」は、キリスト教を強固な基準にして創作された「宗教」という概念をものさしにして、神道は「宗教」ではないと主張したものです。
その後の祭神論争の過程では、神道家や真宗関係者が「神道非宗教論」を主張しましたが、両者の「神道非宗教論」は全く異なっていました。神道家たちの唱えた「神道非宗教論」は、神道は「宗教」ではなく「大教」であり、「宗教」よりも優れたものであるとしたうえで、祭政教一致を主張したものでした。また、当時の神道家たちの多くは、神職と教導職を切り離すべきではないと考えていました。
これに対して真宗関係者が唱えた「神道非宗教論」は、政教分離・祭教分離の立場でした。神道は「非宗教」であるから、神職は布教や葬儀に関与すべきではなく、教導職を廃止して神職を布教や葬儀から切り離すべきだと主張するものでした。真宗関係者が「神道非宗教論」を主張した背景には、葬儀という江戸時代以来の既得権益を守るために、神職を葬儀から締め出そうとする意図もありました。「ワシらのシマを食い荒らすのは許さん」というポジショントークとしての側面をも孕んだものだったのです。二つの「神道非宗教論」は、いずれも神道は「宗教」ではないと主張していること“だけ”は共通していますが、その中身は全く異なっていました。
二つの「神道非宗教論」に直面した政府は、おおむね真宗関係者の主張を受け入れる方向に進み、明治15(1882)年に神職による教導職の兼務が禁止され、官国幣社の神職が布教や葬儀を行うことが禁止されました。多くの神道家たちが主張していた祭政教一致ではなく、政教分離・祭教分離の立場をとって神職と教導職を切り離す方向へ進んだのです。こうして神道界は、「宗教」だと“された”教派神道と、「非宗教」だと“された”神社神道に分化していくことになりました。その後、明治18(1885)年から20(1887)年にかけて「神社改正之件」に基づいて官国幣社保存金制度が成立し、伊勢神宮以外のほぼすべての神社を将来的にジコセキニンでやっていかせることになりました。「最終的には神社と国家との公的関係をなくしてしまおう」とする政策がとられたのです。
以上のような経緯からしても、「明治政府は、神社参拝の強制と信教の自由との矛盾をごまかすために、神道や神社は『宗教』ではないという詭弁を創作して、『非宗教』だということにして国民に強制した」などというストーリーが全く成立しないことは明らかです。政府が「神社非宗教論」を採用したのは事実ですが、それは神社を優遇したり保護したりすることを全く意味していなかったのです。
ところが、明治の終わりごろになると、「最終的には神社と国家との公的関係をなくしてしまおう」とする政策が転換されます。明治39(1906)年に官国幣社保存金制度は廃止され、官国幣社に経費等を公費から永続的に支出し続ける「官国幣社国庫供進金制度」が成立しました。諸社についても、地方公共団体から神饌幣帛料を支出することが可能になりました(「府県社以下神社神饌幣帛料供進制度」)。さらに、神社が地方改良運動を通じて地方行政に組み込まれるようになり、神社は「国家の宗祀」であるというタテマエに内実が備わるようになります。小学校の入学・卒業とか、軍隊への入隊や出征などの地域の公的な共同行事の際に、神社参拝が広く実施されるようになっていったのです。
この時期の政府には、神社は「宗教」ではないというタテマエを強調するような動きが見られます。例えば、先ほど登場してもらった内務省神社局長の塚本清治は、大正5(1916)年に、忠魂碑など墓碑と混同されそうなものを神社の境内に建設することを禁止する措置を徹底するよう呼びかけています[赤澤 1985: p.53]。地域の公的な共同行事の際に、神社参拝が広く実施されるようになった以上、神社に“宗教っぽい”要素が存在していると、信教の自由と抵触するからまずいというわけでしょう。ここに至って「神社非宗教論」は、小学校における神社参拝や、地域によっては神棚やしめ縄の設置や神宮大麻の受け取りなどを強制する論理に転化したと見ることも可能です。
ところが、そうすると各地で「神社問題」が各地で起きてくるようになります。真宗関係者やキリスト教徒が、神社で行われている「宗教」的な要素(布教・葬儀・祈祷・神札・お守りなど)を取り除けと主張し始めたのです。彼らは、神社からそうした要素が取り除かれて「非宗教化」し、単なる“記念碑”のようなものと化すのであれば、参拝するのもやぶさかではないという立場を示していました。「神社非宗教論」が今度は、神社から布教や祈祷や神札やお守りなどの要素を取り除いて、神社を弱体化させ封じ込めるためのリクツとして用いられるようになったわけです。ところが、満州事変以降になるとまた逆転が生じて、「神社非宗教論」が神社参拝を事実上強制するリクツとして用いられるようになったというわけです。
以上のように「神道非宗教論」や「神社非宗教論」は、政府が何らかの特定の目的のために創作したものなどではなく、宗教団体や政治家や官僚などの複雑な利害関係や勢力関係の変化に応じて、時代時代でその政治的な意味を目まぐるしく変えていった概念なのです。これまでに見てきたように、
〇キリスト教のような「宗教」と異なり、八百万の神への帰依は「文明開化」の時代にふさわしくない「迷信」であるという文脈での「神道非宗教論」
〇神道は「宗教」でなく「大教」であり、「宗教」よりも優れたものだという文脈での「神道非宗教論」
〇神道は「非宗教」であるから、神職は布教や葬儀に関与すべきではなく、教導職を廃止して神職を布教や葬儀から切り離すべきだ(ていうか神職は葬儀というワシらのシマに入ってくんな)という文脈での「神道非宗教論」
〇神社から布教や祈祷や神札やお守りなどの要素を取り除いて、神社を弱体化させ封じ込めるためのリクツとしての「神社非宗教論」
〇時代が下ってから出現した、神社参拝を事実上強制するためのリクツとしての「神社非宗教論」
といった具合でして、ミもフタもなく言えば、いろんな政治勢力のポジショントークまみれになって、近代を通じてその内実が政治闘争を通じて変容し続けた概念なわけです。まさしく仏教のことばで言うところのプラパンチャ(ことばの虚構)なのです。
また、前回述べたように20世紀になると、神社は「宗教」であると主張する姉崎宗教学のような新たな「宗教語り」も登場します。明治時代の人々は、「(キリスト教や仏教のように)教義や教団組織を備え、生前や死後の問題について語り、布教や葬儀などを行うもの」だという明治時代前半の考え方に基づいて、神社は「非宗教」だというタテツケで制度設計を行っていきました。ところが20世紀に入ると、今度は神社は「宗教」であるという考え方が勢力を増すようになりました。かくして、政府が神社を行政上「非宗教」として扱っているのはおかしいという主張が登場し、いろんなところで軋轢が生じていくことになります。
ここにあるのは、「宗教」という西洋中心主義的な新しい概念や、「政教分離」や「信教の自由」といった西洋のシステムを否が応でも受容せざるをえなかった近代日本の悲喜劇です。「宗教」とか「政教分離」とか「信教の自由」といった、西洋から輸入された新しい概念や枠組みに基づいてやっていく以上は、仏教であれ神道であれ何であれ、それが「宗教」なのか「非宗教」なのかをゼロかイチかで無理やり“分別”しなければなりませんでした。白黒をはっきり“分別”することを強要され、グレーは許されなかったのです。それが「宗教」なのかどうかで、行政上の扱いや法的な扱いが全く異なってくるからです。「Aは『宗教』である」「Bは『非宗教」である」「Cは……」といった具合に、プラパンチャ(ことばの虚構)を創作していかざるをえなくなってしまったのです。
しかし不幸なことに、「宗教/非宗教」という新しく創作されたものさしは、日本の実情にあっていなかった。「神道は『宗教』なのか否か」「神社は『宗教』なのか否か」という問い自体がそもそもおかしいにもかかわらず、「宗教/非宗教」という新しく創作された土俵にのることを余儀なくされてしまったのです。
「国家神道」という概念の創作
戦前には非常に少数だった「国家神道」の用例
さて、冒頭で申し上げたように村上重良は、戦前の「政治」と「宗教」の関係にまつわる歴史を、「国家神道」というものがどんどん力を強めていく過程として描きました。明治維新から大日本帝国崩壊までの日本には、「国家神道」というものがずっと君臨し続けていたのだ、「国家神道」は時代が後になればなるほど強力になっていったのだ、右肩上がりで直線的に強くなっていったのだという「物語」を描いたわけです。このような単純極まる「物語」が成立しないことは、これまでに述べてきたとおりです。
そうなってくると、このような「物語」はどのようにして成立したのか、そもそも「国家神道」とかいう概念は一体何なのか、「国家神道」という概念は一体どこから出てきたのか、といったことが疑問になってきます。以下では、この問題についても見てみたいと思います。
まず、「国家神道」ということばが一般に用いられるようになるのは、戦後になってからのことです。戦前においては、「国家神道」ということばが用いられた例は(全くないわけではないものの)非常に少数でした。数少ない戦前の用例は、19世紀末ごろから見られるようになります。一例をあげましょう。衆議院議員だった小田貫一(1856-1909)という人がいます(これは本稿とは何の関係もないトリビアですが、岸田文雄前首相はこの人の孫の孫にあたります)。小田は、明治41(1908)年3月2日に第24回帝国議会で次のように発言しています。
十五年ニ於テ、早ヤ既ニ宗教ノ神道国家神道ト云フモノハ明カニ分ッテ居ッタケレドモガ(中略)遂ニ三十三年ニ至リテ、政府モ悟ルトコロアッテ以前ノ社寺局ヲ挙ゲテ神社局ト宗教局トシ、断然其主義ヲ明ニシ、従ッテ神社局ニ於テハ国家神道ナルモノヲ扱ヒ、宗教局ニ於テハ耶蘇、仏法及神道ノ各宗派ニ属スルトコロノ、即チ宗教神道ヲ支配スル、斯ウ云フコトニナッテ居マシテ(後略)
ここで小田が言っているのは、
①明治15(1882)年に神職による教導職の兼務が禁止されて、「非宗教」だと“される”「国家神道」と、「宗教」だと“される”「宗教ノ神道」(教派神道)が区別されるようになった。
②明治33(1900)年には内務省社寺局が、「非宗教」だと“される”「国家神道」を管轄する神社局と、「宗教」だと“される”キリスト教や仏教や宗教神道(教派神道)などを管轄する宗教局に分離された。
ということです。こうした政策を通じて、「非宗教」だと“される”「国家神道」と、「宗教」だと“される”「宗教神道」(教派神道)が制度上区別されるようになった。小田はそのように認識していたわけです。
つまり、ここで小田は「国家神道」ということばを、「国家によって管理され、『非宗教』だと“される”神社神道」「神社神道が国家によって管理された状態」ぐらいの意味で用いているわけです。神社神道とほぼ同じ意味で用いられていると言ってもさしつかえありません。ここでは、「国家神道」ということばは狭い意味の用語として用いられているにすぎません。村上説が言うように、「国家神道」なるものが日本に君臨していて国民の生活意識のすみずみにいたるまで広く深い影響を及ぼしているとか、神社崇敬を強制する巨大なイデオロギーとして機能している、などといった認識は全く見られません(実際、明治時代にはそのような現象は見られなかったことはこれまでに見てきたとおりです)。
加藤玄智と「国家的神道」――終末に見るユメ
それでは、「近代の日本では、『国家神道』というものが国民に大きな影響を及ぼし、神社崇拝を強制する巨大なイデオロギーとして機能していた」というイメージは、一体どのように形成されていったのでしょうか。このようなイメージが創作されていく過程において、大きな役割を果たした重要人物の一人が、宗教学者の加藤玄智(1873-1965)です。加藤は、明治末から昭和にかけて、神道について論じた本を次々に世に送り出していった人物です。
加藤は明治45(1912)年に『我が国体思想の本義』という本を出して、日本では天皇が昔から聖書における神の位置を占めてきたと論じ、この日本人のあり方を「天皇教」と呼びました。天皇を絶対神だと捉えて、“一神教的な”天皇観を創作したのです。
また、大正11(1922)年の『神道の宗教学的新研究』のなかでは、こう言い放っています。
苟も日本人である以上は、生れながらにして、当然神道――国体神道神社神道の信者であり、又必然的に這種の神道信者で無ければならない。換言すれば日本人には、神道――国体神道神社神道の採用不採用の自由、即ち選択の自由はない。
そして、昭和元(1926)年に外国人向けに英文で刊行した“A STUDY OF SHINTŌ, THE RELIGION OF THE JAPANESE NATION”という著作では、「神道」を「宗派神道」(Sectarian Shinto, いわゆる教派神道)と「国家的神道」(State Shinto)に分類し、さらに「国家的神道」を「神社神道」と「国体神道」に分類しました。加藤によれば神社神道は、神道の儀式や神社など目に見える形のある神道のことなのだそうです。これに対して「国体神道」というのは、国家や歴史と結びついた形のない倫理的な教えや道徳的な教えからできており、明治23(1890)年の教育勅語のなかで表現されており、それは現在では全国の学校で教えられているのだそうです。
ここに至って、「日本には神社神道と学校教育を結合した『国家的神道』というものが存在していて、国民に天皇崇拝を植えつける強力なイデオロギー装置として機能している」というイメージが創作されたわけです。しかも、それが英語で日本の「現実」として海外に紹介されてしまったのです。
その後昭和8(1933)年に出した『日本人の国体観念』のなかでは、「教育勅語」「軍人勅諭」「戊申詔書」「帝国憲法」「十七条憲法」「記紀の神代の巻」を「国家的神道」の聖典としてあげています。“A STUDY OF SHINTŌ, THE RELIGION OF THE JAPANESE NATION”でとりあげた「教育勅語」だけでなく、それ以外のいろんな文書も「国家的神道」とやらの聖典に追加していったわけです。
さらに、昭和10(1935)年に出した『神道の再認識』では、こう言っています。
神と皇とを兼ね備へられた日本の天皇に、その皇の方面は認めるけれども、神の方面は我が宗教信仰上、決して之を採用することが出来ないなどと主張する外来の宗教は、仏教たると基督教たると、将又回々教たるとを問はず、何れも皆我が国体に契合せぬものである。(中略)苟も神皇信仰に矛盾するが如き宗教は、其仏たると基たると将又回たるとを問はず、宜しく之を峻拒して、一歩たりとも斯る非国家的宗教は之を日本国家の中に跡を止めさせておいてはならぬ。
天皇を絶対神だと認めない「宗教」は、仏教であろうがキリスト教であろうがイスラームであろうが、日本の「国体」にあわないから日本に存在していてはならない、日本から出ていけと言い放つに至ったわけです。
さて、どうでしょうか。かなり狂信的で極端なことを言う人だと思った方もおられるかもしれません。加藤の主張のなかには、戦後の人々がイメージする「国家神道」という概念の基本的な要素が見られます。これから見ていくように、加藤が描いた「国家的神道」という「物語」が、戦後の「国家神道」という概念の原型になっていくのです。
ここで問題なのは、加藤が提唱した「国家的神道」というのは、当時の日本の状況を正確に記述したものではなかったということです。というのも、加藤は昭和10(1935)年に次のように書いています。
成程学校では、教育勅語を式日に奉読する。然しその教育勅語を降し賜はつた明治天皇は明津神現人神に在す神皇であると云ふことが、どの程度迄生徒に徹底してをつたらうか。又教育勅語中に拝する吾が皇祖皇宗がどの程度迄神皇の義を含むことを生徒に教へられて居たらうか。神皇に在す明治天皇も、神皇に在した皇祖皇宗も、皆単なる人君として、被教育者には伝へられてをつたのである。著者が中学時代の記憶を呼起しても、高等学校や大学の時代を振り返つても見ても、一向神皇の語さへ使用した教師が一人も居られなかつたことを遺憾とする。
我が国明治以来教育界の通弊は、その実証主義、科学万能主義で在り、それに加ふるに、迎合外交と追随教育の弊は、教育勅語に仰せられた皇祖皇宗を解するに、単なる人間としての祖宗、即ち人祖人宗に外ならないものとして、之を解し奉つてをつた。斯く解して自他共に怪まなかつたのである。
つまり、「実証主義」や「科学万能主義」に基づいた明治以降の教育では、天皇は「単なる人君」だと教えられており、加藤が言うような“一神教的な”絶対神だとは教えられていないというのです。加藤は、昭和8(1933)年には次のようにも言っています。
我が国の教育は皆源をこゝ(引用者注:教育勅語や帝国憲法や十七条憲法などの「国家的神道」の聖典)に発し、又こゝに帰着す可きもので、日本の教育の大本は、初等中等教育でも高等教育でも実業教育でも軍隊教育でも、一にその基礎と指導理念とを此に取り来らねばならぬ、換言すれば日本国家の教育は神皇信仰の涵養に帰着するものと謂ふ可きである、(中略)而も翻つて現代思想界の趨勢を達観するに、神皇信仰の涵養が十分その功を奏し得たとは未俄に断言し易からざるものがあるのである、否寧ろ社会の一隅にはその反対な逆風さへ吹き荒んでをると謂はねばならぬ、(中略)今日日本の教育がどれ程迄、その所期の目的を達してをるか、甚疑無きを得ぬのである
注意すべきは、「可きもの」「ねばならぬ」「可きである」「十分その功を奏し得たとは未俄に断言し易からざるものがある」といった表現です。そう。加藤が言う「国家的神道」というのは、当時の日本の「現実」を正確に記述したものではなく、加藤が思い描いた理想が大いに含まれた観念だったのです。平たく言ってしまえば、「ぼくのかんがえたさいきょうの神道」だったのです。ただし、加藤が描いた理想に合致するような現象は戦前には全く見られなかったのかというと、そうとも言えません。先ほど述べたように満州事変以降になると、神社参拝が事実上強制されるようになったり、天皇崇敬のイデオロギーが大きな力を持つようになったり、加藤のようなもの言いが幅を利かせるようになったりといった現象も見られるようになってきます。話がややこしくなる一因はこのあたりの事情にもあるように思われますが、この点はまた後ほど触れたいと思います。
「ぼくのかんがえたさいきょうの神道」から「ぼくのかんがえたさいあくの神道」へ
さて、先ほど述べたように、加藤は外国人向けに英文で書いた“A STUDY OF SHINTO, The Religion of the Japanese nation”という本を出しています。加藤はこの本のなかで、「日本には神社神道と学校教育を結合した『国家的神道』というものが存在していて、天皇崇拝を植えつけるイデオロギー装置として機能している」というイメージを語りました。加藤が描いたこのようなイメージは、海外にも影響を与えていくことになります。
加藤の影響を受けつつ神道を批判的に研究した人物に、ダニエル・クラレンス・ホルトム(1884-1962)がいます。ホルトムはアメリカ出身のプロテスタント(バプテスト派)の宣教師で、来日して教育や研究に携わった人物です。明治聖徳記念学会という学会に所属し、そこで加藤玄智と交流がありました。ホルトムは昭和16年(1941年)に帰国して、戦争中の昭和18(1943)年に“Modern Japan and Shinto nationalism”という本を出しました。この本は、戦後の昭和22(1947)年に改訂版が出て、昭和25(1950)年には『日本と天皇と神道』というタイトルで日本語訳されています。
ホルトムはこの本のなかで、加藤が提唱したState Shinto(「国家的神道」)という概念を受け継いで、次のように言っています(「国家神道」と訳されている箇所は、原文ではState Shinto)。
何人を問わず今日の日本宗教界の支配的な動向を知ろうとするならば、近代の初めたる一八六七年以来信仰を続けて来た国家神道の繁栄が驚くべき上昇をとげたことに、もつとも重要な手がかりを見出さなければならないということを意味するものである。このような情勢は、一八九〇年(明治23年)教育勅語が発布されてから後の五十年間に、絶えず発展を続けて来たものであるが、最近の十年間には、特に大きな刺激を与えられて、全く面目を一新した前代未聞の強力なものとなつた。
一八六八年(明治元年)神道は国教となり、その後は政治上の必要性に基いて、神道は国教にあらずと強力な反対の声明がなされたにもかかわらず、今日までずつと国家宗教の地位を保つている。
ホルトムは、神武東征(神武天皇が日向(現在の宮崎県)を出発して、奈良盆地とその周辺を支配していた長髄彦を滅ぼして、初代天皇になったという神話)についても、こう述べています。
この勅語は日本が祖先の神の意思によつて帝国の領土を無限に拡大し、全世界を支配する使命を担つていることを意味するものだと解釈されているのだ。(中略)日本の国民教育政策というものはこの独特なレツテルの貼られた世界国家主義の注入に重点を置くものと断定して差支ない。(中略)軍の命令には天皇自身の持つ不可侵性が与えられている。学校における一切の教育と軍の一切の理論と実践とは、国民の側におけるそれに相応した絶対服従を確保するようにできているということを、われわれは躊躇なしにいうことができるかも知れない。これが近代日本の根本的な徳性なのである。
ホルトムはこのように、State Shintoというものが当時の日本に存在しており、それは明治初期の政策の延長線上に右肩上がりで発展していったものだという図式を描いて、アメリカに伝えました。State Shintoは「政治」や「教育」や「宗教」といった幅広い領域に浸透しており、学校教育を通じて国民に植えつけられる侵略的なイデオロギーだという見方を示したわけです。
ホルトムは神道に対して批判的な研究者であり、自分が描いたState Shintoを否定的に捉えていました。State Shintoは崩壊するべきものだと考えていたのです。つまりホルトムは、加藤の研究を受け継ぎつつも、加藤が思い描いた「ぼくのかんがえたさいきょうの神道」を「ぼくのかんがえたさいあくの神道」に反転させたうえで、それを昭和10年代の日本に現実に存在するものとして描いたわけです。
加藤説およびホルトム説では、「神道」の範囲が大幅に拡大し肥大化する傾向があります。つまり、「神道」は神社にだけ存在していると考えるのではなく、「神道」の「精神」に関係がありそうな領域とか、天皇に関係がありそうな領域であれば、どこにでも「神道」が見い出される傾向があるわけです。帝国憲法とか教育勅語とか軍人勅諭とか戊申詔書とか聖徳太子の十七条憲法などなど、よく考えると「神道」に含めていいのか疑問があるものも、「神道」というフォルダにぶちこまれる傾向があるわけです。
この傾向は、戦後の「国家神道」という概念にも影響を与えていくことになります。やや先走って言うと、戦後には、“戦前っぽいもの”であれば、「神道」に含めていいのか疑問があるものでも、「国家神道」とかいうフォルダにすごく雑にぶちこまれる傾向が生じたのです(この点は後ほど述べます)。
神道指令――「国家神道」という概念の登場
さて、先ほど申し上げたように、「国家神道」という用語が一般に用いられるようになるのは、戦後になってからのことです。その大きなきっかけとなったのが、昭和20(1945)年12月にGHQが発した神道指令です。GHQは、戦前の日本が「軍国主義」に陥ったのは「神道」に原因があると認識し、この指令によって国家から「神道」の影響を排除しようとしました。国家と神社の関係を規定した戦前のいろんな法令が廃止され、神社は国家に管理された状態を離れて、行政上「非宗教」ではなく「宗教」として扱われることになりました。明治4(1871)年に宣言された神社は「国家の宗祀」だという「国是」は、ついに消滅するに至ったのです。
この神道指令のなかには、「国家神道」ということばが登場します。そのため一般に、神道指令によって「国家神道」が廃止されたと言われています。しかし先ほど述べたように、戦前においては、「国家神道」ということばが用いられた例は(全くないわけではないものの)非常に少数でした。つまり、「国家神道」というのは、ほとんど未知の概念として神道指令のなかに新しく登場したことばなのです。
神道指令を起草した人物の一人に、CIE(民間情報教育局)の宗教部門の担当官(のちに宗教課長、宗教文化資源課長)だったウィリアム・ケネス・バンス(1907-2008)がいます。このとき、東京帝国大学助教授で宗教学者の岸本英夫(1903-1964)が、バンスに対して神道の講義を行っています。岸本は、バンスにホルトムの著書を提供しており、バンスはそれを読んでいます[山口 2018]。そのため、ホルトムの神道観が神道指令に影響を与えることになりました。かくして、戦前には少数の用例しかなかった「国家神道」ということばは、加藤玄智の「国家的神道」→ホルトムのState Shinto→神道指令の「国家神道」という経路で、戦後の日本に新たに出現したわけです。

神道指令では、「国家神道」が次のように定義されています。
本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル
「国家神道」ということばを定義した文のなかに「国家神道」ということばが登場しています。これでは、「机とは、本を読んだり、字を書いたり、仕事をするために使う机のことである」と言っているようなもので、定義として問題ありです。とはいえ、「教派神道から区別され、国家と結びついて、『非宗教』だと“された”神社神道」のことを言っているのだと理解することは一応可能です(それなら「国家神道」などという新しい概念を立てなくても、神社神道で十分なのではなかろうかという感はありますが)。
ところで、神道指令の正確な原題は、Abolition of Governmental Sponsorship, Support, Perpetuation, Control, and Dissemination of State Shinto (Kokka Shinto, Jinja Shinto)であり、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」と訳されました。ここでは、State Shinto (Kokka Shinto, Jinja Shinto)という文言が、「国家神道、神社神道」と訳されています。State ShintoとKokka Shintoがどう違うのかはっきりしていないし、「国家神道」と「神社神道」の関係がどうなっておるのかもはっきりしないのです。
神道指令が言う「国家神道」という概念の問題点は、これだけではありません。というのも、神道指令には次のような一節があるのです。
本指令ノ各条項ハ同ジ効力ヲ以テ神道ニ関連スルアラユル祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教ヘ、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴ニ適用サレルモノデアル
神道指令は「神道」に関連するあらゆる「祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教ヘ、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴」に適用されるのだというのです。実際に神道指令では、国家による神社管理を廃止しただけではなく、以下の事項もまとめて禁止されました。
〇「軍国主義的乃至過激ナル国家主義的『イデオロギー』」を宣伝したり流布したりすること
〇戦前に文部省がつくった『国体の本義』や『臣民の道』などの書籍の頒布
〇公文書で「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの用語を使用すること
先ほど述べたように、神道指令の正式名称は、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」です。ということは、神道指令によって禁止されたり「廃止」されたりするものであればすべて、「国家神道」とやらに含まれると解釈することも可能です。よって「国家神道」という概念には、神社神道だけではなく、「軍国主義」や「過激ナル国家主義」といったイデオロギーであるとか、『国体の本義』のような文書などなど、広い範囲の事象も含まれるとも解釈しうることになります。
しかし、そもそもこういった事象が「神道」に含まれると言えるのかというと、疑問があります。例えば、あまり知られていませんが『国体の本義』は、仏教のいろんな宗派に言及したうえで、こんなことを言っています。
我が国は大乗相応の地とせられて、仏教を今日にあらしめたのであり、国民的な在り方、性格が自ら顕現してゐる。かくの如く同化せられた仏教が、我が文化を豊富にし、ものの見方に深さを与へ、思索を訓練し、よく国民生活に浸透し、又国民精神を鼓舞してゐるのであつて、彼岸会・盂蘭盆会の如き崇祖に関連する行事をも生ずるに至つた。
さらに、こんな驚くべき一節すらあります。
今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展をなし遂げた。(中略)現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。
驚く方もおられるかもしれませんが、昭和12(1937)年に文部省によって出された『国体の本義』が説く「国体」ですら、神道だけで成り立っていたわけではなかったのです。これを「神道」というフォルダに無理やりぶちこんでいいのかというと、はなはだ疑問なわけです。
先ほど私は、加藤=ホルトム説では、神道の範囲が大幅に拡大し肥大化する傾向があると言いました(加藤説では、軍人勅諭とか戊申詔書とか帝国憲法とか聖徳太子の十七条憲法などなど、よく考えると「神道」に含めていいのか疑問があるものも「神道」に含まれている)。加藤=ホルトム説を受け継いだ神道指令の「国家神道」という概念も、「神道」の範囲が大きく肥大化する傾向を受け継いでいるわけです。
ともあれ以上のように、神道指令に見られる「国家神道」という概念は、いろんな混乱をはらんでいました。未知の用語が登場したテキストがこのありさまでは、正確に理解しようとしても「無理があろうと思われます」と言わざるをえないでしょう(なお山口輝臣は、「国家神道は、その登場とともに廃止された」とミもフタもなく言っています[小倉・山口 2018: p.309])。
とりあえずここで重要なのは、神道指令で新しく登場した「国家神道」という概念は、狭い意味にもとれるし、広い意味にも解釈できるという混乱を含んでいたということです。
先ほど見たように神道指令には、「国家神道」を「教派神道から区別され、国家と結びついて、『非宗教』だと“された”神社神道」ぐらいの狭い意味で定義した箇所がありました。ところが神道指令の正式名称は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」だったうえに、「神道」に関連するあらゆる「祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教ヘ、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴」に適用されるとの文言もあって、「軍国主義」や「過激ナル国家主義」といったイデオロギーであるとか、『国体の本義』のような文書などなどもまとめて禁止されたのです。そのため「国家神道」という概念は、神社とは文脈が異なるいろんな要素とか、本当に「神道」に含めていいのか疑問もある様々な事象も含めた、非常に範囲の広い概念だと解釈することも可能だったのです。狭い意味にもとれるし、広い意味にも解釈できるという曖昧さは、その後の議論に混乱をもたらしていくことになりました。
さて、以上のようにして、戦前は非常に少数の用例しかなかった「国家神道」ということばは、ともかくも戦後の日本に登場しました。しかし、この「国家神道」という概念がすぐに広く受け入れられていったのかというとそうでもなく、概念の退潮とでも言うべき現象が生じたようです。
新聞記事や各種データベースの示すところによれば、おおよそ占領期の途中あたりから、「国家神道」の用例は疎らになっていく。それぞれのデータベースの癖にかかわらず、ほぼ同じ傾向を示していることするからすると、神道指令のあとに「国家神道」の退潮とでもいうべき現象があったことは認めてよいものと思われる。
「国家神道」という概念が登場したはいいものの、その用例は少なくなっていく傾向を示したというのです。意外に思う方もおられるかもしれませんが、そう不思議なことでもありません。というのも、これまでに述べてきたようないろんな問題があったものの、「国家神道」は神道指令によって「廃止」されたことに一応はなったからです。ともかくも「廃止」され消滅したことになった以上は、もう終わった過去の話として人々の関心を引かなくなったとしても、そうおかしなことではありません。
「国家神道」概念の「再創造」と「公定」
それでは「国家神道」という概念はそのまま風化し忘れられていったのかというと、そうはなりませんでした。山口輝臣は、「国家神道」はその後「再創造」され「公定」されていったと述べています[山口 2018: pp.182-188]。「国家神道」は、戦後に新たに創作しなおされていった「物語」なのです。察しのいい方はもうお気づきかもしれません。「国家神道」という「物語」が新たに再創造されていく過程に関与したのが、今回の冒頭で登場してもらった藤谷俊雄や村上重良といった学者たちなのです。特に村上説は、広い範囲に影響を与えていくことになりました。
藤谷説と「国家神道」概念の時間的・空間的膨張
まず藤谷説を見てみましょう。藤谷はマルクス主義の立場をとる歴史研究者でした。彼はその立場から、1959年に次のように述べています。
日本の国家神道は十九世紀後半の国際国内情勢のもとで、絶対主義天皇制を支える宗教的思想的イデオロギーとして、支配者たちによって組織されたものである(中略)たび重なる侵略戦争の勝利は天皇を祭主とする国家神道に対する支持を一層強めることになり、天皇制ファシズム化の有力な推進力の一つとなった。
ここには、ホルトムや神道指令が描いたイメージが継承されていますが、藤谷は単にこれまでに描かれてきたイメージをそのまま受け継いだわけではありません。藤谷説では、「国家神道」の範囲が今まで以上に膨張し肥大化しているのです。というのも、藤谷によれば、「国家神道」の構成要素には以下のものも含まれているというのです。
〇天皇による宮中祭祀
〇明治15年の神官・教導職の兼務禁止
〇帝国憲法
〇教育勅語
これらは、神道指令には登場しない要素です。神道指令にはなかった要素が新たに追加されて、「国家神道」という概念がさらに肥大化することになったのです。
また藤谷は、幕末に孝明天皇が攘夷祈願を行ったことや、神祇官再興運動がおこったことを「国家神道の復活」と呼んでいます[藤谷 1953: p.257]。藤谷によれば、「国家神道」は幕末からあったということになるのでしょう。このように藤谷説では、「国家神道」の範囲が時間的にも空間的にもさらにふくれあがる傾向を示したのです。
村上説と「国家神道」概念の「再創造」
次に、村上重良の説を見てみましょう。村上は日本共産党の党員で(のちに除名)、藤谷と同じくマルクス主義の強い影響のもとに研究を行っていった人物です。繰り返しになりますが村上は、1970年に出した『国家神道』(岩波新書)という本のなかで、明治時代前半から大日本帝国崩壊までの期間においては、どの時期にも「国家神道」というものがずっと君臨し続けていて、右肩上がりの発展を続けていたというイメージを描きました。そして村上によれば、「国家神道」というものを構成する要素は神社だけではなく、「天皇制イデオロギー」・「皇室神道」(宮中祭祀)・帝国憲法・教育勅語・治安維持法・宗教団体法・「侵略の教義」・「国体の教義」・靖国神社・神社参拝強制・宗教弾圧なども含まれるのだそうです。もはや神道指令の文言にとらわれることなく、いろいろな要素を「国家神道」というハコにぶちこんだのです。
ここで問題にしてみたいのは、このようにいろいろな要素を含んだ「国家神道」像を村上がつくりあげていった過程です。村上は1970年に出した『国家神道』のなかでは、「国家神道」を「神社神道と皇室神道を直結して形成された特異な民族宗教」だと定義していました。村上は、この本を世に出す以前から、宗教学者の立場で「国家神道」に言及していていたのですが、実はある時期までは「国家神道」に「皇室神道」(宮中祭祀)という要素を含めておらず、1960年代には「国家神道」を神社を中心にとらえていました。実際に60年代ごろの村上の著作にあたると、「国家神道(神社神道)」[村上 1960: p.62]、「国家の祭祀である神社神道」[村上 1968: p.58]、「国家神道(神社神道)」[村上 1969: p.186]といった記述があります。村上はある時期まで「国家神道」という概念を神社神道を中心にとらえており、「皇室神道」(宮中祭祀)に言及していなかったのです。近代日本思想史を専門とする昆野伸幸(1973-)によれば、村上が宮中祭祀を構成要素に含めた「国家神道」観を提示するのは、1966年が初めてだそうです。[山口 2018: p.80]
また、村上は「国家神道」の構成要素の一つとして「国体の教義」とやらをあげています。村上によれば、「国体の教義」は帝国憲法と教育勅語によって思想的に確立し、学校教育によって普及徹底が図られ、靖国神社は「国体の教義」の重要な支柱となったのだそうです。ところが、昆野によれば、村上が「国体の教義」という用語を最初に用いたのは1969年になってからのようです。しかも、その「国体の教義」とやらについてまとまった説明をしているのは、1970年の『国家神道』が初めてだったりします[山口 2018: p.82]。
このように村上は、時代が下るにつれて様々な事象を「国家神道」というフォルダに次々に放り込んで、「国家神道」という概念を肥大化させていきました。村上がなぜそのような方向に進んだのかというと、彼がみずから新たに史料にあたるなどして、研究を進めていった結果そうなったというわけではありませんでした。ここには、当時の政治状況が絡んでいたのです。
どういうことなのか説明しましょう。村上が自身の「国家神道」論をつくりあげていった60年代後半は、政治の世界で次のような動きが見られた時代でした。
①靖国神社国家護持運動が盛り上がった。
②中央教育審議会が、「期待される人間像」を発表した(1966年)。
③1966年に祝日法が改正されて「建国記念の日」が祝日に加えられた。「建国記念の日」は政令によって2月11日と定められて翌1967年から適用され、紀元節が実質的に復活した。
④「明治百年」を記念する動きが見られた。
まず①について。靖国神社は戦後の占領政策によって国家管理を離れて、一宗教法人として存続することになりました。当時、靖国神社に合祀されていない戦没者が数多くおり、合祀には多額の費用が必要でした。そのため、いわゆる55年体制の成立前後には、自由党や民主党(1955年の合同以降は自民党)の国会議員が、合祀費用の不足に苦しむ靖国神社に国費を支出するよう政府に求めたのに対して、政府側が政教分離の原則があるからそれはできないと答弁する、という光景が何度も見られました。
こうした背景のもとで、政教分離の原則を乗り越えるために靖国神社を宗教法人から脱却させて、国家管理すべきだという主張が台頭してくることになります。戦後に設立された戦没者遺族の全国組織である日本遺族会は、国が靖国神社を護持するよう求める運動を展開し、1966年には靖国神社国家護持を嘆願する署名を2000万筆以上集めました。その後1969年から1974年にかけて、自民党議員によって靖国神社を国家管理することを定めた靖国神社法案が5回に渡って国会に提出されました。しかし、法案はすべて廃案となって靖国神社法案は挫折し、運動は沈静化していきました。
次に②について。中央教育審議会というのは、文部大臣の諮問機関として戦後に文部省内に設置された組織です。中央教育審議会は1966年に、「期待される人間像」という文書を発表し、教育を通じて育成すべき人間像を示しました。この「期待される人間像」は、「天皇への敬愛の念」や「日本国への敬愛の念」をもつことを「青年」に対して求めていました。
次に③について。戦前には2月11日は、初代天皇とされる神武天皇が即位した日だとされ、「紀元節」という祭日でした。戦後に占領下で廃止されたのですが、1966年に祝日法が改正されて「建国記念の日」が祝日に加えられ、政令によって2月11日と定められて翌1967年から適用されました。紀元節が実質的に復活したわけです。
最後に④について。1966年に「明治百年を記念するため、国家的行事として、明治百年記念行事を実施すること」が閣議で了解され、明治百年記念準備会議が設置されました。この準備会議での審議を経て、1968年に記念式典を行うことや、各種の行事や事業を行うことが計画されました。
社会党や共産党などの左派陣営は、以上のような動きを、日本を戦前に回帰させようとするものだとみなして攻撃しました。靖国神社護持運動に対しては、社会党や共産党だけでなく、仏教やキリスト教や教派神道や「新宗教」の関係者が、従来の枠を超えた大規模な反対運動を展開しました。あたかも、大正時代以降の「神社問題」が再燃したかのような状況になったのです。
共産党員だった村上重良も、以上のような動きに危機感を募らせ、「国家神道」を復活させようとする企てだ、などと言って批判する運動に関わっていきました。そして、村上が様々な要素を「国家神道」というフォルダに放り込んで、「国家神道」という概念を肥大化させていくのはまさにこの時期なのです。先ほど述べたように昆野伸幸によれば、村上が「国家神道」の構成要素に宮中祭祀を含める見方を初めて示したのは、1966年のようです。この時期は、祝日法が改正されて、村上が紀元節復活に危機感を募らせていた時期にあたります。
村上が「国家神道」の構成要素としての皇室神道(宮中祭祀)に注目するようなる契機は、一九六六年に「建国記念の日」が祝日とされ、実質的に戦前の紀元節祭(宮中の大祭の一つ)が復活されつつある時勢にこそ求められる。
また、先ほど述べたように昆野によれば、村上が「国家神道」の構成要素として「国体の教義」とやらをあげるようになるのは1969年が初めてであり、その「国体の教義」についてまとまった説明をしたのは1970年に出した『国家神道』が初めてです。村上は『国家神道』のなかで、「国体の教義」には、帝国憲法・教育勅語・学校教育・靖国神社での慰霊及び顕彰などが含まれるという見方を提示してるのですが、昆野はこの点について、ミもフタもなく次のように指摘しています。
「国家神道」は宗教だという村上は、それに伴って、宗教の構成要素として「国家神道」の教義を明確に示す必要が生じ、それを「国体の教義」と表現した。(中略)『国家神道』における「国家神道」が、神社神道のみならず、宮中祭祀との結合や「国体の教義」といった要素を重視する広義にわたる概念であるのは、靖国神社国家護持運動の盛り上がり、紀元節復活(一九六七年)、「明治百年」記念(一九六八年)、小学校学習指導要領改訂(一九六八年)という、戦後最大ともいえる反動攻勢を一括して把握し、それに対抗せんとする村上の問題意識が「国家神道」に投影されて形成されたからである。
つまり、村上は先ほど見た①~④のような動きに対抗するために、そうした動きの起源だとみなした帝国憲法・教育勅語・学校教育・靖国神社での慰霊及び顕彰などといった要素を幅広く組み込んで、「国家神道」という概念を「再創造」していったというわけです。村上の「国家神道」論は、みずから新たに史料にあたるなどして研究を進めていった結果として提示されたのではなく、当時の政治状況に対する危機意識を投影して形成されていったのです。
村上の戦略は、かれの「敵」を、「国家神道」を復活させようとする企てであるとして否定するというものだった。その際の「敵」は靖国神社国家護持を目指す人びとに限定されず、ほかの「反動」ないし「逆コース」の諸運動も同根のものと見做していた。そのため、「敵」のなかにあるさまざまな主張に対応する必要が生じ、それを介して「国家神道」は肥大化した。(中略)効果のほどは、『国家神道』を、そこでの村上の論拠がなにかを気にして読んでみれば、明らかになる。自身のこれまでの研究や、新たに史料にあたるなどして立ち上げた箇所は、驚くほど少ない。
このように、村上が語る「国家神道」という概念は、当時の政治状況に対する彼の危機感を投影する形であわてて創作されていきました。あわてて創作されたせいか、『国家神道』を注意深く読んでみると、例えば次のような矛盾が見られます。
これまでに見てきたように村上は、『国家神道』を出版する直前になって初めて、「国家神道」には「国体の教義」や「侵略の教義」といった要素が含まれると言い始めました。『国家神道』にもそのように書いてあります。ところがその一方で村上は、「国家神道」を「宗教としての中身を欠いた形式的な国家宗教」だとしたうえで、こう述べています。
中身のない国教は、教義をもたず、宗教ではない国家祭祀というたてまえで、政治的にきわめて有効な機能を獲得した。(中略)国家権力は、その時々の政治的必要に応じて、惟神の道に、フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことができたからである。
一方で「国家神道」には「国体の教義」や「侵略の教義」といった要素が含まれると言ったかと思えば、他方では教義をもたないから「フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことができた」とも言っているのです。教義があるのかないのか一体どっちなんじゃいという感じであります。
なお、我々は「国家神道」ということばを聞くと、漠然と靖国神社をイメージしたりします。しかし、靖国神社を「国家神道」とやらの象徴のように語る言説は、戦後しばらくはほとんど存在しませんでした。靖国神社が「国家神道」とやらの象徴であるかのように語られるようになるのは、これまでに見てきた50年代から70年代にかけての政治闘争を経て、初めて起きてきたことだったりします[山口 2018: p.184]。
そもそも近代の日本では、靖国神社は行政上、他の神社とは別個に扱われ、陸海軍省によって管轄されてきました。そういうこともあって戦前には、内務省・陸軍省・海軍省・台湾総督府・朝鮮総督府・樺太庁がそれぞれ別々に管轄している神社行政を統一しようとする動きが、議会や政府内部で見られたこともあります。ところが、陸海軍省は大正8(1919)年に、靖国神社は「全ク他ノ神社ト其ノ由緒ヲ異ニ」していることなどを理由に、それを断固として拒否しています(防衛庁防衛研究所所蔵『陸軍省大日記類』大日記甲輯「神祇ニ関スル特別官衙設置ニ関する件」)。つまり、そこに統一的な神社行政は存在していなかったわけです。
ところが、これまでに見てきた経緯によって、“戦前っぽい”いろんなものが「国家神道」というフォルダに放り込まれるようになります。靖国神社にしても、よくよく考えると内務省神社局による神社行政と別枠で扱われていたわけで、安直に同じフォルダに入れていいのかは疑問です。ところが“戦前っぽい”ということで、“同じようなもの”として雑に同じフォルダに放り込まれた。「国家神道」という概念は、こうした操作によって雪だるま式に膨張していったわけです。ともあれ、我々は「国家神道」と聞くと反射的に靖国神社を思い浮かべたりしますが、これは50年代から70年代にかけて、政治闘争を通じて新たに創作されていったできたてほやほやのイメージにすぎないのです。
「国家神道」概念の「公定」
ともあれ、以上のようにして「国家神道」という概念には、“戦前っぽい”とみなされたいろんな要素が雑にぶちこまれて、その範囲は神道指令の文言を離れて肥大化しました。「国家神道」という概念は、戦後に「再創造」されたわけです。そして、このようにして「再創造」された「国家神道」が、先ほど触れたように「公定」されます。どういうことかというと、村上が描いた「国家神道」像が、最高裁判所のお墨つきを得てしまうのです。
1965年に三重県の津市で市民体育館が建設された際に、津市は体育館の起工にあたって、神道式の地鎮祭を主催しました。これに対して、市議会議員で共産党員の関口精一(1915-2003)が、国等の宗教的活動を禁じた憲法に違反すると主張し、住民訴訟を起こしました。この事案は津地鎮祭訴訟と呼ばれています。この訴訟は当初はほとんど注目されていませんでした。ところが、靖国神社法案の国会提出が視野に入ってくると、靖国問題の戦線の一つのようになっていき、社会党や共産党や労働組合や「宗教」関係者の支援を受けるようになっていきました。村上は、原告側の支援活動に深く関与し、支援集会でもたびたび講演を行いました。
ご存じの方も多いかもしれませんが、1977年の最高裁判決では、津市による地鎮祭の執行は一応合憲と認められました。地鎮祭を合憲とする裁判官が10名、違憲とする裁判官が5名で、違憲とする裁判官5名は共同反対意見を執筆しました。判決には、「政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ」、そのかかわりあいが「相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである」とあります(これは目的効果基準と呼ばれています)。
ここで見てみたいのは、共同反対意見と、判決の「理由」で語られている歴史像です。まず、地鎮祭を違憲とした5名の裁判官の共同反対意見には、こうあります。
明治元年(1868年)、新政府は、祭政一致を布告し、神祇官を再興し、全国の神社・神職を新政府の直接支配下に組み入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連のいわゆる神仏判然令をもつて神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、仏教に打撃を与え、他方、キリスト教に対しては、幕府の方針をほとんどそのまま受け継ぎ、これを禁圧した。明治3年(1870年)、大教宣布の詔によつて神ながらの道が宣布され、同5年(1872年)、教部省は、教導職に対し三条の教則(「第1条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事 第2条 天理人道ヲ明ニスヘキ事 第3条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」)を達し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思想の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。また、明治4年(1871年)、政府は、神社は国家の宗祀であり一人一家の私有にすべきでないとし(太政官布告第234号)、更に、「官社以下定額及神官職員規則等」(太政官布告第235号)により、伊勢神宮を別として、神社を官社(官幣社、国幣社)、諸社(府社、藩社、県社、郷社)に分ける社格制度を定め、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。明治8年(1875年)、政府は、神仏各宗合同の布教を差し止め各自布教するよう達し、神仏各宗に信仰の自由を容認する旨を口達しながら、明治15年(1882年)、神官の教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとする旨の達(内務省達乙第4号、丁第1号)を発し、神社神道を祭祀に専念させることによつて宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する国家神道の体制を固めた。明治22年(1889年)、旧憲法が発布され、その28条は信教の自由を保障していたものの、その保障は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限を伴つていたばかりでなく、法制上は国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、上述のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立しており、神社を崇奉敬戴すべきは国民の義務であるとされていたために、極めて不完全なものであることを免れなかつた。更に、明治39年法律第24号「官国幣社経費ニ関スル法律」により、官国幣社の経費を国庫の負担とすることが、また、同年勅令第96号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」により、府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とすることが定められ、ここに神社は国又は地方公共団体と財政的にも完全に結びつくに至つた。このようにして、昭和20年(1945年)の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。その間に、大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、厳しい取締・禁圧を受け、各宗教は国家神道を中心とする国体観念と矛盾しない限度でその地位を認められたにすぎなかつた。そして、神社参拝等が事実上強制され、旧憲法で保障された信教の自由は著しく侵害されたばかりでなく、国家神道は、いわゆる軍国主義の精神的基盤ともなつていた。
ここには、村上重良が『国家神道』で示した歴史像がコピペされています。近代の日本では「国家神道」とやらが、明治維新から敗戦まで右肩上がりで発展を続けてきたという歴史像が示されているわけです。本稿をここまで読んでくださった方は、ここには「現在の研究水準から見れば問題がある箇所」「現在の研究水準から見れば明らかに事実に反する箇所」「主に満州事変以降になって見られるようになった現象を、明治初期から一貫して見られた現象であるかのように述べている箇所」が散見されることにお気づきでしょう(太字の箇所がそれにあたります)。
ここには、明治12(1879)年の太政官達第45号によって府県社以下の神職の等級が廃止され、全神社の99%以上を占める諸社が、仏教寺院と同様に扱われるようになったということは書かれていません。「神社改正之件」に基づいて明治20(1887)年に官国幣社保存金制度が始まり、伊勢神宮以外のほぼすべての神社を近い将来に独立自営させることにしたということも書かれていません。伊藤博文が明治21(1888)年に枢密院で憲法審議を開会するにあたって、仏教も神道もよわよわだから皇室を機軸にしてやっていくしかねぇと宣言したことも書かれていません。いわゆる「神社問題」は、明治の終わりごろになって、地方改良運動を通じて地方行政と神社行政が結びつくようになってはじめて見られるようになった現象だということも、書かれていません。戦前の「新宗教」弾圧が「国家神道」とやらのせいで起こったという説には実証的な根拠がなく、主に警察犯処罰令によって引き起こされたものだということも、もちろん書かれていません。
また、判決の「理由」にはこうあります。
わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(28条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。(中略)昭和21年11月3日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。
「国家神道」に対する「信仰が強制され」たのではなく「要請され」たとなっており、表現がいささかマイルドになったりしていますが、基本的な趣旨は共同反対意見と同様です(繰り返しになりますが、太字は現在の研究水準から見れば問題がある箇所です)。
ともあれ、こうして村上が描いた歴史像は、最高裁判決のなかに収まってしまいました。最高裁のお墨つきを得てしまったわけです。とはいえ言うまでもないことですが、この判決が描いた歴史像に権威を認める必要も、それに従う必要も全くありません。裁判官は法律の専門家ではあっても、「宗教」や神道や歴史については素人にすぎないからです。この判決から直接的な影響を受けるとすれば、法曹界や憲法学界隈ぐらいでしょう。
津地鎮祭訴訟は、法学に少しでも触れたことがある人なら誰でも知っているような事案ですし、最高裁判決で示された目的効果基準なども有名です。公務員試験や資格試験などでも出題されますし、実際に最高裁判決を読んだことがあるという人も多いでしょう。しかし、最高裁判決を読んだことがある人は多くても、そこで示された歴史像を支持する専門家がほとんどいなくなっている[山口 2018: p.188]ことは、一般にはまだまだ知られていません。最近になっても、村上説をコピペしたようなもの言いが本屋や図書館やいんたあねっとなどで散見されるのは、以上のような事情も影響しています。
歴史学者の平山昇(1977-)は、次のように指摘しています(非常に重要な指摘だと思われます)。
従来の「国家神道」像とは、明治期から昭和戦時期までの帝国日本において、仏教やキリスト教など諸宗教のうえに「皇室+神社」が君臨し、このセットを崇敬することが強制され、従わない者たちは抑圧されたという歴史像である。だが、このような「国家神道」像は、靖国問題や政教分離裁判など戦後史の過程で形成されたものであり、近年の実証研究の蓄積をふまえれば妥当な歴史像ではないとする見方が現在の歴史学・神道史・宗教史の学界で共有されるようになっている。筆者もまたその一人である。昭和戦前・戦中期において、皇民化政策にともなう神社参拝強制のように「皇室+神社」の崇敬を臣民として当然の義務と見なす風潮が帝国日本に蔓延したということは、間違いのないことである。では、「国家神道」像の何が問題なのかといえば、明治期から昭和戦時期までを一直線的にとらえてしまい、そのあいだに「皇室+神社」の関係をめぐって重大な変化が生じていたことを見えにくくしてしまったということである。昭和戦時期の抑圧状況を過去遡及的に明治期にまでストレイトに投影してしまったと言ってもよいだろう。
(中略)
だが、現在の研究水準に照らせば、上記のような直線的理解はもはや妥当ではない。維新期の祭政一致の理想は挫折したし、廃仏毀釈は実情としては地域差が大きく、全国一律で吹き荒れたわけではなかった。昭和戦時期に植民地で神社参拝の強制があったのは事実だが、維新期の神道による国民教化の延長上にこれを位置づけるのは今日の実証レヴェルに照らせばとうてい不可能である。神道・宗教にかぎらず、維新期の諸政策は試行錯誤と紆余曲折の重なり合いのなかで展開したのであり、初発の方針がその後もずっと近代日本を決定的に支配したという単純で一直線的な理解はおよそ成り立たない。ましてや「維新期と昭和戦前期を直結させるような議論などは言語道断である」。
ここで指摘されている「「皇室+神社」の関係をめぐって重大な変化が生じていた」というのが、具体的にどういうことなのか気になった方もおられるかもしれません。この問題については、次回詳しく述べてみたいと思います。
村上重良以降の「国家神道」研究
「広義の国家神道」論とその周辺
さてその後、村上説に対しては、実際に史料に目を通した研究者から疑問が呈されるようになっていきました。例えば、歴史学者の中島三千男(1944-)は、村上説を再構築しようと試みました。中島は、藤谷や村上と同じくマルクス主義に依拠する歴史学者でしたが、村上が描いた図式に批判を加えたのです。中島は、神社神道とそれ以外の諸宗教とのバランスが「国家神道体制」の基本構造だとしたうえで、「国家神道体制」が確立するまでの過程を以下の5つの時期に区分しました。
第1期 1868~1872年 狭い意味での「神道国教化政策」期
第2期 1872~1875年 「総括的皇道主義」期
第3期 1875~1881年 神道国教化政策の崩壊期
第4期 1881~1894年 「国家神道体制」の成立期
第5期 1894~1912年 「国家神道体制」の確立期
中島は、第3期を「神道国教化政策の崩壊期」と位置づけ、この時期には神社行政の「放任状況」が出現したと主張しました。「国家及び地方庁が神社神道を単なる一つの宗教として位置づけて、特別な関係を持たないようにしていく」状況が出現したというのです[中島 1977a : p.169]。
また、「神社改正之件」に基づいて官国幣社保存金制度が成立したことにも言及したうえで、帝国憲法や教育勅語が世に出た明治20年代前半に「国家神道体制」が成立したという説にも疑問を呈しました。村上説と異なり、明治時代前半には神社政策が不活発になり、国家と神社の距離が遠のいた時期があったことを認めたわけです。そのうえで、「神社改正之件」の構想が日清・日露戦争を経て崩壊していったことで、「国家神道体制」が確立したと論じました。
このように中島は、「明治維新以降、『国家神道』が右肩上がりで発展していった」とする村上説を再構築し、「国家神道」が確立した時期を明治後期に置いたわけです。なお、村上は満州事変以降の時期を「ファシズム的国教期」と呼んで、この時期に「国家神道」が絶頂期を迎えたと論じましたが、中島はこの時期に「国家神道」は崩壊していったと論じました。神社神道とそれ以外の諸宗教とのバランスが「国家神道体制」の基本構造だと考える中島は、満州事変以降から終戦までを、「国家神道体制」に言わば「異常」が生じて崩壊していった時期だと捉えたのです。
また、歴史学者の安丸良夫(1934-2016)は、1979年に『神々の明治維新』(岩波新書)という本を出して、村上や中島による「国家神道体制」という分析の枠組みを放棄し、「日本型政教分離」という枠組みを提示しました。安丸は、明治時代前半に「国家のイデオロギー的要請にたいして、各宗派がみずから有効性を証明してみせる自由競争」が行われるようになったとして、それを「日本型政教分離」と呼びました[安丸 1979: pp.208-209]。安丸によれば、この「日本型政教分離」の体制は、明治15(1882)年の神官の教導職兼務の禁止によって決定的になったそうです。安丸は、国家による支配よりもむしろ、国家の要請に自ら進んで応えようとする各宗派の姿勢に着目したわけです。
安丸によれば、「国家神道」は明治初期の「神道国教化政策」が挫折し、神社が祭祀の領域まで退くことで成立したものなのだそうです。安丸の見方でいくと、「国家神道」は村上が言うように「諸宗教」の上に君臨していたのではなく、挫折によって結果的に成立したものであり、あくまでも「日本型政教分離」の体制の一部であるということになります。
なお、安丸は村上重良の見解を次のように批判しています。
この見解では、「国家神道体制」なるもので近代日本の宗教史を覆ってしまう結果となり、多様な宗教現象をひとつの檻のなかに追いたてるような性急さが感じられる。(中略)明治初年の祭政一致や神道国教主義と、十五年戦争期の超国家主義や神道の強制という二つの時期のあいだに、固有の近代日本があったと考えると、べつな構図が浮びあがってくる。
これは今読んでも含蓄のある指摘のように思われます。
中島や安丸とは毛色が異なる研究を行ったのが赤澤史朗(1948-2024)です。中島や安丸の研究は、主に明治時代を対象としていました。それに対して赤澤は、従来の研究が扱ってこなかった第一次大戦以降の宗教行政をめぐる動向を、実証的かつ総合的に論じました。大正時代から戦時期の神社界の動向や、何度か帝国議会に提出された宗教法案や、神祇院の設立や、戦時体制における宗教統制などの問題を、新聞や神職会機関紙などの史料を駆使して論じたのです。その成果は、赤澤が1985年に出版した『近代日本の思想動員と宗教統制』という本にまとめられています。赤澤の研究以前には、第一次大戦以降の宗教行政を本格的に論じた研究はほとんど存在しませんでした。その点で非常に先駆的な研究だと言えます。
1920年代の神社界は、いわゆる大正デモクラシーが展開するなかで、下級神職層(つまり諸社の神職たち)の発言力が増したり、神社は「非宗教」ではなく「宗教」だという主張に対応することを迫られたりしたと赤澤は指摘しています。
また赤澤は、1930年代以降には、「国体論を中核とする日本主義の発展」が 「神社の地位を急激に押し上げ、その結果神社や神道はもっぱら国体論的な脈絡で理解されることによって、新たな国民組織化の思想部面を担当することを期待されるようにな」ったと指摘しました[赤澤 1985: p.199]。
しかし、赤澤は次のようにも述べています。
日本主義や日本精神論は たいてい神社への信仰を説く議論であり、神道思想に立脚した国家至上主義の思想であったが、それは必ずしも神道の信仰的伝統に根ざした思想とばかりはいえなかった。そして現実の神社信仰の方も、日本精神によって位置づけられるような存在ではなかった。
つまり、1930年代以降に神社の地位が向上した主要因は、あくまでも神社界の外側で日本精神論や国体論が高揚したことにあるのだというのです。そして、そうした流れは必ずしも神社の従来の「伝統」と一致するものではなかったというわけです。
赤澤によれば、満州事変以降に神社は国家機能との一体化に向かっていくものの、神社による国民動員は「神社非宗教論」というタテマエに縛られ、この時期に「国家神道」体制は完成期どころかむしろその限界を露呈するのだそうです。
「狭義の国家神道」論とその周辺
さて、中島や安丸による研究は、明治初期から大日本帝国の崩壊まで一貫して神社強制の時代が続いたという村上の歴史像を批判し、「国家神道体制」なるものが、いつどのようにして「確立」したのかを解明しようとしました。しかしこうした研究には、「国家神道」という概念それ自体を問い直そうとする視点はまだ希薄でした。どういうことかというと、これまでに見てきたように「国家神道」という概念には、神社とは文脈が異なるいろんな要素とか、本当に「神道」に含めていいのか疑問もある様々な事象も含まれて、その範囲が肥大化していく傾向がありました。中島説にしても、このような「広義の国家神道」とでも言うべき概念を村上から受け継いでおり、それを批判するには至らなかったのです。
この「広義の国家神道」概念に批判の矢を向けて、村上説を根本から批判したのが、神道家の葦津珍彦(1909-1992)です。葦津は、戦後に「神道の弁護士」とか「神道の社会的防衛者」と呼ばれて、神道を擁護する言論を展開した保守派の論客です。つまり、村上重良とは正反対の立場でした。
葦津は、若い頃はマルクスやクロポトキンなどの著作に興味を持ち、社会主義の研究会に出入りしていた時期もあったのですが、その後社会主義から離れています。戦前はナチスドイツや東条英機内閣を批判するなど、先鋭的な言論活動を行いました。戦後は、全国の約8万社の神社を包括する団体として1946年に発足した神社本庁や、神社新報社(神社界の専門紙である神社新報を発行している団体です)の設立にも深く関与し、神社界の言論を牽引しました。なお、葦津珍彦の父の葦津耕次郎(1878-1940)は、あの頭山満(1855-1944)と交流があり、当局の政策を批判した熱心な神道家でした。

葦津は、1987年に『国家神道とは何だったのか』という本を出して、村上の「国家神道」論を根本から批判しました。葦津は、これまで「国家神道」という概念を用いてきた論者が、「その理論的思考に欠くべからざる言語の概念があいまいで、『国家神道』の語を、時により人によって、勝手しだいに解釈している」としたうえで、こう述べています。
はなはだしい場合は「日本の国の伝統精神を重んずる全宗派・全流派の神道」として用いている論も少なくない。問題の中心となる語の概念を、各人各様に、ほしいままに乱用したのでは、明白にしてロジカルな理論も、史観史論も成立するはずがなく、対立者との間の理論的コミュニケイションもできない。
このように「国家神道」という概念を各人が恣意的にバラバラに用いていては、厳密な議論は成立しません。ここで思い出していただきたいのは、神道指令では「国家神道」が次のように定義されていたということです。
本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル
葦津は「国家神道」を、この神道指令による定義に限定すべきだと主張しました。「国家神道」というフォルダに「天皇制イデオロギー」・「皇室神道」(宮中祭祀)・帝国憲法・教育勅語・治安維持法・宗教団体法・「侵略の教義」・「国体の教義」・靖国神社・神社参拝強制・宗教弾圧などなどを雑にぶちこむ議論を批判し、「教派神道から区別され、国家と結びついて、『非宗教』だと“された”神社神道」ぐらいの定義に即して議論すべきだと論じたわけです。「広義の国家神道」論ではなく、「狭義の国家神道」論とでも言うべき議論を提示したのです。そのうえで次のように述べています。
国家神道という語の概念を正確に解するとすれば、明治三十三年に、政府が内務省のなかに神社局(後の神祇院)の官制を立て、社寺局の宗教行政下から公的神社と認めない神道の一部と区別して、宗教行政を改めた時に、決定的に確立したものである。それ以前の神宮神社の行政は社寺局の一部で行われた。その概念の定義からすれば「国家神道史」は、わずかに約四十年の歴史を残すにすぎない。
つまり、明治33(1900)年に内務省社寺局が、「非宗教」だと“された”神社を管轄する神社局と、「宗教」を管轄する宗教局に分離されることで、「国家神道」が「決定的に確立した」と規定したわけです。そのうえで葦津は、従来の恣意的な「国家神道」論に対して、実証的な批判を加えました。
ただし葦津はその一方で、戦前の神社神道は国家管理下に置かれて、その精神を空白化させてしまったとも論じています。「無精神な、世俗合理主義で『無気力にして無能』なものであった」というのです[葦津 2006: p.170]。葦津は、次のように言っています。
全国神社をただの名目だけにせよ「国家の宗祀」として公認し、国がその維持を希望する意思を明白にしたのは、一つの功績であった。(中略)その名目だけでも、国家の宗祀として国がこれを公認した事実は、明治初期から十年代二十年代にかけて、日本の神社の大多数が荒廃存亡の苦境にあったのに、公費支出の道を開き、やがて地方民の神社護持の精神をおこすのに実際的には大きな歴史的な力があった。
このように、近代の日本で神社が「国家の宗祀」として国家に公認されたことについては、葦津は肯定的に捉えています。しかし同時に、次のようにも指摘しています。
かれら(引用者注:内務省神社局)は、神宮神社をもって、著名なる天皇、皇族あるいは国家、郷土に功労のあった人々を崇敬することを主たる性格とするものであると称して、神社を合理主義化し、神社を非宗教のものとする理論を好んだ。このようなメモリアル風の解釈もできる神社が明治以後に数多く建てられたのも事実ではあるが、神社本来の古社には、そのようなものはなく、西欧の偏見的宗教学では、アニミズムと蔑視している山河風水の神々等が多い。神社行政官僚が神社とメモリアル殿堂を同視する論は、さすがに神道人を心服させ得たわけでないが、国家主義の本拠、内務省神社局の非宗教神社行政というのは「神道独自の精神」なるものを全的に否定し、神主をただ古文化財的儀礼執行者、公金収支にまちがいない正直な下級事務者にすることを考えていたにすぎない。(中略)神社局は依然として内務省内の三等局であった。(中略)勅任官になるまで祝詞も古典も一度も見たことのなかった者が来て、一年か二年の後には全く別系のポストへ昇進して行く通過駅のような地位であった。思想指導などするわけがなかった。明治時代とちがって、局長のみでなくよりわかい高等官も来たが、かれらも行政法学の知識はあっても、神道にはもちろんのこと国史古典にも素人だった。行政法の教科書に「神社は宗教に非ず」と書いてあるので、古典の祭神の深い所以など深く調べないで、神社をメモリアル・ホールと同視するような合理主義神社論を展開して、同一の「思想の論理」で実存する神社祭祀を宗教者に詰問されても対応できないような行政官の出て来ることにもなった。
神社が国家の管理下に置かれることで、「信仰」が希薄化・空白化し、「無気力」で「無精神」なものになってしまったというのです。
先ほど少し触れましたが葦津珍彦は、東条英機内閣の時代に、政治権力による神道思想への介入を批判する言論を展開した人物です。葦津が戦前の神社神道を、無精神で世俗合理主義的で無気力で無能な「官僚神道」として描いたのは、葦津自身の経験に基づいたものでもあったのです。
先ほど登場していただいた安丸良夫は、葦津の研究を次のように評しています。
葦津説は、先述の村上説の正反対で、明治初年以来、在野で不遇をかこってきた存在としての神道家という立場からする憤りが込められていて、迫力がある。また、この葦津説には、明治初年の祭政一致や神道国教主義の時代と十五年戦争とを安易に直結して、その間の時期の具体的研究をなおざりにしやすかった傾向を批判する意味があって、さきの中島、阪本、赤澤らの主張ともあいまって、傾聴すべき論点を含んでいる。もとより、葦津が真の神道だと称揚する在野の神道家と一般国民に継承されてきた神国思想=民族意識なるものこそ、本書の立場からは、イデオロギー的作為の結実にほかならないのではあるが。
なお、葦津は1985年に、朝日新聞のインタビューに対してこう述べています。
国家神道は決して復活しないでしょう。全国の神社がつくっている神社本庁の中で、国家神道制度の復活を願っている神社は一つもありません。(中略)今の神主は「敬神の念のない公務員が神社を管理するよりも今の方がよい」との思想が一般的です。
ただし葦津自身は、戦後の神社が「国家の宗祀」でなくなり宗教法人となった現状についても、良いものだとは思っていなかった[葦津 2006: pp.195-199]のですが、本稿の問題からは外れてくるので割愛します。
ともあれ葦津は、戦前の神社神道をショッカーやダーク・キングダムやマルク・ジェネのような悪の組織のごとく描いた戦後の「広義の国家神道」論を批判し、「狭義の国家神道」論を提示して、「国家神道」は「無精神な、世俗合理主義で『無気力にして無能』なものであった」と論じました。村上説とは全く異なる像を提示したわけです。
この葦津の方向性を受け継いだのが、これまでに何度も登場していただいた神道学者の阪本是丸です。阪本は、明治期の膨大な量の行政文書を中心に一次史料を精査し、緻密な実証研究に基づいて、村上説を根本から批判する論文を次々と発表していきました。戦前の神社は国家管理のもとに置かれており、その関係で多くの公文書が残っています。それらを活用して精緻な制度史研究を展開し、従来の「国家神道」論を批判していったのです。阪本やその弟子筋の神道学者たちによって、特に1990年代以降に劇的に研究が進み、かつて村上重良が描いた図式は破綻に追い込まれていきました。本稿も、阪本の著書や論文に多くを負っています。
阪本は、神道指令に見られる「日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派」という「国家神道」の定義に立ち返り、「日本政府ノ法令」を丁寧に読み込んで、この定義が言う「国家神道」が形成されていく過程を実証的に研究していきました。葦津の「狭義の国家神道」論を引き継いだわけです。
阪本は、「神社改正之件」に基づいて明治20(1887)年に成立した官国幣社保存金制度は、「神社切り捨て策」だったと指摘しました。阪本によれば、この路線を政府に撤回させようとする神職たちの運動もあって、明治33(1900)年に内務省社寺局が神社局と宗教局に分離されて、さらに明治39(1906)年に官国幣社保存金制度が廃止され、官国幣社国庫供進金制度と府県社以下神社神饌幣帛料供進制度が採用されて、「国家神道」が成立したということになります。ただし、戦前の神社行政は単行法令によっており、終戦を迎えるまで統一的な神社法が制定されることは結局なかったため、「国家神道」が成立したといってもその体制は依然として不安定だったとも阪本は述べています[阪本 1994: p.358]。
なお阪本是丸は、2006年に葦津珍彦について次のように振り返っています。
かつて神祇院に勤め、「明治神道史」を書いた私の父・阪本健一などは、本書(引用者注:葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』)が国家神道を「無精神な、世俗合理主義で「無気力にして無能」なもの」と結論づけたことについて、あまりに一面的すぎると憤慨していた。しかし葦津先生は、私によく「惟神の道に生きることの悲しみを知らぬ者に、近代の神道史がわかってたまるか」と語っていたように、父とは違った表現方法であったものの、あくまでその根本、本質は同じ「神道人」からの視点であった。だからこそ本書『国家神道とは何だったのか』は、「惟神の道」に生きた先人たちの苦悩を描いたものになったと同時に、そのまま自身が歩んだ、「生きた」近代神道史であったともいえるのである。
近代という名の巨大な荒波に翻弄された、「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たち」の嘆きがひしひしと伝わってくるようであります。我々は、「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たち」のことをいろいろと誤解していたのかもしれません。
さて、こうした葦津や阪本の問題意識を継承したのが、阪本の弟子筋にあたる神道学者の新田均です。新田は近代日本宗教行政史を専攻し、明治初期の政教関係や、穂積八束(1860-1912)や上杉慎吉(1878-1929)の政教関係論や、加藤玄智の学説や、GHQによる神道指令などを幅広く論じました。その成果は、『近代政教関係の基礎的研究』(1997年)や『「現人神」「国家神道」という幻想』(2003年、改訂・増補版2014年)に記されています。
新田はこれまでの「国家神道」研究を整理し、①「広義の国家神道」論と②「狭義の国家神道」論の二つの流れが存在してきたことを指摘しました[新田 1999a][新田 1999b][新田 2005][新田 2013]。つまり、
①「国家神道」を神社神道以外の様々な要素をも含んだ「国家的宗教制度」として理解しようとする研究
②「国家神道」を神社神道が国家によって管理された状態に限定して理解しようとする研究
という二つの流れがあるというわけです。これまでに見てきたように、①は加藤玄智→ホルトム→神道指令(バンス)→藤谷俊雄→村上重良→中島三千男など、という流れです。②は葦津珍彦→阪本是丸→阪本の弟子筋の神道学者たち、という流れです。
先ほど見たように神道指令には、「国家神道」を「教派神道から区別され、国家と結びついて、『非宗教』だと“された”神社神道」ぐらいの狭い意味で定義した箇所がありました。ところが、神道指令の正式名称は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」だったうえに、「神道」に関連するあらゆる「祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教ヘ、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴」に適用されるとの文言もありました。そして、「軍国主義」や「過激ナル国家主義」といったイデオロギーであるとか、『国体の本義』のような文書などなどもまとめて禁止されたのです。
こうした事情について新田は、神道指令には「広義の国家神道」論と「狭義の国家神道」論の両方が混在していると指摘しました。これまでに見てきたように、戦前には「国家神道」という語は少数の用例しかありませんでした。「国家神道」について論じた言説が広がるのは戦後になってからであり、その起源は神道指令にあります。よって、戦後の「国家神道」論が混乱する理由は、議論の大枠が神道指令によって規定されてしまっており、神道指令の定義が広義にも狭義にも解釈しうる混乱を含んでいたことにも一因があると指摘したわけです。
これまでに述べてきたことを図にまとめると、こうなります。

「広義の国家神道」論では、神道は神社にだけ存在していると考えるのではなく、神道の「精神」に関係がありそうな領域とか、天皇に関係がありそうな領域であれば、どこにでも「神道」が見い出される傾向があります。そのため、「神道」に含めていいのか疑問があるような様々な社会的・文化的事象も、黄色く塗った領域にぶちこまれていく傾向があります。それに対して「狭義の国家神道」論では、話を青く塗った領域に限定して、青い領域の実証研究によって「広義の国家神道」論の問題点を明らかにしていったわけです。
これは私の理解ですが、村上説のような「広義の国家神道」論というのは、たとえて言えば「ファミコン」のようなものではないかと思われます。どういうことかというと、一昔前の日本全国のお父さんお母さんは、ゲームボーイもスーパーファミコンもPlayStationもマリオもドラクエもぷよぷよもストⅡも、すべて「ファミコン」と呼んで雑に一括りにしたそうです。「広義の国家神道」論は、「ファミコン」というフォルダのなかに、ゲームボーイもスーパーファミコンもPlayStationもマリオもドラクエもぷよぷよもストⅡも含め、さらには漫画やアニメや美少女ゲームやvtuberや、コミケやコミティアや博麗神社例大祭のようなイベントや、そこで頒布されている薄い本などなど、「これって本当に『ファミコン』と言えるの?」というようなものも雑にぶちこんでいったようなものです。一昔前のお父さんお母さんが、子供たちをお勉強から遠ざけるものだとみなして白眼視した様々な要素が、お父さんお母さんの「欲望」――「無明」とでも言うべきでしょうか――を投影する形で、「ファミコン」というフォルダに乱暴に押し込まれていったようなものです。
葦津や阪本は、こうした「広義のファミコン」論に対して、「『ファミコン』という用語は、『昭和58年7月15日に任天堂から発売された家庭用ゲーム機』という定義に限定して用いるべきだ。用語をきちんと定義しないと、厳密な学問的議論は不可能だ。概念を馬鹿げた大きさへと肥大化させた恣意的な議論はやめるべきだ」という「狭義のファミコン」論を唱えた、といった具合に整理できるかと思われます。
なお、阪本是丸は「広義の国家神道」論について次のように言っています。
国家神道を近代天皇制イデオロギーおよびその装置として捉える立場がある。しかし、簡単に近代天皇制といっても、その形成過程は複雑であり、その本質を規定したイデオロギーやイデオロギー装置を「国家神道」の一言で表現できるのかどうか。いうまでもなく、近代天皇制を形成し、それを支えた思想やイデオロギーは、何も神道の思想や教義だけではなかったし、伝統的な仏教・儒教はいうまでもなく、新顔のキリスト教や新宗教、あるいは近世以来の通俗的道徳思想、さらには西洋流の専制的啓蒙思想・合理主義思想も近代天皇制には厳として存在し、それぞれに有力なイデオロギーやその装置として機能していた。
このように指摘したうえで、阪本は「広義の国家神道」論を批判しています。
ややもすれば実証的な神社制度や皇室祭祀の歴史的分析・検討が疎かにされ、国家神道なるものを恣意的に解釈して、神道のみならずおよそ天皇や天皇制、あるいは国家主義、国粋主義に関係するイデオロギーやイデオロギー装置ならばすべて国家神道に総括・包含してしまう危険性を孕んでいる。
つまり、「国家神道」ということばが「マジックワード」と化して、いろんな政策や運動や思想(平たく言えば、“俺様がイデオロギー的に気に入らない様々な要素”)が「国家神道」というハコに雑にぶち込まれて、概念が肥大化しかねないというわけです。敷衍して言えば、「国家神道」とやらの範囲があまりに広くなりすぎて、結局「近代天皇制」とか「天皇制ナショナリズム」といった概念とほぼ同義になってしまったり、「それって本当に『神道』だと言えるの?」という話になってしまったりするということでしょう。
このように「国家神道」という語を分析概念を用いてしまうと、近代の日本では神道が強大な力を握って「諸宗教」の上に君臨していたという、実態から激しく乖離した「物語」を描いてしまう危険性があります。また、「狭義の国家神道」論のように、「国家神道」という概念を「神社神道が国家によって管理された状態」に限定して理解しようとするのであれば、「国家神道」などという問題の多い曖昧模糊とした概念なんか用いなくても、「神社神道」と呼べば十分ではないかという話になってきます。そのため近年では、近代神道史や近代宗教史の分野では、「国家神道」という語を使用しない研究者も多く出てきています[葦津 2006: p.215]。
新田均も、次のように指摘しています。
「国家神道」という言葉を前提とする限り、その研究は必然的に国家と神社神道との関係に限定され、政府とその他の宗教との関係は無視されるか、抑圧者と被抑圧者・抵抗者との関係としてしか研究されなかった。
つまり、近代の日本では神道が「悪しき抑圧者」として強大な力を握って「諸宗教」の上に君臨しており、島地黙雷のような真宗関係者は「かわいそうな被抑圧者・抵抗者」にすぎなかったという「物語」を描きかねないというわけです。すでに見たように、実際には明治時代前半の真宗関係者は長州閥の政治家に太いパイプがありました。大教院分離運動においても、祭神論争から神官教導職の兼務禁止に至る流れにおいても政治力を発揮し、政府の政策を左右しています。彼らは神道によって抑圧された「かわいそうな被抑圧者・抵抗者」だった、などという単純極まる図式は全く成立しません。
このように、「国家神道」という概念は研究者の思考をからめとってしまい、自由な発想に基づいてとらわれない立場から近代の政教関係を研究することを妨げてきたと新田は指摘しました。「国家神道」という概念の抑圧性を指摘したわけです。そこで、新田は次のような立場をとっています。
「国家神道」論とは何だったのかを最後に整理しておこう。それを一言で言えば、学術用語であると同時に、ある種の運動目標を含み、演繹的思考から組み立てられた、固有の要素と期間とをもった術語だった、といえよう。
(中略)
「国家神道」論が想定している「国家神道なるもの」の評価は、戦前と戦後とでは百八十度異なる。しかし、現実を超えた「国家神道」なる理念を立てて、それによって現実を変革して行こうとする意図は共通している。加藤の場合は、天照大神が人間としての先祖、天皇が人間としての君主としてしか教えられていない状況を変革しようとした。村上の場合には、政治の反動化に対抗して、民主主義(実は共産主義)を前進させることが目的だった。
このような骨格をもった「国家神道」論を、今後、研究の上で、どのように扱っていけばよいのか。私は、研究史上に一定期間存在した歴史的な用語と見なして、今後、実証・客観を旨とする研究においては、この術語は使用しないのがベストだと考える。何故なら、この語は自由な発想に基づく研究に対する抑圧性が強すぎるからだ。ありのままの色を知りたければ、色眼鏡ははずさなければならない。
「国家真宗」――近代真宗史の深淵
ところで、葦津珍彦や阪本是丸や新田均の研究には、これまでに紹介してきた論点以外にも、興味深い指摘が見られるのでここで紹介しておきます。まず、次の二つのテキストを見てください。
神道ナル者ハ、其淵源ニ沂レバ、即チ天祖太神立極垂統ノ大典ニシテ、其道タル祭祀施政ノ外ニ出ザルハ論ヲ俟タザルナリ(中略)天祖立極ノ大典ハ、全国人民誰之ヲ崇奉敬戴セザル者アランヤ、其崇奉敬戴スベキハ、国民の義務ナレバ也
彼等(引用者注:キリスト教徒のこと)は我邦の神社祭典を以て真神に背くの罪悪とし、実理に戻るの謬妄とせり。現に彼等は所在神社の祭典に与らず、献燈祭資を拒絶せり。甚だしきは他の祭典の式場に臨み、傲然罵言して其非を公説せるが如き、すべて大胆にも本邦古来の典礼を廃絶せんとす。若し彼等が随意に其教を布宣せしめば、上は伊勢の大廟を始めとし、全国の官国県社より郷村社に至るまで、之を勦絶して跡なきに至らしめずんば、彼等は満足を表せざるべし。而して祖先に薦事するの礼典の如き、絶へて再び其痕を見る事なきに至らん。(中略)其世道人心を傷害し、綱常彝倫を滅裂する、豈国体皇室に関係なしとせんや。
一つ目のテキストによれば、天皇は天照大神によって日本の統治者であると定められた存在であり、「神道」というのは天皇の祭祀や施政のことだそうです。そして、天皇による皇室祭祀を崇敬するのは「国民の義務」だとまで言っています。二つ目のテキストは、キリスト教徒が神社や日本古来の祭祀を滅ぼそうとしている、皇室に害を与えようとしているとして激しく攻撃しています。それではここで問題です。
「この二つの文章は、誰が書いたものだと思いますか?」
こう訊かれた人の多くは、「どっちも天皇を狂信的に崇拝する神道家が書いたんだろう」と思うのではないでしょうか。しかし、そうではありません。一つ目は、明治14(1881)年に浄土真宗大谷派僧侶の渥美契縁と鈴木慧淳が、松方正義に提出した建白書の一節です[藤井 1977: pp.477-478]。二つ目は、明治22(1889)年に浄土真宗本願寺派僧侶の島地黙雷が書いた「此国家人民を奈何せん」という論文の一節です[島地 1976: p.61]。
一つ目の明治14(1881)年の建白書は、祭神論争の過程で政府に提出されたものです。つまり、「明治維新以降、神職も僧侶も教導職に就くことになった。神職が講社を結成して布教を行ったり、葬儀を行うようになったりして、来世の問題に関与するようになり、『非宗教』である祭祀や施政の枠を踏みこえて『宗教』のようになってしまった。神道を『宗教』のような状態のまま放置しておくと、天皇や『国体』の権威が傷ついて大変なことになるぞ。よって教導職を廃止して、神道から『宗教』的な要素をすべて取り除いて主に祭祀のみを行わせよ。「非宗教」と「宗教」の“分別”を明確にせよ(ていうか神職は葬儀というワシらのシマに入ってくんな)」と建白した文書に見られる一節なのです。
すでに見たように、この真宗関係者の主張は政府によっておおむね受け入れられて、明治15(1882)年に神職による教導職の兼務が禁止され、官国幣社の神職は布教や葬儀を行うことが禁止されました。これは、神社を「宗教」という枠の外に置こうとする措置です。
その建白書のなかで渥美と鈴木は、神道は「非宗教」であり、国民は皇室祭祀を崇敬する義務があると言っていたわけです。先ほど見たように、帝国憲法が枢密院で審議された際には、伊藤博文も伊藤巳代治も鳥尾小弥太も、神祇官の再再興を主張した佐々木高行も、一般の国民が皇室祭祀の際に礼拝を拒否することは認められると解釈していました。神道は「非宗教」であり、全国民は皇室祭祀を崇敬する義務があるなどと言い放っていたのは、実は真宗関係者だったのです(ついでに言うと、天皇を絶対神だと捉えて“一神教的な”天皇観を創作した加藤玄智も、真宗寺院の出身者です)。
また、前回登場してもらった真宗大谷派僧侶の清沢満之の弟子にあたる暁烏敏は、昭和期に仏教の戦争協力を肯定する思想を語りました。天皇を中心とした神道を真宗と融合させた奇妙な思想を唱え始めたのです。暁烏によれば、神の道と仏の道は一つであり、日本神話と浄土教は別のものではなく、心のなかで同一化されるべきものなのだそうです。神の道と仏の道が一体になって人間界に顕現したのが天皇であり、昭和天皇は、皇室の血統を継ぎながら世界の真理を体現した存在なのだそうです。天照大神も仏であり、神武天皇は阿弥陀仏と同質なのだそうです。
暁烏は、神道と仏道と皇道という3つの道は等しいものだと受け止めて歩んでいくことこそが「臣民」としての正しい道であり、この道を歩む者は、天皇のために身も心も命も捧げるのが当然だとも言っています。そのために真宗の教えを学んで、そこに「大いなる生命」を見い出し、その「生命」を安心して捧げていくのがよいのだというのです(ここで暁烏が提示している「生命」という概念の背後には、本稿の問題に深く関わる重要な問題が潜んでいます。この「生命」という概念が一体どんな文脈から出てきたのかについては、その10かその11あたりで詳しく見てみたいと思います)。
かくして暁烏は、自分のお寺に神棚を設置し、天照大神などの日本の神々を祀って拝み、教育勅語を奉読するようになりました。真宗の門徒たちには、天皇の御真影(肖像)に向かって念仏を唱えよと指導し、日本の神々を前にしてひざまずくことのない人間は日本人ではないと言い放つに至りました。昭和15(1940)年にはこう言っています。
天照大神様の御力の前に跪くこと以上に、まだえらい阿弥陀様といふものをかざつてをるなら、そんなものは外国にいくがよい。
このように暁烏は、神の道と仏の道の一致を説き、さらには仏よりも神の方がエラいと発言するようにすらなったのです。
ご存じの方も多いかもしれませんが、真宗には「神祇不拝」の「伝統」が存在すると言われています。「神祇不拝」というのはざっくり言うと、「真宗で何よりも大事なのは、阿弥陀仏という一仏のみに帰依することである。阿弥陀仏以外の雑多な神々を拝むことは、煩悩によってなされる余計な行為だ。煩悩に惑わされて神々に祈るのではなく、ただ阿弥陀仏に帰依すべきである」というものです(誤解のないように大急ぎでつけ加えておくと、これはかなり単純化した大ざっぱな説明です。実際には、「神祇不拝」は時代ごとに微妙な変遷を経てきていますし、親鸞の時代から全く変容することなく守られてきたなどということはありません。一概には言えないこともいろいろあります)。昭和期の暁烏の言動は、真宗の「神祇不拝」に反しているように見えます。
法主生仏信仰と天皇崇敬
以上のような近代の真宗関係者の言動を、一体どうのように理解したらいいのでしょうか。阿弥陀仏という一仏に帰依し、「神祇不拝」を旨とすると言われる真宗の関係者が、一体なぜ過激な天皇崇敬に傾いていったのでしょうか。この問題を考えるうえでヒントになりそうなのが、「法主生仏信仰」と呼ばれる真宗の「伝統」です。
法主生仏信仰とは、親鸞の子孫であり東西の本願寺の住職である法主を、阿弥陀仏の代理人とみなして崇拝する風習のことです。この風習は江戸時代に確立し、東西の本願寺に属する僧侶や門徒に対して大きな影響を及ぼしたと言われています。僧侶や門徒が来世に極楽世界に往生できるか、それとも地獄に落ちるかの決定権は法主にあると考えられたため、法主はいかなる神仏をも超えた絶対的な「生仏」として拝まれることになったのです。
この法主生仏信仰について、真宗大谷派の研究者の菱木政晴(1950-)は、こう言っています。
天皇の現人神信仰は、この法主生仏信仰の焼き直しではないだろうか。二つの信仰はきわめて似かよっており、成立は法主生仏信仰のほうが早いのであるから。
新田均は、菱木のこの見解に同意したうえで、次のような衝撃的な指摘をしています。
「現人神」にしても、神話に依拠する多神教的な天皇「神孫」論では不十分であるとして、加藤玄智が唱えはじめたものだった。それは、一神教に近い一向専念(阿弥陀一仏崇拝)を信条とし、法主が「生仏」とされ、戦国時代には門徒に対する生殺与奪の権まで握ったことのある真宗の信仰を通して見た天皇像ではなかったろうか。つまり、神話ではなく、真宗信仰を投影された天皇像が「現人神」だったのではないか。
近代仏教研究者の碧海寿広(1981-)は、菱木や新田の見解に言及しつつ、こう指摘しています。
「神祇不拝」という真宗の一つの伝統が、戦時下の特異な環境において後景に退き、かわって法主生仏信仰という真宗のまた別の伝統が、形を変えて前面に出てきた。この真宗の伝統をめぐる交代劇のなか、暁烏が居丈高に主張した、仏と神と天皇を一致させる新たな思想が生成してきた。そのような理解が可能になってくるのである。
なかなか衝撃的な指摘ですし、にわかには受け入れがたいと思う方もおられるでしょう。そこで、いくつか傍証になりそうな事実をあげてみます。
すでに述べたように、明治17(1884)年に教導職の制度は廃止されて、仏教各宗派と教派神道各派の人事権は国家が管理するのではなく、各派の管長に委任されることになりました。各派が定める「教規」「宗制」「寺法」などと呼ばれる教団法と、それに基づいた教団を、政府が公認することとなりました。かくして、仏教各宗派および教派神道各派は、管長権と教団法を制定する権限を認められ、自治的な教団運営を進めていくことになりました(管長制)。
西本願寺では、それに先立つ明治14(1881)年に、教団の議会である「集会」を早くも開いています。集会には、会衆と呼ばれる議員が30~50名ほど置かれました。会衆は、各地方の選挙によって選ばれた総代会衆と、法主が選んだ特選会衆によって構成されていました。ただし、議案提出権は原則として法主にあり、会衆の議案提出は、執行を経て法主に許可された場合のみ可能でした。近代仏教研究者の近藤俊太郎(1980-)は、こうした西本願寺の議会には、帝国議会との構造的共通性が指摘できると示唆しています[近藤 2020: pp.225-226]。
そもそも、西本願寺は大日本帝国憲法の発布(明治22年)より前に宗制・寺法を制定しており、帝国議会の設置(明治23年)よりも前に集会を開設しています。さらに言えば、西本願寺の宗制・寺法の原案作成には、三条実美や井上馨が協力していましたし、集会開設においては岩倉具視の意向が重視されていました[近藤 2020: p.226]。政府の要人たちが関与していたわけです。近藤はこうした事実について、次のように指摘しています。
西本願寺は大日本帝国の実験場として活用された側面があり、教団の種々の取り組みは国家の制度・組織の形成に大いに役立てられたのではなかろうか。
また、天皇の皇位継承について定めた旧皇室典範(明治22年制定)の上諭には、こうあります。
天佑ヲ享有シタル我カ日本帝国ノ寳祚ハ万世一系歴代継承シ以テ朕カ躬ニ至ル惟フリ祖宗肇国ノ初大憲一タヒ定マリ昭ナルコト日星ノ如シ今ノ時ニ当リ宜ク遺訓ヲ明徴ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ茲ニ枢密顧問ノ諮詢ヲ経皇室典範ヲ裁定シ朕カ後嗣及子孫ヲシテ遵守スル所アラシム
一方、西本願寺が明治24(1891)年にまとめた本願寺内範には、こうあります。
真宗本願寺派ノ法統ハ大師開宗已来二十一世六百年有余年伝承以テ予ノ躬ニ至レリ是レ歴世自ラ一定ノ模範アリテ以テ不易ノ基準タルニ由ルナリ今ヤ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク祖先ノ遺思ニ依リ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ以テ後嗣子孫ノ遵守スル所ト為シ宗祖ノ基業ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ茲ニ親族及宿老ノ諮詢ヲ経本願寺内範ヲ制定ス後嗣子孫慎テ焉ニ率由シ旧図ヲ墜ス勿レ
是非とも、太字の箇所を読み比べて驚いてください。そっくりモグラです。完全に「これってもしかして、俺たち・私たち、入れ替わってるー!?」状態であります。旧皇室典範の上諭は、万世一系の皇統が明治天皇に流れ込んでいることを確認し、天皇の祖先の遺訓を明らかにして皇室典範を制定するとあります。本願寺内範では、親鸞以来の法統が当時の法主の大谷光尊に流れ込んでいることを確認し、歴代の法主の遺思によって本願寺内範が定められたと説明しています。
ついでに申し上げると、皇室典範第1条にはこうあります。
大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス
一方、本願寺内範第1条にはこうあります。
本願寺派ノ法主即チ本願寺ノ住職ハ大谷宗家ノ戸主タル者トス其継承ハ男系ノ男子ニ限ル
このように、法主を戴く近代の西本願寺教団には、天皇を戴く大日本帝国と似た構造をしたシステムが見い出せるわけです。近藤俊太郎は、次のように述べています。
法主=生き仏信仰ともいわれる前近代からの信仰実態からすれば、むしろ天皇制こそが法主制的契機を取り込んだというべきかもしれない。(中略)宗制寺法・議会が帝国憲法・帝国議会に先行し、本願寺内範が皇室典範を模倣したような内容となるのは、教団と国家が相互に影響を受け合いながら近代化を推進していったからであろう。教団と国家が結果として相似形的特徴を持ちえたのは、何も不思議なことではなかった。
「むしろ天皇制こそが法主制的契機を取り込んだというべきかもしれない」というのは、驚くべき指摘です。なお、近代の日本を生きた哲学者の井上哲次郎(1856-1944)は、昭和5(1930)年にこう述べています。
浄土宗は永く神道化しなかつたけれども、真宗は夙に神道化し、その肉食妻帯は既に吾が民族の習俗に融合したが、特に本願寺などの世襲制度即ち血統系続に至つては、畏くも萬世一系の皇室に模した感がある。これは印度にも支那にもなく、ひとり吾が日本に在るのみである。これなどは明らかに日本化であり、達観すれば神道化である。
阿弥陀仏一仏に帰依し、「神祇不拝」を旨とする真宗は、日本の神々に帰依する神道とは水と油のように見えるが、実はそうではないのではないか。実は、日本の数ある仏教宗派のなかでも、浄土真宗こそが最も神道に近いのではないか。そんなバカなと思う方もおられるかもしれませんが、これまでに述べてきたことを踏まえると、このような見方も一理はあるのではないかと思えてきます。
碧海寿広(1981-)は、井上のこの見解についてこう述べています。
かつて井上哲次郎が述べていたような意味での真宗の「神道化」の問題は、いまだ何ら解決されていないのではあるまいか。
こうした問題は、何も真宗だけに限った話ではない。なぜなら、他宗派も近代を通して現代に至るまで「真宗化」を進め、それゆえ「神道化」してきているからである。真宗の伝統である肉食妻帯の風習を、近代以降は他宗派も徐々に受け入れ、寺院の世襲制度や血統主義を少なからず採り入れてきたのだ。
たとえば、皇室に次の天皇となりうる男子が生まれるか、この問題をめぐる当事者たちの悩みや期待は、寺の僧侶夫婦が住職後継者となる男子を授かるか、この問題をめぐる当事者たちの不安や希望と、近しい構造を持っている。そうした構造の近似性は、日本仏教が「神道化」しているからこそ成立するのであり、もし日本仏教が戒律を遵守し仏教に固有の宗教性を発揮しているのであれば、このようなアナロジーが成り立つはずもない。
近代真宗の天皇崇拝と戦争協力
さて、これまでに述べてきたことは、近代における真宗の戦争協力とも絡む問題です。
後の世は 弥陀の教えに まかせつゝ いのちをやすく 君にさゝげよ
これは、西本願寺第21代法主の大谷光尊が、日清戦争の際に真宗門徒の軍人に与えたと言われている和歌です。来世のことは阿弥陀仏にゆだねて、現世では国家の方針に従って生きよ、天皇に惜しみなく命を捧げよというのです。大日本帝国が膨張していくと、真宗はこうした思想のもとに、積極的に海外伝導や従軍布教に手を染めていきます。現地で軍人に対してその身を国家に捧げる勇気を説いて士気を高めたり、戦死者の葬儀を行ったりしたのです。
真宗の中国布教は、日清戦争(明治27~28年)後に本格化していきます。新たに領土となった台湾での布教が急速に展開され、大陸での布教も活発化していきました。外地に在留する日本人が増加するのに伴って、布教所や別院(本山直属の寺院)や教育施設や医院や幼稚園や慈善施設なども増えていきます(明治32(1899)年には上海別院のなかに清国開教本部が設置されています)。日露戦争が勃発する直前の明治37(1904)年2月に、陸軍省が各師団長に対して、戦時・事変の際は僧侶や教師を戦地に同行してもよいという達を出したことも、従軍布教を本格化させました(日露戦争中には、中国東北部に布教拠点が設置されています)。海外で仏教各宗派の布教が本格化するのは、日清・日露戦争を通じてのことであり、それは日本の戦争や膨張政策と密接に絡んでいました。
菱木政晴によれば、朝鮮では大正7(1918)年の時点で、真宗の別院・布教者の数が大谷派で58、本願寺派で34に及んでいたそうです。満州でも、昭和16(1941)年の時点で大谷派が80、本願寺派が53で、他の仏教宗派を大きく上回っていたとのことです[菱木 1993: p.54]。そうした真宗の多くの別院・布教所には、「天牌」(天皇尊牌)が設置されていました。
真宗の寺院は、植民地の民衆にとって、仏教ではなく皇民化教育機関だったのである。
ことに、真宗大谷派寺院では、本堂の本尊阿弥陀如来のわきなどに「天牌」を安置し、門前には「天牌奉安所」と刻んだ石柱を建てていた。「天牌」とは、天皇尊牌の略で、「今上天皇聖躬万歳」「明治天皇尊儀」などと書かれた位牌のようなものである(中略)これは、仏教の衣をまとって天皇崇拝をさせる装置であった。
ところで、このように外地で従軍した「宗教家」のなかには、神社神道の神職は含まれていませんでした。明治15(1882)年に神官による教導職兼務が禁止され、神社は「非宗教」だと“されて”、布教と葬儀が禁じられていたからです。神職にも従軍が許されるようになったのは、昭和14(1941)年の8月になってからのことです。しかし結局、昭和20(1945)年の敗戦までに従軍した神社神道の神職は、たったの2人だけでした。そう。戦地で説教を行って軍人たちを鼓舞していたのは、戦後に「国家神道」などと呼ばれて暗いイメージが強い神社神道の神職ではなく、仏教や教派神道、特に真宗僧侶たちだったのです。
この問題については、戦前の神道関係者の証言が残っているので見てみましょう。例えば、神道研究者の溝口駒造は、昭和9(1934)年に、日本精神を今日のような興奮状態においたのはいわゆる神道家ではなく、軍隊の進軍ラッパの力であると言っています。そのうえで溝口は、神道家がこの事実に対して何の責任も感じなくていいのだろうかと言っています(溝口駒造「日本学の補強工作」、『皇国時報』528、1934年5月)。
「日本精神」を鼓舞したのは軍隊の進軍ラッパの力であって神道家ではない、神道家は無力だと嘆いているのです。もう一例あげましょう。戦前の神宮皇學館(現在の皇學館大学)で活躍した民俗学者の原田敏明(1893-1983)という人がいます。戦時中に原田のもとで学んだ皇學館大学関係者の賀勢弘によれば、原田は戦時中に学生たち(将来は神職として神社の未来を担う人たちです)に対して、こう語っていたそうです。
前の世界大戦(引用者注:第一次世界大戦)のあと日本の国には、無政府主義、マルクス主義等々が横行して国体を揺るがす事件が連続し、社会不安は頂点に達したのであった。その時にこの思想問題に正面から立ち向かったのは僧侶であった。当時神道人は何もしなかったのである。今度の戦争では神道人が以前のように、他に後れをとるということがあっては断じてならない。この戦争が終わってあと、必ずわが国は危険思想にさらされ、思想的な混乱が起こるに違いない。その時こそ粉骨砕身活躍するのは君達でなくてはならない。
なるほど、「国家神道」は「無精神」で「世俗合理主義」で「無気力にして無能」だったという葦津珍彦の見解は、こうした戦前の神社神道の実情を織り込んだものなのでしょう。戦後に「国家神道」などと呼ばれ、強大な力を持っていたとイメージされがちな神社神道は、イデオロギーとしても、イデオロギー装置としても、無力だったというわけです。
以上のようなわけで、戦後に「国家神道」を構成する要素の一つだと“された”「神道非宗教論」は、真宗関係者の島地黙雷が主張し、同じく真宗関係者の渥美契縁と鈴木慧淳が政府に採用を迫ったものでした(それは実際に採用されて、大日本帝国が崩壊するまで神社は行政上「非宗教」として扱われることになった)。明治政府ですら皇室祭祀を崇敬することは「国民の義務」だとは言いませんでしたが、渥美と鈴木は「国民の義務」だと断言しました。阪本是丸は以上のような事実を踏まえて、真宗教団は「国家神道」の最大のイデオロギー集団であったと断定しました[阪本 1989: pp.280-283]。
阪本の弟子筋にあたる新田均も、「なにしろ、『退けば無間地獄だ』といって農民たちを駆り立て、多くの戦国武将を悩まし、一国を支配したことさえあったのだから、歴史上の戦闘実績から言えば神道など真宗の足下にも及ばない」[新田 2014: pp.244-245]としたうえで、こう述べています。
戦争との関係に焦点を絞れば、「国家神道」とはまさしく「浄土真宗」のことである。「国家神道」を「国家真宗」と言い換えていささかも問題はない。
阪本や新田の見解を敷衍すると、戦後の人々が言うところの「国家神道」なるものは、戦前の神社神道のなかにあったのではない。近代の真宗関係者が生み落とした言説の系譜のなかにあったのだということになるのでしょう(なお、阪本や新田の見解については、疑問を呈する声もあります。興味のある方は、山口輝臣編『戦後史のなかの「国家神道」』という本に収録されている辻岡健志「浄土真宗と「国家神道」研究」という小論も読んでみてください)。
「宗教概念批判」を踏まえた新たな研究
さて、これまでに見てきた流れとはやや方向性が異なる近年の研究として、歴史学者の山口輝臣の『明治国家と宗教』(1999年)や、宗教学者の磯前順一(1961-)の『近代日本の宗教言説とその系譜』(2003年)があります。山口と磯前の関心や問題意識はかなり異なっているのですが、「宗教概念批判」という新たな動向を踏まえたうえでの研究だという点では共通しています。
「宗教」という概念は明治以前の日本にはなかったものであり、近代に創作された新しい概念であることや、「宗教」という概念は決して「中立的」で「客観的」なジャンル概念などではなく、キリスト教(特にプロテスタント)を背景に創作された西洋中心主義的な偏りを帯びた概念であることや、この概念を非西洋世界が受容することで、様々な軋轢や混乱や悲喜劇が生じたことは、前回(その6)で詳しく述べたとおりです。
特に1990年代以降の宗教学界隈では、「宗教」という問題の多い概念を、近代に新しく創作されたものとして根本から批判的に問い直そうとする研究が本格化していきました。これが「宗教概念批判」と呼ばれる動向です(その6は、そうした動向のほんの一部を紹介することを意図したものだったわけです)。山口や磯前の研究は、こうした動向を踏まえたものになっています。いずれも、近代の日本において「宗教」という新しい概念が受容されていく過程や、「宗教語り」の系譜を丁寧に追っていくことで近代宗教史に迫っています。
山口は「国家神道」について、①定説の「空洞化」・②像の「空洞化」・③研究の「空洞化」が進行してきたと指摘しています[山口 1998: pp.8-11]。
山口によれば、①の定説の「空洞化」は、村上説が定説的地位を占めながらも、そこに数多くの批判が集中し、村上説が必ずしも多数説ではなくなっていったにもかかわらず、村上説以外のものが明確に定説の座についたわけでもないことを指します。②の像の「空洞化」は、従来の大部分の研究が村上説の修正や批判で構成されており、村上説の問題点が浮かび上がるばかりで独自の「国家神道」像が提示されているとはいいがたいことです。③の研究の「空洞化」は、阪本是丸らの研究が、従来の「国家神道」論の数多くの問題点を指摘したことをもはや無視できず、研究者のなかに「国家神道離れ」とでも言うべき現象が発生したことを指します。天皇制や天皇像や「国体神学」などについては語られても、「国家神道」という概念はまれにしか登場しなくなり、正面からとりあげられることもなくなっていったというのです。
山口はそのうえで、次のように言っています。
近代日本における国家と宗教との関係を研究することは、すなわち国家神道を研究することである、とは言えなくなったということである。国家神道という廻り道をすることなく、国家と宗教との関係という対象そのものへと向かっていけば良いとの方向性である。
そうなると、問題になってくるのは「宗教」という概念です。そこで山口は、「宗教」と言う概念がreligionなどの西洋諸語の翻訳から生まれたものであり、明治前期の日本では必ずしも自明な概念ではなく流動的なものであったことを指摘し、次のように論じています。
「明治政府は、信教の自由と神社参拝の強制との矛盾をごまかすために、神道や神社は『宗教』ではないという詭弁を捏造した」という説は成立しない。「神道非宗教論」および「神社非宗教論」は、近代において「宗教」という新しい未知の概念が定着していく過程のなかで成立したものである。19世紀後半の日本においては、「宗教」だと“される”ものの範囲は、現代の我々がイメージするよりはるかに狭く、神道や神社は「宗教」の範囲から容易に外れることができた。その後、姉崎宗教学に見られるように、「宗教」という概念が変容してその範囲が拡張されていき、現在の我々が考えるような「宗教」概念が20世紀になってはじめて成立した。そのため、神社や神道も「宗教」だと“みなす”見方も勢力を増した。現在の我々が、「神道非宗教論」および「神社非宗教論」に違和感を覚えたり詭弁だと思ったりするのは、20世紀の新しめの「宗教」概念を疑うことなく自明のことだと思い込んでいるからである……というわけです。もうお気づきの方も多いかもしれませんが、本稿のその6で述べたことは、山口の研究に多くを負っているわけです、はい。
山口は、近年の論文で次のように述べています。
あえて言えば「国家神道」から「自由」になることである。「国家神道」を拡げていく「自由」でも、限定する「自由」でもなく、それから「自由」になること。分かりやすく言えば、話を「国家神道」に落とす必要などないということである。
少しでも誤解を減らすため、急いでいくつか付け加えておく。まず、このことは「国家神道」はなかったとか、「国家神道」否定論では、少なくとも私の場合、決してない。「国家神道」によって考えねばならぬという枷を外そうというだけである。戦後についてならいざ知らず、戦前において当時リアルでなかった「国家神道」という言葉でなければ、その時期が理解できないというのは、不思議な前提と言うほかない。
これは、先ほどの新田均と同様の方向性だと言えます。
ところで先ほど私は、「最初期の明治政府は神道に肩入れした政策を実行し、皇室と仏教を切り離そうとしたが、その後の軌道修正によって皇室と仏教の関係を復旧する政策がとられていった」「その結果、明治20年代初期にはお上は、伊勢神宮と約30の仏教寺院だけは今後も永続的に保護するが、それ以外はジコセキニンでやっていかせる方針をとるありさまになっていた」と述べました。
こういった史実も、山口の研究が明らかにしていることです(小倉慈司・山口輝臣『天皇の歴史9 天皇と宗教』講談社学術文庫、2018年)。山口はこの本のなかで、「国家神道」などという概念にとらわれることなく、近代の皇室と仏教の関係を丁寧に追うことで、当時の政教関係の実態が村上重良の描いたストーリーと全く異なっていたことを示したのです。新田均は、山口のこの研究を以下のように評しています。
この業績は、「国家神道」という用語の拘束性を逃れることによってもたらされる研究の自由さと豊かさを証明している。
あえて仏教のことばで言えば、「国家神道」という名のプラパンチャ(ことばの虚構)を空じることに成功したということになります。
さて、次に磯前順一の研究についても一瞥してみましょう。磯前は、2003年に出版した『近代日本の宗教言説とその系譜』のなかで、それまでの「宗教概念批判」の動向を整理したうえで、次のように述べています。
プロテスタンティズムを中心とする近代の西洋社会では明確な教義のかたちをとるビリーフが重視される一方で、非言語的な儀礼行為を主とするプラクティスはそれに従う副次的なものとみなされた。同様の眼差しは非西洋社会の宗教現象を理解する際にも向けられた。イスラム教や仏教以外の、明確な教義体系をもたない諸宗教は、それがゆえに劣等な宗教とみなされたのである。
また、明治時代前半に“religion”という概念が受容されていく過程で、その訳語が最終的に「宗教」に落ち着いていったことについて、こう述べています。
西洋のレリジョン概念の中核をなすキリスト教は信念体系の発達が著しく、とくに日本へのキリスト教伝道の主流をなすプロテスタントは儀礼的要素を排する厳格なビリーフ中心主義をとっていた。それは当然のことながら、プラクティスを中心とした近世日本的な宗旨の概念とは嚙み合わないものであった。このようなキリスト教の印象がレリジョンということばの背後に存在していたために、最終的にその訳語がビリーフの系統の「宗教」へと統一されていったのだろう。このことは、明治初年における宗教的なものの理解が、知識人のあいだにおいて、キリスト教の受容を契機として儀礼的なものから教義中心的なものへと移行したことを示している。
前回述べたように、religionという語は明治初期には、「宗門」「宗旨」「教法」「聖道」「教門」「法教」「教法」「奉教」「神道」などなど、様々に訳されていました。「宗教」という訳語はそのなかの一つにすぎず、いろんな対抗馬が存在していたのです。「宗教」という語がそれらの対抗馬を斥けて、最終的にreligionの訳語として確立するのは、明治10年代になってからだというのがほぼ定説になっています。
磯前は、その背景にはキリスト教(特にプロテスタント)のビリーフ中心主義的な偏向があったことを指摘しているわけです。このあたりの問題については、前回詳しく述べたのでここでは繰り返しません(もうお察しの方も多いかもしれませんが、本稿は磯前の研究にも多くを負っています)。磯前はこのように、「宗教」という概念自体を根本から批判的に問い直す立場から、近代の日本において「宗教」という概念が創作され受容されていく過程や、東京帝国大学における神道学の成立などの、知の系譜論を展開しました。
磯前はこの本のなかで、「国家神道をめぐる覚え書き」という章を設けて「国家神道」について論じています。磯前は、いわゆる「広義の国家神道」論においては、「国家神道」なるものが天皇制イデオロギーと曖昧な形で同一視される傾向があると批判しています。そのうえで磯前は、どちらかというと「狭義の国家神道」論に近い立場を示しており、明治39年~昭和20年に「厳密な意味での国家神道体制が布かれる」としています[磯前 2003: p.104]。
磯前は、「実際に天皇制国家は神社だけでなく、時期によって学校教育や宗教教団など、さまざまな回路を通して国民の規律化と抑圧を進めていった」と言っています[磯前 2003: p.99]。「天皇制国家」や「天皇制イデオロギー」は神社神道だけでなく、教育勅語や帝国憲法や学校教育などなどによっても支えられていたというわけです。神社神道はあくまでも、「天皇制国家」や「天皇制イデオロギー」を支えるシステムの一部にすぎなかった。そこをきちんと区別して切り分けることなく、帝国憲法や教育勅語や学校教育などの「非宗教的要素」も、ぜんぶ神社神道といっしょくたにして「国家神道」というハコに乱暴にぶちこむのは問題があるというわけです。
また磯前は、明治時代の終わりごろからその後の時代にかけて「神道学」が成立していったことに着目し、次のように述べています。
「神道学」という新たな学問的言説が登場し、神道なるものは宗教や道徳という範疇に収まるものではなく、むしろそれらを包摂する極限概念であり、国体すなわち天皇制ナショナリズムとほぼ同義語のものであるという主張がなされるようになる。この見解こそが、国家神道の政治性を天皇制と同格のものとして過大視する戦後の国家神道論の基礎を築いたのである。
言い換えると、「神道」が「政治」や「社会」や「教育」や「宗教」といった幅広い領域にまで浸透していてほしいという加藤玄智らの夢想は、めぐりめぐって「国家神道の政治性を天皇制と同格のものとして過大視する戦後の国家神道論」を生んでしまった、虚像を生み出してしまったということになるのでしょう。
磯前は「今後の課題」として、次のようにも述べています。
宗教概念とともに国家神道を支える基本範疇であった「神道」や「神社」が、どのようにして今日的な含意をもつ第三期(引用者注:明治39年~昭和20年)の概念へと変化していったのかという点の解明が期待される。
「宗教」「神道」「神社」といった概念や、それをとりまく言説の変容の過程を丁寧に追っていく必要があるというわけです。
「広義の国家神道」論の延命措置?
島薗説の出現
さて、そういうわけで村上説は、神道学や歴史学の研究の進展によって多くの問題点が指摘されるようになり、陳腐化が進みました。村上が描いた単純極まる図式は、わずか数十年で破綻に追い込まれていったのです。これまでに見てきたように、「国家神道」などという問題の多い概念は学術用語として不適切であり、使用すべきでないと提唱する研究者や、「国家神道」などという概念にとらわれるべきではない、「国家神道」などという色眼鏡は取り払うべきだと主張する研究者も出てきました。
その一方で、村上説のような「広義の国家神道」論の流れを引き継ぎつつ、「国家神道」という用語を「鍛え直して」積極的に使っていこうという立場をとる人もいます。宗教学者の島薗進(1948-)です。島薗の見解は、2010年に出た『国家神道と日本人』(岩波新書)という本にまとめられていますので、ここで少しその内容に触れておきたいと思います。
島薗は、「近代日本人の精神生活」の「全体像や見取り図」が必要であり、「国家神道とは何か」を論じることでこのニーズが満たされるとしています[島薗 2010: p.viii]。そして、島薗は「国家神道」を定義して、「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態である」[島薗 2010: p.i]とか、「皇室祭祀や天皇崇敬のシステムと神社神道とが組み合わさって形作られ、日本の大多数の国民の精神生活に大きな影響を及ぼすようになったものである」[島薗 2010: p.57]と述べています。
島薗の議論の特徴は、「国家神道」とやらを構成する重要な要素は神社神道よりもむしろ、皇室祭祀や天皇崇敬だと論じたことにあります。島薗によれば、神社神道も「国家神道」とやらの構成要素に含まれはするものの、「国家神道」とやらの「基体」ではないそうです。また、(加藤玄智のように)天皇を「現人神」や「絶対神」とみなす考え方についても、「国家神道」は「現人神」の観念を前提としないと言っています[島薗 2010: p.70]。つまり島薗の議論においては、「国家神道」とやらを構成する主要な要素は皇室祭祀や天皇崇敬であり、「現人神」の観念や神社神道は、脇役のような位置に置かれているわけです。
島薗は、「神社神道を国家神道の基体とする見方」を批判し、「皇室祭祀や天皇崇敬の側面を軽視し、神社神道に偏った国家神道の理解を改めなくてはならない」として、「学校教育にこそ教化の主要な場がある」と主張しています[島薗 2010: p.71, p.142, p.156]。島薗によれば、「大日本帝国憲法」や「教育勅語」が「国家神道」の制度的基体であり、教育勅語が「国家神道」の内実を集約的に表現するものなのだそうです[島薗 2010: p.33, p.39]。
島薗は次のように述べています。
国家神道は神社とともに、いやそれ以上に学校で広められた。紀元節に限らず戦前の祝祭日は、おおかた皇居で重要な天皇の神事が行われる日だった。皇室神道・神社神道・学校行事が国家神道の主要な儀礼の場だった。子供たちは教育勅語や修身科や歴史の授業を通して、「万世一系」の天皇統治を賛美する国体思想や天皇崇敬の教えに親しんでいった。
このように島薗は、皇室祭祀や天皇崇敬を重視し、天皇崇敬が学校教育や国民行事やマスメディアなどを通じて広められたことを重要視して、それを「国家神道」とやらの主要な構成要素だとみなすわけです。そして、「国体の教義」と「皇室祭祀」や「神社神道」を結びつけたのは、教育勅語や祝祭日システムやメディアだとしています[島薗 2010: pp.94-95]。
そのうえで島薗は、「国家神道」は戦後も存続して現在に至っているなどと主張しました。
第二次大戦後の国家神道はたとえ「解体」されたとしてもけっして消滅したわけではなかった。戦後の国家神道は二つの明確な座をもっていた。一つは皇室祭祀であり、もう一つは神社本庁などの民間団体を担い手とする天皇崇敬運動である。前者は見えにくい形で隠れているが現存の法制度の中での国家神道の核であり、後者はその核を見据えつつ国家神道的な制度を拡充していこうとする団体や運動体である。さまざまな政治・宗教・文化団体があり、さらに広く国民の間にゆきわたっている天皇崇敬や国体論的な考え方・心情がある。これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っているのだ。
多くの批判にさらされる島薗説
このように島薗は、神社神道を「国家神道」の「基体」と捉えないと宣言し、「国家神道」の構成要素に皇室祭祀や天皇崇敬や大日本帝国憲法や教育勅語や学校教育や国民行事やマスメディアなどを含めています。「神道」に含めていいのか疑問があるものも、「国家神道」というフォルダに放り込まれているわけです。これまでに見てきたように、加藤玄智から村上重良に至る「広義の国家神道」論では、「神道」は神社にだけ存在していると考えるのではなく、「神道」の「精神」に関係がありそうな領域とか、天皇に関係がありそうな領域であれば、どこにでも「神道」が見い出される傾向があります。そうやって「神道」の範囲が大幅に拡大し肥大化する傾向を、島薗説も受け継いでいるわけです。
島薗の見解に対しては、多くの批判が寄せられました。例えば、阪本是丸の弟子筋にあたる神道学者の藤田大誠(1974-)は、神社神道が「基体」ではない何ものかを、あえて「国家神道」という概念でくくって表現する必然性は全くないと指摘しました。島薗説では、近代日本で打ち出された様々な「理想」とその「現実」とのあいだの厳密な線引きがほとんどなされていないとも指摘しています。島薗はこれまでの近代神社史研究の蓄積を十分に踏まえることなく議論を行っており、「国家神道」の語を濫用したり肥大化させたりしているとも指摘しています[藤田 2011][藤田 2014]。
新田均も、島薗が神社神道を「国家神道」の「基体」と捉えないと宣言したことについて、次のように述べています。加藤玄智から神道指令を経て村上重良に至る「広義の国家神道」論において、「現人神」の観念や神社神道は「国家神道」の中核的要素だとされ続けてきた。島薗のように「国家神道」からそれらを抜き去って中身を入れ換えてしまいながら、なおも「国家神道」という用語を用い続けるのは、「細胞の核を入れ替えておいて、 細胞核だけが細胞を構成するのではないから、 核を入れ替えても同じ細胞だ、 と主張するに等しい違和感を読者に与える」「『現人神の観念』や『神社神道』を抜きにしたら『神道指令』も『天皇の人間宣言』も、その意味が理解できなくなる」。よって「自説を的確に表現できる名称を捜し、先行学説との混同混乱をきたさないようにすべきだろう」としています[新田 2011][新田 2014]。
また島薗が、戦後も皇室祭祀が行われ続けていて神社祭祀との結合関係が見られることや、神社本庁などの民間団体による天皇崇敬運動が存在することを根拠に、「国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っている」などと主張したことについても、批判が寄せられています。日本思想史を専門とする三ツ松誠(1982-)は、次のように論じています。
島薗は「国家神道」時代の意識・心性を保存した団体を例示するが、戦後の信教の自由の中で、国家機構の外側に存在している以上、戦前とは異なる「宗教地形」の中に配置されているものと言わざるをえまい。内務省という大官衙の一部にあった神社関係部局と、神社本庁は、たとえ公社が島薗にとって「国家神道興隆」を目指すものに見えたとしても、社会的に同一の機能を果たすものではない。皇室祭祀も、実際の儀礼における連続性はさて措き、その社会的・国家的意味は、その総体の変化の中で位置付けなければ、まさに木を見て森を見ず、ということになってしまう。
戦前の巨大官庁である内務省に置かれていた神社局が神社を管理していた状態と、戦後の民間団体である神社本庁が活動している状態を同一視できるのかというと、大いに疑問だというわけです。また、皇室祭祀が戦後も行われ続けているといっても、その「社会的・国家的意味」は戦前と戦後では全く異なるだろうというわけです。
山口輝臣は三ツ松によるこの指摘を受けて、もし内務省神社局と神社本庁のような民間団体の役割が変わらないというのなら、戦前に国家管理下にあった神社と、仏教などの「諸宗教」との区別も消滅してしまうのではないかとしています[山口 2018: p.193]。そうなったら、そもそも近現代の日本に「国家神道」とやらが君臨しているという議論自体が根本から成立しなくなるということでしょう。
新田均も、「国家神道は戦後も存続している」という島薗の主張を批判して、次のように述べています。島薗は「国家神道」の主要な構成要素として、「天皇崇敬」が「学校教育」「国民行事」「マスメディア」を通して広められたことを重視している。だが、戦後に教育勅語は廃止され、神社は国家管理から切り離されて、これらの構成要素は失われた。ところが、島薗はそれでも「国家神道」は戦後も存続しているんだという。ということは、 「学校教育」「国民行事」「マスメディア 」 は「国家神道」を構成する本質的な要素ではないということになってしまう。よって島薗の理論は根本から破綻している、というわけです[新田 2014: pp.299-300]。
また山口輝臣は、島薗が2010年に『国家神道と日本人』を出版したことについて次のように述べています。
半世紀近く前と似た構図がもう一度出現したと考えると、理解しやすい。
一九九六年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」の運動や、二〇〇一年の小泉純一郎首相による靖国神社参拝などをきっかけに、それらに危惧の念を示し「右傾化」のレッテルを貼りつつ、「国家神道」を喚起することでそうした運動を抑えようという動きも出てきた、という構図である。この類比をもう少しだけ続ければ、対抗運動のなかで「国家神道」の「再創造」を試みたのが、島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書、二〇一〇年)ということになるだろう。
つまり、1960年代の政治状況が戦前に回帰する方向に向かっていると考えて危機感をつのらせた村上重良が、その危機感を投影して「国家神道」という概念を再創作していったように、島薗も90年代以降の政治状況に危機感をつのらせて、「国家神道」という概念の再創作を試みたのだというわけです。
確かに、島薗がその後2021年に出版した『戦後日本と国家神道』という本のなかで次のように述べて、現代の政治状況に対する危機感を表明しています。
「国家神道の復興」を目指す潮流が、占領期から現在に至るまで、そのつど時期に応じたアジェンダを設定しつつ、一定の影響力を行使して第二~第四次安倍政権(二〇一ニー二〇年)に至っている。(中略)二〇〇〇年代に入ると、神聖天皇こそが日本文化の根底にあるという議論が強まり、戦前回帰的な言説も広められるようになる。
このように、島薗の「国家神道」論の背景には、現代の政治状況に対する危機感があります。自分が危険視しているイデオロギーが勢力を増していると考えて危機感を覚え、それを反映する形で議論を展開している点では、村上重良と全く同じです。
「右傾化」をこれまで通り「国家神道」を喚起する手法で抑止しようとするならば、手っ取り早い方法は、「国家神道」がいまここにあるとすることだろう。戦前のものへと押しとどめられ、その復活を危ぶまれてきた「国家神道」は、そのさらなる肥大化――具体的には、①皇室祭祀の継続とその神社祭祀との結合、そして②神社本庁の存在という二つの要素に絞り込み、それさえあれば「国家神道」が続いているという形での――により、現在も存在しているものと定位し直され、いまを生きるわれわれのなかに見出される。その結果、復活をたくらむ運動への対抗運動のみならず、そうした「国家神道」の排除、たとえば宮中祭祀の停止なども、少なくとも理論的には、要請されてくるはずである。その意味で、村上重良らのものよりも、その戦闘性は格段に高まっている。
なんともミもフタもないようですが、こういうことでしょう。「国家神道」という用語をともかくも維持しておけば、近現代の日本には「国家神道」という“なんだか狂信的でやばそうなもの”が君臨してきたというラフで“わかりやすい”イメージを、ともかくも喚起することができる。自分が危険視している右派陣営の動きを抑え込むための「“わかりやすい”物語」を提供できる。
だが、阪本是丸らの緻密な実証研究が蓄積された現在では、戦前の神社神道が強大な力をもって「諸宗教」の上に君臨していたというストーリーはもはや成り立たない。そこで、神社神道を「国家神道」の「基体」だと捉えないと宣言して、無理をしながら近現代の日本では「国家神道」なるものが強大な力をもって君臨しているのだ、現在も存続しているのだと主張した。山口の指摘に従うのならば、そういうことになるのでしょう。
先ほど述べたように島薗は、「近代日本人の精神生活」の「全体像や見取り図」が必要であり、「国家神道とは何か」を論じることでこのニーズが満たされると論じていました。しかし新田均は、「全体像や見取り図」が「国家神道」という狭い問いに押し込められてしまったことで、「近代日本人の精神生活」の複雑さやダイナミズムを捉えることに失敗していると指摘しています。
宗教に限っても浄土真宗やキリスト教や日蓮宗、思想を言うなら総力戦思想や共産主義やナチズムやブロック経済圏思想、組織で言うなら警察や軍隊、学問で言うなら歴史学や神話学や人類学や考古学や民俗学、それらを抜きにして「近代日本人の精神生活」の「全体像」などとても語ることはできない。「二重構造」どころか多重構造、いやむしろ多元構造をなしているのが「近代日本人の精神生活」の実態だろう。
狭小な全体像の設定が、問題の広さに追いつけず、「近代史、近代宗教史というわれわれの過去をあるがままに直視する目」が却って曇らされてしまっている。「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結び付いて信仰生活の主軸となった神道の形態」という定義に捉われている限り、右のような諸要素に研究関心が向くことはない。これこそ、私がいう自由な発想に基づく研究に対する「国家神道」論の抑圧性なのである。
すなわち、研究が「必然的に国家と神社神道との関係に限定され、政府とその他の宗教との関係は無視されるか、抑圧者と被抑圧者・抵抗者との関係としてしか研究されな」くなってしまうというわけです。近代の日本では神道が「悪しき抑圧者」として強大な力を握って「諸宗教」の上に君臨しており、島地黙雷のような真宗関係者は「かわいそうな被抑圧者・抵抗者」にすぎなかった、式の単純極まる「物語」を描いてしまったりするというわけです。
山口輝臣も次のように述べています。
『国家神道と日本人』のような議論では、どんな研究もブラックホールのように吸収されてそれきりになってしまう。すべてが「国家神道」との関わりで位置づけられ、その学説にとってのみ意味があるつくりになっているからである。「方法」としての「国家神道」の面目躍如であろう。加藤玄智の「国家的神道」を彷彿とさせるところがあり、神智学に喩えられるかもしれない。
「神智学に喩えられる」というのは、おそらく次のようなことでしょう。オルコットとともに神智学協会を設立したブラヴァツキーによれば、宇宙と人間に関する秘密の普遍的な真理が、太古の昔からヘルメスやモーゼやオルフェやピタゴラスやプラトンやイエスといったごく一部の賢者のみに伝授されており、仏教やキリスト教といった古今東西の様々な「宗教」には、その根源的な真理が断片的に表現されているのだそうです。つまり、いろんな「宗教」の源は実は一つであり、その源から古今東西の様々な「宗教」が時代に応じて生まれたのだというのです。よって、表面的には対立しているように見える「諸宗教」の根源に共通する秘密の真理に目覚めることで、個々の人間の霊的な進化が成しとげられるのだそうです。
こうした見方をとるのなら、仏教であれキリスト教であれヒンドゥー教であれイスラームであれ何であれ、どんな「宗教」も神智学が考えるような「根源的な一つの真理」を説いているのだという「物語」に回収されるほかはないでしょう。仏教やキリスト教やヒンドゥー教やイスラームなどの複雑な違いはすべて“なかったこと”にされてしまい、それらが説いている教えはすべて、神智学が考える「秘密の真理」を説いたものだというストーリーに「ブラックホールのように吸収されてそれきりになってしまう」ほかはない。空があんなに青いのも、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、ぜんぶ「秘密の真理」のせいだということになってしまい、どんな事象も最終的にはすべて黒塗りの高級車に追突するものでしかなくなってしまうわけです。
それと同様に、「国家神道」という概念を“自明の前提”にしてしまうと、近代の日本で見られた浄土真宗や日蓮宗やキリスト教や日蓮宗や総力戦思想や共産主義やナチズムやブロック経済圏思想や警察や軍隊などなどといった複雑きわまりない多様な現象が、すべて「国家神道」という「物語」に「ブラックホールのように吸収」されてしまう。それらの事象はすべて、最終的には「国家神道」という名の黒塗りの高級車に追突するものとしてしか描かれなくなってしまう。これでは、近代の日本を「如実知見」する目はくもってしまうというわけです。
以上のようなわけで、島薗説は専門家による多くの批判にさらされており、村上説が抱えていた数多くの問題点を解消することに成功したとは認められていません。
エピローグ
さて、「国家神道」論に関わった研究者はほかにもいますが、研究史のざっくりした流れの話はいったんこれくらいにしましょう。「話がものすごくややこしくなる理由」「話がこじれにこじれて、何が何だかわからなっていく理由」「仏教で言うところのプラパンチャ(ことばの虚構)がふくれあがっていく理由」について記してみたいと思ってこんなクソ長いものを書いておるのですが、どうでしょうか。
話をちょっくら整理してみましょう。
〇戦前においては、「国家神道」ということばが用いられた例は非常に少数だった。その少数の用例は、19世紀末ごろから見られる。明治41(1908)年の衆議院での小田貫一による発言に見られるように、「国家によって管理され、教派神道から区別されて『非宗教』だと“された”神社神道」ぐらいの意味の用例もあった(神道指令に見られる狭義の「国家神道」定義や、戦後の「狭義の国家神道」論に近い用例)。
〇1920年代に、加藤玄智が「国家的神道」という概念を創作した(戦後の「広義の国家神道」論の起源)。加藤の言う「国家的神道」は、当時の日本の状況を正確に記述したものではなく、加藤の願望や理想を大いに含んだものだった。しかし、主に満州事変以降には、神社参拝が事実上強制されるようになったり、天皇崇敬のイデオロギーが大きな力を持つようになるなど、加藤の描いた理想に合致するような現象も見られた。
〇加藤が創作した「国家的神道」という概念は、加藤→ホルトム→バンスという経路で受け継がれて、神道指令に「国家神道」という概念が登場した。「国家神道」という語が一般に用いられるようになるのは、神道指令以降のことである。この新たな概念は、広義にも狭義にも解釈できる曖昧さを含んでいた。
〇その後、戦後の政治闘争のなかで、藤谷俊雄や村上重良らによって、「国家神道」という概念は再創作されていった。村上は、1960年代の政治状況が戦前に回帰する方向に向かっていると考えて、危機感をつのらせた。村上は、その危機感を投影する形で、神道指令には登場しない“戦前っぽい”要素も「国家神道」に含めていった。「国家神道」という概念は、戦後の政治闘争を通じて再創作され、さらに肥大化した。
〇葦津珍彦は、村上説をはじめとする「国家神道」論を批判し、「国家神道」という語が、「時により人によって、勝手しだいに解釈」されて曖昧に用いられていると指摘した。そして、「国家神道」という概念を、神道指令に見られる「日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派」という定義に限定して用いた(「狭義の国家神道」論)。葦津は、この意味での「国家神道」は、無精神で世俗合理主義的で無気力で無能な「官僚神道」だったと論じた。
〇村上は、マルクス主義の強い影響下にあった左派の宗教学者であり、津地鎮祭訴訟においても、原告側を支援する活動に深く関与した。葦津は、「神道の弁護士」「神道の社会的防衛者」と呼ばれた右派論客だった。「国家神道」研究は、戦後の政治的なイデオロギー対立をめぐる過程から生まれ出た面が大きく、当初からイデオロギー性を濃厚に有していた。
〇村上説には、多くの研究者による批判が集中した。村上説が多くの問題を抱えていることや、そのままでは成立しないことはひとまず明らかになった。だが、村上説にかわる説が定説になったわけでもない。というのも、「明治維新から敗戦までの日本の政教関係はどのようなものだったのか」という問題に対して、定説たりうるような答えを提示した研究は、現時点では存在しない。「この主張は事実に反する」「この認識は間違っている」といった部分的・個別的な修正の積み重ねはあるが、「近代日本の政教関係の全体像はどのようなものだったのか」は誰も提示できずにいる。誰も全体像を提示できずにいるうちに、島薗進は2010年に『国家神道と日本人』を出版し、村上説を対症療法的に応急修理しようとした。だが、島薗説は専門家による多くの批判にさらされており、村上説が抱えていた数多くの問題点を解消することに成功したとは認められていない。
ざっくり整理すると以上のようになります。こうした経緯を一瞥しただけでも、話が非常にややこしいことになっていくのも無理はないとは言えそうです。戦後の政治闘争が深く絡んでいるのも話がこじれる一因ですが、単純にそれだけが原因というわけではもちろんありません。
近代の建築史を専門とする青井哲人(1970-)は、以上のような問題についてこう記しています。
そこで作業に従事しているのは、かつてそこに建っていた建物を再建しようと汗をかく人々と、それは幻なのだと黙々と取り壊しに勤しむ人々である。同じ現場に、建設班と解体班がともに働く奇妙な現場。着工から七十五年ほどにもなるという。両班とも、目的が達せられそうにないので苛立ちを隠さない。周囲から不動の建物のように見えているのは、相反する作業の並走が生み出す効果だろうか。作業の様子は外からはうかがい知れないので、内部は廃墟かもしれぬ、構造もまともではないかもしれぬなどと詮索する人は少ない。いや、もし一歩でも踏み込めば、実際はもっと捻じれているのに驚くに違いない。建設班は建物の上層部を押し広げようと鳶職人よろしく足場を飛び回り、おかげで建物は奇怪な姿に膨らむ。彼らになぜそんな作業をと聞けば、かつてあった憎むべき建物を人々に示し、その醜さを教えるためだと答える。彼らが取り付けた部材を他方の解体班が取り外し、引き下ろそうとするが追いつかない。よく見ると、彼らは建物の最下部で、揺るぎない完璧な基礎をつくる作業に静かに専念していた。いつだったか、この奇妙な現場の指導にやってきた検査員たちが、あれこれ吟味した挙げ句に、なぜか得体の知れぬこの建物を既成事実として公認してしまうという一件があった。訝る人が減ったのはその頃からだろうか。――終わらない建設現場の寓話
もはや野暮な解説を施して屋上屋を架す必要などないかもしれませんが、一応説明しておきましょうか。「建設班」というのは村上重良をはじめとする「広義の国家神道」論をとる人々を指し、「解体班」は葦津珍彦や阪本是丸などの「狭義の国家神道」論をとる人々を指します。「着工から七十五年ほど」というのは、神道指令によって(加藤玄智やホルトムによる戦前の言説の流れを受けつつ)「国家神道」という名の戦後の創作物がつくられ始めたということでしょう。
「建設班は建物の上層部を押し広げようと鳶職人よろしく足場を飛び回り、おかげで建物は奇怪な姿に膨らむ」というのは、村上重良などによって、宮中祭祀や帝国憲法や教育勅語や治安維持法や宗教団体法や「国体の教義」その他その他といった、神道指令にもなかった様々な要素が「国家神道」というフォルダに放り込まれ、「国家神道」という概念が肥大化していったことを指すのでしょう。解体班が「建物の最下部で、揺るぎない完璧な基礎をつくる作業に静かに専念していた」というのは、葦津や阪本が神道指令の「国家神道」の定義(狭義)に立ち返って、「国家神道」の範囲を神社行政に限定したうえで、一次史料を精査して緻密な実証研究を展開していったということでしょう。
「検査員たちが、あれこれ吟味した挙げ句に、なぜか得体の知れぬこの建物を既成事実として公認してしまうという一件があった」というのは、津地鎮祭訴訟の最高裁判決によって、村上の歴史像が言わば「公定」されてしまったということでしょう。「作業の様子は外からはうかがい知れないので、内部は廃墟かもしれぬ、構造もまともではないかもしれぬなどと詮索する人は少ない。いや、もし一歩でも踏み込めば、実際はもっと捻じれているのに驚くに違いない」というのは、村上説は問題だらけであり、もはやそのままでは通用しないと多くの専門家によって考えられているが、そうした事情は一般にはまだまだ知られていないことを指すのでしょう。青井は、「国家神道」とは「廃墟のまま稼働を続けるグロテスクな建設現場」みたいなものか、としたうえでこう評しています。
建設と解体のねじれた並行性。あるいは同時代の実践的政治意識を過去に投影する転倒。先達の議論の転用、精緻化、実証主義のニヒリズム。それらが入れ子をなして堆積する、四次元的に捻じれた玉ねぎみたいなものだ。
まず、「国家神道」という概念は、戦後の人々が全くのゼロから創作したというわけでもないことも、話をややこしくさせる一因だと言えるでしょう。
例えば、「縄文時代」という概念は、縄文時代を生きた人々によって用いられていたわけではありません。後世の人が、時代を区分するためにつくった概念であることは明らかです。こういう話であれば、そんなにややこしくはないでしょう。ところが、「国家神道」という概念の場合、戦前にも戦後と似たような用例が(少数とはいえ)存在していました。加藤玄智が唱えた「国家的神道」という概念が、神道指令につながっていく流れもあります。こうした戦前と戦後の関係をどう見るかによっても、歴史像は変わってくるでしょう。「戦前と戦後に連続性がないわけではない以上、『国家神道』という概念が戦後の創作であるとは言い切れないのではないか」と思う方もおられるかもしれません。
でも、繰り返しになるようですが、加藤が唱えた「国家的神道」は、当時の日本の「現実」を正確に記述したものではなく、あくまでも加藤の理想や願望を大いに含んだものでした。ということは、加藤玄智→ホルトム→神道指令(バンス)という伝言ゲームを通じて、元々は加藤の理想像だったものが、戦前の日本の「現実」であるかのように誤解されるようになっていったと考えることができます。そういう「誤配」が起源になって、近代の日本には「国家神道」という“なんだか狂信的でやばそうで巨大なもの”が「現実」に君臨していたのだという「物語」や、近代の神社神道の力を過大に評価した「物語」や、近代の日本では明治初期からずっと「国家神道」というものが君臨していたという「物語」が、戦後に新しく創作されていった。そのような見方も可能です。

これまでに見てきたように、戦前の神社行政(図の青色部分)の力は、戦後に過大に見積もられてきました(戦時体制が整備されるようになって、内務省神社局が神祇院に格上げされるに至っても、神祇院はロクに国民教化を行うことが出きず、法令の不備によって戦勝祈願一つ独断で行うことはできなかった。外地で敗戦までに従軍した神社神道の神職はたったの二名だけであり、戦後にGHQによって公職追放となった神祇院官僚も一人もいなかった。葦津珍彦に言わせれば、青色部分は無精神で世俗合理主義で無気力にして無能だった)。
その一方で、満州事変以降には、神社参拝を事実上「拒否できない空気」ができていったり、天皇崇敬のイデオロギーが大きな力を持つようになるなど、図の黄色部分に含まれる文化的・社会的現象が大きな高揚を見せました。つまり、青色部分には戦後に言われるような強大な力はなかったが、黄色部分は満州事変以降に大いに盛りあがり、加藤が描いた理想に合致するような現象も見られた。
ちょっと整理してみましょう。
①戦前の青色部分の「現実」
②戦前の黄色部分の「現実」
③加藤玄智らが描いた「理想」
「国家神道」という戦後の「物語」は、②が満州事変以降に大いに高揚したことを①の「現実」と混同して、①が戦前の日本に強大な力を持って君臨していたと誤解したり、③を①②と混同して、加藤が描いた「国家的神道」が、明治初期から一貫して「現実」に存在してきたと誤解したりすることで、戦後に創作されていったと考えることができるように思われます。
言い換えると、①~③の要素をきちんと腑分けしたり、戦前に描かれた「理想」とその「現実」をきちんと区別したりせずに、短絡的に結びつけたり安直に同一視したりするなどの操作によって、戦後に「国家神道」というプラパンチャ(ことばの虚構)が創作されていき、①の力を過大に見積った虚像も生まれたと考えることができるように思われます。藤田大誠が島薗説を批判して、島薗説では近代日本で打ち出された様々な「理想」とその「現実」とのあいだの厳密な線引きがほとんどなされていないと指摘したことも、こうした問題とリンクしているように思われます。
また、「広義の国家神道」論の問題点として、例えばこういうこともあります。先ほど述べたように、戦前の「新宗教」弾圧は主に警察犯処罰令によって引き起こされたものです。よって、神社や天皇制がそうした「新宗教」弾圧に直接的に関係していたとは言い難く、「国家神道」とやらのせいで「新宗教」弾圧が起こったという説には実証的な根拠がありません。また、神職と警察官の採用・養成システムはまったく異なっていたうえに、神社を監督する内務省神社局と警察を所管する同省警保局とでは人事上のつながりは希薄でした。
この問題を先ほどの図にあてはめると、「新宗教」弾圧は黄色部分に含まれ、神社行政は青色部分に含まれます。ところが、実際には両者の結びつきは希薄である。「広義の国家神道」論では、「新宗教」弾圧も神社行政も「国家神道」という名前のフォルダにぶちこまれているけど、実際には両者の関係性や結びつきは見い出し難い。
つまり、「広義の国家神道」論は、黄色部分のいろんな要素と青色部分を結びつけることに失敗しているということになるわけです。関係性を見い出し難いものを雑に同じフォルダに放り込んでしまっているわけです。そもそも、「国家神道」という名の「物語」は、先ほどの①~③をきちんと腑分けしたり、戦前に描かれた「理想」とその「現実」をきちんと区別したりせずに、短絡的に結びつけたり安直に同一視したりするなどの操作によって創作されていったと考えれば、こうした混迷が生じるのも、もっともなことではあります。いずれにせよ、この問題を論じる際には、戦前に加藤玄智らが描いたような「理想」の話をしているのか、戦前の「現実」の話をしているのかをきちんと区別しないと議論が混乱してしまうとは言えそうです(特に黄色部分については、そうした区別が重要でしょう)。
ともあれ、「国家神道」という名の戦後の「物語」は、元々は加藤の「理想」だったものを近代の日本の「現実」と混同することで創作され、60年代の政治状況に危機感を募らせた村上重良などによって、その危機感を投影する形で再創作されていきました。そういう意味で「国家神道」なるものは、「二重の空虚」を抱えたグロテスクなパロディとでも言うべき代物だ、とでも言ったら言いすぎでしょうか。
大ざっぱに見て、現今二つの方向性があるように思われる。すなわち、神道史研究者を中心とした戦前期の神道の諸相・実相解明へ向かう者たちと、村上を政治的・手法的にも引き継ぎ現代版への衣替えを試みる主に宗教学・思想史研究者、その両極と言えようか。そこには、政治的スタンスや研究実践の点で一部分重なり、また一部分では距離をとる者もいるようだ。しかしその双方の極においては、対話も途切れがちに、折り合えぬままに並立しているというのが、筆者の印象である。
さて、繰り返しになりますが、「近代日本の政教関係の全体像はどのようなものだったのか」という問題に対して、定説たりうるような答えを提示した研究は、現時点では存在しません。「広義の国家神道」論と「狭義の国家神道」論は、今も「折り合えぬままに並立」しています。山口輝臣や新田均のように、そもそも「国家神道」という問題の多いことばを学術用語として用いるべきではないという立場の研究者も出てきました。近代の日本で見られた多様で複雑極まる現象を、「国家神道」という名の「物語」に無理やり押し込んでしまうと歪んだ近代史像を描いてしまうから、「国家神道」という枠組みから自由になろうというわけです(すでにお気づきの方もおられるかもしれませんが、本稿はこの立場に共感するものです)。
このように、今回本稿で扱った問題には定説と呼べるようなものはいまだになく、研究者の意見も一致しない点が多くあります。この状況がすぐに大きく変わることはおそらくないでしょう。ただ、素人の私にも一つだけ言えそうなことがあるとすれば、近年は、従来とはだいぶ毛色が異なる興味深い研究が出てきているということです。これらの研究のなかには、既存の研究とは異なるアプローチをとることで、従来の「国家神道」論と全く異なる景色を切り開いてみせた衝撃的なものもありますので、次回紹介してみたいと思います。今回はこれくらいにします。
(その8につづく)
参考文献
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碧海寿広『入門 近代仏教思想』ちくま新書、2016年
碧海寿広『近代仏教とは何か その思想と実践』青土社、2024年
小川原正道『日本政教関係史 宗教と政治の一五〇年』筑摩選書、2023年
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岡田莊司・小林宣彦編『日本神道史 増補新版』吉川弘文館、2021年
川又俊則・小島伸之・寺田喜朗・塚田穂高編著『近現代日本の宗教変動 実証的宗教社会学の視座から』ハーベスト社、2016年
小島伸之「昭和十年代における特高警察による宗教取締の実証的研究 検挙取締報告を中心に」、博士学位論文(東洋大学大学院社会学研究科)、2006年小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】』ちくま新書、2018年
近藤俊太郎「胎動する近代仏教」、大谷栄一・島薗進・末木文美士・西村明編『近代日本宗教史 第1巻』、春秋社、2020年
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阪本是丸『明治維新と国学者』大明堂、1993年
阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店、1994年
阪本是丸『近代の神社神道』弘文堂、2005年
阪本是丸編『国家神道再考 祭政一致国家の形成と展開』弘文堂、2006年
櫻井治男『蘇るムラの神々』大明堂、1992年
島薗進『国家神道と日本人』岩波新書、2010年
島薗進『『戦後日本と国家神道 天皇崇敬をめぐる宗教と政治』岩波書店、2021年
島地黙雷/福嶋寛隆・二葉憲香編『島地黙雷全集第4巻』本願寺出版、1976年
中島三千男「「明治憲法体制」の確立と国家のイデオロギー政策 国家神道体制の確立過程」、『日本史研究』176、1977年a
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新田均『近代政教関係の基礎的研究』大明堂、1997年
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新田均「「国家神道」論の系譜(下)」、『皇學館論叢』187、1999年b
新田均「「国家神道」研究の整理」、『神道史研究』53(1)、2005年
新田均「書評と紹介 島薗進著『国家神道と日本人』」、『宗教研究』85巻2号、2011年
新田均「最近の動向を踏まえた「国家神道」研究の再整理」、『宗教法』32、2013年
新田均『「現人神」「国家神道」という幻想 「絶対神」を呼び出したのは誰か』神社新報社、2014年
羽賀祥二『明治維新と宗教』法蔵館文庫、2022年
菱木政晴『浄土真宗の戦争責任』岩波ブックレット、1993年
平野武「近代天皇制国家の政教関係」、日本近代法制史研究会編『日本近代国家の法構造』木鐸社、1983年
平山昇『初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』東京大学出版会、2015年
平山昇「「国家神道」再考 ―明治神宮鎮座百周年にあたって―」、『地歴・公民資料90号』、2020年
藤井貞文「出雲大社教成立の過程」、神道学会編『出雲学論攷』出雲大社、1977年
藤田大誠「「国家神道」概念の有効性に関する一考察 島薗進著『国家神道と日本人』の書評を通して」明治聖徳記念学会紀要復刊第48号、2011年
藤田大誠「「国家神道」はいかに論じられるべきか 島薗進著『国家神道と日本人』を読む」、小島伸之編『近現代日本の宗教とナショナリズム 国家神道論を軸にした学際的総合検討の試み』平成23年度~平成25年度 科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書、2014年
藤谷俊雄「国家神道の成立」、家永三郎他監修『日本宗教史講座 第1巻 国家と宗教』三一書房、1959年
宮地正人「近代史部会報告批判」、『日本史研究』178、1977年
宮地正人『天皇制の政治史的研究』校倉書房、1981年
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村上重良「紀元節復活と神社神道」、『日本史研究』91、1967年
村上重良『日本百年の宗教』講談社現代新書、1968年
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村上重良『国家神道』岩波新書、1970年
安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書、1979年
安丸良夫『近代天皇像の形成』岩波現代文庫、2007年
山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会、1999年
山口輝臣『明治神宮の出現』吉川弘文館、2005年
山口輝臣編『戦後史のなかの「国家神道」』山川出版社、2018年
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