小説『まだ下書きの音符』
深夜、仕事部屋にしているマンションの1室で仕事が思う通りにはかどらず、俺は苛々しながらビールを飲んでいた。音楽を生業としているが今日は妙に落ち着かず愛用しているギターでも滑らかにメロディーが作れない。すると突然電話が鳴った。誰だ。こんな時間に。つい電話にまで舌打ちしてしまう。
「はい」
俺は無愛想に答える。
「終電に乗り遅れちゃったんだけど、今から行ってもいい?」
聞き慣れた女の声。彼女は俺の恋人だ。とは言ってもまだ付き合って日が浅い。とても無邪気で俺の顔を見るととにかく纏わりついてくるが、それが憎めない。
「今どこから?」
「あなたのマンションの前」
慌てて窓を見ると、スマートフォンを持った彼女がこちらを見つけ、手を振った。
「すぐ来い!」
「はーい」
そう軽く返事をすると彼女からの通話はすぐに切れた。
全く。若い女がたったひとりで深夜にうろつくなんて。このご時世、物騒な事件が多いと言うのに。ほんの数分の間にドアフォンが鳴った。俺がすぐにドアを開けると、夜なのに眩しいものが目に飛び込んで来たようだった。彼女は重量感のあるデニムを羽織り、高いヒールの靴と足首まで長さのある柔らかそうな白いニットのワンピースを纏っていた。眩しく感じるのは彼女が首に巻いたフューシャピンクのストールのせいだろうか。
「こんばんは。あなたの住所憶えてて良かった。一度しか来たことがなかったから」
ため息をつきつつそんな無邪気な彼女を玄関に入れた。
「随分派手な恰好だな。何してたんだ?」
「友達の誕生パーティーだったの。ドレスアップは当然でしょ?」
「ここに来るのも当然か?」
「ごめんなさい。すぐ帰るから一休みさせて」
「すぐ帰るったって終電なんてないだろう。俺も酒が入ってる」
「あら、仕事中にお酒? 悪い人ね」
「……まあ、取りあえず入って」
俺はお手上げ、というように肩を竦め、彼女を部屋の中に案内した。
彼女はきょろきょろと物珍しそうに部屋の中を見渡した。
「ここって仕事部屋なのよね」
「うん。仕事部屋だけど少しは生活もできるくらいにはしてあるよ」
「そうか。だから色んなものが揃ってるんだ。キッチンだってすぐ使えるじゃない。あ、食材も入ってる。ね、お腹空いた。何か作っていい?」
「ああ、うん」
俺は腕を組んで彼女を黙って見たが無愛想に見えたらしい。
「そんなに怖い顔しないでよ。やっぱり迷惑だった?」
ああ、強面で面倒な俺の顔。
「いや、ただこの後どうやって君を送ろうかと考えていたんだ」
彼女はフライパンとカッティングボードを置いてリビングの中央まで歩いてきて俺がさっきまでギターを弾いていたソファに腰を下ろした。
「ね、少しの間だけ思考を停止して」
彼女は椅子の背に両腕をかけ、その腕に顎を乗せて目の前にいる俺の目をじっと見つめた。ふと、それもそうかも知れないと考え直した。今の俺は考え過ぎていて頭の中に余裕がなかった。最近は休みも平日だったり休日だったりばらばらで、何よりここ最近は特に多忙で、思考を停止するなんて思いつきもしなかった。
「何だかごめん。少し八つ当たりしたみたいだな。せっかく来てくれたのに。君も飲むかい?」
「ありがと。ごちそうして。あ、食べ物は?」
「一緒にいただくよ」
彼女は可愛く笑った。
俺は冷蔵庫から缶ビールを出して彼女に渡した。
彼女はすぐにプルタブを引くと形の良い唇に缶を当てビールをひとくち飲んだ。部屋の暖かさに馴染んだのか羽織っていたデニムジャケットを脱いだ。体の線を隠すニットだったがそれでも彼女の体の細さが判った。思わず一瞬見とれてしまい、慌てて目を逸らした。淡い色のニットワンピースの中で躍動する体が目に入る。首には唐突なピンクのストール。その姿がとても可愛くて何だかクラクラしてくる。まったくこんな夜中に無防備だ。
そんな彼女がキッチンに立ち、冷蔵庫に眠っていた野菜や調味料などを見て何品か料理を完成させた。もちろん何もできない、などとは思っていなかったがあっという間に美味しそうな小皿料理が出て来たのでこれには流石に驚いた。
「料理の勉強をしたことがあるの?」
「そんなの毎日よ。人間はずっと食べ続けるものでしょ」
料理をする人間はそんな考えなのか? いつもコンビニの弁当やカップ麺で済ませるような自分では思いつかないような哲学的な答えが返ってきたので少しソワソワした。
「ええと……友達は無事に帰れたの?」
俺は話を逸らすように問いかけた。
「パーティーは友達の家でやってたの。彼氏と一緒に暮らしてるのよ。遅くなっちゃったから心配してくれたけど、まさか恋人同士の間に入って眠る訳にはいかないでしょう?」
俺ならいいのか? と、言いかけてやめた。
「それに今、ふたりの間が複雑みたいだからお邪魔しちゃ悪いと思って。あの……行く所があるからって言っちゃったの。本当に突然ごめんなさい!」
本当に済まなそうに彼女は頭を垂れた。俺は最初こそ説教じみた言葉を考えていたが、最後の謝罪で言葉を飲み込んだ。
「もういいよ。気にするな」
とりあえず彼女が作ってくれた料理とビールで乾杯した。しかし彼女は心なしかまだ少し何かを気にしているようで時折顔を俯ける。
「大丈夫か?」
「え?」
「さっきまでの威勢の良さが感じられないぞ。どうした?」
思わぬ言葉だったらしく、彼女は動揺していた。俺は彼女の視線の迷い方を見て勘付いていた。あの元気は彼女の演技だ。何か思い詰めているのを隠している。俺の視線を感じたのか彼女は目を逸らした。その先にビールの空き缶がいくつも転がっていた。
「……すごい数ね。あんなに飲んでもギター、弾けるの?」
バツが悪かったが、いきなりの電話だったから片付ける余裕もなかったのだ。
「触ってみてもいい?」
「缶を?」
「ギターよ」
しまった。何を大喜利のようなことを言っているんだ、俺は。彼女は笑った。俺はいつも使っているアコースティックギターを彼女に渡した。
「わ、重い」
「君には少し大きいかな」
彼女はやっと楽しそうな笑顔になった。そして弾けもしないのに持ち方だけ整えた。偶然出た音はマイナーだった。
「お化けが出そうな音!」
俺は吹き出しながら彼女の斜め後ろに立って、メロディーを軽くつまびいた。
「すごいわ! さすがプロフェッショナル!」
「大げさだよ」
そうは言いつつ当然悪い気はしない。そう、単純なんだよ、俺は。彼女は俺の形だけ真似をしたが、当然うまくいかない。首を傾げながらたった今俺が弾いたフレーズを必死に弾こうとしている。だが手強いようだ。
「口惜しい。少しでも弾けるはずよ」
彼女のギターとの悪戦苦闘ぶりを観察するのは思いの外楽しかった。いつも生意気な小娘がこればかりは手に負えない、といった感じか。俺はビール片手にニヤニヤしていた。
「なに笑ってるの」
「いや、失礼。格闘ぶりがなかなかのエンターテイナーだなと思って」
「ひどい。こっちは真剣なのに」
今の状況で真剣もへったくれもないのだが。なにしろ彼女がこんな時間にここにいるということが既におかしいのだ。
その時、あまりにも強く弦を押さえたせいか、爪が折れてしまったらしく彼女は小さく悲鳴を上げた。俺は慌てて彼女の手を掴んで引き寄せると、指先から血が流れていた。
「こんなに伸ばしてるから」
そう言いながら、俺は咄嗟に彼女の指を口に含んでしまった。彼女の指先に緊張が走ったのが俺に伝わる。
「……あなた、血液型なに?」
「AB型」
「良かった。相性いい。飲んでも大丈夫ね」
気まずくなりそうな俺の行動に彼女はうまく切り返してくれた。自分でもなぜこんなことをしたのかわからなかった。とりあえず水で洗いバンドエイドで応急処置をした。
「ねえ……私の悩み事、言ってもいい?」
唐突に彼女が切り出す。
「うん」
やはり先程の浮かない顔は悩みだったのか。一体何をそんなに心配しているんだ?
「私のことをからかってばかりいる人がいるの。その人の興味は音楽ばかりなの」
ん? 話は俺のことか? 思わず黙った。
「音楽以外に私のことなんてちっとも興味を持ってくれないの。肩を出しても吸血鬼みたいに血を吸っても、所詮子供みたいにしか思ってない」
折れて小さくなった指先が頼りなげに映る。
「でも優しいの。すごく優しい人なの……。私のことを本当にどう思っているのか知りたい。だって」
彼女が思い詰めたような顔で俺の顔を見た。
「待って。ちょっと待ってくれ。興味を持っていないなんて絶対ないよ。子供だとも思ったこともない。ただ、ゆっくりずっと一緒に生きて行けたらいいと思ってる……こ、こんな考えはどうかな……」
つい恥ずかしさからしどろもどろになってしまうが嘘は言ってない。しかし突然気恥しくなり缶のビールを思い切り煽った。一缶空けて、ふーっと息を吐いてから話した。
「あのさ、君の真剣な少し困ったような顔はとても可愛いんだ。可愛くてほんとにヤバいんだ。けれど今夜はだめだ。仕事も残ってる。そういう大事なことは酒の入っていないまともな頭の時に言って欲しいな」
俺は言ってから彼女の髪をぐしゃぐしゃに乱した上に、ぽんぽんと軽く叩いた。
「口惜しい! やっぱり私を子供扱いしてるでしょ!」
彼女はストールの先を俺に投げつけた。
「いて」
痛くもないのに俺は言って包むだけの抱擁をした。
「そんなことない。本当はたった今だって心臓がうるさい。このままじゃどうにかなってしまいそうだ」
正真正銘の本音だ。俺に体を預ける彼女の柔らかさを感じていると本当は落ち着かない。けれど酔った勢いで、それこそストレス解消なんかで彼女を抱きたくなかった。まだまだ俺たちは始まったばかりで、しかも今は仕事の合間だ。そういう行為はきちんと時間を取って余裕を持ちたい。
しかしもちろん彼女はそれなりに覚悟をして言ったのだろう。抱きしめるだけでちっとも先に進まない俺に、どことなくもじもじと戸惑った顔をしている。だから、彼女の拗ねて尖らせた唇に小鳥のように、ちょん、と俺の唇を重ねた。一瞬だけのキス。彼女はとても驚いた顔をした。
「今夜はここに泊まっていい。きちんと風呂も入れるし。ただし、これからもう少し仕事をするから何もしないぞ。お楽しみは後にとっておく」
彼女は急に恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに華やかな笑顔を向けて俺の顔にストールをぐるぐると巻きつけた。一瞬、視界がピンク色に染まった。
「私も楽しみにしてる!」
臆面もなく彼女が言うので俺の方が赤面してしまった。
もちろん今夜は彼女にベッドを貸して俺は仮眠のためソファーを使うつもりだ。そして先程よりも少しだけ強く彼女を抱きしめた。それは本格的な恋人への入り口の強さだ。
《 Fin 》
2006年7月22日 初出
2015年4月7日 推敲
解説&あとがき
とても軽い恋物語が描きたかった。男も女も自由なようできちんとそれぞれが弁えている。そんなとても健全で可愛い恋が描きたかったことから始まりました。だから意地悪なシーンは一切ございません。
何の曲から想起したのかは憶えていないのですが、彼女の方にはモデルがいて、私よりもほんの少し年上で、おしゃれで上品で、とても素敵な女性でした。もちろん内容はフィクションなので彼女と彼がどうにかなったという訳ではございません。
ただ、彼女の井出達のみをお借りして現代風にアレンジしました。書いた時に彼女に了承を得た上で掲載しております。いつも差し色を加えたファッションはとてもセンスを感じさせ、素敵でした。元気にしてるかな。
幸坂かゆり
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