小説『すべてが思い通りにいかなくても』
夢だと思った。
しかし、目が覚めた時に見えた天井は自分の部屋ではなかった。そうだ。これは病院の天井だ。待合室で背中を丸めて順番を待っている時、この天井が目に映っていた。模様は日によって犬の顔や人の顔に見えたりした。だからと言ってそれらを見つけても感慨深いという感情は皆無だった。ただ、ここにこうしているという事は、私は助かってしまったのか……。
昨夜、深夜の事だ。もう何にもしたくない、そんな後ろ向きな自由を望み、私はほとんど衝動的に自分が住むマンションの三階の部屋の窓を開け、半分ほどしか覆われていない面格子を越えて地面へと飛び降りた。その高さでは一か八か。けれど打ち所が悪ければ、頭からコンクリートにぶつかり、その果てには、と薄暗く膨らんだ希望が実行できたはずなのだ。
「ああ、目覚めたの」
見たことのない高齢の医師が目の前にいて、目を開けた私に言った。
「ええとね、擦り傷ね。体操選手みたいにきれいに着地して豊かな草か何かでバウンドしてそのまま道路まで転がったみたい。車が走ってなかったのが幸いだったね。後はあなた自身が飲んだ薬のせいで気を失っていたのでしょう。それも既定の量の睡眠薬だから心配ないです。まあ、すぐ退院できますよ。ゆっくり休んで」
医師はそのように私に告げると、看護師さんと近くにいたスーツを着た男性に何やら指示し、病室を出た。
……飛び降りたのは夢じゃなかった。それなのに体操選手のような着地? 骨折すらしなかったなんて。そんな夢のような現実があるなんて。
「こんにちは。あ、そのままでよろしいですよ」
先程からいるスーツ姿の男性が話しかけて来た。スーツの上からでも判るほど細い。細過ぎるくらい。そして多分若いのに見事な白髪だった。
「わたくし、こういうものでございます」
男性は名刺を差し出した。
『エンゼルトラベルエージェンシー』という社名が名刺に書いてあった。
「津和野と申します。あなたが退院してから帰宅されるまでの身元引受人です。その期間、どうぞよろしくお願いしますね」
「身元引受人?」
「はい。ご家族やご親戚、ご友人に連絡が行かないまま元の生活に戻られる方にはこうして弊社のようなサポートの役目が付きます」
「頼んだ覚えはないのですが」
「いえ、そのように決まっているのですよ。国というか世界的に。通常はなかなか知られる存在ではありません。あ、それから金銭は発生しないのでご安心を」
「もちろん、こんな状況は誰にも知られないのが望みですがそんなこと実際にできるんですか?」
私の言葉に津和野さんは少し困った顔をしながら言う。
「この病院は、通常の患者さんが通う所ではありません」
何が何だか分からない。
「僕自身が通常の人間ではないのは外見で判りますよね。僕の体は言わば皮膚の表層がうっすら覆っているだけの全くの骸骨でしょう?」
でしょう? と言われてもなかなか頷くのは難しい。
「目は片方が義眼です」
え? と、私は津和野さんの顔を正面から見た。見えている方の瞳と目が合った。確かに義眼の目は妙にカラフルで全く動かない。
「あの……」
「なぜ片方かですか? 僕の可愛い恋人がある日僕を愛しすぎて眼球を舐め取ってしまったんです。更にもう片方まで舐めるので目の代わりに飴を嵌め込みました。そうすれば舐めて小さくなったらすぐに付け替えられるでしょう? さすがに両目が見えなくなるのは都合が良くないので。けれどいつも色が違う片目というのもなかなかいいものですよ。恋人も喜んでくれています」
津和野さんはさらさらと軽やかにのろけ話を私に聞かせた。
そこまで話さなくても普通ではない風貌なので、今起こっている不思議な出来事を信用しない訳じゃない。私が言いたかったのは津和野さんの瞳はとてもきれいだ、という一言だけだったのに。ああ、そうか。これはまだ夢なんだ。だからありもしない世界を話せるんだ。そう考えると津和野さんの話が腑に落ちる。
「津和野さんは幸せなんですね」
「おや、そう仰る方はなかなかいないのですよ。嬉しいな。皆さん片目を失くして可哀想だと仰るんですが、そうなんです。僕は幸せなんですよ」
津和野さんは嬉しそうに目を細めて笑うと、備え付けのポットからお茶を淹れて私にも手渡してくれた。確かに津和野さんは骸骨そのものが透けて見える皮膚の薄さだが、余計なものがない分、すっきりとし、豊かな表情も相まって柔らかそうに見えた。
「それでは、本題に入りましょうか」
「はい」
その言葉に私は急にぴりっと緊張した。
「実は、あなたが飛び降りるのを知っていました」
驚いて顔を上げた。
「本来でしたらあなたの希望通り、あの場でコンクリートに頭を打ち付け、ぐちゃぐちゃになって元の顔も判別できないくらいになる予定でした」
凄い事をさらっと言う。
「けれど、一階のあの草ぼうぼうの……失礼、豊かな庭がすべてを狂わせました。自然の力はすごいですね。あんなにあなたがふんわり跳ね上がるなんて思いもしなかった。あ、所で僕は……もうお判りですね。そんなふうに死んだあなたを迎えに来る役目でした」
「死神……?」
「簡単に言うとそうですがここでは身元引受人と言う役職です」
「私、やっぱり死んだの?」
「いえいえ、そうではありません。死ぬと予測してあの日庭に向かったのですがこうしてあなたが無事だったため、僕の判断ミスとなりました。今は責任を取る立場としてここにいます。死神もミスしたら上からのお咎めがあるんですよ」
そう言いながら津和野さんは眉を寄せて、人差し指を上に向けた。天国だろうか。
「すいません……」
私は力なく謝罪し、うなだれた。
「いいえ、僕は良かったと思っています。天寿を全うした方を迎えに来るのが僕の本来の役目ですから。そこを断ち切ってしまった方のお迎えというのは、やり切れなくてとても淋しいものです。だからあなたが助かって本当に良かった」
その言葉を聞いて思いがけずしんみりしていた私に、津和野さんはマチが広くたくさん物が入りそうな大きな黒い鞄を開けると、一通の封筒を取り出し、私の目の前に置いた。
「開けてみてください」
怪訝な顔で封筒を手にし、糊付けされていないその封筒を開けると写真が出て来た。これは……。
「見覚えはありますか?」
「歌音……」
「かおんさん、そういうお名前なのですね」
私は瞬時に写真を胸に抱いて答えた。
「なぜ、あなたがこの写真を持っているの!? 何を知ってるの!」
「知っていてはおかしいですか?」
「おかしいです! 歌音の写真なんて撮った事もないし、だってこの人は」
そこまで言って我に返り、つい声が小さくなった。
「私が、想像で作った私だから……」
「理由をお聞かせいただけるとありがたいです。お話できますか?」
津和野さんは私を見下す事もなく、何より茶化す事のない真剣な目をして訊ねてくれた。私はもう津和野さんになら何でも話していいような気がした。投げやりでも何でもなく。
「私、物心がついてから好きな人、と言うものができなかったんです。周囲では恋愛の話に満ち溢れていて、結婚や離婚も含めて恋愛関係で様々な事件が起こって、たくさんの笑顔も涙もあった。それなのに私にはなぜそのような人が現れないのだろうと不思議に思いました。だから受け身でいるだけではなくて自分からも出会いを求めてイベントへの参加や友達の紹介、お見合い、異性に限らず同性にも目を向けた。告白をされて付き合ったこともあります。
でもだめだった。誰にも恋心が芽生えない。どうしても。だから付き合った人とはすぐに終わりました。私は失恋してもいいから恋心を体験したかった。その人を想うだけで生きて行く糧になるような大きな感情が知りたくて。そしてそんな人と出会えたらずっと一緒に生きて行く事が子供の頃からの望みだったから……」
そして知った。自分は恋ができない人である事を。
絶望した。すべてが崩れて行く気がした。しばらくはどうする事もできなかったけれど、ある日、日記を書いていたら、自然と誰かに話しかける口調で書き込み、その瞬間の自分が偶然鏡に映った。自分のようで自分ではなく、私の全てを肯定してくれるような穏やかな表情で私を見返していた。その時、私はこの人を現実に作ろうと思った。その姿はウィッグをつけて変装した私だ。二重人格でも何でもない。鏡に映った表情の自分に一番近いと思う想像の容姿に仕立て上げて『歌音』と名付け、一生二人で生きていこうと思った。そしてやっと理想のパートナーと一緒に暮らしているように感じる事ができた。けれどある日、歌音のままの姿で外に出てしまった時、強烈に羞恥心が芽生えた。こんなのは病気だ。そう思うともう生きていたくなくなったのだ。
「あなたの悩みの要因が判りました。とにかく数日間はここでゆっくりなさって下さい。一段落したら後は美しくなるだけです」
「それは、どういう……」
「あなたも歌音さんもそのままで良いと思いませんか? 羞恥心が芽生えた、とは仰いますが、実際には恥ずかしがる必要なんてちっともありません。少なくともあなたがしている事はあなた自身のためですし、歌音さんの存在のお陰であなたは救われたのです。それにあなたは恋をしなくても現実では数多い人間関係ができていらっしゃる。嫌われてもいない。それで十分あなたは素晴らしい方ではありませんか。それがなかなかできなくて相手を責める人も多いのですから。だから気に病む事はありません。後は自由に歌音さんと生きていきましょう。歌音さんと生きるあなたはとても美しいのですから、更に磨きをかけて下さい。それは誰にも言う必要はありませんし、何より、誰にもあなたから歌音さんを奪う権利はありませんよ」
津和野さんははっきりと言い切った。
歌音を『存在』としてきちんと見て話してくれた津和野さんの義眼ではない方の瞳を見て、この人を信じようと思った。例え本当に死神だったとしても、もうそんな事はどうでも良かった。
それから、一体どのくらい入院の日々を過ごしたのか判らないほど院内の記憶が抜け落ちていた。ただ、擦り傷だけではなく心の傷も癒えた気がする。そのくらい気持ちが軽かった。いつの間にか私は病院の自動ドアの外にいた。どうやらこの世とあの世の狭間のような世界から私は退院したらしい。夢のような数日間だったけれど私にはどうしようもなく大切な現実だ。きっとまた死にたくなる時が来るとは思う。けれどその時、私と歌音を知っている津和野さんを思うとほんの少し二の足を踏むようになるだろう。
ふと、振り返るとそこはただのビルで病院ではなかった。そのまま見上げると屋上の端に座って足をぶらぶらさせている津和野さんを見つけた。細いくるぶしが可愛らしかった。煙草に火をつけようとしていたが強風でなかなかうまくつかず四苦八苦している。やっと火がついて落ち着いた様子で煙を吐いた時、地上にいる私と目が合った。
津和野さんはにっこり笑って、内緒ですよ、と言うように唇に人差し指を当てた。私は見えるか判らないけれど笑顔で会釈した。津和野さんの義眼はこの間見た色と違っていた。本当に情熱的な恋人をお持ちのようだ。いつかまた会えたら、と一瞬しんみりした。またすぐどこかで気軽に会いたかった。だから、私が本来持つ命が燃え尽きる頃になったら、また改めて。私も生きている以上、悲喜こもごものエピソードが増えると思うので、津和野さんが以前言っていた『本来の役目』を達成する頃にまたお会いできるのを楽しみにしています。
あ、それから、津和野さんと可愛い恋人との、のろけ話もまた聞かせてください。
《 Fin 》
2024年12月13日 Photo by pixabay
あとがき
久し振りに新作です。おニューです(同じ)津和野、という骨の人物がまず浮かび、彼の骨格が出来上がると(骨だけに)彼を何者にするか、登場人物に決めてもらおうと思いました。いわば、登場人物の名もなき彼女が話をするたびに津和野さんが肉付けされていったのです。そして津和野さんが重い任務を背負わされているからこそ、恋人との甘美なひとときが活きて来ます。
生と死の合間に、こうしてあの世とこの世を通じる人物とコンタクトが取れるといいなあ、と理想も込めて書いてみました。ここまで読んで下さり、洵にありがとうございました。
📚 その他の短篇もよろしかったら。
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