小説『淡い色の花』
午後17時。沢村麻子は仕事の手を休めた。同僚たちも帰り支度をしていく。
ロッカーでは同僚らがプライベートな話に花を咲かせていたが、麻子は仕事以外ではあまり付き合いがないのでほぼ加わることがなかった。
「ねえねえ、今日あの店に予約取ってあるんだけど付き合って」
「また行くの?」
「もちろん! もう一週間経ったし」
麻子はその会話が耳に入り、一週間経たないと行けない場所? どこだろう? と、ふと疑問に感じたが気軽に問いかけられるほど器用な性格ではないため思考を打ち消した。
「お疲れさまでした」
麻子は静かな声で彼女たちに別れを告げた。
「はーい。お疲れさまでしたー」
普段からそれほど親しくない麻子を誰も気に留めず、マニュアルの挨拶だけを返した。麻子がロッカーを出る時、彼女たちの話から今日行く、という場所が判明した。よく当たると評判の占い師がいる店らしい。
麻子が乗った帰りの地下鉄は混雑していた。空気が澱んでいて気分が悪くなりそうだったのと湿気で眼鏡が曇ってしまい、ただ電車に揺られているのが面倒になったためいつもの駅の一歩手前で下車した。外の風に吹かれ、やっと深呼吸した。あとはゆったりと家路に向かう。
麻子の暮らす部屋は小さいが、狭さに関しては一人暮らしでもあるし不満はなかった。むしろ理想の部屋だと思っている。ミニマリストとは言わないまでも物が多い訳でもなく蒐集していると言えば本くらいなもので、それらは本棚というあらかじめ決まった場所に収まっているので邪魔にならない。
鍵を開けて部屋に入ると、すぐさま部屋の奥へと歩きガラガラと窓を開けた。広いベランダであることもお気に入りの一つだった。大きな仕事を終えた日、一日の最後、休みの日、天気が良い日、広いベランダの柵に凭れて自分の感情を整え、静かに過ごすのが麻子にとっては何より落ち着く時間だった。そのベランダにはいくつかの鉢が並んでいる。麻子が育てている観葉植物だ。それらを一つずつ丁寧に部屋に入れ、ゆったりとした部屋着に着替えた。
夕食を終えてカーテンを閉めようとした時、しまい忘れた鉢が目に入ったのでサンダルをつっかけてベランダに出た。すると右隣の部屋から煙草の煙が漂ってきた。何気なく覗くと煙草を吸っている隣の住人と目が合った。スウェットを着た背の高い男性だった。年齢的には麻子とそれほど変わらないように見えた、が一瞬だったのでよく判らない。
「こんばんは」
彼は麻子に軽く会釈して挨拶をした。麻子もうっすらと挨拶を返した。ベランダで煙草を吸うなんて小さな子供でもいるのかな? そう思いながらも口には出さずに鉢を持ち上げて麻子はすぐに部屋に戻った。お隣さんの顔なんて初めて見た。
ある日、そんな静かな生活を愛する麻子に合コンの話が来た。
「お願い! 頭数が揃わないの!」
同僚の宮田早紀は麻子に頭を下げた。
「でも私、そういう席って苦手なの。気が利かないし」
「いいの! ただ座っててくれればいいから。眼鏡外したら沢村さん美人だし!」
外したところ見たことないだろ、と、麻子は心の中で突っ込まずにはいられなかった。都合の良い時だけ、相手を褒める早紀にうんざりしたが彼女は両手を合わせて必死に頭を下げている。
「わかった。でも途中で帰るけどいい?」
麻子は聞こえないように溜息をついて言った。
「ありがとう! いいの、最初だけいてくれれば」
そう言うと彼女は麻子の眼鏡がずれるほど力強く手を掴み、ぶんぶんと振り回すような握手をして合コンの時間を告げて去った。麻子自身は決して人に嫌われている訳ではなく、自分も人を毛嫌いしてはいない。ただ過剰に感じる人付き合いが苦手なのだ。そんな過剰な付き合いの一つはこうした合コンだった。
合コンの会場は落ち着いた感じのバーだった。
最初、麻子はやかましい場所を想像していたので安心した。 男女揃うと取り合えずみんな自己紹介をして、乾杯をした。麻子は眼鏡を外さず、地味な灰色のスーツを仕事帰りのまま着ていたので、カールをしていたり社内では見たこともないアクセサリーを着けたり、鮮やかな服を纏う同僚たちの中で麻子の存在感はないも同然だった。もちろん麻子はそんなことを気にせず、お洒落な盛り付けの食事は普段あまり目にしないのでその部分に瞳を輝かせた。その時、早紀が占いの話を始めた。麻子は美味しい料理を口に運びながら、そうか、ここの話題作りの為だったのか、と納得した。
それから時間が経ち、同僚の女性一人がなかなかトイレから戻らないことに気づいた。麻子が気になって見に行くと、彼女はトイレの横でうずくまっていた。
「大丈夫? 立てる?」
「うん……。少し飲み過ぎちゃったみたい」
麻子が彼女の衣服を整えていると合コンの中の男性が一人、顔を出した。
「大丈夫?」
「彼女が立てないみたいで……ちょっと手伝ってもらえますか?」
男性は麻子と一緒に彼女を両方から抱えて立ち上がった。麻子は彼女と一緒に帰ろうと思った。
「あの、私彼女を送って行きます」
しかし、いつの間にか早紀が来て麻子に耳打ちをした。
「彼が送って行くから!」
どうやら彼女の手だったようで、よく見ると彼女は先ほどの男性に甘えるように凭れていた。麻子は帰るチャンスを逃して途方に暮れた。しかし、二次会に行くという話になったので、麻子は、よし、みんなと店を出る時、帰ろうと思った。
店を出て歩き出した所で、麻子は誰かに腕を掴まれた。先程店にいた男性の一人らしいが顔を憶えていなかった。
「ねえ、二人で別の店に行かない?」
麻子が驚いて立ち止まると、もう他のみんなが遠くなっていた。
「いえ、今日は飲み過ぎたので帰ります」
「じゃ、送ってくよ。家どこ?」
「一人で帰れますので結構です」
その時、男が素早く麻子の眼鏡を外した。
「ちょっと! 返して下さい」
「そんなに美人なのに何で眼鏡なんかしてるの? もったいないなあ。俺ずっと君のこと見てたのに気づかなかった?」
気づく訳がない。麻子は食べることと帰ることばかり考えていたのだ。しかも今は眼鏡もなく男の顔もよく見えない。麻子は目を細めて男の顔を確認しようとした。
「あ、いいなあ。俺そういうきつい目に弱いんだよねえ。絶対眼鏡じゃない方がいいよ」
そういう話ではない。コンタクトは合わないから眼鏡にしてるだけだ。すると男は困った顔のまま黙っている麻子を細い路地に引っ張り込み、壁に押し付けた。その衝撃で麻子の髪を留めていたバレッタが外れ、その拍子に眼鏡がアスファルトに打ち付けられ、割れる音がした。
「あっ、眼鏡……!」
「平気だよ。もっとよく顔を見せて」
男に腕と顎を掴まれ、動けなくなった麻子は恐怖が頂点に達した。
「大丈夫ですか?」
麻子の悲鳴のような声を聞き取ってくれたらしき人が声をかけてくれた。
「平気平気、人の恋路の邪魔しないでくれるー?」
そう言って男は麻子を強引に抱き寄せようとしたが、麻子は咄嗟に男の胸を押した。
「彼女、嫌がってるね」
声をかけてくれた人はカツカツと2人の前に歩いてきて、男を麻子から引き離した。
「なんだお前! 関係ねえだろ!」
男は麻子を引き離してくれた人に殴りかかった。すると、その人は手に持っていた大きな買い物の荷物で男の脇腹を殴った。男は呻き声を上げてその場にうずくまった。
麻子は、がくがくと震えていておまけに眼鏡がないのでどうしたらいいのか判らなくなっていた。
「あれ、隣の方……?」
「え?」
助けてくれた人はどうやらこの間、ベランダで煙草を吸っていた主らしい。麻子はそれだけで安堵して膝が折れそうになった。
「とにかくここは暗いし、人通りの多い所に行きましょう」
その人は麻子を明るい道まで連れて行ってくれた。
「ありがとうございました……」
「いえ、あの辺の繁華街は気を付けた方がいいですよ。あんなのも多いから」
麻子は合コンしていたとは言い出せず、俯いていつもの癖で眼鏡のブリッジに触れようとして改めてそれがないことを思い出した。
「あ! 眼鏡!」
「これですよね。……割れちゃいましたね」
「拾ってくれたんですか? ありがとうございます。裸眼ではほとんど見えなくて……あっ、でもフレームは無事ですね。何とか直します。本当にありがとうございました」
そう言って麻子が足早に歩き出した道はたった今逃げて来たばかりの方向だったので、お隣さんは慌てて止めた。
「もし良かったら一緒に帰りませんか? 隣ですし。気になるようでしたら少し距離を開けますから」
数分後には二人でほどよく空いた地下鉄の中にいた。よく見るとお隣さんは大きな買い物袋を下げていた。先ほど麻子を救った荷物だ。一体何が入っているのか、袋の中身はパンパンだった。麻子は相当じっと見ていたらしくお隣さんは照れたように言った。
「これ、うちの猫のごはんなんですよ。管理人さんには内緒にして下さいね。いずれきちんと話すつもりなんです」
「猫、ですか?」
「ええ、この間も外で煙草を吸っていたのは猫が煙草、嫌いなんで」
麻子は吹き出した。
「てっきり小さなお子さんがいるのかと」
「一人暮らしですよ。花の独身です」
今の子なら絶対に言わないような昭和世代の言い方なので、自分もそれほど年齢が変わらないとはいえ、ふふふ、と麻子は笑った。今日初めて本気で笑ったような気がした。
「お隣さん、お名前は何て仰るんですか?」
「そのままずばりなんですよ」
「え?」
「音也って言います。こういう字です」
彼は掌にその漢字を書いて麻子に教えてくれた。
「珍しいでしょう、音也俊秀です」
「沢村麻子といいます」
二人は地下鉄の中で他の客が不思議に思うほど、互いに深々と頭を下げて挨拶をしていた。
地下鉄の駅から二人のマンションまでは近かった。
「本当に今日はありがとうございました」
音也はにっこりと笑った。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、あ、猫ちゃんによろしく」
「伝えておきます」
音也は嬉しそうに笑ってドアを閉めた。中から小さくニャーン、と甘える声が聞こえ、麻子は思わず微笑んだ。
部屋に入ると鍵を閉め、いつも通り観葉植物を部屋に入れた。しかしシャワーを浴びる為に服を脱いだ瞬間、さっきの男のことを思い出し、思わず身を屈めた。僅かに体が震えていた。恐くなって急いでシャワーを浴びてパジャマに着替え、上から厚手のカーディガンを羽織って音がしないよう、そっと窓を開けてベランダに出た。深呼吸をしなくては。心臓、治まれ、と祈るようにしてしばらくベランダに屈んでいた。長い時間ベランダでじっとしていると、がらがらと隣のベランダのガラス戸が開く音がした。そしてライターで火を点ける音。ふーと煙を吐く音。
「あの、音也さん……?」
隣で、むせるような咳が聞こえた。
「沢村さんですか?」
「そ、そうです」
「どうしたんですか? こんな時間に」
時計を見ると午後22時を回っていた。そんなに長い時間ここにいたのか、と麻子は半ば驚いた。
「……ええと」
思わず言葉に詰まった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「……恐かったでしょう。夕方の」
気づいてもらえたことに少し安堵し、麻子は大きく息を吐いた。
「ああいうのは後々怖さが増すと思うので……」
「そうですね……。でも、正直ふらふらあんな所にいた自分が悪いって思って」
その時、猫がベランダに出て来たらしい。
「あっ、ここはダメだよ。入んなさい」
何てタイミングで出てくるんだろう。麻子は可笑しくなった。
「猫ちゃん、名前は何ていうんですか?」
「チロって言います。適当でしょ?」
「チロちゃん」
麻子は呟くように猫の名前を呼んだ。
「音也さん、ありがとう、話をしてくれて。大分落ち着きました」
「本当に? 良かった」
「それじゃ、部屋に戻りますね」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい。チロちゃんもおやすみ」
猫は短くニャ、と鳴いた。
「あの」
音也が部屋に戻りかけた麻子に話しかけた。
「はい」
「沢村さんは悪くありませんから、絶対に自分を責めないで下さいね」
音也の言葉は麻子の胸を突いた。
次の日、麻子はその日慣れないコンタクトを使用した。若干目が充血しているが仕方ない。眼鏡を直してもらうのに時間がかかるのだ。すると昨日の合コンのことを宮田早紀が聞いてきた。
「沢村さん、昨日はありがとう。あれから男の子とどこ行ったの?」
「男の子?」
「あの場にいた子。二次会の前に二人で抜け出したでしょ」
麻子の脳裏に昨日の壁に押し付けられた恐怖が浮かんできて、慌てて考えを打ち消した。
「抜け出した訳じゃなくて眼鏡が壊れたからそのまま一人で帰ったの」
「あら、そう言えば」
彼女はまじまじと麻子の顔を見た。
「沢村さんってきれい」
「え?」
「そんなにナチュラルなメイクなのに肌もきれいだし、そこまできれいな人ってあんまりいないよ」
「そ、そんなことない。私地味だし」
そう言って麻子は立ち上がった。仕事だ仕事だ。麻子は頭を切り替えた。郵便局に行かなければ。
「あ、郵便局に行くの?」
「ええ」
「頼んでいい?」
「郵便? いいですよ」
早紀は自分の財布からお金を取り出し、現金書留に入れ、細々した封と印鑑を押して麻子に渡した。手慣れていた。ちらりと見えただけでも札束と言えるくらい結構な額だったのでそれだけでもギョッとしたが宛先が目に入り思わず麻子は、占い? と声に出してしまった。早紀ははっとして麻子を見た。
「ごめんなさい! 目に入っちゃって。誰にも言わないから」
「いいのよ、すごく当たる占い師の先生なの」
「でも金額が……」
そこまで言ってしまい、また麻子が口をつぐむと早紀は笑って言った。
「お布施だもの。安いもんよ」
麻子は早紀の気持ちを半分理解できないまま郵便局に行った。順番が来て窓口に行った。
「あれ、沢村さん?」
え? と顔を見ると驚いたことに受け付けは音也だった。
「会う時は会うんですね。今までは全く知らない人だったのに」
「本当。こちらにお勤めだったんですね。よく来るのに気づかなかった」
「奥に引っ込んでいることが多いですからね」
音也は笑いながら慣れた手つきで麻子の郵便物をチェックしていたが、ふと書留の所で手が止まった。
「これは向こう側の窓口ですね」
「あ、そうでした。同僚に頼まれちゃって」
「……占星術ですか。ここ有名ですよね。ほとんど宗教化してる」
音也の言葉に麻子は思わず顔を上げた。
「すいません。余計なこと言ってしまって」
「あ、いえ。じゃ、あっちの窓口に行きますね」
麻子は書留の封書を持って音也に会釈した。
しかし、帰りのロッカーでまたもや耳にしてしまった。どうやら宮田早紀は色んな所で恋愛鑑定をしてもらっているらしい。占い師からは "状況が変わらないうちは占えない。最低でも一週間は待ちなさい" と言われているらしい。しかし早紀自身は待ちきれないようで見てもらえない期間は他の占星術の先生に占ってもらっていると言う。もう一人の同僚が呆れたように早紀に質問した。
「好きねえ。占いにどれだけお金かけてるの?」
「……お金の価値なんて人それぞれでしょ。あたし、高価な物を買うことだけが価値だとは思ってないから」
早紀は怒ったように言ってその場を後にしたが、みんな早紀の持ち物はブランド品ばかりなのを知っていた。
「昨日のお店で早紀さん、占いの話をしていましたよね」
「そうなのよ、沢村さん。彼女あの合コンで本命が見つかるって言われたんですって」
「占い師に?」
「そう、でもダメだったみたいよ。だから今日また別の先生に頼んでるのよ」
それがあの札束の書留か。
「でも気分を害しちゃったみたいね」
「いいのよ、どうせこれからまた別の占いに行くつもりであんなに急いで帰ったんだから」
「え!? また違う所に行くの?」
「いつもの行動よ。ちょっとはまり過ぎてる気がしない?」
麻子は、うーん、と言ったきり言葉が出なかった。
「まあ、あたしもたまに早紀に連れて行ってもらって占うことがあるけどね。今度、沢村さんも行ってみる?」
「ううん。私は遠慮しておく。そんなに高い額出せないし」
「ああ、それは大丈夫。お布施の料金は気持ち次第だから。あたしなんか封筒に1000円しか入れないよ」
麻子は思わず、ふっと笑いをこぼした。
「沢村さん、何だか話しやすいのね。これまであんまり話したことなくて判らなかった。媚びない感じ、素敵」
「そ、そう?」
「うん。これからもよろしく」
「え? あ、こちらこそ」
最後はよく判らない会話になった。
しかし麻子は不思議に思う。早紀が信用できるのは占い師だけで友達や同僚に相談するだけではだめなのだろうか。早紀はお洒落で可愛い。そしていつも明るくて麻子よりもたくさん友達がいる。合コンにも積極的に出向くほどコミュニケーション能力にだって長けているのに。
休日、麻子はガーデニングや料理についての本を探しに図書館に出向いた。その時『*愛しのチロ』という小さな猫の本を見つけ、ついそれも選んで椅子に腰掛けた。その時、麻子の目の前の人物を見て我が目を疑った。音也だった。
「あれ!」
「音也さん!」
麻子の声は思った以上に館内に響き、慌てて周囲を見渡した。
「なんか本当に会う時は会うんですね。びっくりしました」
そして麻子が目にしている本に目をやった。まずい。チロちゃんの名前の写真集が。
「あ、えと、可愛いなあと思って……」
麻子は慌てて本を手で覆った。
「有名な写真集ですよ。荒木経惟の作品です」
へえ、と思い、まじまじと表紙を眺めた。
「……チロちゃん、元気にしてますか? 今部屋に一匹でいるんですよね」
「ええ、昨日壁なんかに傷をつけたらいけないと思って爪を切ってたら、ほら」
音也は自分の服の袖を捲り、チロにつけられたらしい腕の引っかき傷を見せた。
「うわあ、痛い!」
その言い方に音也が笑った。
「沢村さんの方が痛そうだ」
「人の傷って自分も痛くなっちゃうんですよ」
音也は笑いながら袖を下ろした。
「今は猫用って言うのかな。見守りカメラがあるんですよ。何をしているのか逐一判るんです」
音也はそう言って、スマホから部屋にいる現在のチロの姿を見せてくれた。チロはお腹を見せた状態で気持ち良さそうに寝ていたので二人とも笑った。
「こういう部分は現代に生きてて良かったなと思います。これまでは自分がこの時代に合わない人間のような気がしていて」
「やだ、私も似たことを感じてますよ」
しばらく静かに談笑したあと、二人はそれぞれの本に夢中になった。麻子は音也の選んできた本を見た。古い作家の本だった。
本を読む音也の顔を盗み見すると、彼は綺麗な顔立ちをしていた。本に視線を落とす目蓋や、きれいな鼻筋、薄く均衡の整った口唇、それほどきれいなのに飾り気のないシンプルなシャツを着ていたので、こういう出で立ちなら普段はまず気づかないだろうな、と麻子は思った。
そんな音也も時々、麻子に視線を投げかけていた。前髪ごと伸ばした艶のある髪は休日で下ろしているのだろう。片方だけ無造作に耳にかけていた。涼しげな目許、小さな鼻、薄桃色の口唇、色素の薄い肌。彼女はとても美しかった。なのに、ひっそりとした印象を纏っていた。
その麻子が一瞬目を閉じて決心したように音也の顔を見た。
「あの」
音也は、目で話を促した。
「私、この間、音也さんに助けてもらった時、合コンの帰りだったの」
麻子は両手を握っていて、その手には力が入っていた。
「同僚に頭数が揃わないから来てって言われて……それであんなことになって。多分、いえ、もう絶対行かないと思います」
何故、自分はこんなことを音也に告白しているのだろう。麻子は心の中で思いながら音也の反応を待った。
「……合コンでは、やっぱり双方、明らかに下心がありますからね。特に男は。もう行かない方がいい」
音也も何故、麻子に対してこんなにお節介に断言してしまうのか判らなかった。
「すいません。命令みたいですね」
「いいえ。私から話したことだから。ただ、誤解されたくなくて、それで」
麻子は自分が何を言っているのか判らなくなって、本を持って席を立った。
「……それじゃ、ごゆっくり」
「あ、はい、どうも」
ぎこちない雰囲気を作ってしまったのを麻子は悔やんだ。
帰り際、修理を終えた眼鏡を取りに行き、それから行きつけの花屋に寄った。その時『猫草』と書かれた鉢を見つけた。普通にその辺に生えているような草だったが、上部がきれいに揃っていてとても可愛らしかった。草の表面をさらっと撫でると滑らかで、その名の通り猫を思わせた。そこに店長が顔を出し、麻子に話しかけた。
「それ、いいでしょう。猫が食べるんですよ。だから猫草って名前なんです」
「へえ、かわいいですね。猫を飼っていなくても大丈夫かな」
「全然大丈夫ですよ」
店長はにこやかに猫草の育て方などを説明してくれた。それだけ買うのも気恥ずかしくて切り花も何本か買った。花を買うのは久し振りだった。
部屋に戻り、さっそくベランダに猫草を植物の横に並べた。青々として気持ち良さそうに風に揺れている。そして一緒に買った花は使っていない大き目の陶器を探してそこに活けた。シンプルを通り越して殺風景でもあった麻子の部屋が急に華やかになった。色付いた花はアイボリーの壁と相性が良かった。ふと、隣から小さくチロのニャア、と鳴く声が聞こえ、ほどなくして隣のドアの鍵が開く音が聞こえ、音也が帰ってきたのが判った。麻子の心臓が高鳴る。10代の頃のような甘酸っぱい感覚になっていた。なんて突然なんだろう。これまで全く知らずにいて話もしたことがなかったお隣さんだったのに。少し話をしただけで何も変わっていないのに。麻子は花にそっと触れた。
次の日、麻子が会社に入るなり、宮田早紀が泣いているのが目に入った。職場で泣いている姿はとても目立ったが泣き止む様子はなかった。麻子がロッカーに入ると案の定、早紀の話になっていた。
「……何かあったの?」
この間話をした同僚がひっそり麻子に話した。
「好きな男を怒らせたんだって」
「ええ?」
「当然なんだけどね。両想いだとは言っていたけど勝手に相手のスマホを見たり、だめって言うのに家に電話したりしたのよ。それで怒られちゃった訳」
「占いでもそういうことしたらダメって言われてたのにねえ」
別の同僚が話に加わって来たので、麻子はそっとその場を離れた。
部署に戻ると早紀は何とか泣きやんでいた。
「沢村さんって細くてスタイルもいいのね」
早紀が唐突に言って来た。
「私の好きな人って沢村さんみたいなほっそりした人が好きなのよね」
麻子はどう言っていいのか判らなくてただ戸惑っていた。
「沢村さん、何かスポーツとかやってたの?」
「え? ああ、学生時代体操を少しね」
「だからそんなに姿勢がいいんだ」
何が言いたいのだろう? 麻子は段々苛立ってきた。
「……ねえ、今日は郵便局に用事ある?」
麻子は早紀の言葉に絶句した。
何だかすっきりしなかったが、仕事を終えた麻子は部屋に戻った。
花が一輪、しおれかけていた。麻子は不意に懐かしい感情に襲われた。幼い頃は占いが好きだったなあ。きれいな花も。好きな人に告白をしたこともあったし、想いが叶ったりもした。けれどそれだけだ。いや、恵まれているのかも知れない。恋をしていた頃を思い起こすと相手なしでは生きていけないと思い詰めるほど夢中になる感覚も判る。別れたあとの張り裂けそうな胸の痛みも。のめり込む、という恐さと脆さは麻子も知っている。だから占いをしに行く気持ちも判るし、早紀を否定できない。ただ麻子には必要がなかっただけだと思う。
麻子はしおれそうな花を手に取ると、そのままベランダに出た。
「好き、嫌い、好き、嫌い……」
花びらを一枚ずつ、ぷちんとちぎっては風に乗せた。自然と微笑みが生まれた。気持ちが楽だった。思い詰めるような占いではなかったから。
「花占いですか?」
音也の声がした。風が彼の部屋に花びらを舞わせたのだ。
「チロがじゃれてて。何にじゃれてるのかと思ったら沢村さんの花でした」
音也は微笑んだ。その笑顔を見て麻子は幸せを感じる。
「音也さん、チロちゃん猫草って食べます?」
「大好きですよ」
「私、持ってるの。良かったらどうぞ」
「え? でもめちゃくちゃにしちゃいますよ」
「承知の上です」
麻子は肩に力の入っていない顔で微笑んだ。柔らかい微笑み。音也は思わず見とれた。
「あ、じゃあこれ」
麻子は思わずベランダ越しに渡そうとした。
「えっと、ここからだと落としたら大変なことになりますね」
音也はどこか笑いを抑えた声で言った。
「あっ、そうですよね! あの、玄関に行ってもいいですか?」
「もちろん。どうぞいらしてください」
二人の指はベランダ越しに触れそうな距離だった。
「花占いの結果はなんて出ました?」
音也が聞くと麻子は、あっ、と言う声をあげた。
「忘れちゃった」
二人は笑った。
麻子は猫草を持って音也の部屋を訪ねた。
「ようこそ」
音也と一緒にチロがとことこと歩いて麻子を出迎えてくれた。人懐こそうな子だった。思ったよりも大きくて瞳がくるん、としていた。チロは色んな花の色が溶けて混ざったような模様をしていて、チロそのものが淡い色の花のようだった。
<Fin>
初出 2004-05-20
推敲 2025-01-20
あとがき
かなり以前に書いたものですが、元々の文章と比較するとかなり変えたと思います。言葉遣いや若干悪い役に描いた合コン男の場面など。それから当時私も若かったせいか、かなり麻子と音也の関係は深くなっておりました。
現在の私の思考ではそこまでいかんやろ、と思い、省きました。そして、それほど多くはないですがチロの場面は全て好きなのでそこだけは削っておりません。こうして作品に残すと命は永遠になるので、これからも猫の描写は続けたいと思います。ここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。
幸坂かゆり
*『愛しのチロ』荒木経惟
荒木の愛猫、チロを写した写真集。1990年平凡社から刊行。2002年ライブラリー版として再刊。
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