小説『真夜中のソプラノ歌手』
疲れた足取りで真夜中に勤務を終えた彼はポケットからキーを取り出し、慣れた自分の部屋のドアに差し込んだ。スティールが回り、かしゃん、と音がしてその重いドアは開いた。時計は午前3時を回っていた。上着を脱いでソファーに無造作に放る。キッチンの灯りを点け、サーバーの中に入ったコーヒーを温めた。彼の職業はタクシードライバー。温まったコーヒーをマグカップに注ぎそのままソファーに沈んだ。熱いだけのコーヒーだったが彼が心から安らぐ時間だ。
疲労でぼんやりした頭で今日の客をひとりひとり、誰とはなく思い浮かべた。今日は嫌な客が多かった。自分から道を指定しておきながら、やっぱり違う道が良かった、と文句を言われたり、ホテルと勘違いしたようにシートでラブシーンを繰り広げる若い男女。乗ったはいいが、やはり途中で降りる、と停めてはいけない場所で降ろせという老人。途中、逃げるように街から一旦遠ざかろうとして車を走らせようとした時だった。
目の前でバスが発車した。バスの後ろにいたため、スピードを緩めなくてはいけないことにすら苛立ちを感じたが、ふと、その後ろでバスに追いつけなかったらしい少女が大きな荷物を持って停まってくれるはずのないバスを一生懸命追いかける姿が目に入った。ノースリーブのスポーティーなワンピースを着て、スニーカーで弾むように走っていた。だがバスは行ってしまい、少女は腕を膝につけ前屈みになって全身で呼吸をしていた。肩から下げたキャンバス地の鞄はぱんぱんに膨れ上がっていた。大きな荷物の中には一体何が入っているのか、その姿にいたたまれないものを感じた彼は、意を決して声をかけてみた。
「あの、君」
少女は振り返った。長くて真っすぐな髪が汗に濡れて額にくっついていた。
「どこまで行くの? あのバスはあと1時間は来ないよ」
「1時間も……?」
途端に半べそをかきそうな少女に、慌ててもう一度行き先を聞くと、この先にある病院だった。
「そこまでなら今から客を乗せに行く途中だよ。ついでだから乗って行きなさい」
「タクシーに乗るようなお金、持ってないわ」
「ついでだからいいよ。ああ、バス代でいい」
「ほんと!?」
疑うことを知らない年齢なのか性格なのか、少女は彼の言葉を信じた。
少女を乗せて彼はタクシーを走らせた。タクシーの中は清潔な風が循環していた。少女は額の汗を拭いながらミラー越しの彼の顔をチラッと見た。
「おじさん、お願いがあるの」
「なんだい?」
一瞬、何かに騙されたか? と彼は思ったが少女が気にしていたのは、バスよりもタクシーの方が早く目的地に着くから怪しまれる、ということだった。タクシーに乗ってきた、なんて言ったら母親に怒られてしまう、ということも。
「じゃあ、バスに乗ったように少し遠回りしようか」
「ありがとう!」
少女は無邪気に頬をぴかぴかに光らせて笑った。彼が気になったのは荷物だ。
「誰かのお見舞い?」
「うん。お母さん」
「お母さん? どこか悪いの?」
「肺炎なの。着替えが欲しいって言ってたから届けに行くの」
「……お父さんは?」
「タンシンフニン」
意味が判らないまま、ただ聞いただけの言葉を少女は使った。
「そうか」
それだけしか言えなかった。所詮、他人事だと言うのに聞きすぎた、と反省した。多分少女のハキハキとした受け答えが似ていたせいだろう。彼が16歳の頃初めて愛した女に。いや、年齢を重ねて少し感性が鈍くなっているのかも知れない。
少女はタクシーから見る景色が珍しいのか窓にかじりつくように流れる風景を見ていた。その時、彼はラジオではなく自分の持ってきたCDのクラシック音楽を流していることに気づいて止めた。少女はすぐに振り返った。
「止めないで。その曲好きよ」
少し驚いたが、すぐクラシック音楽をかけ直した。
「珍しいね。君くらいの年でクラシックが好きだなんて」
「みんなそう言うの。でもこんなに優雅で美しい曲がある? 流行りの歌ももちろん聴くよ。だけど少しうるさく感じる時がある。一番好きなのはクラシック!」
少女がにっこりと笑うので彼までつられてミラー越しに笑ってしまう。おませな女の子。彼が愛した女も年上だったが、おませ、という言葉が似合った。
「帰りは大丈夫なのかい?」
「はい。今度こそバスで帰る。遅れないようにしなくちゃ。本当は足が速いのよ。学校で1番なんだから」
「それはすごいな」
少女は照れて嬉しそうに笑う。そろそろ遠回りにも限界が来たようなので病院に行く道へ戻った。少女に気遣って病院から少し離れたところでタクシーを停めた。
「あの……本当にいいの? お母さんに言ってお金を」
「いや、いいよ。それより早くお母さんに着替えを届けてあげなくちゃ。それからひとつだけ年長者からのお小言を言わせてくれ。これからは知らない大人に声をかけられても誘いに乗っちゃいけないよ。世の中には君の感情を利用して自分の欲望だけを考えてる悪い奴も存在するから」
少女は真顔になり、一瞬眉を寄せて神妙な面持ちをしたが、パッと顔を上げた。
「ありがとう、判った。次はどれほど優しく声をかけられても車に乗ったりしない。でも私はおじさんの親切な気持ち、忘れないわ」
大人びた感謝の言葉。彼は最後に少女の年を聞いた。
「14歳よ。先週なったばかり」
「おめでとう。じゃ、誕生祝いのちょっとしたドライブになったかな」
「うん! 本当にそう! ありがとう」
そう言って少女は身軽にぴょん、とシートから降りて荷物を抱え直した。彼は距離を書きこんでいる振りをして少女を見送った。途中、振り返った少女が手を振ったので慌てて振り返した。
その後、ぱったりと客足が途絶え、彼は早退するように帰ってきた。あの少女を思い出すと若かった頃のように胸が痛んだ。彼が16歳の頃に出会った女は別の男と結婚していた。彼自身はまだ結婚できる年齢には満たなかった。20歳は年の差があっただろう。それなのに彼女は無邪気な笑い方で彼をひと目で虜にしてしまった。だからこそ彼女に夫がいようと気にかけなかった。彼女の夫は単身赴任中でいなかった。
その頃の彼はいっぱしにスーツを着て何とか彼女と釣り合おうとして必死だった。彼女は、いいのよ、無理しなくて。普段着のあなたも好き、と彼にキスをする。その頃、彼はソプラノ歌手を目指して音楽学校に通っていた。彼女も彼のその少しだけハスキーがかった美しいボーイソプラノに魅了された。
「どうしてそんなに素敵な声が出るの? 嫉妬しちゃう」
そう言って彼の頬を愛しそうに撫でる彼女を彼は抱きしめた。
「あなたは女の抱きしめ方が上手よ」
そんな言葉を彼女は言っていたが、その実、様々な手練手管を教え込んでは彼をその気にさせていた。16歳で彼は女を抱く、ということを彼女から教わった。
彼の17歳の誕生日が近づいているのを教えると彼女は祝福の言葉と共に音を立てて彼の頬にキスをしたが、あいにくその日は赴任先から彼女の夫が一時戻る日だと言う。彼は夜通し、彼女と愛し合いたかった当初の予定を諦めざるを得なかった。
「次の日じゃ遅い?」
可愛らしく彼女が聞いてきた。
「もちろんいいよ。その代わり、たくさん愛するからね」
「あら。望むところよ」
二人は共犯者のように微笑み合った。
誕生日を終えたばかりのその日の夜、彼はいたずらを思いついた。サプライズで真夜中に彼女の寝室に入り込む、というものだった。以前聞いた話では夫との寝室は別だと言っていた。静かに秘密を共有しながら愛し合ったら彼女も喜ぶだろう。17歳になりたての彼は、わくわくしながら真夜中に家を抜け出した。
とりあえず、彼女の部屋に辿り着くために高い塀を登らなくてはならなかった。けれど、ここ1年で身長は驚くほど伸び、バスケットボールかバレーボールの選手と間違われることもしばしばあった。彼は塀に登るのをクリアすると、念願の彼女の部屋をそっと覗きこんだ。薄灯りがついていた。
「ラッキー! 起きてる」
そう思ってもっと近づいてみた。彼女の足が見えた。ベッドに横になっているようだ。しかし彼女の足に絡むもう一人の存在があった。彼女の夫だ。それが判っても彼は彼女から目が離せない。早く立ち去って次の日から無視すればいいのに。それなのに吸い寄せられたまま体が動かない。彼の場所からは見知らぬ男に乱されて行く彼女の妖艶な表情が見えた。あの表情は彼だけの物のはずだった。
彼は我を忘れ、寝室の窓を拳で叩き割った。
彼女が驚いて起き上がって窓を見た。髪が乱れてくしゃくしゃで、それはいつもの愛する彼女の顔だった。けれど化け物でも見るように彼を見て首を横に振った。ここに来てはだめ、と言うように。何も知らない彼女の夫は彼を泥棒と勘違いしてカーテンを思い切り捲った。その瞬間、彼はバランスを崩し、塀から落ちた。彼女の悲鳴が聞こえた。
地面に叩きつけられた彼は全身に痛みが走ったが無理矢理立ち上がった。胸の痛みの方が強かった。彼女の夫が階段を使って降りてくる前に狭い通りに入り、逃げ切ることには成功した。
次の日、あまりの痛さに声も出せず病院で調べてもらうと、脊椎を損傷していた。こんなことになってしまった理由も家族には適当にごまかすことができた。なぜなら周りから見れば彼は大人ではないのだ。友達と塀によじ登って遊んでいて足を滑らせた、と言っても誰も疑いもしなかった。そのことが彼をより悲しくさせる。更に悲劇は続いた。この怪我が元で彼はソプラノが出せなくなってしまった。先生が病室に訪ねてきて彼の願いで本当のことを聞いた。
「君はもうソプラノ歌手にはなれない」
彼はあまりにも呆気なく将来の夢を断たれてしまったことに呆然として涙すら出なかった。それからずっとベッドに縛られる日々が続いたが、2か月を過ぎた頃ようやく歩けるようになった。ある日、クラスメイトが見舞いに来た。彼は普通に、ありがとう、と礼を言ったがクラスメイトが驚いたような顔をしたので、どうしたの? と問いかけると彼の声がひどく低音になっていたことに驚いたらしかった。彼は初めてショックを受けた。クラスメイトも彼を化け物のような目で見ていた。あの時の彼女のように。
「そんな目をしないでくれ」
普通に投げかけた言葉すらクラスメイトを怯えさせるほど彼の声は豹変していた。彼は叫んだ。
「そんな顔しかできないなら帰れ!」
クラスメイトは、びくっと体を動かし、慌てて持ってきた花をベッドに置いて走って病室を出て行った。
幾分、良くなって来た頃、彼女が夫の目を盗んで病室にやってきた。彼にとっては一番会いたい人だった。すぐに彼女を抱きしめようとして体を急に動かしたので背中に激痛が走って呻いた。
「大丈夫!? だめよ、おとなしくしていなくちゃ」
「……会いたかったんだ」
「私もよ」
そう言って彼女はキスをくれた。どんなものよりも幸福を感じるキス。これさえあれば自分は生きていけると思えるほどだった。
「もう歩けるんだ。もうすぐ退院できるよ」
「本当? 良かった! 本当に良かった……」
その言葉に彼は蕩けそうになるほど嬉しくなって今すぐ彼女を抱きたかった。けれど、彼女は言った。
「もう会っちゃいけないわね」
一瞬、頭がその一言を理解できなかった。
「夫が単身赴任を終えて帰って来たの。今一緒に暮らしてるわ」
彼の視界から色が消えた。
「僕を捨てるのか」
「そうじゃないわ、捨てるだなんて。最初から私が結婚しているのは知っていたでしょう?」
「……離婚しないのか」
「しないわ。彼なしじゃ生きていけないもの」
「僕がいるじゃないか」
「あなたじゃだめなの」
「あいつとのセックスの方がいいんだな」
「そんな問題じゃないわ」
「あの日、してたじゃないか!」
事故が起きたあの日のことを彼は自ら口にした。彼女はどこかが痛いような顔をしたが、彼の問いに頷いた。大きな声だったため、他の患者が驚いて二人を見た。
「私とあの人のセックスはオーガズムがゴールじゃないの」
二人の間に沈黙が流れた。
「……ずっとあの人が仕事で遠くに行ってて淋しかった。あの人とは抱き合って肌と肌を寄せ合っているだけでいいの。互いに興奮してきたらセックスをすることもあるわ。それがあの日だった。でもしなくてもいいの。それが一番の関係じゃないのよ」
僕はただの浮気相手……。彼はすべてが壊れていくような気がした。悲しみだけが押し寄せてきて彼女を失いたくない気持ちしか持てなかった。
「こんなに愛してるのに……」
彼女は何も言わなかった。こんなにも辛い最後になるのなら出会わなければ良かった。彼は彼女の足元で泣き崩れた。彼女が完全に自分のものにはならない、と納得させるには時間が必要だった。
学校に戻ってもそこは音楽学校だったので期待されていたソプラノを出せない彼は自主退学した。クラシックやオペラのCDもすべて捨てた。クラスメイトたちは変わり果てた彼の姿を、同情の目で見ていた。それに耐えられなくて、校舎を後にすると部屋に戻って簡易的な荷物を纏め、彼は両親に一通の手紙を残して生まれ育った街を離れた。
それから色んな職を転々とし、年齢を重ね、今のタクシードライバーの仕事で落ち着いていた。彼女とのことも年数をかけてようやく胸を痛めずに思い出せるようになった。しかし、やはり変えられない唯一のものは音楽の好みだった。ずっとポップスやロックに馴染もうとしたが、結局捨てたはずのクラシックのCDを再び手に入れて車の中で聴いた。あの日のように声は高く出なくてもキーを落とせば歌えた。彼女への気持ちをここまで落ち着かせてくれたのも音楽があったからかも知れない。
こんなに優雅で美しい曲がある?
少女が言ったあの言葉は彼にとって心底嬉しいものだった。そんな宝のような言葉をもらった今夜のような日にこそ、彼はずっと昔にソプラノで歌った曲をもう一度歌いたくなった。彼の部屋の隣には老婦人が一人住んでいたが、構わず窓を開けて歌い始めた。懐かしいメロディー。その抑揚。それは彼の心に溜まった澱のようなものをすべて吐き出させた。愛しかったものを思い出した。見舞いに来てくれたクラスメイトを傷つけたことも、両親の期待を裏切ってしまったことも、何もかもすべてを自分の声に乗せて歌った。
歌い終えた時、拍手が聞こえた。隣の老人だった。驚いてベランダから身を乗り出すと隣の老婦人が微笑んで手を叩いていた。その手は年輪を刻み、皺くちゃだったが指にはマニキュアが施されていた。
「あなた、毎日歌っていたでしょう。一年くらい前から。私のお気に入りの曲だったから、毎日この時間を楽しみにしてたのよ。ずっとずっと上手くなったわ。初めて聴いた時よりも。そして、今日は感動的ですらあった」
「……静かに歌っていたつもりだったんですが、聞こえていたんですね。すいません。……でもありがとうございます」
彼は戸惑ってそんなことしか言えなかったが老婦人は話を続けた。
「人間はね、果てしなくレッスンできるのよ。その想いにつられるように体も成長して行く。多分、あなたの声は毎日歌い続けていたことが声帯の筋肉が鍛えられたことによって花開いたのね。けれど何か理由があって辞めてしまったのかしら。それでもいつも小さな声でも鼻歌でも、あなた自身気づいていなかったかも知れないけれど歌い続けていた。いつの間にかレッスンをしていたのよ。今日のあなたはいつものレッスンのような歌い方ではなかったわ。……そうね、あなたのコンサートだった。何だってそうよ、心を込めて行動を起こさなければ人を感動させるなんてできないの。本当に素晴らしかったわ。あなたが一つ成長したように思えるほどよ」
老婦人は初めて話すと言うのに彼の心を見抜いていた。
彼は既に若くはなかったが、老婦人にしてみれば青年のように映っているのだろう。彼は今 "想い" を溢れさせて歌った。その歌声が、老婦人という観客の心に響いたのだ。
「また聴かせてちょうだい。楽しみにしているわ」
老婦人はそのまま部屋に戻ろうとした。
「あの」
彼は思わず引きとめた。
「……遅くはないでしょうか。色んな過ちを犯してきた僕でも……」
老婦人はまっすぐに彼を見て言った。
「ええ。遅くないわ」
シンプルな一言だった。そのまま立ち尽くす彼に軽く微笑みを返し、老婦人は部屋に戻り、硝子戸が閉まった。それは割れた音ではなかった。彼の胸の痛みはやっと塞がれた。何十年もかけて。もう遅い時間だったが彼は受話器を手にした。呼び出し音が聞こえ、相手が出た。
「もしもし、母さん?」
ずっと連絡をしていなかった両親に彼は初めて電話をかけた。
僕は元気でいるよ、ずっと思ってた。黙って出て行って、ごめんなさい。父さんは? もしもし、父さん、僕だよ、元気かい? ……うん。週末、会いに行くよ。
短い通話。それでもやっと大人になった息子として話ができた。彼は受話器を元に戻し、キッチンに行って、先程のコーヒーを温め直した。
《 Fin 》
2005年5月8日
2005年当時の感想
「心を込めて行動しなければ、人を感動させることはできない」
最後の老婦人の言葉は私の中の本音です。この曲は主人公の彼の職業そのもののタイトルである、大澤誉志幸さんの初期の名曲『CAB DRIVER』から雰囲気だけ拝借し、書かせていただきました。真夜中と言う言葉がこれほど似合う曲を私はまだ知りません……。
どれほど辛い恋愛も、人生のままならない痛みも、この曲は優しく包んでくれます。ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
更に追記(2025年)
現在ではこの物語の様々な側面が都合で成り立たないと思います。
まず、冒頭から見知らぬ人の車に乗る少女、と言うのがアウトですね。そして主人公の彼が未成年だと言うのがわかっていて付き合う彼女も犯罪ですね。既婚者でもあるし。
ただ、これらのエピソードは当時書いたものなので現在に置き換えることはしません。これだけ時代の変化があったのだな、と思うのみです。そして、名曲である、という事実に変化はありません。
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