「無駄な時間」こそが、人生の救いになる。『G線上のあなたと私』から学ぶ、大人の再生のヒント
「G線上のアリア」と聞くと、あなたは何を思い浮かべますか?
バッハの名曲。
優雅なバイオリンの旋律。
静かな午後に流れていそうなクラシック。
……と言いたいところですが、野球好きとしては、つい『ドカベン』殿馬の秘打を思い出してしまいます。
ラインぎりぎりに打球を転がす、あの絶妙なテクニック。「G線上」って、そっちの線かい、という話です。
リアルな動画も貼っておきますね。
私のフォロアーさんには日ハムファンが多いので、これを捧げます。
すみません。今回の漫画とは、まったく関係ありません。
今回紹介したいのは、いくえみ綾先生の『G線上のあなたと私』です。集英社のココハナ作品紹介では、寿退社の当日に婚約破棄された也映子が「大人のバイオリン教室」に通い始める物語として紹介されています(※1)。また、単行本は集英社マーガレットコミックス刊の全4巻で、2019年にはTBSでドラマ化もされています(※2)。
仕事も恋も失った也映子が、バイオリン教室で見つけたもの
主人公は、寿退職当日に婚約を破棄され、現在失業中の元OL・小暮也映子さん。ふと立ち寄ったCDショップで、バッハの名曲「G線上のアリア」を耳にし、「あの曲を弾いてみたい」と思ったことから、大人のバイオリン教室に通い始めます(※3)。
その教室にいるのは、也映子のほかに、主婦の北河さんと、大学生の理人くん。年齢も、生活環境も、抱えているものもバラバラ。
本来なら、たぶん交わらなかった3人です。
そして、全員初心者。
バイオリンは思うように鳴らない。
優雅どころか、最初はひどい音しか出ない。
その不格好さが、とても好きなのです。
この漫画は、也映子を中心に、ゆるやかに人間模様が描かれていきます。恋愛要素もあります。でも、切なさで胸をえぐってくるタイプではありません。むしろ、読んでいると肩の力が抜けます。
「ああ、大人になってからでも、こんな出会い方があるんだ」
そう思わせてくれる作品です。
「無駄な時間」は、心を回復させる時間でもある
バイオリン教室の先生・眞於は、ある場面で理人に冷たく言います。
「時間を無駄に使うことになります、加瀬さん」
この言葉、かなり刺さります。
たしかに、報われるかわからない恋。
すぐに上達するわけでもないバイオリン。
仕事に直結するわけでも、お金になるわけでもない習い事。
効率だけで見れば、ぜんぶ「無駄」なのかもしれません。
でも、この作品を読んでいると、むしろその無駄に見える時間こそが、人を救うのだと感じます。
也映子は、仕事も結婚も失った状態から物語を始めます。けれど、バイオリン教室で過ごす月曜の夜が、少しずつ彼女の心を動かしていく。
何かを達成するためではなく、ただ同じ曲を弾こうとする時間。
うまくできないことを、一緒に笑える時間。
目的がないからこそ、そこに逃げ場が生まれる。
大人になると、私たちはつい「意味のある時間」ばかりを選ぼうとします。
でも、本当にしんどいときに必要なのは、意味ではなく、ただそこにいてもいいと思える時間なのかもしれません。
大事な人は、「意識しなくても時間を使ってしまう人」
この作品の好きなところは、人間関係の描き方がとても自然なところです。恋愛漫画として読むこともできます。
でも、それだけではありません。
也映子、北河さん、理人くんの関係は、家族でも職場の同僚でもない。だけど、確かに大切な人たちです。
「意識しなくても一緒に時間を過ごしてしまうのは誰なのか」
「きっとそういう誰かが、ホントに大事な人なんだよ」
この感覚が、とても現代的だなと思います。
条件で選ぶ関係ではない。
スペックで測る関係でもない。
役に立つから一緒にいるわけでもない。
なんとなく会ってしまう。
なんとなく話してしまう。
なんとなく、その人がいる場所に行ってしまう。
そういう関係こそ、あとから振り返ると、自分を支えてくれていたりします。
大人にも「サードプレイス」は必要だ
也映子は25歳。理人は19歳。北河さんは41歳。
年齢だけ見ても、普通に生活していたらなかなか友達にはならなそうな3人です。でも、バイオリン教室では全員が初心者。
そこでは、年齢も肩書きもいったん横に置かれます。
会社でもない。
家庭でもない。
恋愛だけの場所でもない。
このバイオリン教室は、3人にとってのサードプレイスになっていきます。
北河さんがまた、いいキャラクターなんです。
主婦としての現実を抱えながらも、教室ではちゃんとひとりの「北河さん」として存在している感じがある。
社会人になると、新しい人間関係をつくるのは案外むずかしくなります。
職場以外で人と出会う機会も減りますし、家庭や仕事の役割から自由になれる時間も少なくなります。
だからこそ、この3人の関係を見ていると、少し羨ましくなります。
大人になっても、こんなふうに出会っていい。
不器用なまま、誰かとつながっていい。
そう言われているような気がします。
恋愛に傾きすぎない、絶妙なバランスが心地いい
也映子と理人くんは、年頃の男女です。当然、お互いに少し意識するような場面もあります。
普通の漫画なら、ここから一気に恋愛方向へ転がっていきそうです。でも、『G線上のあなたと私』は、そこに傾きすぎません。
このバランスが本当にいい。
恋愛はある。
でも、恋愛だけではない。
友情もある。
家族の問題もある。
仕事や将来への不安もある。
そして、バイオリンがある。
人生って、たぶんそういうものです。
恋愛だけで動いているわけでも、仕事だけでできているわけでもない。
いろんな要素が、ちょっとずつ絡み合って、その人の日々を作っている。
だからこの作品は、リラックスして読めます。
大きな事件が連続するわけではないのに、なぜかページをめくりたくなる。
それは、日常の中にある小さな揺れを、いくえみ綾先生がとても丁寧に描いているからだと思います。
TBSの原作紹介ページに掲載されている、いくえみ綾先生のコメントにも「日常生活の一コマにチクッとキラッと心に引っかかることがあれば幸いです」という言葉があります(※4)。まさに、この作品の魅力はそこにあります。
楽しくしてた方が勝ち」という、ゆるい強さ
理人くんの「楽しくしてた方が勝ちだ」という感覚が、かなり好きです。
バイオリンは難しい。
すぐには上達しない。
大人になってから始めるなら、なおさらです。
それでも、上手になることだけを目的にしない。
誰かに評価されることだけを目指さない。
ただ、今この時間を楽しむ。
この姿勢は、かなり強いです。
完璧主義で苦しくなっている人ほど、「ちゃんとやらなきゃ」「成果を出さなきゃ」と思いがちです。
でも、楽しいから続ける。
下手でも、今日は弾いてみる。
誰かと笑えるなら、それでいい。
そんなふうに考えられたら、人生の音色は少し変わる気がします。
『ラブカは静かに弓を持つ』を読んだときの羨ましさにも似ている
読んでいて、ふと思い出したのが安壇美緒さんの『ラブカは静かに弓を持つ』でした。
あちらは、音楽教室への潜入調査を命じられた主人公が、チェロを通じて人と出会い、凍っていた心を溶かしていく「スパイ×音楽」小説として紹介されています(※4)。
もちろん、『G線上のあなたと私』にはスパイ要素はありません。
でも、音楽を通して、知らなかった人たちと関係ができていく。
楽器の練習という、すぐには結果の出ない時間を共有する。
その時間が、心の奥の硬いところを少しずつやわらかくしていく。
その感じが、少し似ている気がしました。
『ラブカは静かに弓を持つ』からスパイ要素を抜いて、ゆるーい恋愛要素と、いくえみ綾先生らしい日常の湿度を足したら、本作の空気に近づくのかもしれません。
理人くん、結構好きかもしれない
正直に言うと、私は今まで「いくえみ男子」に対して、あまり好感を持つことはありませんでした。
もちろん魅力的なのですが、どこか面倒くさかったり、ずるかったり、読んでいて「いや、ちょっと待って」と思うこともあります。
でも、本作の理人くんは結構好きです。
不器用で、未熟で、言葉足らず。
でも、変に器用ぶらないところがいい。
理人くんは、ちゃんと若い。
そして、若さゆえの真っ直ぐさも、危うさもある。
それが、也映子や北河さんとの関係の中で少しずつ変わっていく。
誰かに出会うことで、人は変わっていける。
この作品は、その変化を大げさに描かないところがいいのです。
おわりに:「何にもならない時間」が、あなたを助けることがある
『G線上のあなたと私』は、派手な物語ではありません。でも、読んだあとに、胸の奥が少し温かくなります。
何かを失った人。
立ち止まってしまった人。
自分の人生が、思っていた場所からずれてしまったように感じている人。
そんな人に、この作品はやさしく寄り添ってくれます。
すぐに役に立たなくてもいい。
上手にできなくてもいい。
誰かに誇れる成果がなくてもいい。
無駄に見える時間の中にこそ、人生を立て直す小さな救いがある。
大人のバイオリン教室で出会った3人を見ていると、そんなことを思います。
あなたにとって、つい時間を忘れてしまう場所はどこですか。
なんとなく会いたくなる人は誰ですか。
その「無駄な時間」を、どうか大事にしてみてください。
そこから、あなたの新しい物語が、ゆっくり響き始めるかもしれません。

参照元リンク一覧
※1 集英社 ココハナ『G線上のあなたと私』作品紹介
※2 TBSテレビ 火曜ドラマ『G線上のあなたと私』原作紹介
※3 集英社『G線上のあなたと私 1』書誌情報
※4 集英社 文芸ステーション『ラブカは静かに弓を持つ』
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