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薩長同盟の最大の被害者、実は長岡説

薩長同盟は歴史の授業で必ず出てくる。

でも、

「で、何したの?」

と聞かれると答えられない人が多い。

さらに、

「薩長同盟の結果、長岡が燃えた」

と言われると、

長岡市民でも「えっ?」となる。

今日はその話である。

そもそも薩長同盟とは?

1866年。

敵同士だった

薩摩藩

長州藩

が手を組んだ。

仲介したのは 坂本龍馬。

目的はシンプル。

徳川幕府を倒すこと。

つまり、

「昨日までケンカしてたけど、共通の敵いるから組もうぜ」

である。

現代風に言うと、

営業部と設計部が普段は仲悪いのに

「社長がヤバい」

で急に団結した状態。

ここで長岡はまだ関係ない

長岡藩は

「好きにやってくれ」

という立場だった。

むしろ家老の 河井継之助 はかなり合理的。

新政府側にも旧幕府側にも付かず、

中立でいこう

としていた。 

河井継之助の考え

継之助は言った。

「戦争する意味ある?」

「話し合えばよくない?」

「長岡は中立でいく」

今で言うと、

町内会の揉め事で

「どっちにも付かないから落ち着け」

と言っている人である。

実際、新政府軍との交渉に向かった。 

小千谷会談

ここが長岡最大のキーポイント。

場所は長岡市ではない。

隣の 小千谷市。

1868年5月。

河井継之助は新政府軍と会談した。

歴史上では

小千谷談判(小千谷会談)

と呼ばれる。 

継之助

「中立でいかせてください」

新政府軍

「ダメです」

継之助

「え?」

新政府軍

「敵か味方か選べ」

継之助

「いやだから中立…」

新政府軍

「ダメ」

会談終了。

時間は約30分。 

現代なら

Teams会議で

「検討します」

すら出ずに終了したレベル。

ここから長岡が燃える

会談決裂後、

長岡藩は戦争に巻き込まれる。

これが

北越戦争。

新政府軍約2万人。

対する長岡側は約8千人。 

普通に考えると勝負にならない。

ところが長岡は大善戦する。

理由は河井継之助が最新兵器マニアだったから。

なんと

ガトリング砲

を導入していた。 

幕末版

「課金勢 VS 無課金勢」

である。

しかし最後は敗北

長岡城は落城。

奪還。

再び落城。

市街地は焼失。 

長岡藩は降伏した。

つまり、

薩長同盟 ↓ 倒幕運動 ↓ 戊辰戦争 ↓ 小千谷談判決裂 ↓ 北越戦争 ↓ 長岡炎上

という流れになる。 

意外な統計

正確な全国調査は存在しない。

しかし一般的な歴史認知度を見ると、

薩長同盟を知っている人 → 多い

河井継之助を知っている人 → 少ない

小千谷談判を知っている人 → さらに少ない

薩長同盟と長岡を結び付けて説明できる人 → 極めて少ない

と考えられる。

実際、

学校教育では

薩長同盟 ↓ 大政奉還 ↓ 明治維新

は習うが、

北越戦争や長岡城攻防戦は地域史扱いになることが多い。 

つまり、

全国的には

「薩長同盟?知ってる」

長岡市民

「その続きでうち燃えてます」

である。

まとめ

薩長同盟は単なる仲良し協定ではない。

日本の歴史を動かした同盟であり、

その余波が長岡を直撃した。

歴史の教科書では1行。

しかし長岡目線で見ると、

薩長同盟の先にある最大イベントは

小千谷談判と北越戦争。

そして長岡市民が覚えておくべき人物は、

坂本龍馬よりむしろ

河井継之助。

なぜなら、

「話し合いで済ませよう」

と言ったのに、

気づいたら地元が戦場になっていた男だからである。

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